ェイクスピアの


二葉亭餓鬼録
映画「もうひとりのシェイクスピア」。





ぼくがはじめてシェイクスピアの作品を手にしたのは、高校生のときでした。

「ハムレット」という作品で、市川三喜(さんき、1886年 ―1970)訳の岩波文庫でした。かなりむずかしかったのをおぼえています。最初はよく分かりませんでした。札幌の高校の図書室には、本がずらりとあって、目移りしました。そこでぼくは、William Shakespeare1564426日(洗礼日) - 1616423日、グレゴリオ暦53)というイギリスの作家を知りました。

ぼくは当時、欲張って、札幌市と沼田町と北竜村の高校を同時に通学していました。札幌では、夏の2カ月間だけ、札幌南高等学校へ通いました。農家の長男が、えらく熱を入れて3つの高校へ通っていました。

シェイクスピアって、おもしろいやつだな、と思いました。ドラマは分からなくても、ところどころ名文句が書いてあります。

《慈悲というものはな、強制されるべき性質のものではない。慈雨が空からそそいで、この大地を潤すやうに、正にさうあるべきものなのだ……》(「ヴェニスの商人」中野好夫訳)だの、《もろきものよ、汝は女なり》(「ハムレット」中野好夫訳)だの、《死ぬことは眠ること、――それだけの話だ。眠ればたぶん、人間が受けねばならぬ胸のうずき、肉体につきまとう数知れぬ苦悩を終わらせることができる。》(「ハムレット」木下順二訳)だの、独白めいた文言が、つぎつぎと目に飛び込んできて、ドラマの筋より、こうした文言にひどく惹かれたものです。

1564年4月23日に生まれたとされるシェイクスピア。日本では、その4年後に、織田信長がはじめて京都入りし、西欧では、ミケランジェロ、ジョン・カルヴィンが死んで、ガリレオ・ガリレイが生まれています。シェイクスピアの誕生日は正確には分からない。けれども、4月26日に教会で幼児洗礼を受けていることから、たぶん23日に生まれたのではないか、といわれているに過ぎません。当時は、生まれてから3日後に洗礼を受けるならわしがあったからです。

しかも、シェイクスピアが死ぬのがやっぱり23日の誕生日だったというのです。信じがたいような話です。生地はいうまでもない、エイヴォン河畔のストラトフォード(Stratford-on-Avon)ということになっています。ロンドンから北西に100マイルばかり中部イングランドのウォリック州の南にあります。

英文学者でなくても、たいていの観光客は、イギリスへ行くと、水郷の街ストラトフォード詣りをするようです。そこは中世のころから名前が出ているとても古い街で、シェイクスピアの時代は、人口2000人足らずの小さな街でした。いいかえれば、むかしの街のたたずまいをいまに残している街であり、古くから農産物を集散する中心的な街だったので、いろいろな手職の職人たちがいたようです。

シェイクスピアの名作「夏の夜の夢」に登場する職人たちの楽しい生活は、そのままシェイクスピアが見なれていたものといわれています。エイヴォン河は、いまも流れていて、物資を積んだ船が、この河を利用して運んでいます。ここから北にかけてアーデンの森があり、はるか遠くにひろがっています。「お気に召すまま」というドラマに出てくる森は、ここを舞台にしています。

シェイクスピアはその街で子供時代を過ごし、町のラテン語学校(グラマースクール)を出ています。――中退したという説もある。当時はラテン語を中心に勉強していました。ラテン語といっても、日本でいえば、漢文に相当する勉強で、古典ラテン文の学習などもふくめて、かなり教育水準は高かったという説があります。

しかし、それからというもの、シェイクスピアの消息が分からなくなります。そしてつぎにあらわれるのは、シェイクスピアの結婚の記録です。1582年も押し迫った11月の末か、12月のはじめに、18歳の彼は、なんと8歳年上のアン・ハザウェイという女性と結婚しています。

当時は、男も女も、生涯に2度結婚するならわしがあったためで、初婚のときは、年上の女性と結婚し、妻が亡くなると、こんどは若い娘と結婚するという風習がありました。

結婚して半年後の5月末に、長女スザンナが生まれています。――ということは、結婚式のときは、すでに4ヶ月ばかりのスザンナが母の胎内にいたことになります。これはなにも、驚くことではなく、ごくふつうのことです。

ぼくも、両親の結婚式をあげた月の4ヶ月後に生まれました。

1年おいて、1585年にはつづいて双子の長男のハムネットと次女のジュディスが生まれました。ハムネットは11歳で夭折します。そこまでは記録が残っているので正確に分かっているのですが、そのあとは杳として分かりません。

つぎに、シェイクスピアという男があらわれるのは、1592年、すでに新進作家としてロンドンで名声を挙げているというのです。日本の徳川時代におけるシェイクスピアの生涯は、しかし、ほとんど分かっていません。そういうことから、それは、シェイクスピアと名乗る別の男がシェイクスピアの名前でドラマを書いたのではないか、ストラトフォードの同姓同名のウィリアム・シェイクスピアとおなじ名前のウィリアム・シェイクスピアが、ロンドンのどこかにいて、密かにドラマを書いていたのてはないか、という憶測が生まれるにいたったわけです。

小学校しか出ていない無学の男に、あのようなドラマは書けない。

そういう考えから、むかしからいろいろいわれてきました。ぼくはそういう話には興味がなくて、シェイクスピアの作品を読んで楽しむほうが先と思うようになりました。なぜなら、ドラマはじつにおもしろいからです。世界最高の文学などと、わざわざいわれなくても、読めば分かります。着飾らない文章です。

市井のことばがうんと出てきます。ときには、文法さえ無視してしまうような男です。当時の社会的な規範を逸脱した男――そういってもいいでしょう。死ぬときは死ぬ時で、まるで計画的にいなかに隠遁し、訴訟を起こしたり、裁判にしたり、金にはがめつい男という印象があります。それ以来、ストラトフォードの生家では、なにひとつ作家らしいし証拠は見つかっていません。そういうことから、あのシェイクスピアは、水郷の村から出てきた男なのか、と疑う人が出てきたというのもうなずけます。

じつは、そうではないのではないか。シェイクスピアと名乗る別人がいるのでは? という話になったわけです。

先日、映画「もうひとりのシェイクスピア」を見てきました。このように、シェイクスピアの別人説は、むかしからありました。たまたま試写会に出向いて、いま話題の「もうひとりのシェイクスピア」を見たわけですが、ローランド・エメリッヒ監督の「もうひとりのシェイクスピア」(Anonymous)は、かねてより予想された内容で、さもあろうという想像の域を出ないものの、ともかくおもしろいものでした。シェイクスピアの別人説については、たびたび書いているので、あらためて書くつもりはありませんが、ぼくはこういう映画は見たことがありませんでした。