サムライとは何か?
先日、都内である先輩とコーヒーを飲んでおしゃべりをしました。Тさんはすでにテレビ局を退職され、子会社の非常勤社員となって久しいといいます。72歳。
Тさんは、ぼくが虎の門に会社をつくったときにたいへんお世話になった方で、ここ6、7年ほど会っていませんでしたが、快く会っていただきました。彼はお酒が飲める人でしたが、さいきん糖尿病をわずらっていて、「もういけませんよ」といいます。
「でしたら、どうですか? コーヒーでも」と電話で誘うと、銀座で会いましょうか、ということになり、銀座2丁目のルノワールで会いました。そこで、ぼくはひまわりの里・北竜町の話をしました。
「そういえば、いつか読みましたよ」といいます。ぼくの小説「ひまわり」の話です。この小説は、たぶんブログには載せていません。
Тさんにはじめて創作原稿をお見せして、批評を乞うはずでしたが、直接的な評言はいただけませんでした。Тさんは立命館大学大学院を出られ、ずーっと営業畑を歩いてこられました。剣道5段。むしろ剣道で趣味が合うのでお付き合いがはじまったわけでした。
「ぼくは、田中さんには、仏教の本を書いてもらいたいと思っていましたね。いつか、見せてもらった原稿のことを思い出しますよ」といいます。「ゴータマ・ブッダへの旅」はもう10年もまえに書いたものです。1000枚ぐらいの原稿を製本したものを、お見せしたことがあります。
ぼくはちょうど阿含経を勉強しているころで、Тさんは、阿含宗官長の桐山靖雄氏を紹介してくれました。桐山靖雄氏の書かれた本をたくさん持っておられ、それをぜんぶ寄贈してくださいました。ぼくはそれ以来、桐山靖雄氏のお話をたびたび拝聴する機会を得ました。
現在、桐山靖雄氏は91歳。
本山は京都市山科区にあり、立宗は意外に遅く、昭和53年です。
釈迦の唱えられたお経を勉強するには、初期仏教の阿含経がいちばんだろうと思い、桐山靖雄氏の本をたよりに、ひとり勉強していました。それでもわからない。
釈迦仏教は奥が深くて、いくら勉強しても、ほんとうのことはわからない。釈迦仏教から大乗仏教へとさま変わりしていく時代の変遷史をたどり、専門的な本をたくさん読みましたが、いまもってよくわかりません。
「でも、さいきんぼくは明治維新その他、そのころの歴史をもっと知りたくなりましてね、武士道などを読んだりしています」というと、
「司馬遼太郎さんの本を読むといいですよ」といいます。
「司馬遼太郎さんの本は、ほとんど読んでいます。《この国のかたち》、《明治という国家》、《坂の上の雲》、《殉死》、など、……」
「ほう。……代々の武士よりも武士らしく生きようとする近藤と土方の星雲の志をえがいた《燃えよ剣》とかも、けっこうおもしろいですね。篠原泰之進の爽快な生き方をえがいた《新選組血風録》とか、《幕末》とか、吉田松陰の先生だった玉木文之進の生涯なんかもえがいた《世に棲む日日》、あれはいい小説でしたね」といいます。
「Тさんも、司馬遼太郎さんの本を、けっこう読んでいるほうですね?」
「ええ、読みましたね。《坂の上の雲》は2回も読みましたよ。――で、いまごろになって、明治維新に興味を持ったというのは、どうしてですか?」といいます。
「いや、よくわからないんです。明治という時代は、はたしてどういう時代だったのかと思って、……」
「ぼくにも、わかりませんよ。司馬さんの本を読んで、わかったような気分になるだけですかね。サムライってさ、生まれるもんじゃないですね。司馬さんの本を読んでいると、サムライは、つくられるものだと書いてあります」
「そういえば、吉田松陰は、玉木文之進の塾生として徹底的に鍛えられますね? 松陰のこうした教育は、5歳から20歳まで、受けていますね。たしかに、サムライはつくられる、いわれれば、そのとおりですね」
「そうです。サムライとは何か? この命題を力まかせに幼い松陰たちに教え込むわけですね。うむをいわせないんですな」とТさんは力説しました。
司馬遼太郎さんは書いています。
玉木文之進は、天保13年に松下村塾を開き、兵学のほかに歴史、馬術、剣術を教えています。その教えは、ことばの解釈などではなく、武芸のワザでもなく、「サムライとは何か」というものだったといわれています。
司馬遼太郎さんはいいます。
「――玉木文之進によれば、侍というものの定義は、公のためにつくすものであるという以外にない」ということです。これこそ兵学の祖、山鹿素行が打ち立てた武士道の真髄であり、文之進は極端に私情を排します。「学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である」ということを書いています。この表現が、とてもおもしろいと思います。
「おもしろいですね」
そういえば、司馬遼太郎さんは「風塵抄」のなかで、こんなことを書いています。
「こんにち《公》という概念が、宙空にあって輝いている。その色は清らかでその性質は無私で、ひたすらひとびとの役に立つという存在である」と。司馬遼太郎さんの膨大な幕末維新小説群は、まさしく現代日本から失われつつあるこの「公」の精神を、いまに蘇らせるために打ち鳴らされた警鐘のように思われてきます。
作品「峠」のあとがきで、司馬遼太郎さんはこう書かれています。
「人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸期の武士道倫理であろう。人はどう思考し、行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている」と。
「公」、「美」、「志」――という語がそろう江戸期の武士の生き方を、そこに要約されていることに気づきます。そこには、この3つの理念が失われつつあるという現代日本の危機感が浮き彫りにされています。司馬遼太郎さんがなぜ、あのように長大な物語を、あらゆる角度から微に入り細をうがって克明に描ききったのか、それを考えました。
作品「翔ぶが如く」にはこう書かれています。
「朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」。
司馬遼太郎さんの文章には、特長があります。
多くは地の文ではなく、人びとの会話の部分に「公」、「美」、「志」の理念があらわれていると思われます。ひとつ例を出します。
元治元年は、長州藩にとって、まさに激動の年でした。
6月に京都池田屋で多くの志士が斬られ、7月には禁門の変が勃発し、京都に攻め入った長州軍は壊滅しました。この変で来嶋又兵衛や久坂玄瑞は自刃し、松陰門下の多くが戦死しました。8月、英仏米蘭の4ヵ国艦隊が下関を攻撃し、長州藩にとっては危急存亡のときが訪れます。
しかし長州藩の戦意は、少しも衰えない。
「戦うのだ! 日本武士がどういうものか、世界に見せてやる」これが長州藩士の総意でした。司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」の「談判の章」は、4国連合軍の武力を背景にした圧迫をものともせず、貫くべきことを貫き通した高杉晋作の強靭な武士道精神をつづってみごとです。
高杉晋作は旗艦に乗り込むと、司令長官クーパーに媾和書を差し出しますが、これには「降伏」の「降」の字も書かれていません。
長州藩は全砲台を破壊され、沿岸は敵の陸戦隊に占領され、長州藩全体が連合艦隊によって逆封鎖されるという最悪の状況にありました。クーパー長官は、高杉晋作の差し出した媾和書を、ちらっと読んで突き返します。
「これでは問題にならない」
そしてクーパーは謝罪書を求めます。しかし晋作は、
「それでいいのだ。わが防長国主の文書には、外国艦船の下関海峡通過は以後さしつかえないと書かれている。それが講和という意味なのである。いま通詞は降参々々といわれるが、日本語にあっては降参とは戦(いくさ)に負けたときにつかわれる。考えてもご覧じよ、長州藩はべつに戦に負けておらぬではないか」
これには、クーパー長官も仰天します。
「あれでも負けていないと貴君はいうのか」
そこから見える砲台は破壊され、連合国陸戦隊がそこを占拠しています。晋作はうなずき、そしていいます。
「負けていない」と。
「砲台の5つや6つどころか、もっと欲しいといわれるならいくらでも差しあげる。戦いの勝敗というものは、そういうものではない。貴艦隊の陸戦兵力はわずか2千や3千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長2ヵ国であるけれども、20万や30万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降伏するのではない」
まことに堂々たる論旨です。そして日をあらためて行なわれた談判でクーパーは重大な問題を提起します。
「彦島を抵当として当方が租借したい」と切り出しました。
英国は、この方法で中国から香港を奪った。
おなじ手で長州にたいして使ってきたのです。
ところが晋作は、この租借という言葉の概念がよくわからない。けれども、晋作は外国租界となった上海を見ています。そこでは、外観内実ともに西洋の港市になりきっており、シナ人は奴僕以下にあつかわれています。クーパーのいう租借とは、彦島が上海になることだと晋作は直感します。そして晋作は演説します。
「そもそも日本国なるは、高天が原よりはじまる。はじめ国常立命(くにのとこたちのみこと)ましまし……」と、翻訳不可能な言辞を弄します。晋作にとって一か八かの演説でした。この談判の通訳を仰せつかったのが伊藤博文です。司馬遼太郎さんの文章では、そのときのことを語った伊藤博文の述懐をつづっています。
「あのときもし高杉がうやむやにしてしまわなかったなら、この彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。おもえば高杉というのは奇妙な男であった」
きょうТさんから、ひとつ学びました。人は、サムライになるのではなくて、サムライはつくられるのである、ということです。
いまさらながら藩校の大きさを思い知らされます。司馬遼太郎さんが再三にわたっていっているように、幕末維新期ほど、「公」の理念が高揚した時代はわが国の歴史には、かつてなかったと思われます。「公」の理念や、それに対をなす思考・行動の美意識は、男子一生の志といったものを忘れかけている現代人にとって、教えられるところがまことに大きいと思われます。