ウンゼント・ハリスとンリー・ヒュースケン。

 タウンゼント・ハリス。

 

ぼくが勤務する会社は、東京・麻布十番にあります。会議があるときは、そこに出勤しています。多くの方が麻布で思い出されるのは、たぶん麻布山善福寺ではないでしょうか。1200年の歴史があります。――といっても、1200年の歴史のあるお寺は、日本にはざらにありますので、その話を聞いて、変な顔をなさる方もおられるかもしれません。

じつは、東京・港区は、全国で80か国を超える外国大使館のおよそ60パーセントが集中しているところです。さらに昨年5月にオープンした、駐日欧州連合(EU)代表部の拠点「ヨーロッパハウス」も、ここ南麻布にあります。

ハリス(左)とヒュースケン。
 
 その国際色をいっそうつよめているのは、なんといっても大使館の街として知られる麻布地区なんです。そもそものルーツは、ここ善福寺に最初のアメリカ大使館が置かれたことにあります。

ちょっとむかしの話を書きますと、幕末の安政6年、――西暦1859年ですが、善福寺はアメリカ公使の宿泊館に指定され、タウンゼント・ハリス公使以下公使館員を迎え入れたことにはじまります。

先日、ロッキーが草加の事務所を訪れたとき、その資料を持ってきてくれました。

 唐人お吉。

  ぼくは、そのころの麻布に興味があり、「赤い靴」のモデルになった岩崎きみちゃん(
9)の亡くなった地も麻布でした。先年、その記事を書きましたが、ある方から、こんどはアメリカ公使だったタウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804 - 1878)の話を書いてほしいという要望がありまして、アメリカ公使タウンゼント・ハリスと、その通訳だったヘンリー・ヒュースケンの話を書きたいと思っていました。

ヘンリー・ヒュースケンは、アメリカ人ではなく、オランダ人でした。

彼はとうぜん、ヨーロッパ語に通じ、日本語にも通じていたので、1856年にハリスとともに通訳兼書記官として来日しました。ハリスの片腕として、多くの業務をこなしました。アメリカ以外の国の幕府との折衝のおりにも、請われて通訳としての仕事をした有能な人物です。

1861年、現在の飯倉公園のなかにあった赤羽接遇所というところで、プロイセン(ドイツの前身)と幕府とのあいだでおこなわれた折衝の通訳をつとめたのち、宿舎の善福寺へ帰ろうとしていた帰路、現在の「中の橋」あたりで、とつぜん攘夷派浪士らの襲撃に遭い、殺されました。

この事件によって、フランス、イギリス、プロイセン、オランダの各代表部は、幕府の警備が手薄いことを非難して、共同で抗議文を提出。横浜に一時退去してしまい、おおきな外交問題に発展しました。

ヒュースケンの殺傷事件は、日本の攘夷派の外国人襲撃行動にたいして、厳重な抗議をしましたが、ふしぎなことに、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わわっていません。どうしてでしょうね。自分の通訳官が殺されたというのに、抗議をしていないのです。

ヒュースケンの葬儀は、各国公使、総領事、使節なども参列して、善福寺で執り行なわれましたが、あいにくと、善福寺では土葬は禁じられていたため、遺体は、南麻布の光林寺に運ばれ、そこに埋葬されています。

その善福寺は、天長元年(824年),西の高野山金剛峯寺を模して、この地につくられています。都内では、金龍山浅草寺についでふるいお寺です。善福寺の境内には、これを記念したハリス記念碑が建っています。

公使館は、お話によれば、当初は本堂の北側の建物、――奥書院、客殿の一部に置かれていたようですが、文久3年(1863)に、水戸の攘夷派浪士らに襲撃されて焼失してしまいましたが、幕府や、アメリカ側からの補助をうけて、その後再建されました。

タウンゼント・ハリスについての資料はたくさんあり、その話は、他所にゆずるとして、おもしろい話として、これは有名な話ですが、駐日領事時代、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるために、ハリスとヒュースケンに対して、侍女を差し向けたというのです。

役人は、ハリスをなんとか篭絡しようとして芸者の「お吉」という女性を派遣したのですが、役人のはかりごとを見抜いたハリスは、かんかんになって怒り、お吉をすぐに解雇しています。

ハリスが生涯独身で通したことなどから、後世に誤った風説が流れ、昭和初期には「唐人お吉」としての伝説が生まれ、小説や映画の題材にもなっています。

外国の要人を迎えるにあたって、日本とアメリカの主従関係を明確にする意味で、とうじは、衆道(男色)もごくふつうのならわしでした。日本側にすれば、他国の高級役人に、女性を献上するのは当然とされていましたから、かたくなに独身を通すハリスを見て、「女ぎらい」のうわさも流れたりして、巷の風聞も、みだれ飛びました。

ところが、彼は敬虔なクリスチャンで、アメリカに帰国してからも、生涯独身のハリスは、そのことに驚き、このときのタウンゼント・ハリスが受けたカルチャーショックは、たいへんなものだったようです。日本の性習俗の大らかさにもあきれ果て、「軽蔑した」という日本の性文化批判をおこなっいています。

――そういうことがあって、善福寺を中心に、その後の各国大使館は、麻布の地にぞくぞくと建てられるようになりました。ロッキーの話によれば、道をたずねるヨーロッパ系の若い大使館員と会ったという話です。ロッキーはドイツ語を話せます。話しているところは見ていませんが、ヨーロッパに出かけていくと、よくドイツの話を聞かされています。
(参考資料:「ザ・AZABU」 Vol.23号。2013年3月18日発行。その他)