をかこんで。

   
 
燦々と太陽が降り注ぐ5月を迎え、木の葉から漏れる光の斑点があちこちに散らばっている。肌着を脱いだ父の鎖骨にも、くっきりとした斑点が写っている。地肌をなめすように黄金の斑点がつづいている。

父はまばたきもせずに突っ立っていた。父のむき出しの腕には太い血管が浮きでていた。そこにも斑点がついていた。

この途方もない旱(ひでり)と、途方もない斑点は、稲を育て、家畜を育てる。ひと息入れる父の姿は、領主のように逞しく、思慮深く見える。父のパイプから出る煙は、苦く目に沁み込む。

ぼくが育った北海道の土地は、どこも黒土だった。川はときに野性味を出してあばれた。流木があちこちの田んぼに流されていた。太い枝を切り取ると、ごろんとした大木が田んぼのなかで砂利に埋まっていた。

「さあ、やるぞ!」と父はいった。おおきなのこぎりで大木を切断し、それを運ぶのだ。あたりの稲が流されてきた砂利に埋まって、絶命していた。

川の曲りっぱなで、土手が決壊し、周囲の水田はほとんどダメになった。農民の労働は、ときに予想もしない畏敬の念に打たれることもある。村の年代記にちょっとだけ記されることはあっても、くやしい農民の気分までは書かれない。

父は、流されてきた流木を始末してしまえば、新しい夜明けが待っているかのように先を急ぐ。

父はこんな努力が虚しいなんて一度もおもったことがなかったようだ。ふつうの人が抱く理想を、父は一度も抱かなかった。だから、父は現実味を失うこともなかった。父には、この現実しかなかったのである。

母は、ときどきそういう父をなじった。農家の暮らしをよくするために、母は現実を乗り越えようとした。そして養鶏場をつくった。

それからしばらくして、恵岱別川のほとりで父と焚き火をし、田中源次郎の話を聴いた。ぼくのおじいちゃんの話である。

高松の宮大工だったというおじいちゃんは、北海道への第3次入植を果たし、北竜村の恵岱別に居をかまえた。次男は北海道へ渡る船のなかで生まれた。田中家の一家眷属の年代記は、そこからはじまっている。4男だった父は、恵岱別を離れ、やわらの三谷区に分家した。明治26年の第1次入植者だった富井直さんの隣りである。父の年代記は、そこからはじまっている。

それぞれの年代記に描かれている現実は、ほんの数行で書かれているにすぎない。もの凄い苦難を乗り越えてきたのに、みんな平気な顔をして暮らしていた。ぼくはそういう自分のルーツをおもい、ときに途方もない先祖がえりの環にはまっていく。彼らの現実と、このいま見る自分の現実と、何が違うというのだろう。みんなおなじだ、とおもう。それでもみんな平気な顔をしていた。

北海道の入植者たちの描いた理想は、しばしば挫折し、打ちのめされ、多くの人びとは落後していった。それほど困難な事業だったことがわかる。そのことをおもうと、何もない北海道に足を踏み入れ、前人未到の原生林を渡渉し、道をつくり、川には橋をかけ、家をつくり、子孫をつくっていった多くの入植者たちの困難は、ぼくはいまもって想像できないでいる。

ひょっとすると、ほんとうの歴史は溶けてなくなり、先人たちの死とともに消えていったのかも知れない。北海道の開拓年代記が、しばしば過去に向かってさかのぼることをゆるさないのは、そういう理由があるのかも知れない。

父を夢中にさせたものは、目もくらむような理想とか、御大層な理念ではなく、もっとささやかなものだったに違いない。一畝一反でも土地をひろげたい、もっと収穫をあげたいという気持ちから出たものに違いない。それは父ばかりではない。多くの村人はそうやってがんばった。

恵岱別川で釣ったうぐいを火にかけ、鰓ぶたが赤く染まり、魚の肉汁がじゅーじゅーいっているのをながめながら、ぼくは父の話を聴いていた。あの夜は、労働をしたあとにありついた、いまでも忘れない思い出の夜となった。