を受け継いで。

 
 ぼくの夢は、現実からしだいに遠くさまよい、かつて忘れられた自分の子ども時代から生まれたのではなく、血を通して伝えられたいくつかの夢があった。ぼくは、父が描いた人生のいくつかの道を父なしで歩き、父とおなじ夢に向かって歩いていたことを知った。

父には、忘れがたい青春の思い出があり、一度も語ってくれたことはなかったが、後年、父が書いた自叙伝を読み、ある面は、自分とそっくりなのにえらく驚いた。

シンドバッドやイアソンのような冒険に満ちた夢ではなく、土を耕し、より実りを多くするために暗渠をつくったり、水路を引いたりする、開拓者として泥まみれになって汗する労働の夢だ。ぼくらはどんなに頭が悪くても、何もしないで空っぽの精神が満たされることは、けっしてないと確信していたことだった。やればやっただけの見返りが約束されていた。だから北海道の開拓者は、みんながんばれた。

そういう歴史を、ぼくはかたくなに偏愛している。

月のホヤつきランプに照らされて、おびただしい広さの原生林の裾野を開拓し、何世代にもわたってがんばってきた。人はそれを自然に立ち向かう姿だというかもしれない。しかしそうではない。

自然の懐に抱かれて生きる農民の真の生き方だ。

ときには孤独と暗愚という、よそ者の余計なイメージを抱かせることもあるかもしれない。かつての北海道人は、牛や馬が野良で働く姿を見て、美しいと思ったことはないだろう。西の太陽に照らされて銅(あかがね)色の毛並みに見せるときは、生きものの名を呼んで塒(ねぐら)に追い込むだけである。慈悲深いこころも、同情もない。疲れ切ったからだを横たえて、人間も動物もつぎの朝を迎えるのである。

ぼくが生まれた北竜町は、いま、ひまわりの街として知られているが、ぼくが子どもだったころは、ひまわりはなく、数多い家畜とともに生きることが、唯一の慰藉になった。動物たちは家族だ、などと思わず、しかし家族たみいに過ごしていた。

父は、やわらの三谷区に分家し、もっとも開拓の遅れた地域に居をかまえた。とうぜん通電もされず、ぼくらはランプ生活をしていた。それでもその土地はおもしろかった。大木の切り株だらけの農地に鍬を入れ、毎年、田んぼの作付け面積をひろげることができた。やればやっただけ田んぼが増えていった。田んぼのどんずまりは恵岱別川につき当たり、そこまでは開墾できるようにがんばった。

天気のいい星明りの夜、星を愛でることもせず、低木の叢林に鍬を入れ、草地にする。傾斜した土地は、平らにならし、水吐けをよくするために暗渠を掘る。暗渠掘りはたいていは冬の仕事だ。雪が積もるまえの大仕事だった。

ぼくは父から何を受け継いだのだろう、とおもうことがある。

村をつくった先人たちの志は、星雲の志と呼べるもので、そこには自費自賄の精神があった。政治の導きに頼らず、ただ、おのが希望を実現させていった。この精神は、いま北竜町のひまわりに象徴され、幾星霜の時代精神を支えているとおもっている。

「それは、自分で考えろ」というのが父の口癖だった。だから自分は考えた。

いまポストモダニズムの時代を迎え、歴史の終焉だとか、物語の解体だとかいわれて久しい。しかしどうだろうか。歴史は、いつの時代にも物語を希求する。人と土地、家と愛は、いくたの男女の歴史と交差させるのである。

父が薪小屋でヴァイオリンを弾いていたら、母がやってきて、そこで結ばれた。父の人生のスタートは、25歳からはじまった。

そしていま、父は100歳。

1世紀という時間のなかで、どれほどの苦難を体験し、どれほどの喜びを味わったのだろうとおもう。秋まきの麦を植えおえると、やわらの表だった歴史は雪に閉ざされるが、目には見えない、計測不可能な喜びが、納屋をいっぱいにしていたかも知れない。

父も父なら、自分も自分だとおもうことがある。

このたび、自叙伝を書きはじめたのは、父の血を受け継いでいるなによりの証拠だ、とおもっている。