方貞子氏の士論文。


二葉亭餓鬼録
  きのう、めずらしく遠来の客が訪れた。ぼくが10年ほどまえ、東京・大門に住んでいたときにロッキーの紹介で知り合ったおじさんで、しばらくメール交換をしていたが、その後すっかりご無沙汰をしていた。

先日、春日部の実家に行くので、会えないだろうか、というメールをいただいた。そして約束どおり、草加の喫茶店で会った。

彼は1950年に春日部で生まれ、青山学院大学を出て、米ジョージタウン大学に留学し、英文学の修士号を取得したのち、某商社に勤務して、アジア、ヨーロッパの支店勤務をして、数年まえ、定年退職したという元ビジネスマンである。

ロッキーとの縁は、早稲田大学の稲門会のメンバーとの付き合いで知り合ったといっていた。彼は青山学院大学の英米文学科を出たので、早稲田とは縁はないが、付き合っている人には早稲田出身者が多いと聞いている。

ぼくは、彼とはせいぜいおしゃべりをするだけの間柄で、飲んだこともなければ食事をしたこともなかった。彼は商社勤務が長かったので、外国語には精通している。英語、ロシア語、中国語、韓国語などを話せるといっている。

「フランス語は?」

「フランス語だけは、ダメなんですよ。ドイツ語はしょうしょう」といっている。

ぼくはジョージタウン大学と聴いて、緒方貞子さんのことをちらっと思い出した。緒方貞子さんもジョージタウン大学を出ている。そういうことよりも、ぼくは学生のころ、ジョージタウン大学に留学したいと思っていた。ワシントンDCの近郊にあって、ビル・クリントンも出ている大学で、とくに英米文学の研究がすぐれている。

「緒方さんとは年齢が違うので、話は聴いていますが、彼女とは会ったこともありませんね」といっていた。

「――しかし、彼女の博士号請求論文は、読みましたよ」という。

「ほう。……政治ですか?」

「政治です。《満州事変と政策の決定過程》という論文で、……」

「本になってるんですか?」

「ええ、本になっていましたね。原書房だったでしょうか。それを読んで、彼女の歴史観といいますか、ちょっと驚きましたね」という。しかし、彼女がじっさいに博士論文を提出したのは、カリフォルニア大学バークレー校の大学院だったそうだ。

緒方さんは、カリフォルニア大学バークレー校で、教授の助手をつとめながら博士論文を書いたといわれている。そこで彼女は、政治学と国際関係論を2年間学んだそうだ。話を聞けば、彼が就職先に商社を選んだのは、とうぜんという気がする。政治経済学を専攻した学生で商社を希望する人は当時多かったそうだ。文学専攻では少なかったといっていた。

「満州事変といっても、現在の若い人は、知らないかもしれないね」と彼はいった。

「そうかも知れませんね」

なんだか、遠い話のような気がする。

1931年(昭和6年)9月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で関東軍が起こした軍事行動。それをきっかけにして起きた関東軍と中国軍との武力衝突が発端だった。

関東軍はその後、満州全土を制圧し、翌年、かいらい国家である満州国を成立させた。日本はこれによって国際的な非難を浴び、国際連盟はリットン調査団を派遣し、それに反発した日本は、1933年(昭和8年)に、国際連盟を脱退する事態となった。

日本は国際的に孤立し、日中戦争、そして太平洋戦争へと突き進む端緒となった事件である。

彼の話によれば、緒方貞子さんの曾祖父である犬養毅は、柳条湖事件の3ヶ月後の1931年12月に首相に就任し、外相に女婿の芳沢謙吉(緒方貞子さんの祖父)がなり、外交政策上、軍部を抑えようとしたが、翌1932年5月に海軍将校によって暗殺されたという。――この話は知らなかった。

「緒方さんは、なぜ満州事変を研究しようと思ったんでしょうかね?」

「肉親の暗殺という側面だけでなく、そもそも太平洋戦争へと突っ走る軍部の無謀な戦争を、くわしく研究したかったんでしょうな」と彼はいう。

後の世代のわれわれにとって、第二次世界大戦はあまりにも愚かで、どのようにして日本が戦争へと突き進んでいったのか、いま、さまざまな角度から詳しく検証されている。戦後世代で政治学を専攻するものにとって、共通のテーマがそこにあったらしいと彼はいう。

それに、彼はこんなことをいった。

「緒方さんは、中国にそもそも深い因縁を持っているんですよ」と。

曾祖父の犬養毅は、大陸で路頭に迷う浪人たちを援助して、辛亥革命を支援した。祖父の芳沢謙吉も2度ほど中国の大使をしている。緒方貞子さん自身、子供のころ、そういう中国で暮らしているというのである。

史料によれば、緒方貞子さんがアメリカに留学したのは1951(昭和26)。戦後6年目のことだった。あのころは物資のない時代で、サンフランシスコ講和条約が調印された年だった。条約の発効は翌年で、GHQの占領は7年におよんだ。当時は日本人が容易に海外に渡航できる時代ではなかった。彼女は国際ロータリークラブの留学生試験に合格して渡米した。

緒方貞子さんは、ある記事で語っているところによると、彼女は英語には困らなかったが、発想を論理的に展開していくメソッドは、訓練を受けていなかったので、かなり苦労されたそうだ。彼女が「満州事変」をテーマにしたのは、日本がなぜ破滅につながる膨張政策をとることになってしまったのかを知りたかったからだと書かれている。論文というのは、それまで発表されていない新たな史料を発掘するか、まったく新しい分析をするか、そのどちらかだろうと考えたという。

「そりゃあそうでしょうな。彼女自身、国際的な歴史を研究すればするほど、ちょっとちがうなと思ったんじゃないでしょうか。戦後になって、なんか、新しい日本をつくろうというような、……」

「外務省の外交史料館も、当時はいまのように完備していなかったでしょうし、……」

「彼女は、英語ができるので、米国側からみた満州史観というのが見えたんでしょうな」

「田中さんは明治でしたか? 白雲なびく、駿河台……」

「そうです。でも、白雲なんか、なびきませんでしたけどね、……」

「ははははっ……」

「でも、さいきん大学に行ってみると、むかしの記念館講堂は消えちゃって、……。文明とマネジメント研究所とかいうのができましたよ」

「文明? ……」

「ピーター・ドラッカーのマネジメント理論の、マネジメント人材の育成を行なうんだそうですよ。なかに、日本のドラッカー学会の事務局がありまして」

「ほう、そうですか」

「ドラッカー研究の拠点なんだそうですよ」

「ドラッカーじゃないけど、ドラッカーも認める敗北を出発点にして日本が国際社会にのし上がった経済成長は、歴史に残りますなあ。1960年代は、戦争はもうしない、軍備を持たない、平和主義に徹しますといって、経済再建に唯一の希望を持っていた。世界もそれを認め、政治に口を出さないかわりに、経済だけで日本は大きく伸びた。ODAがアメリカを抜いて世界一になって、こんどは、日本が世界に貢献する番だとして、そういうときに、世界は緒方貞子さんみたいな人材を要求したんですな。国連難民高等弁務官としての彼女の仕事は、彼女らしいと思います。だれにもできない働きをしたと思いますよ」と彼はいった。

そんな話をし、お互いのことは何も話さなかった。彼と会えば、いつもこんな話になってしまう。「じゃあ、また会いましょうか」といって別れた。スーツの似合う男だなとぼくは思った。――緒方貞子氏の「熱い心と、冷たい頭を持て」ということばを思い出した。