藤井洋武さんから贈られた篆刻。
先日、藤井洋武さんがイタリアの旅から戻られ、いろいろなイタリアの資料や写真CDなどを送っていただいた。それを元にして、ぼくは「藤井洋武さんのポンペイ紀行――古代ローマまぼろしの都」と題してエッセイを載せた。ところがブログの倫理コードにひっかかり、ボツになった。さて、どこが悪かったのだろうと思い返した。そこに、井上靖氏の「ポンペイ」と題する詩を引用している。ポンペイの地下に当時の楼閣の跡が残っている。その詩行がよくなかったのかも知れない。
しかし、これは芸術作品なのだから、仕方がない。
もとより、井上靖氏は、毎日新聞社の記者時代に、美術評論記事も書いていた。だから、彼の記事は、詩人としての目を通して描かれたものであり、凡百あるポンペイ記事のなかでも、きわだっている。
それに、井上靖氏は、京都大学文学部で美術哲学を専攻している。
学部学生のころから小説を書き、文壇デビューを果たしている。「サンデー毎日」に投稿した作品が入選となり、それが縁で大阪毎日新聞社に入社し、学芸部配属となった。昭和11年ごろのことである。
そのころ「流転」という小説が直木三十五などに認められ、直木はみずから井上靖氏の家を訪れている。井上靖氏が30歳前後と思われる。
すると、直木は、きょとんとした顔で、
「きみが、井上靖なのかね?」と尋ねる。あまりにも相手が若かったからである。
あの文体は、壮年の趣きがあると思っていたので、直木三十五の想像とは違った。そういうエピソードが残っている。「闘牛」で芥川賞をとったのは、昭和25年のことだった。ぼくはおりにつけ、彼の詩を読んできた。おなじ北海道生まれということもあって、いろいろ読んできた。井上靖氏の文章には、気をてらったところは少しもなく、北海道人らしいねばり強さが感じられる。
彼は旭川で生まれ、北海道でも極寒の地を経験しているのである。
ぼくのふるさと北竜町と旭川市は似ている。
高校生、大学生のころに読んだ井上靖氏の初期の小説は、すばらしいものだった。なかでも「通夜の客」は、純文学と大衆文学のボーダーをいっぺんに取り払った傑作で、「井上靖全集」の第1巻目に収録されている。第1巻は、ほとんど詩で埋め尽くされている。その詩行のなかで発見したのが、先の「ポンペイ」という詩だった。
詩はもちろんペンネームで書いている。彼のペンネームは、5つほどある。
ぼくは、バックアップを取っていなかったので、先の文章は消えてしまった。もうおなじものは書けない。ぼくはいつも、下書きとかバックアップというものを取っていない。ダイレクトに書き込む。これからもダイレクトに書く。
むかしから原稿用紙に書くことになれているので、紙に書けば、もうそれでおしまい。そういうつもりでキーボードで打ち込む。
井上靖氏はきわめて端正で正確な文字をきちんと書く。
島崎藤村もきちんと書いている。井上靖氏の執筆態度には、理由があるのだろうと思う。「書き流す」ということの嫌いな性分。そして、印刷の組版をつくるとき、職人が、薄暗い部屋で、一字一字なまりでできた小さな活字を拾って、1ページの組版をこしらえるのだが、そういう人にもちゃんと拾えるように、文字をけっしてくずさない、という思いやりの気持ちもあるのだろうと思う 。とくに人の名前、物の名前は正確を期して書く。作家の堀田善衞の「衞」は、けっして「衛」ではない。
それよりも、原稿用紙に書くとき、おそらく、「一字一拝」ということばがあるように、魂をこめて書いていたのだろうと思われる。空海というお坊さんは、お母さんからこの一字一拝を教わっている。一字を書いて拝み、また一字書いては拝む。そういう写経を教わっているのである。
むかしの寺小屋、藩校の生徒たちは、それをやらされた。――いま、藤井洋武さんのことを思い、この方は、一字一拝をなさる方のような気がする。先ごろ、娘が亡くなってしばらくしてから、藤井洋武さんから般若心経のお経のことばを書いたものをいただいた。これをぼくは、リビングルームのデスクの上に置いて、1日何回もみつめている。ありがたいことである。
「21世紀に生きる君たちへ」(監訳者・ドナルド・キー、訳者・ロバート・ミンツァー、朝日出版社)と題された司馬遼太郎さんのエッセイを読んだ。日本文は小学生の教科書にも載っている。これを英文に翻訳され、ひろく海外にも紹介されている。
この本は1999年に出ている。――ここで、ちょっと一部をご紹介したい。
――人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせて考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎないことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対していばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。
「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
このように書かれている。般若心経には、広大な無辺と、母親の胎内のような、ゆりかごの世界のなかで、人間たちが生かされていることが描かれている。仏教のことばでいえば、「空の空にして、これ空の空なるかな」というわけである。人間のいのちは、仮の姿であり、長い旅路の、ほんの一時でしかない。同時に人間は、「自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」のである、とも読める。
さて、藤井洋武さんにはいろいろとお世話になっている。――個人的な話ははぶくとして、じつは、藤井洋武さんの篆刻作品を、ここでぜひご覧いたたきたいと思う。
上の篆刻は、つい先日送っていただいたものである。
ご覧のように、かたちの違う木々が2本、白黒反転の文字に刻まれている。陰と陽の両面をあらわしていて、夜と昼のようにも見え、夏と冬のようにも見え、おそらく北海道のエゾマツを象(かたど)ったものと思われる。ぼくはたいへん気に入った。ありがたく頂戴し、蔵書に捺している。
それとふしぎなことに、木々をよーく見ると、「田中」とも読めるのである。そうは見えませんか? 作者の意図を離れてしまうかも知れないけれど、ぼくにはそう見える。
ぼくには篆刻はつくれないけれど、篆刻作家というのは彫刻作家とおなじで、いちど彫ったあとでは修正がきかないことを知っている。消しゴムで消すわけなはいかないのである。オペをするドクターみたいなものだろうか?
臓器を見て、ある部分を切るか、それとも切らないか、最後の最後まで、迷いがゆるされない。美術家もきっとおなじだろうと思っている。それでも失敗はつきもの。そうして失敗の歴史がつもりつもって、美術に対する機運やモチベーションをあげ、絵画や彫刻芸術とならんで、世界の漢字文化圏に篆刻芸術というものが生まれた。そして多くを創造してきた。西洋の文字にはない、独特の漢字文化をつくっている。
そこで、漢字がなぜ芸術になり得るかという話だけれど、先にのべた「田中」とも読める藤井洋武さんの彫られた篆刻は、いっぽうでは森にも見えるのである。また、寒暖の季節もあらわし、昼と夜もあらわすこともできるという、漢字という形象文字韻がどのようにでも表現できるハバのひろいおもしろさがある。だから、ぼくはこのように篆刻は、芸術足り得ると思っている。
さっきぼくは、人間は「大きな存在によって生かされている」という文章を引用した。
しかし、これは何も、人間だけにこだわる必要はどこにもないと思っている。
文字もまた、人間のように個性ゆたかなものであり、死んだり生まれたりしている。
漢字文化圏の人の名前のことをいえば、日本がいちばん多い。10万種類を超えるという史料がある。
1871年(明治4年)大政官が布告した戸籍法で、国民の苗字をひとつ、名をひとつ登録することが定められた。それまで苗字を持たなかった国民は、多くの苗字を創出した。日本人の姓が多くなった理由は、これである。
巨大な人口をもつ中国では、姓は500種くらい。北朝鮮・韓国では270種といわれている。「金」「李」「朴」の3大姓が人口の40パーセント以上を占めているというから恐れいる。しかし、日本の10万というのは圧倒的に多い。
ほくの知り合いに、「鍋釜」さん、「萬」さん、「釘抜」さんという人がいる。「寺野段」という人もいる。余談がながくなったけれど、人びとの存在をあらわす印鑑は、使う側の芸術感覚がなくても、生活のなかにすっかり溶け込んでいる。自分でも何か彫ってみたくなる。