乏にもがある。


二葉亭餓鬼録
  ぼくは、カズオ・イシグロの小説「日の名残り(The Remains of the Day)」をいつ読んだのだろう、と思う。オクスフォード州の由緒ある屋敷、ダーリントン・ホールは19567月、200年におよぶダーリントン家の所有から、米国の富豪ファラディの手に渡ったのは、映画「日の名残り」を見るまで知らなかった。

ぼくがもしも北海道で農業を継いでいたら、この本も映画も知らなかったに違いない。おそらく、イギリス社会とは無縁な暮らしをしていただろう。そして、女王を戴くヨーロッパの辺境の国のことなど、なにひとつ知らなかったに違いない。

風ひとつのない北海道を照らす太陽の日差しを受けて、のんびり田畑を耕し、あらゆる苦悩さえ、額のシワの一本にもならず、こめかみを熱くして、ひたすら農業に喜びを見出していたかもしれない。

なにしろ、農業は命を育む仕事である。

ぼくは団塊の世代のすこし先に生まれ、農業を継がずに東京へ出てきた。1962年、あのころは、やりたいことはなんでもやれた。望むとおりの時代がつぎつぎに勝手に開いていった。そういう偶然に生まれたおかけで、ぼくは競争社会の洗礼を受けなかった。そういう意味では一代目的な生き方をしたと思っている。だれかの跡を追うということはしなかった。

ただ、ぼくは貧乏から抜け出したかった。

ぼくが幼かったころ、家には電気がなく、ろうそくの灯りで生活した。石油ランプの灯芯がくすぶり、真っ黒な煤(すす)を出す。あのころは日本にも、煙突少年と呼ばれる人がいた。じっさいは少年ではなかったが、16歳でみんな大人になり、手っ取り早い仕事は煙突掃除のアルバイトだった。あるいは、ニシンを売る行商だった。女性たちは野良の仕事を追って、あちこちの農家の田植え仕事や、稲刈り仕事に精を出した。そういうデメン取りという仕事がたくさんあった。きょうは恵岱別、明日は竜西というように、北竜村の農家は、そういう渡り鳥みたいなお姉さんたちを雇った。

みんな貧しく、戦争のない平和な時代になって、何が変わったかといえば、女性たちだった。年老いた男たちは、みんな時代についていけなくなったが、女性は違った。亭主のかわりに主婦が外で働くようになった。田んぼでバカをいいながらみんないっしょに仕事をした。村人たちも、ときおり政治の話をしていたが、みんな政治のせいにしなかった。悪い時代に生まれたことを嘆いてもいなかった。そういうものだと悟っていたからかもしれない。

5月になって、北海道の田んぼに水を張り、田植えがはじまるころ、クマゲラが巣づくりをはじめる。どんなに時代が変わろうと、鳥たちも子供をつくり、カッコーが鳴く。

そして煙突少年は、志を変え、金の卵となって都会に送り込まれた。ぼくの従妹も都会にやってきた。行商していた少年は、札幌の水産加工場に就職し、一家をかまえた。親戚のだれかが亡くなると、みんな集まり、どんな仕事をしているかを話した。

ぼくだけが学校へ行き、学生服を着ていた。

なんだか申し訳ない気分になった。

そのうちに、だんだんそういう親戚と疎遠になり、よほどのことがないかぎり、会うこともなくなった。20年ほどまえ、北竜町にいった。同級生だった男のお兄さんに会った。

「ああ、弟は死にましたよ。交通事故で、……」といった。そして、亡くなった人たちの話をしてくれた。なかには農家を継いだばかりの長男が、交通事故で亡くなったことを知った。ぼくの従妹たちは、ほとんど亡くなっている。

あの時代は、急激に世の中が変わったが、農家だけは、ゆったりとした時間が流れ、格別変わったようすはなかった。何も変える必要がないのだと思った。

自分だけが大きく変わってしまっていることに驚いた。いなかの話に、もうついていけなくなっていた。いなかの人たちは、家の構えは大きくなっても、みんなむかしのままだと思った。みんな死んでしまったが、それを話す従妹は、すっかりむかしの貧乏から抜け出して、何ひとつ不満をもっているようすがなかった。かえって、この自分こそ貧乏なのだなと思った。志を遂げた人間から見れば、自分はまだ途上にあることを思い知らされた。貧乏にも程がある。

ぼくの志は、何だったのだろうと思う。