語と学。

子規と漱石の場合。

正岡子規の英語嫌いは、よく知られています。むかしから、語学に強い人、弱い人というのはいるようです。子規は弱い人でした。

弱いといっても、いまの時代でいえば、かなりの語学力はあったと思います。なぜなら、明治10年代の東京帝国大学では、教える先生はすべて外国人で、日本人教師は数えるほどしかいなくて、日本人教師も英語で教えていました。

札幌農学校の教師も英語で教えていました。

子規が得意だったのは漢詩でした。

松山中学時代から、自分の書斎が持てるほど裕福な暮らしをしていました。司馬遼太郎原作のドラマ「坂の上の雲」に描かれている子規とは大違い。

当時の中学校では、漢文、英語、数学、理科(物理、化学、博物)、図画、体操の6科目ありました。仲間をあつめて新聞をつくったり、自由民権運動の演説をやったりしていました。しかし、苦手なのは数学と英語です。

数学が嫌いな人は、どういうわけか、英語も嫌いという人が多いようです。

数学が好きな人は、語学も好きという人がけっこう多いのは、なぜでしょうか。

時代小説を書く作家に、意外なことに外国語の達者な人がいます。ぼくの知っているある作家は、現在パリに住んでいて、チャンバラ小説を書いています。そうかと思えば、野村胡堂や、五味康祐という作家は、時代小説作家ですが、クラシック音楽に造詣が深く、本も書いています。野村胡堂は、「銭形平次捕物控」で有名ですが、吉川英治とともに国民作家になった人です。野村は、野村あらゑびすというペンネームで、「楽聖物語」という音楽評論を書いていて、多くの読者に親しまれました。ぼくもそのひとりです。五味康祐はいうまでもありません。

明治16年(1883)、数え年17歳のとき、5年生でしたが、子規は退学し、政治家を目指して上京します。そして旧松山藩主の肝入りでつくられた育英団体「常盤会」の寮に入ります。

そして東京・神田の共立学校へ入り、英語の勉強を本格的にやりました。そこで英語を勉強すると、大学予備門へ入りやすいという評判が立っていたためです。

その学校で英語の先生をしていたのが、高橋是清でした。

当時の英語のテキストは「万国史」でした。子規はたいへんな先生に習っていたわけです。明治17年夏には、本郷の進文学舎というところに入り、これまた英文学の大家坪内逍遥に英語を習っています。高橋是清の講義は、まじめくさっておもしろくなかったそうですが、坪内逍遥博士の英語の講義は、落語をきいているみたいで、先生の話を夢中で聴いたそうです。あんまりおもしろいので、ぽかーんとして聴いていたら、英語の勉強を忘れていたといいます。

坪内逍遥という人は、早稲田大学と縁の深い英文学者で、シェイクスピアの全37作を、ひとり全訳をやってのけた、当時、世界でもめずらしい学者でした。

「ハムレット」の一節を、当時の逍遥訳でいえば、「長らふべきか、長ろはざるべきか、これぞ思案のしどころぞ」と訳したりしました。有名な「生か死か、これが問題だ」というセリフです。そのまえに、こんな訳もありました。

当時、横浜で演じられていたシェイクスピア劇では、「あります、ありませぬ、こりゃあ困った」というセリフでした。じっさい、困った訳です。

子規は努力をするのですが、どうしても英語が理解できません。なかなか身につきませんでした。大学予備門の試験を、落第覚悟で受験します。すると合格しました。それでも英語だけは、どうしても苦手でした。彼は、試験会場でカンニングをします。

カンニングといっても、同級生にこっそりきいたわけです。出てきた単語がjudicatureという語とjudgeという語で、子規はどう考えても思い出しません。仲間がそっと教えます。「ホーカン」といったのです。

ホーカンだって?

しかし文意から考えて、まさか「幇間」じゃあるまいなと考えます。幇間というのは太鼓持ちというほどの意味ですが、それじゃ意味が通じない。しかし、子規は「幇間」と似たような訳語を考えついて答案用紙に書き込みました。

あとで、友人に尋ねると、「そりゃあきみ、法官だよ」といったそうです。

こりゃダメだなと覚悟します。資料にもそのときに訳した語が伝わっていません。いまのことばでいえば、「裁判官」とか「判事」という意味ですが、それでも合格したのですから、たいしたものです。英語と数学をのぞく他の科目の成績がよかったからでしょう。「ホーカン」といってこっそり教えてくれた学生は、落第しました。

ある人にいわせたら、この程度の語学力でよく合格できたものだといいます。ぼくはそうは思いません。当時のテキストに使っていた「万国史」なるものは知りませんが、いわば世界史に相当するテキストだったはず。そのテキストに、「裁判官」が出てくる個所は、よほど歴史の細部に突っ込んだ記事だったに違いありません。たまたま子規は、それを知らなかったのだと思います。

いっぽう夏目漱石は数学が得意でした。英語より得意でした。おかしなもので、中学時代には、英語と数学が苦手でした。漱石は東京府第一中学校へ入りますが、英語の勉強をするために途中退学し、神田駿河台の私立成立学舎へ入学しています。

大学予備門というのは、明治10年に東京大学が創立されたとき、法、文、理の3学部へ進学する学生の予科として設けられていたものです。明治19年に学校制度が改められ、東京大学は東京帝国大学となり、成立学舎は高等中学校と改称されました。そのころは、第一=東京、第二=仙台、第三=京都、第四=金沢、第五=熊本、第六=山口、第七=鹿児島の7校でした。

漱石は旧制第一高等中学校に入り、のちの東京大学教養学部となりますが、そのときの試験問題で、漱石は英語はどうにかできましたが、代数の問題が解けず、隣席の受験生からこっそり教えてもらって、合格しました。隣席の受験生というのは、のちに東北帝国大学農学部の教授になった橋本左五郎という人でした。

入学した当初の期末成績は、和漢文が59点の最低、数学は78点、幾何は86点で最高だったそうです。

それから漱石は、東京帝国大学の英文科に入りますが、学生は漱石ひとりだけ。子規はいろいろありましたが、国文科に入りますが、国文科では子規ひとりだけでした。漱石には、それぞれ11人の外国人教師と2人の日本人教師がついたわけです。国文科はよく分かりません。

漱石の英語力は、かなりのものがあったと思います。

国費留学した漱石は、英国留学の経験を踏まえて「文学評論」を書き、文部庁に提出しています。当時、わが国の英文学の水準をはるかに超え、これに触発されて英文学の道にすすんだ学者は数えきれません。抜きんでています。この「文学評論」は「漱石全集」に収録されていて、いつでも読むことができます。

漱石の数学熱は、「坊ちゃん」にも描かれています。

いっぽう子規は、後年になって、数学のおもしろさに取り憑かれます。「試験さえなければ、数学はおもしろい」といっています。彼がおもしろいといったのは、古代ギリシャ時代につくられたユークリッド幾何学のおもしろさです。定義、公理、命題、証明という論理に興味を示しました。現在は、論理学や経済学では数学は欠かせません。哲学者でも、パスカルやデカルトは、数学の第一人者でした。

子規は、弁論にも長けていて、これを数学的に解明してみたいと思っていたようです。「哲学概論も英語で書かれていて、つまらなかった」と書かれています。

英語には泣かされましたが、子規が、野球を日本に紹介した功績は高く評していいでしょう。ベースボールを「野球」と翻訳したのも子規でした。子規のベースボール記念球場が上野にあります。打者、走者、直球、死球などの野球用語も子規が訳しました。

ぼくが数学に興味を持ったのは、高校生のときでした。

三角測量という授業で教わった話がとてもおもしろく思いました。じっさいにやったのは、もっとも簡便な平板測量でしたが、三角測量にも興味を抱きました。子規と同様、ぼくも幾何学から入りました。

三角測量というのは、ある基線の両端にある既知点から、測定したい点への角度をそれぞれ測定することで、その点の位置を決定する三角法のことです。幾何学を用いた測量方法です。

その点までの距離を直接測る三辺測量と似ていますが、既知の1辺と2か所の角度から、三角形の3番目の頂点として測定点を決定することができ、この三角測量も、用途は無限にあります。

ユークリッド幾何学は、数学の王道ではありますが、ガウスとか、オイラーとか、ガロアなどの純粋数学にも興味を広げていきました。ぼくにとって数学は、美しいということです。

たとえば、アインシュタインのEmc² という方程式は、どこから見ても美しいと思います。数論ではけっして表せない情緒があります。というより、数字をめでる気分になります。岡潔という数学者は、「数字をめでる」といいました。「画家や詩人のつくるパターンが美しいように、数学者のつくるパターンも美しくなければならない」と、イギリスの大秀才、G・H・ハーディはいいました。この人は20世紀における大秀才型の数学者で、インドの天才数学者ラマヌジャンの定理を証明した人です。ラマヌジャンの定理は、おそらく2000を超えるでしょう。一週間に4つも5つも発見しています。