ああ、「フィンランディア」。
BSのNHKハイビジョン放送にチャンネルをまわすと、ちょうど観たい番組が写った。ヤン・シベリウスの「フィンランディア」がかかった。新日本フィルの演奏で、シャルル・リトゥワ指揮。弦楽のトレモロはいつ聴いても感動的だ。
1917年、フィンランドは独立した。
ヤン・シベリウス(1865―1957年)は、フィンランドの国民的な作曲家である。ぼくは学生のころ、この曲を北海道北竜町の同級生である川田浩二さんに贈っている。彼はシベリウスの曲が大好きで、いつだったか学生時代に帰省したとき、彼の家で「交響曲第2番」を聴いた。その感動的な音楽が、忘れられない。
渡邊暁雄さん。
フィンランドという国は、もともとフィン人の国である。
バルト海にのぞむ北欧の国で、フィンランド共和国は首都はヘルシンキであるが、人種的にはモンゴロイドのフィン人が多く、氷河のために小さな丘と湖がひじょうに多い。国土の3分の2は、氷河と森林でおおわれている。
ながいあいだロシアの圧政のくびきから抜け出すことができなかった。1917年、やっと独立を果した。
「彼らは日本人を大歓迎するんだよ。……日露戦争で日本がロシアのバルチック艦隊をやっつけて勝利をおさめると、フィンランド人の多くは、日本に喝采を送ったんですね。それで、彼らのつくるビールのラベルに、東郷平八郎の顔写真なんか載せたんですよ。それぐらい日本びいきの国柄なんだ。……ロシアから独立したのは、1917年だった」と、ここまで話すと、ヨーコはその話をさえぎった。
「――そういう話は、興味のある人にいってください。わたしは、フィンランドって、地球のどこにあるのか知らないのよ。興味もないし、……」
「北欧の、……」
「いいわ、その話は。……それより、地球儀を買いたいわね。くるくるまわして、じっさいに見られる地球儀があると、便利だわよね。……どう?」
「部屋いっぱいの大きな地球儀があればいいとおもうよ。……」というと、
「あなた、ふざけないで!」
「あざけてなんか、いないよ。大きな地球儀があれば、いいと思ってさ。――」
それから、ヨーコはしきりに地球儀の話をした。
草加市のどこかに地球儀をつくる工場があるという。全国的にも知られている地球儀の生産工場があるというのである。むかし、ヨーコがマーケティングの市場調査の仕事でお世話になっていたという話を聞いた。――それなら、ひと抱え以上ある地球儀が欲しいなと思った。
「それじゃ、そこに連れていってよ」
「いいわよ」
夜になって、CS放送を観ながら、あることを考えた。
小説を書かなくちゃ! ということだった。
フィンランドを舞台にした小説を? それもいいだろう。
指揮者の渡邊暁雄さんは、1990年に亡くなられたが、彼は、日本人牧師の渡邉忠雄さんを父とし、フィンランド人の声楽家渡邉シーリさんを母として、東京で生まれている。学生のころ、ぼくはよく渡邉暁雄さん指揮の演奏会に出向いていた。応募すればだれでも無料で聴かせてくれる、東急ゴールデン・コンサートの収録を兼ねたコンサートだった。いっぱい聴いた。そしてみんな忘れた。
渡邊暁雄さんは背が高く、腕も長くて、大振りの指揮をなさっていた。何を聴いていたのか、もうすっかり忘れているけれど、ぼくがフィンランドのことを考えているときは、いつも渡邊暁雄さんのことをおもい出している。ぼくにとって、渡邊暁雄さんは圧倒的な存在感である。
フィンランドという国の、国民的な作曲家シベリウスの曲を聴くと、いつもなぜか北海道のイメージと重なって、茫洋とした厳寒このうえない過去をおもい出させる。真冬には、なにもかも凍る。自然が凍るのだ。よく晴れた深夜は、放射冷却がすすみ、雪片も乾いた音を立てる。
そういうときの早朝、太陽が顔を出さないあいだ、ぼくは馬を連れだして、雪原を歩かせる。やつは喜んで、雪のうえでひっくり返るのだ。ぼくは自転車を持ちだし、雪原を走る。タイヤの跡がつくだけで、道なき道をどこまでも走ることができる。
名曲「フィンランディア」は、フィン人のたましいの叫びのように聴こえる。のちに歌詞がついて歌われるようになった。
おおフィンランドよ、見よ、おまえの朝が明ける
夜の脅威は消え去った
ヒバリは輝く朝を歌う
あたかも空が歌うかのように
夜の力は朝の光によって打ち負かされた
おまえの朝が明ける、祖国よ
おお立ち上がれ、フィンランドよ、高く掲げよ
偉大な記憶の冠が飾るおまえの頭を
おお立ち上がれ、フィンランドよ、おまえは世界に示した
(他国への)隷属を追いやったことを
そしておまえが抑圧に屈しなかったことを
おまえの朝が明ける
(「ウキペディア」より引用)
若き日の渡邊暁雄さんの写真を見つけた。いっしょに写っているのは、太鼓を叩いていた岩城宏之さんと、山本直純さん。3人とも、東京音楽学校(東京芸大)で仲良しだった。1953年ごろの写真である。なんだか、ぼくは嬉しくなった。