幌に虫が飛ぶころ。


二葉亭餓鬼録
  札幌の街には、ときとして、何かふわふわした白くて綿毛みたいなものが飛んでいく。秋蒔きの麦を植えるころ、ふと見ると、からだいっぱいに綿たみいなものをつけた小さな羽虫がいっせいに飛ぶ。

まるで粉雪が降っているみたいに、コートの肩が白くなる。

「雪虫が飛ぶと、雪が降る」というのは、ただのいい伝えではない。事実、雪が降る。

ぼくが札幌に勤務したのは、昭和55年の春だった。

埼玉の越谷の家がまだ売れなくて、業者に頼んでさっさと札幌へ引っ越した。息子と娘の学校の転入のことがあって、日を伸ばせなかった。

しはらく札幌の親のそばのアパートを借り、一年後に家を手に入れた。長いサラリーマン時代を過ごしたが、休暇らしい休暇を取らなかったので、半年間休暇を取り、運転免許を取得した。そして家族であちこち旅行した。ぼくは37歳だった。

運転免許を取るため、南区川沿の教習所へ通った。

そこに来ていた人たちのほとんどは主婦だった。

ぼくは主婦にまじって勉強した。

高校生のころ125CCのオートバイを運転していたので、運転の心得はわずかだがからだが覚えていた。なんなく取得し、合格した人たちで飲み会をやった。

そのなかに、40歳ぐらいのある主婦がいて、ぼくと遅くまで付き合った。

「田中さんは、どういうお仕事なさっているんですか?」ときかれた。

ぼくは広告代理店のディレクターをしていた。

すると、彼女は身を乗り出して、どんな仕事なのか、くわしく知りたいわといった。彼女のご主人は60歳で定年を過ぎ、嘱託勤務になったといっていた。

「60歳ですか、お年がずいぶん、離れているんですね」

「離れすぎていて、夫はただ、家に帰るだけよ」という。

「仕事も熱心じゃないみたいですし、……」といっていた。

A子さんはそれから、ふたりで飲みにいきましょうと、ぼくを誘った。

そのころ、ぼくはお酒はけっこう飲めた。

真駒内の彼女のマンションの近くにあるレストランで、ワインを飲んだ。

そして、食事をした。

札幌に転勤になったが、まだ札幌には住んだことがないというと、A子さんはいろいろ教えてくれた。それから、一週間に2度ぐらいのペースで会った。

そして一ヶ月が過ぎ、初夏を迎えたころ、ごくこぐ自然ななりゆきで結ばれた。夏が過ぎ、家族と北竜町のいなかに行き、あちこち泊まり歩いて、札幌に戻ると、A子さんとまた会った。

小樽の淡いランプシェードの明かりのなかで、ふたたび抱き合った。

そして秋を迎え、ぼくは背骨の痛みが激しくなり、北大病院で診てもらった。

すると、第10胸椎に、がんができていることが分かった。ひとつの背骨に3つのがんが、同時多発していた。

こんながんはめずらしいといって、レントゲンフィルムをたくさん撮られた。手術は、翌年の1月、北大系の北海道整形外科記念病院でおこなわれた。

退院したのは3月だった。

それからまた1年間の通院加療で、その年も勤務ができなかった。

病院へはリハビリテーションのために毎週通院した。背骨を切ったので、左足がいうことを利かなかった。

その年は、A子さんといつもデートしていた。彼女には子供がいなかった。不妊治療を3年間も受けていたが、けっきょくあきらめたという。



手稲を過ぎ、銭函にさしかかるころだった。

右手にひろがる海は、昼間でも青く黒ずんでいた。

札幌と小樽を結ぶハイウェーを幾度も往復し、A子さんとの逢引きをした。彼女とはいつも小樽へ行った。札幌で会うのは、できるだけ避けた。小樽港にほど近い倉庫街のなかにある西洋風のレストランで食事をし、そこからぶらぶら歩いて、目立たないところにある小さなホテルを利用した。

鈍色(にびいろ)の街に、雪が降るころ、ぼくは人生最後の出会いを愛おしんだ。もうこういう出会いはないだろう、と思った。あと、何年生きられるだろう、そう思った。

A子さんは、ぼくが男性機能を回復したとき、目を丸くして喜んでくれた。

回復するのに、10か月かかった。

「わたしはね、男の人に夢を捨ててほしくありません」といった。

ぼくはヘミングウェイみたいに、すばらしい小説をただの一編でもいい、書きたいと思っていた。ぼくには残された時間はない、そう考えていた。

「――でしたら、わたしたちのことを書いて」は彼女はいった。

「それなら、書けるでしょう?」

そうか、もしかしたら書けるかも知れない。

そう思って、ぼくは真っ白いシャツを着て、身支度をしはじめた。

指がしびれていて、うまくボタンがはめられなかった。A子さんが見るに見かねて、ボタンをかけてくれた。ネクタイも結んでくれた。――この人と、いつまでこうしていられるのだろう、人生って、ボタンの掛け違いみたいに、望まない方向へといってしまうのかも知れない、そう思っていた。

ホンダのアコードは、雪道にも強かった。

彼女を乗せて、来た道をふたたび走り、夜の真駒内のマンションの近くで、軽くキスをして別れた。

あれから、ちょうど30年がたった。

今年、父のいる真駒内に行き、彼女の元のマンションを外からちらっと眺めた。

父の住むマンションから歩いて3分の場所にある。

しかし、札幌の街はいろいろなことを思い出させるフォトジェニックな街だ。思い出だけがきらきら輝いて見えた。