堂志子さんとの出会い。

雪の降るなか、歩いて街に出た。解けた雪がシャーベット状になり、自動車がシャーベットの雪を跳ねながら通っていく。北海道の春の光景とおなじだ。街まで出たついでに、あるコーヒー店に入り、コーヒーを飲んだ。230円だったブレンド・コーヒーが値上がりして250円になっていた。                              FACEのメンバー。前列左端が自分。二葉亭餓鬼録

漫然と外の景色をながめながら、週刊誌に目を落とした。

藤堂志津子さんの写真が載っている。むかしの若いころの面影がある。彼女の頬からあごにかけてのラインは、むかしのシルエットそのままだ。

彼女はいま作家として、活躍されている。

むかし、――といっても昭和62、3年のことだろうと思うが、――ぼくはすでに札幌に転居していて、何かのおりに彼女に原稿を依頼したことがあった。大したものじゃなかったと思うのだが、熊谷政江さんは、当時札幌のある広告代理店にいて、ホクレンの仕事などをしていた。その文章を読んで、この人に記事原稿を依頼したいと直感的に思った。

ある喫茶店で、きょうのように、降る雪をながめながらコーヒーを飲み、おしゃべりした。

「いま? わたしはヒマなんですけど、忙しいのよ」という。

「ほう、なんで、忙しいの?」

「わたしね、小説を書いてるから、……」という。その話は知っていた。

「そのあいまに、記事は書けませんか?」といってみた。

「うーん、困ったわね。もっとヒマナな人、だれか、いるかしら」と彼女はいった。ぼくは彼女に書いてほしかったので、その話は断って別の話をした。二葉亭餓鬼録

「田中さんて、小説は書かないの? 書けばいいのに、……」といわれてしまった。ぼくは小説以外の話を何かおしゃべりしたと思う。熊谷政江さんはある雑誌に、「マドンナのごとく」という小説を書いていた。話には聞いていたけれど、彼女の話を聞いているうちに、なんとなく読む気が起きなかった。彼女を紹介したくれたのは、吉田某という当時60歳くらいの出版社の社長だった。

ぼくは、札幌には親戚がいっぱいいて、街を歩いているとだれかと出会う。それぐらいいた。北竜町のやわらや、恵岱別の田中の従妹らが、ぞろぞろいた。父が北竜町を出て、札幌市南区の川沿に居を構えたのは昭和40年である。ぼくはここには住んだことがないので、川沿の家に泊まっても、他人の家のように思えた。そのころ、いちばん下の弟は高校を出てある自動車メーカーの北海道支店にいた。すぐ下の弟は、家庭を持って、南の沢に住んでいた。

ぼくが札幌へやって来たことで、むかしの家族が全員そろった。

来たばかりのころは、しばらく家の近くのアパートに住んだ。長男は幼稚園に通った。娘はまだ幼かった。

北海道はクルマがないと不便だなと思い、36歳で免許を取った。

自動車教習所で知り合った人の多くは、女性だった。主婦ばかりだった。みんな川沿の近くの人たちだった。36、7歳の男性なんかひとりもいなかった。みんな20代の青年たちで、あとはみんな主婦だった。そういう人に交じって講習を受け、試験にのぞんだ。ときどき緊張した。

実地はうまくいった。

高校生のころ、250CCのオートバイに乗っていたので、ハンドルが違っても大した違いに思えなかった。免許を取ると、どこかに出かけたくなる。家族を連れて、北北海道へと旅をした。稚内、利尻島への旅は愉快だった。1ヶ月の休暇のほとんどを旅に明け暮れした。

そのころ熊谷政江さんに会った。作家藤堂志津子さんになる以前だった。

そして、ぼくからの原稿依頼は、ご覧のように「多忙」を理由に断られた。それが昭和62年の春だった。彼女は忙しいはずだった。翌年の昭和63年(1988)年下期に「熟れてゆく夏」で第100回直木賞を受賞した。

そのころ、時計台ビルの地下1階にあったFACE(ビジネス・コンサルティング会社)の佐々木先生が、藤堂志津子さんの小説「マドンナのごとく」を話題にされた。それをきっかけにして、ぼくは彼女の小説をはじめて読んだ。先生は藤堂志津子さんのファンであることを自認されていた。

「そうですよ、田中さんも書いたらいいのに」と先生にいわれた。ぼくは札幌に来て、FACEの佐々木先生にお目にかかり、入会してビジネス上の知恵を借りた。その後仲間たちがどんどん集まってきて、いつの間にか50人以上の大所帯になった。そのうちに、札幌におられる藤堂志津子さんを招いて、講演会を開こうという話が持ち上がったが、彼女の都合で時間が取れず、断念したといういきさつがある。

藤堂志津子さんはいつも多忙だった。

その後、会うこともままならなくなり、ときどき作品を読んで、お元気に活動されている彼女のことを思い出している。FACEの写真では、中央の白髪の人が佐々木先生である。その左横が自分である。あのころは、みんな多忙だった。

佐々木先生とはいちど飲んだことがある。先生のいきつけのバーだった。そこでぼくはよせばいいのに、アインシュタインの「Emc²」の話をすると、ママがカウンターのなかから口を出してきた。

「そんな話、どこがおもしろいんですか? もうやめてください」といった。

「――ここのママは、こういう人なんですよ。ぼくもよく、しかられていますよ」と先生がいった。だけど、先生はなぜか、この店を気に入っておられた。FACEがなくなって、ずいぶんたつ。思い出の写真だけが残された。