慶子先生のこと。
 
二葉亭餓鬼録
 事務所でメールボックスを開いたら、札幌のある女性からメールが届いていました。

彼女は、偶然ぼくの書いたブログ「北海道・北竜町をつくった人びと」を読まれ、最初は、弟さんから北竜町についてのコメントをいただきました。

そのなかに、昭和21年生まれのお姉さんの話が書かれていて、小学校時代のことがいろいろとつづられていました。北竜町の真竜小学校におられた山川武先生のことが記され、その奥さまとなられた篠原慶子先生のことが詳しく書かれており、

「ご記憶に、ございませんか?」という質問でした。

ぼくは、ふたりの先生に習っていて、よーく覚えています。思い出しました。ぼくが1年生のときに担任の先生だった篠原慶子先生のことを思い出したんです。戦後5年目の記憶です。当時、みんなくすんだ色の衣服を身につけていた時代に、若い慶子先生だけ、チャーミングで、おしゃれで、子供たちにも「お姉さん」みたいな先生でした。

二葉亭餓鬼録
ぼくには、見慣れない姿だったからでしょうか。



   おそるべき君等の乳房夏来(
きた)る
              (西東三鬼「夜の桃」より)

 という句を思い出します。
 戦後間もないころ、昭和22年ごろの作のようです。
 戦争が終わって、モンペ姿から自由な身になった女性たちの姿を歌ったもののようですが、真っ白なブラウスに、真っ白なブラジャー、真っ赤な衣服姿を見て、作者・西東三鬼は、思わず度肝を抜かれたのかも知れません。
 それまでは、女性の乳房は黒っぽい衣服ですっかり覆い隠されていたけれど、戦争が終わってみれば、いちばん最初に変わったのは、世の女性たちだったと思います。「おそるべき乳房」を見せていました。ぼくは8歳にして、まぶしかったのを記憶しています。
 いま考えれば、あれは「恐るべき乳房」だったと思います。慶子先生には、そういうイメージがあります。ぼくは男兄弟の長男でしたから、ふだん女性に接することなんてなくて、恥じらいを感じていたものです。
 1年生のとき、ぼくははじめて女の子と席をならべました。その女の子は、やわら市街のお寺の娘さんで、とても可愛い人でした。ですが、ぼくは緊張し、緊張しながらも、なぜか嬉しく、楽しい心地にさせました。「男女七歳にして席を同じゅうせず」ということばが、中国の「礼記」には書かれているそうですが、ぼくの意識は、はちきれんばかりでしたね。
 いつも慶子先生の姿を見て、ぼーっとしていました。
 それが楽しかったんです。
「きょうは、日の丸を描きましょうね」といって、みんなで、日の丸の絵を描きました。赤という強烈な色を真っ白な画用紙に描きます。白と赤。――この対比は強烈で、太陽が生み出す彩色の色合いとして、この上ないものがありました。それ以来、絵を描くことが好きになりました。


さて彼女は、昭和21年、中国方面で生まれているようです。ぼくの父がむかし、機関銃兵だったことを書いたので、彼女には、忘れられない戦争の記憶がよみがえったのでしょうか、壮絶な話がつづられています。

戦争が終わり、旧満州にいた彼女は、まだ赤ちゃんだったそうですが、母親といっしょに中国東北部から南下して、朝鮮半島の北緯38度線をくぐりぬけ、無事、北海道に帰り着くことができたという話がつづられています。

途中、空腹で母親のおっぱいが出なくなり、川の水を飲んでの旅だったそうです。朝鮮戦争が勃発するまえの話です。多くの人たちは、こうして想像を絶するような逃避行をして帰還されたのだろうか、と思いました。

その方は、北海道・北竜町のご出身で、ぼくのふるさととおなじだったことから、偶然のようにしてメール交換がはじまりました。

ぼくには戦争体験のようなものは何もなく、物ごころがついたころ、戦争の話は、父から聴いて知らされただけです。父の軍隊の話はみんな聴かされました。何かというと、軍隊の話をしていました。

父は旭川第7師団から満州へと駆り出されました。

父は機関銃兵でした。もともと旭川第7師団は、北海道の開拓と本土防衛のために組織されたものだったようですが、昭和13年ごろからは関東軍の指揮下に入り、逐次、中国戦線に動員され、戦争末期には、そこから多くの兵士が中国、あるいは南方へと送り込まれました。南方へ動員された人は、だれも帰ってきませんでした。

そんなわけで、ぼくのブログの記事が縁で、札幌のご姉弟とのメール交換がはじまりました。
二葉亭餓鬼録



「お父さん、ちょっと見せたいものがあるのよ。お茶にしません?」とヨーコから電話が来ました。

部屋に行ってみると、ハガキ絵が、デスクの上に何枚もならんでいます。

「やっと描けたわ。どうかしら?」といっています。

「ほう、いいじゃないか。……」

「どれがいい? お父さん、3枚選んでみて」といいます。

「これがいい」といって指差したのは、稲穂でした。それから別の2枚を選びました。

「3枚、どうするの?」

「あした、提出日なのよ。やっと描けたわよ。展示会に出す作品よ」

「ふーん」

「……ところで、お父さんは、いっしょけんめいね。メールに」といいます。見ていたのかなと思いました。

「いい人、できたの?」とヨーコはいいます。ははははっ、……「いい人」か、と思いましたね。

「いいのよ、浮気しても、……」とヨーコはいいます。

「そんなんじゃ、ないよ」

「ああ、わかった、北海道の人でしょ?」

「満州から逃避行して帰ってきた人だよ」

「あら、そう。満州? その人、いま、どこに?」

「ふたりとも、札幌だよ」

「そうなの。お父さんのことだから、札幌に行ったら、会いたいなんていうんじゃない?」

「そりゃあ、会いたいよね。お姉さんは昭和21年生まれだそうだよ。弟とおなじだな」

「会ってくれば、……?」

そこでまた電話がきて、話は中断した。そして、慶子先生のことを思い出した。