数学 宙は楽に満ちている!

 

ぼくは風呂のなかで考えていたこの宇宙のナゾめいた物語。それをいま想像し、

「ガロアってすごいやつだな!」とおもった。

ぼくはガロアの提唱したというか、つぶやいた数々の不可解な内容、――彼の「方程式のべき根による解法の条件について」とか、その他について考えていたら、ある奇妙な事柄にぶつかった。

そう、たとえば「方程式の代数的解法についての概要」とか、「数値的方程式の解法についての覚書き」とか、「数の理論について」などなど、数々の論文や、そして円分多項式とか楕円函数にかんするモジュラー方程式なども証明なしで、ちゃんとのべられているさまざまな内容について考えていたら、目のまえにある、これまでおしゃべりしたフェルマーの方程式が解を持たないという話をおもい出した。

しかしそれよりも、「リーマン予想」のほうが数学の未来にとって、はるかに有益であるに違いないとおもい直した。まさに、ボンビエリが15歳のときに発見した驚きとともに、数学にとってもっとも基本的な素数への理解が先だろうと考えた。

素数は「代数の原子だ!」といったのはマーカス・デュ・ソートイだが、まさに素数は「数の原子」である。それは、宇宙にちりばめられた、きらきらする宝石のようなものかもしれない。素数が奏でる音楽を聴こうじゃないか、そういったのもマーカス・デュ・ソートイである(「素数の音楽」)。

「素数の音楽だって?」

「調和をもったメロディーだって?」

それは人間には創造することのできない完全な調和をもったメロディーが隠されているというのである。

だから彼はじぶんの著書に「素数の音楽(The Music of the Primes)」(冨永星訳、新潮社クレストブックス、2005年)というタイトルをつけたのだ。単純に考えると、素数は数学者の研究のなかでもっともわくわくする謎めいた存在なのだという。

むかしカール・セーガンが小説「コンタクト」のなかで、エイリアンが、素数を使って地球上の生命体との接触をはかろうとする話を描いた。これはSFだが、はるか遠い宇宙のかなたからエイリアンが素数を使って送ってくる電波「ドラムビート」、それはいったい何なのか? それはなんと、素数だったという話が描かれている。

しかし数学者たちはこんなふうには考えない。

ただ、何100年にわたって、雑音のなかから、なんとか秩序ある音を聞き分けようとしてきた。しかし、それでもわからない。

だが、19世紀のなかばごろになると、ベルンハルト・リーマンが素数の問題をまったく違ったやり方で考えはじめた。混沌とした素数の海のなかにある、ある種のパターンを探すことだった。いままで雑音にしか聴こえてこなかった音の薄皮を一枚を剥がすと、その下には、意表をつくような繊細なハーモニーがあらわれたというのだ。これがのちに、「リーマン予想」と呼ばれる予想なのである。以来、「リーマンて、すごいやつだ!」とおもわれるようになった。

「リーマン予想」がもしも解明されたら、どういうことが起きるか?

まだ現役の数学者にとって、素数は数学の基本中の基本であり、その数の性質を理解することができれば、研究にも大きな、甚大な影響をもたらす。

まず現行の100桁のクレジットカードの暗証番号が使えなくなる。それはすべて素数で成り立っているからだ。「リーマン予想」が解明されたら、たとえ100桁の素数であっても、すぐに探し出せる。航空機製造・運行やエレクトロニクス技術の発展に大きな影響が出てくるという人もいる。

そうすると、すべての素数暗号は、もう使えなくなるということなのか?

――そんなことはどうでもいい。宇宙は音楽で満ちているということのほうが、ずっと大きな驚きで、ずっと魅力的だ。

数学と音楽の基本的な関係を発見したのは、あのピュタゴラスなのだ。水を入れた壺を小槌でたたくと音が出る。その水を半分減らしてたたくと、音は1オクターブあがる。さらに水を3分の1にすると、最初の音と調和することを発見した。で、ピュタゴラスは「宇宙全体が音楽で総()べている」と考えた。

オイラーは疲れたとき、音楽で気分を切り替えた。

ライプニッツは「音楽は、人間の頭脳が、知らず知らずに数えることによって経験する喜びである」といった。

G・H・ハーディではないけれど、彼は応用数学には目も向けず、創造性あふれる純粋数学の芸術性をひたすらに追い求めた。それは「数学が美しいから」だった。その美しさは、数学の美しさと似ている。そこには「ハーモニーがある」とデュ・ソートイはいっている。

2000年もむかしの数学者たちが追い求めた美しい数学、それを、今風の視点でながめて呈示したのがゼータ関数である。これによって古代ギリシア人が想像もしなかった新しい数学の地平が見えてきたのである。オイラーは、素数が無限にあるからこそ、関数の値が無限のかなたに飛び去るのだということに気づいた。ゼータ関数と素数をむすびつけたオイラー積表示、――関数の値が無限に飛び去ることから、素数は無限に存在することを示す、――素数が無限にあることは何100年もまえのギリシア人たちも知っていたが、オイラーのこの「オイラー積」には新しい概念が組み込まれていた。

しかしリーマンの時代になって、そこには別の風景があらわれた。

これまで見たこともない風景だった。

複素関数が描いた風景の一部をこじ開けると、その先には素数の世界が広がっていたのである。ゼータ関数を使えば、ガウスの「素数定理」を解く鍵が、まさに見えてきそうだった。

このリーマンの発見は、素数の秘密を解き明かす音楽のように見えたかもしれない。そこに虚数を混ぜたのだった。1859年、33歳のときだった。この発見をリーマンはベルリン・アカデミーに論文を書いて発表した。これがのちに「リーマン予想」と呼ばれる世紀の大発見の足場になった。

■物理学。――

爆の父」と呼ばれたッペンハイマー

 オッペンハイマー

 

ぼくは、科学と文学は表裏一体だ、と人には応えている。その話をしてみたい。

ぼくは科学のことを考えるとき、ガリレオ・ガリレイの「右手の中指」のことをおもい出す。じっさいに見たことはないけれど、指を入れた台座に書かれていることばをおもい出す。

「この指の遺物を軽んじてはならない。この右手が天空の軌道をしらべ、それまで見えなかった天体を人びとに明らかにした。……」云々と記されている。

その指は、1737年3月12日、ガリレオの亡骸がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会の本堂へ移されたときに、遺体から切り取られたものである。なぜいま、ガリレオの指なのだろうか、とおもう。

真の科学者が、その重い腰をあげて権威と手をむすび、いやいや世界の本質をつかもうとしたそれまでの手法に疑問をもち、おぼつかない足取りで、こつこつと独自のあゆみを見せたその転機を示すものとして、ガリレオ・ガリレイの「中指」のことを忘れてはならないからだ。――と書かれている。

さて、きょうはガリレオの話ではなく、先日、ある人との会話のなかに出てきたオッペンハイマーという米国の物理学者の話をしてみたいとおもう。いまだからこそ、オッペンハイマーをまっとうに評価することができるとおもうからだ。

湯川秀樹の中間子理論は、オッペンハイマーの実験によって、その理論が正しいことが証明されたわけだけれど、そのときオッペンハイマーは、米国における物理学界の第一人者としての威厳をまだ保っていた。

保ってはいたのだが、原爆開発の責任者として、オッペンハイマーは「日本人に深くお詫びし、死をもって償いたい」という気持ちにかられていた。

それは、人類滅亡の危機をいちはやく察知していたからだった。

みずから成し遂げた原子力爆弾の成功がもたらす恐るべき大量殺戮兵器に加担してしまった自責の念でいっぱいになり、オッペンハイマーは科学者として、自分は何をやってしまったのかと、深く反省していた。

そして彼は、政治に無関心ではいられなくなったのである。

 

その後、彼は原水爆禁止運動をやり、政治的意見を明確にした。そのため、オッペンハイマーは、米国のすべての公的機関から除名処分を受け、赤狩り旋風とあいまって、物理学界からも追われた。

ぼくは先日、ジェレミー・バーンスタイン(Jeremy Bernstein)という物理学者の書いたエッセイ「ただ優秀なだけの人びと(The Merely Very Good)」という文章を読んでいる。そこに、おなじ物理学者だったオッペンハイマーのインタビュー記事が出てくる。

オッペンハイマーは詩人でもあったと書かれ、当のジェレミー・バーンスタイン(Jeremy Bernstein 1929年生まれ)自身も科学者なのだが、「ニューヨーカー」誌のスタッフ・ライターをつとめ、さいきんは「すべてに当てはまる理論(A Theory for Everythig)」ほか、物理学の本をいろいろ出していることがわかった。その彼のエッセーを、ぼくははじめて読んだ。

まず、その話からすすめたい。ロバート・オッペンハイマーは詩人でもあったというので、ぼくには格別の興味をもったのである。

オッペンハイマーは、1925年ハーバード大学に入学し、それから3年後には最優秀の成績で卒業し、しばらくイギリスで過ごしたのち、ドイツのゲッティンゲン大学で博士号を取得した。――それはいいのだが、イギリスではみずからの性的欠陥について事こまかく友人と語り合い、自分は同性愛者であることに悩んでいると訴えた。そのときの話がもつれて、ファーガソンという仲間の首を締め、問題を起こしてしまった。

ゲッティンゲン大学では、理論物理学者のマックス・ボルンに師事した。彼はわずか23歳で博士号を取得している。そのボルンによれば、

「彼はすばらしい才能の持ち主で、本人もそれをじゅうぶん自覚しているのだが、その自覚の表現が、これまたじつに厄介なもので、よく問題をおこした。わたしの量子力学セミナーで、オッペンハイマーは、たびたび発言者の意見をさえぎって、だれかれかまわず、自分の考えを主張した。わたしの話までも、よくさえぎって途中で自分の意見をいう始末だった。そしてあるときは、黒板にむかうと、チョークを持って、こういうのだ。《これはこうやったほうがずっといい!》と。いつしか、彼の振る舞いが目にあまるようになり、セミナーの学生たちは、彼の態度をあらためさせるよう嘆願書を出したりした」と。

そのころ、――つまり1926年ごろ、――量子力学は、エルヴィン・シュレーディンガーと、ボルンの弟子だったヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・A・M・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac, 1902 年-1984 年、イギリスの物理学者)によって生み出されていた。

そして翌年の1927年、ディラックが客員教授としてゲッティンゲン大学をおとずれ、たまたまオッペンハイマーが間借りしていた医師の家に下宿した。

ラディックは25歳、

オッペンハイマーは23歳。ふたりは友人になった。

「量子論の育ての親」と称されるデンマークの理論物理学者ニールス・ボーア(Niels Bohr) のにはおよばないものの、ラディックはそのころ、早くも偉大な物理学者だった。彼はひじょうに寡黙な青年だったが、たまに口をひらくと、異様なほど物事を的確にしゃべった。それがおうおうにして相手を打ちのめしてしまった。

これにはオッペンハイマーも、かなりの影響を受け、彼がボルンのセミナーをさえぎって、量子力学の計算では、自分のほうが上だと宣言していたころ、わずか自分より2歳年上のラディックは、その学問を生み出していたことにオッペンハイマーはおどろき、尊敬の眼差しをむけるようになった。

ある日、ふたりがゲッティンゲン大学の庭を散策していたとき、オッペンハイマーの詩作の話になった。

彼はすでに「ハウンド・アンド・ホーン」という雑誌に詩を発表しており、その話をしていた。そこでとつぜんラディックは、彼の話をついで、こういった。

「――きみは、よく詩を書いていて、物理学のほうも、よくできるものだね。物理というのは、未知の事象を解明し、人びとに理解させるものだ。いっぽう詩は、……」といいかけると、オッペンハイマーがそれを制して、何かいった。

何をいったのか、それはわからないが、その話のつづきを聴講生にあてさせるということをおもいついたらしい。このエピソードを書いたジェレミー・バーンスタインもまた、物理学者であって作家でもあった。

彼はおかしなことに、物理学の研究に没頭する学者の世界を嫌い、やがて作家になりたいという熱望が勝って、広告代理店での高収入の仕事に見切りをつけ、妻には一年分の猶予をもらい、貯金で暮らしながらひたすら本を書いた。そして、オッペンハイマーが詩を書いていることに興味を示すようになったのである。

いまではバーンスタインの名は、物理学者としてよりも、作家としての名声がずっと大きいだろう。

その彼がいっているように、「スペンダーにとってのW・H・オーデンは、オッペンハイマーにとってのディラックのような存在だったにちがいない」というのだ。偉大であることと、「ただ優秀なだけ」のちがいを、つねにおもい出させるエピソードとして、ぼくはおもしろいとおもう。

オッペンハイマーも、スペンダーも同様に、「焦点の定まらない」ところが魅力である。

オッペンハイマーは、あるときはユダヤ人、あるときはホモセクシュアル、あるときは共産党員、あるときはイギリス体制派の重鎮として振る舞った。

そして、きわめてエキセントリックなW・H・オーデンとラディックだが、ともにふたりは孤高の道を選んだ。歴史の歯車は、より孤高なオッペンハイマーの稀有な才能を見込んで、原爆製造という、ニューメキシコ州ロスアラモス研修所の所長のポストを与えられ、いまわしい仕事に手を染めることになったのである。彼は孤高の最たるものだった。

そのころのスペンダーの日記には、オッペンハイマーのことが縷々(るる)つづられているという。

「オッペンハイマーは美しい屋敷に住んでおり、中はすべて白く塗られていた。……彼はすばらしい絵画を所有している。わたしたちが家に入ると、彼はこういった。《さあ、ゴッホを見る時間だ!》といって、リビングルームに招き、そこにはみごとなゴッホの絵がかかっていた。ほぼ完全に夕闇につつまれた太陽が、畑の上に描かれている絵だった」という。

そして、

「オッペンハイマーは、これまで出会った人のなかでも一、二をあらそう際立った容貌をしている。頭の形は幼くて聡明そうな少年にようで、後頭部が突き出ていて、わざと長く形を変えた頭蓋骨をおもい出させるものだった。頭の骨は、たまごの殻のように壊れやすそうに見え、それを、かぼそい首が支えている。表情は晴れやかであると同時に、苦行僧のようでもある」

そのオッペンハイマーが国家への忠誠心を問われて、裁判にかけられ、国家機密関与資格を剥奪されていながら、それについてのコメントは一切なく、オッペンハイマーの告発者のひとりが、妻キャサリン・ペニング・オッペンハイマーのかつての夫はジョセフ・ダレットだったというのである。おそらく嫉妬だろう。

ダレットは共産党員で、1937年、スペイン内乱で共和国政府軍の側について戦い、やがてそこで戦死を遂げている。

いっぽうスペンダーは、1937年ごろにはイギリス共産党員であり、スペイン内乱にも参加している。オッペンハイマーは、それらの事実を知っていたかどうかは、わからない。

ある日、プリンストン高等研究所に、ラディックがやってきた。

当時、彼は50代半ばだった。

ラディックは物理学界では特異な地位を占めていた。アインシュタインとはちがって、相変わらず物理学の動向に事こまかく通じていて、さまざまな見解をのべている。彼はアインシュタインと同様に学派をつくらず、ひとりの弟子も持たなかった。

「物理学における真にすぐれたアイデアは、ひとりの人間の頭脳にやどる」といっていた。

そのころ、高等研究所では、週に一度のわりで、セミナーがひらかれていた。主催者はオッペンハイマーだった。

ある日、40人ぐらいの小さな部屋で、講義をしていると、途中からディラックが入ってきた。そのときの人間で、ディラック本人をじっさいに見た者は、オッペンハイマーをのぞいてひとりもいなかった。実物は、このエピソードを書くジェレミー・バーンスタインの度肝を抜いた。実物のほうが、ずっとすごい! とおもわせたからだった。

上から下まで青ずくめの服、――ズボンもシャツもネクタイも。――たしかセーターもだ。泥だらけのゴム長靴。そんないでたちだったらしい。斧を手に、研究所の森に入り、長時間かけて小道をつくっていたらしい。しばらくおとなしく席についていたが、しばらくして、ラディックはこういった。

「世間では、これを物理学というのかね?」と。

講義をしていたオッペンハイマーは、どうおもったか、それはわからない。ぼくは、このくだりを読んで、ふたたび「ガリレオの指」のことをおもい出した。ラディックの恐るべき才覚は、聴講者全員を釘付けにさせたという。

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904 年-1967年)は、ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第2世界大戦当時、ロスアラモス国立研究所の所長として「マンハッタン計画」を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトのリーダー的役割を果たし、「原爆の父」として知られるようになった。

オッペンハイマーは、「我は死神なり、世界の破壊者なり」といった。

原子爆弾が人にたいして使われ、数10万の日本人が亡くなったことに、猛烈なショックを受けたのは、オッペンハイマーだけではなかった。「マンハッタン計画」に関わった科学者たちは、戦後、ノイローゼになり、自分の輝かしい業績を封印した。

オッペンハイマーは、その贖罪の意識にとりつかれ、「日本人に深くお詫びし、死をもって償いたい」と自死を遂げたと報道された。自死はしなかったが、オッペンハイマーは戦後、反戦運動に転じた。国家に反逆したカドで、危険人物としてFBIの監視下に置かれ、私生活も、つねにFBIの監視下におかれるなどして、生涯にわたって抑圧されつづけた。

咽頭がんの診断のもと、手術を受けたのち、放射線療法と化学療法をつづけたがその効果はなく、1967年、昏睡に陥ったオッペンハイマーは、ニュージャージー州プリンストンの自宅で、62年の生涯を閉じた。

馬にょうべん引っけられた日

(改定)

ぼくの話を聴いてくれたひと

 

 

だれもいない美術館のホールで。ピアノの向こうにいるのはヨーコ

 

ぼくは、大きくなってから親の膝下を離れるのが苦もなくできた。たぶん母親の血を引いているのだろう。津軽海峡を渡って東京に出てこようというのが、そうだった。大胆な行動に出ることも、ほんとうは熟慮のすえに決断するはずだけれど、お父さんの場合は、それがしばしば違った。

これは、母親の気質をつよく受け継いでいる証拠だ。父親の血をすこしでも引いていたら、ちゃんとした橋もおそらく渡ろうとしなかったかもしれない。

これは、理詰めで理解できる性質のものじゃない。

女というのも、理詰めでわかり合える性質のものじゃないと、だれかが書いていた。

「女はどこまでもただの女、だがいい葉巻は、煙になる(A woman is only a woman, but a good cigar is a smoke.)」といったのは、イギリスのラドヤード・キプリングだが、これはただしむずかしいことばだ。

キプリングはインドで生まれ、何事もヒンディー語で考えた人というから、おなじ東洋人とはいえ、なかなかむずかしいことだ。が、彼には忘れがたい、風変わりな詩がある。

 

 皮がめくれるまでお前を殴ったこともあった

 しかし、お前を造った神にかけていおう

 お前のほうが、おれよりはるかに優れた人間だよ、ガンガ・ディン!

 Though I’ve belted you an’ flayed you

 By the living Gawd that made you

 You’re a better man than I am, Gunga Din! 

 

「ガンガ・ディン」というのはインド人の名前。ガンガ・ディンと別れるときに感謝のことばとして、このような詩を贈っているんだよ。これは「兵営譚歌」と題された彼の詩集に出てくる詩の一節。

その彼が、「女という種族は、男よりはるかに度しがたい(The female of the species is more deadly than the male.)」ともいっている。

キプリングの生涯に何があったのだろう、と考えてしまう。

詩人も作家も、作品のなかにそっと肝心なことを書いているものだ。その多くは、その人物の性格とは切っても切れない性質のものだ。原文は引かないが、シャーロック・ホームズものにもちゃんとある。たとえば、こういう文章だ。

 

東京都美術館にて

 

 「昨夜の、犬のようすがどうもおかしい」

 「犬は何もしとらんぞ、夜中は!」

 「そう、それがおかしいんですよ」と、シャーロック・ホームズが言った。

 

じつに、その先をぜひとも読んでみたくなる文章だね。

つまり、侵入してきた男は、犬がちゃんと覚えている人間だったから吠えなかったというわけだ。

そのように推理するホームズの判断はみごとというしかない。

これは作者の才能というよりも、生まれ育った幼いころの養育のたまものといえるかもしれない。学校で習う勉強じゃなく、日常生活の観察から生まれたするどい経験だろう。

またまたシェイクスピアだが、彼は「恋の骨折り損」というドラマで、「honorificabelitudinitatibus」という長ったらしい単語を使っている。

こんな英語はない。いくらになんでも……、というところだが、これはラテン語であり、並べかえると「Hi ludi, F. Baconis nati tuiti orbi(これらの戯曲はF・ベーコンの作品であり、世の人びとのためにある)」という意味になるらしい。

ついでにいえば、これは、博学なサー・エドワード・ダーニング・ロレンスという学者が唱えた説だよ。シェイクスピアはラテン語が読めた。それは明らか。なんとなく英語っほい 「お気をつけなさい、将軍。嫉妬というヤツに。

 

 「お気をつけなさい、将軍。嫉妬というヤツに。

 こいつは緑色の目をした怪物で、人のこころを餌食にし、

 それをもてあそぶのです」

 

「オセロ」ではそういっている。

嫉妬――お父さんもいろいろと、あきるほど嫉妬してきたけれど、嫉妬だけでがんばってきたようなものだ。「オセロ」というドラマはやきもちで身を滅ぼす男の話だが、このシェイクスピアという男については、むかしから謎がいろいろありすぎる。

お母さんが交通事故に遭った年の初夏、平成11年5月25日、お父さんといっしょに千葉の「シェイクスピア・カントリー・パーク」へ行ったことがある。大雨の旅だった。

館山で、てんとう虫みたいな可愛いレンタカーを借りて、雨のなかを走った。ワイパーを作動していても前が見えないくらいの大雨で、そのときの話はすでにしゃべったから、ここでは書かないけれど、ちょっとまえの出来事さえも、忘れてしまっている。

平成11年のことなど、60年前の出来事とおなじように、みんなかすんでしまっているんだよ、お父さんには。だから、これから書くお父さんの小説を読んで、むかしをおもい出してほしいとおもっている。

お父さんの書く小説は、ふつうとはちょっと違っているかも知れない。それはそうだろう。この詩文みたいな文章なのだから。……詩行には感動するというシーンもない。それでいて、登場人物の心理はみっちりと書くつもりだ。お父さんは文体を重要視する。ときどきおなじ原稿を口語体に書き直してみたりしている。例をあげると、たとえばこんな具合に。――

 

ふり返るのは、もう止そうとおもうんだ。だってそうだろ、きみがいってたように、むかしのことなんかおもい出してみても、しょうがないじゃないか。きみのいうとおりさ。

だから、ぼくはもうおもい出すことなんかしたくないのさ。むかしのことはね。だが、いっておくけど、いまぼくの頭のなかにある風景は、消すことはできないんだ。それだけは忘れないで欲しい。

きみはいったね、「カラス麦畑へ連れてって」って。だから、ぼくはいつかそこへきみを連れていくよ。それは約束だからね。そのカラス麦畑は、ここにはない。

遠いところにあるんだ。

ぼくの頭のなかにさ。おもい出してごらんよ、ほら、見えるじゃないか。小麦色した、たわわに実るカラス麦畑だよ。穂先がつんつんしてて、近づくとぼくらを突っつくんだ。イネみたいに、つんつんしているけど、農場の平野にはどこもイネの穂がうねっていて、どこもかしこも太陽にあたって、きらきら夏の陽射しを浴びているんだ。

それは平野の農場だよ。

ずっと平野の向こうの小高い丘の畝(うね)には、カラス麦畑があってさ、郭公鳥(かっこうどり)が鳴いてさ、ぼんやりした朝日のなかで、山から平野に降りてきた霧があってさ、川には水鳥たちが騒いでいて。――ほら、ぼくらがあぜ道を歩いてのぼっていったあの丘だよ。

せめて、きみをそこにだけにはいつか連れていってやりたいとおもってたんだ。

――きのうぼくは映画を観たよ。ビデオだけどね。「マイ・フェア・レディ」っていうんだ。きみも知ってるだろ、イギリスのコヴェント・ガーデン。野菜市場と劇場があったところが舞台なんだ。もうそのときのようすがすっかり変わってた。

映画にヒギンズ教授というのがあらわれて、花売り娘のやぼったいことばを標準語に矯正(きょうせい)する話なんだ。「矯正」なんていうことばもそこでおぼえたのさ。

これって、もともと本になってたものを映画にしちゃったらしいんだ。

もとの本は、「ピグマリオン」というらしいよ。The rain in Spain stays mainly in the plain.――スペインの雨は、おもに平野に降るっていうんだけど。そいつを、なんどもしゃべって、だんだんちゃんとした英語でしゃべるんだ。だから、ぼくもそいつをおぼえちゃったよ。

これを蝋燭(ろうそく)の炎のまえで、そいつを消さないでなんども発音するっていうわけ。オードリー・ヘップバーンとかいう女の子が、かっこうよく口を尖らして、抑揚をつけてしゃべるんだ。すると、ぼくにも英語が話せるような気がしてきたんだ。やってみたよ、じっさいになんどもね。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

それに、ピグマリオンてやつは、ふしぎなやつなんだ。自分でつくった象牙の像に恋するんだって。わらっちゃうよ。

「恋する」なんていうことばは、ぼくらはぜったい使わないけど、むかしの人は、古典的に「恋する」とかいってるんだよ。ぼくにもわかるよ、その気持ちは。

そういうことってあるからさ。だれにもいわないけど、ぼくの頭のなかにある人物が好きになるってことがあるんだ。もう死んじゃってるやつだけどね。

教授も花売り娘に恋しちゃったのかどうか、もう忘れてしまったけどね。というのは、ぼくは、映画の途中でよく眠るからね、そこはよくわからないんだ。それぐらい退屈な映画だったってことだけどね。ナターシャって、きみの名前のことだけど、これはロシア名だろ? 日本名はなんていったっけ?

ぼくはきみのことを「お姉ちゃん」と呼んでたから、もうわからなくなった。北海道にはロシア人がたくさんいたしね。

ナターシャみたいな女の子が、年寄りにかわって、子守りをしているところをちゃんと見てるんだ。きみもそのひとりだったけど、きみのヘアはブロンドで、ヘアが黒くないのに、きみだけはいじめられなかったね。いじめられてるきみを、ぼくは見たことがないんだ。

どうして?

 

――というような書き方。

おまえに「カラス麦」なんていっても知らないだろうとおもうけれど、オクスフォード英語辞典の前身だったサミュエル・ジョンソン版の辞典では、カラス麦は「イギリスでは馬が食べるが、アイルランドでは人間が食べる」と書いてあるんだ。これは有名なエピソードだからちゃんと覚えている。

北海道じゃ人間の食料になっていたんだ。馬にはもったいなくて食べさせないやつだ。そのかわり、カラス麦に似た燕麦(えんばく)を少量与えていた。

燕麦はもともと人間の手でカラス麦のなかから交配・進化させてきた寒冷地用の植物なんだよ。カラス麦の、枝分かれした子孫ということかな。

人間は燕麦なんか食べない。もともとカラス麦は、どこにでも自然に生えているもんだ。たぶんイネといっしょに渡来したものだろうけどね。いまじゃそんなものにだれも見向きもしない。ふつうの雑草になっちまった。

北海道には一時は15万頭もいた馬が、現在はすっかりいなくなった。おかげで燕麦というのも見かけることがなくなった。

お父さんがやわらにいたころは、北海道には15万頭もの馬がいたんだよ。

戦争時は、軍馬として徴用されたりして。ふだんは田んぼに引っ張り出して、代掻(しろか)きという苗代(なわしろ)作業もやった。田んぼにイネの苗を植えるので、土を水で練ってやわらかくするんだ。馬は、歩きながら尿便をたれる。それが運悪くメス馬なら、うしろで作業をやっているお父さん目がけて頭から引っかけるんだよ。寒くても、あったかい尿が、とつぜん降ってくるってことだ。

馬を責めてみてもしかたない。――カラス麦は、その名のとおり「カラスが食べる麦」という意味で名づけられた植物らしいだけれど、もうこれは雑草になっちまった。

お父さんのおじいちゃん、おばあちゃんたちは、その非常食を主食にして暮らしていたわけで、北海道がいかに立ち遅れていたか、うたた感慨を禁じえないというわけだよ。

13時50分発幌行き街道

 

ぼくは羽田発の午後の便で札幌ゆきのANA、ボーイング777を予約していました。その日ぼくはちょっと早めに出かけ、羽田で腹ごしらえをし、大急ぎで友人に手紙を書き、5月18日からはじまる、所沢で開かれる「第20回国際バラとガーデニングショウ」の招待状を送りました。そして、これから札幌に向かう話をつづり、運がよければ砂川で恩師に会うつもりです、と書きました。

機内はけっこう混んでいて、ぼくは前列の通路側の席に座りました。

そのときカバンのなかに持ってきた本は、ニコルソン・ベイカーの「もしもし(Vox)」(岸本佐知子訳、白水社、1995年)という本で、もう一度読みたくなったのです。

この種の小説を紹介してくださったのは、大学時代の中田耕治先生でした。先生はヘミングウェイの初期の短編をほとんど翻訳されています。以来、中田耕治先生とは御茶ノ水の喫茶店でコーヒーを飲みながらヘミングウェイの話を聴いたものです。

 

アンブローズ・ビアス「アウル・クリーク橋でのできごと」

 

むかし文学部の教室で中田耕治先生の講義を受けていたころ、「ヘミングウェイみたいに」ということばをよく聞きました。ヘミングウェイみたいに、敗者には真心こめて尊敬のまなざしを向ける、ということば。「老人と海」に出てくる男は、マカジキとの格闘の末、ようやっと、やつを仕留めます。そしてマカジキのことを考えます。人間の価値は、マカジキのように絶望的な敗北を前にして、いかにふるまうか! 老人は、マカジキの覚悟をおもい知るのです。

そんな話をしながら、中田先生は教室でも、たばこを吸います。灰皿がなかったので、水の入った花瓶を灰皿がわりにしていました。

そのころは嫌煙権というものもなく、駅のホームにも、列車のなかにも、ちゃんと灰皿というものがありました。教室に灰皿がもしもあったとしても、ふしぎではありません。で、ぼくは数年まえ、ニコルソン・ベイカーの「もしもし」という小説を読んで、こういう小説はおもしろいな、とおもいました。ニコルソン・ベイカー(Nicholson Baker)は、1957年生まれの68歳。ぼくよりひとまわり以上若い。

 

「いま何着てるの?」と彼は訊いた。

「グリーンと黒の小さな星がついた白いシャツでしょ、それに黒のパンツ、グリーンの星と同じ色のソックスと、9ドルで買った黒のスニーカー」と彼女は言った。

「いまきみがどんな風にしてるのか、知りたいな?」

「ベッドの上に寝っころがっているところ。ベッドは珍しくメイクしてあって、これは今朝やったの。何か月か前に母が送ってくれた、昔うちで使っていたようなシュニールのベッドカバーがずっと新品のままで、何だか申しわけないような気がしていたんだけど、今日の朝になってようやくそのカバーでベッド・メイクしたの」

ニコルソン・ベイカー「もしもし(Vox)」より

 

中田耕治先生

 

――こんな書き出しではじまる「もしもし」は、米の作家ニコルソン・ベイカー中期の作品です。彼の作品はひじょうにショッキングな小説が多くて、いつもびっくりさせられています。

それもむかしのことです。

いま彼は、何を書いているのか、ぼくにはわかりません。初期の傑作「中二階」という作品はすごかったなとおもいます。

ひとりの男がエスカレーターをのぼっていく。ただそれだけの話なのですが、のぼった先で何か起きるのか、とおもうけれど、何も起こりません。

多くの読者は、きっと何か起きるにちがいないとおもって、先を読みすすむわけですが、いっこうに事件らしい事件も起きず、文章はたんたんと書かれていて、それなのに、息もつかせずスリリングな物語を読まされるというわけです。

これって、米短編作家の泰斗アンブローズ・ビアスじゃないけれど、彼の「いのち半ばに」に描かれているような、戦慄と戦いに明け暮れるある南部の兵士が処刑される瞬間を描いたものと、その戦慄の部分だけは、なんだかとても似ているような気がします。

一瞬を切り取って、あるものを、迫撃砲のように標準をさだめて狙い撃ちする処刑のシーン。それは非日常の世界を描いた物語なのです。

処刑される男は、足元に流れる川を見て、おれはきっと生き抜いてみせるぞ! とこころに誓います。

「ねらえ!」の号令のあと、すこしたって、

「撃て!」の号令が発せられます。

そして、銃殺刑が完了するまでのほんの一瞬、彼は橋の踏板を蹴って、川にとび込みます。

後ろ手にされた男は、そんなことはどうでもいいとばかりに、水深くもぐり込み、息をこらえて泳ぎます。そして、どんどん泳ぎ、男はふるさとを目指して泳ぎきります。

そして岸にあがり、林のなかを一目散に走り、何日もかけて彼はふるさとにたどり着きます。

そして、わが家で妻の姿を見て、おーい、と声をかけます。

妻は振り返ります。妻に抱き着こうとした瞬間、――彼は銃殺刑にあうという物語なのです。

こんなに短い小説なのに、男の生きようとする本能は、まるで永遠の一瞬のように頭のなかに去来します。去来した物語だけを描いた小説。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋でのできごと」は、ぼくには忘れられない小説です。

原書でも読みました。

この「中二階」も、はらはらどきどきがあり、それでいて、とてもユーモラスで、巨大なビルの中二階のオフィスに行こうとしている、ごくふつうのひとりの男の話なのです。

昼食のついでに、近くのコンビニエンスストアで、靴ひもを買い、ふたたびオフィスに戻っていく。そのオフィスにあがっていくほんの数10秒のあいだ、彼の頭によぎる出来事を描いたものです。ぼくは、この小説を読んで、それから20年もたってから、「晩生内まで」という小説を書いてみました。

北海道の晩生内(おそきない)は、国道275号線にそった小さな街ですが、冬場、クルマのオイルが抜けてしまい、晩生内で立ち往生しているという男を、クルマで迎えに行くという話を書きました。

そうして、運転しながら、「ぼく」は、むかしのことをいろいろ想いだすというストーリーなのです。書いてしまうと、ニコルソン・ベイカーとは似ても似つかぬ小説になりました。

ニコルソン・ベイカーらしいなと気づかされるシーンは、いろいろあります。

人生を形づくっているものといえば、かなりの割合で、じつに細やかで、じつにあほらしいほどの些末な出来事や、モノの手触り感や、生活の手触り、――テクスチュアにいたるまで、――あらゆるモノに拘りながら、ああでもない、こうでもないといいながら何かをその都度決めずにはいられないのです。

たとえば、靴ひもが切れる原因について、ホッチキスのデザインの変遷について、ファーストフード店のストローが、紙からプラスチックに変わって不便になった話とか、牛乳の紙カートンのすばらしい機能性や、トイレの便座が家庭用はО型なのに、なぜオフィスではみんなU型になっているのだろうかとか、ミシンを発明した人は天才であるとか、……まあ、そんな話がえんえんとつづられていくわけです。

――これが「中二階」を読んだときのぼくの感想です。

小説「もしもし」の原題の「Vox」というのは、ラテン語で「声」という意味です。vox populi vox dei 「天声人語」でおなじみのことばですね。神の声、すなわち人の声。

で、フィクションではない現実の話は、じつに退屈なもので、こまごまとした、バカらしいほど些細な日常の縫い目の連続で、これこそが現実なのだとあらためて気づかせるというわけです。ニコルソン・ベイカーという作家は、作品から物語性というものをすっかり追い出してしまった、そういえるのではないかと。

さて、ぼくは本を閉じて、少し眠ろうとしていたら、隣りのシートに座っていた女性から声をかけられました。

「あのう、すみません、アテンダントの人、ちょっと呼んでいただけませんか?」というのです。

「ちょっと寒いので、お腹に当てるものを」といっています。

彼女のお腹は大きく膨らんでいました。臨月とはおもいませんでしたが、それに近いように見えました。ぼくは近くにきたフライト・アテンダントに声をかけました。すると、彼女は「お腹が寒い」といったのです。

「しょうしょうお待ちください」といい、ぼくのほうを見て、

「ご主人さまは、いかがですか? だいじょうぶですか?」ときいたのです。

「ぼくは、この人のご主人じゃありませんけど、ちょっと寒いですね」といいました。彼女は、にこっと笑みを浮かべ、折りたたんだ毛布を2つ持ってきました。

これで眠れそうだ、とぼくはおもいましたが、見知らぬ妊婦と隣り合わせになって、なんだか眠れなくなりました。彼女は札幌の人だろうか? とおもったり、夫の待つ北海道へ帰るのだろうかとか、余計なことを考えはじめました。彼女は30代に見えますが、じぶんが彼女の連れ合いと間違われたことに驚嘆していました。ぼくは帽子をま深くかぶっていたので、わからなかったのかもしれません。

まるで小説「もしもし」のつづきのようにおもわれ、ぼくはひとり笑いをしました。

「もしもし」は、彼の4作目にあたるそうですが、寡聞にしてぼくにはくわしいことは分かりませんが、がらりと趣きを変えて、そこにはふたりの男女が登場します。

アダルト・パーティ・ラインで出会った一組の男女がおたがいの声に惹かれ合い、「奥の個室」と呼ばれる1対1のラインに移動して、えんえんとことばの遊戯を繰り広げる、という小説です。

――ぼくはラインは少ししかやりませんが、スカイプをやった経験があります。そこでは「会議」と呼ばれる仲間のひとりの紹介で、スカイプに加わったことがありました。けれども、夜中のためか、10人いれば、うち1、2人は眠っていたりして、おもしろいとはおもえませんでした。だいたいいつも1対1でやります。まあ、それと似ているかもしれません。

「いま何着ているの?」からはじまって、最後にヘッドセットのスイッチを切るまでが、リアルタイムで克明に描かれていきます。小説みたいに、説明の部分は少しもなくて、そこはとってもリアルです。ふたりは大学を出ていて、「隠しごと」はいっさいしないというルールを取り決めてやり合うわけです。

ふたりの会話は、セックスのまわりをぐるぐるまわって、ときどき脱線したり、別の方向に話がすすんだりしながら、

「20分ぐらいかけて、少しずつ明るくなっていくんだ。いまはまだうんと深いオレンジ色の光だ。もちろん、こんなにあくせくした毎日じゃ、めったに眺める機会はないけれど、でもたまに見ると、本当に美しいと男う。あんまりゆっくりした変化なので、光の強さが増してだんだん明るく輝いて見えるのか、それとも空が暗くなっていくせいなのか、わからない――もちろんその両方なんだけれど、どっちが主でどっちが従なのか判別できない。そしてある一瞬、たぶんあと5分ぐらいしたら、街灯の色と空がまったく同じ色、あのグリーンとスミレ色と黄色を混ぜあわせたような色になる瞬間がある。すると、通りの向かいにある街樹の葉のなかのその部分だけぽっかり穴が開いて、その向こうに空がのぞいているように見えるんだ」

――こういう会話がたくさんあって、えんえんとつづきます。

これは、ことばを使った一種のゲームのようでもあり、ことばだけで、おたがいに刺激し合い、「仮想愛」をつくりあげていく。

「もしもし」はまぎれもなくセクシーな小説ですが、それは、「セクシーであるように」という意味なのでしょう。どう見ても、そこには仮想ゲーム以上の発展はありません。それはそうでしょうとも! ふたりは顔を突き合わして会話をしていても、けっし手で触れることもできないわけですから。

ストイックなまでの展開なのです。そういうストイックなものがあればあるほど、気分はよりセクシーになる、というのでしょうか?

やがて千歳空港に着いて、ボーディング・ブリッジを歩くとき、ぼくは彼女の荷物を押してあげました。そこから札幌に向かう電車のなかでもぼくらはいっしょでした。

彼女はこれから幌内に向かうのだそうです。ゴールデン・ウィークを利用して、夫の田舎に少し遅れて向かうのだそうです。

はじめての子供が生まれるのが嬉しいという話を聞きました。彼女の幸せそうな顔を見て、祝福したくなったものです。

「いつ生まれますか?」ときくと、

「来月の予定です」と、彼女はいいます。ああ、この人は心底から幸せなのだなと、ぼくはおもいました。そしてお互いの人生のほんの束の間、ぼくとことばを交した。もうふたたび会うことはないのだ、とおもいました。お別れするとき、

「いろいろ、ありがとうございました」と彼女はあいさつしました。それは、巨大な未来の壁に立ち向かう永遠の「声」のように聞こえました。

ある逅。弁護士・木ひろし先生との出会い 2

 

正木ひろし「裁判官――人の命は権力で奪えるものか」、カッパブックス、1955年。

 

ぼくは橋本忍という稀代の脚本家を知り、この人のドラマづくりに圧倒されたことがある。八海事件を描いた映画「真昼の暗黒」には、無罪をいい渡されるシーンはない。

「まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」

と、阿藤周平が拘置所の金網にぶら下がって叫ぶところで映画は終わっている。

映画では阿藤周平役には草薙幸二郎、その婚約者役には左幸子、正木弁護士役には内藤武敏、被告の母親役には北林谷栄、捜査主任役には加藤嘉というキャスティングで制作された。

最初、橋本忍がつけたタイトルは「白と黒」だったが、ハンガリーのジャーナリストで作家のアーサー・ケストラーの小説「真昼の暗黒」を借用することになった。

資料によれば、ケストラーの「真昼の暗黒」は、1940年に発表され、スターリン体制のソビエトで拷問による自白強要、粛清の惨状を生々しく告発したものだった。

主人公のモデルはブハーリン。

彼は、スターリンによって粛清されたソ連の政治家である。タイトルはミルトンの詩「闘士サムソン」の1節、「ああ、暗い、暗い、暗い、真昼の炎の中にいても……」から取られた。

ケストラー自身もスペインでフランコ軍に捕らえられ、死刑判決を受けた経験を持つだけに、迫真の心理描写で書かれているようだ。ウソの自白によって死刑にされるという点は、八海事件にぴったり当てはまる。

原作は、正木ひろし氏のベストセラー本「裁判官――人の命は権力で奪えるものか」であるが、この本は、1951年に単独犯だった犯人が罪を軽くすることを目的に、知り合い4人を共犯者に仕立てた冤罪事件である八海事件を扱ったノンフィクションである。

監督の今井正は、この本をもとにして映画をつくった。

完成した「真昼の暗黒」は、東映系で上映されるはずだったが、係争中の裁判をテーマにした映画の公開は好ましくないという理由で、最高裁判所は東映に対して上映しないように圧力をかけた。

他の大手も同様に配給を断り、「真昼の暗黒」は大手配給網から完全に閉め出された。さらに、最高裁は直接プロデューサーの山田典吾や今井正監督を呼び出し、制作を断念するように迫ったという。だが、屈しなかったのである。

シナリオは、橋本忍氏がもっとも得意とするカットバック方式が豊富に盛られていて、先に法廷の描写からはじまり、その証言の際にカットバックで犯行を再現する手法がとられている。これはのちに、松本清張原作の「霧の旗」(山田洋次監督)でもさかんにカットバックが使われた。

おもしろいのは、映画「真昼の暗黒」では、正木ひろし弁護士の反対尋問のなかで、検察側の主張によれば、こんなふうな犯行になるはずだが、果たしてこんなことがあり得るだろうかと述べるシーンがある。

犯人とされた5人が集合場所から犯行現場まで、まるで陸上部のロードワークのように走りながら、おまえは羽目板を外せ、おまえは家人を殴り殺せと役割を分担させる。犯行現場では5人が、コマまわしのように、ユーモラスに動きまわりながら人を殺し、周囲を物色をする。

それでも間に合わない。

最後のひとりは、「忍術のかっこうで飛んでいくしかないではないか!」と弁護士が主張すると、カットバックシーンの犯人はいきなり忍術のかっこうをしてパッと消える。

すぐに法廷場面に切り替わり、傍聴席の爆笑を写す、という具合である。それでも判決は死刑だった。

理不尽な判決に対してラストシーンで、主役の阿藤周平が拘置所の金網をつかみながら、面会室から去っていく母親に向かって、

「おっかさん、まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」

と叫ぶシーンは、裁判の不条理を劇的に表現しているとおもう。

のちに阿藤と結婚するまき子さんも、この映画を見て感動したひとりだったという。――とうじ、まき子さんは富山県の紡績工場に勤務していた。

映画を見たあと原作の正木ひろし弁護士の「裁判官」という本を読み、広島拘置所に励ましの手紙を書いて、ふたりの文通がはじまった。

また五番町事件という殺人事件の犯人が、この映画を見て、五番町事件でも別の人が有罪とされていることに良心の呵責を感じ、真犯人として自首するという珍事も起こった。

この事件では、担当の検察官が辞職に追い込まれた。

「真昼の暗黒」は、キネマ旬報でベストワンに輝く。

橋本忍氏の、はじめての快挙だった。これは、単独脚本での初の受賞作品となった。阿藤周平は、無罪判決のあと、はじめてこの映画を見ている。

阿藤周平ら4人の人生をめちゃくちゃにした真犯人の吉岡晃は、その後どうなったのか。彼は無期懲役だったが、服役態度がよかったので、17年目に仮釈放となった。

「吉岡はもう死にましたよ。亡くなって、もう10年以上になります。吉岡は無期懲役になって17年目で出所しました。わたしが無罪になったあと、一度謝りに来たことがあるんですよ。

わたしは当時、小さな運送会社を経営していて、事故で大怪我をしましてね、危篤状態になりました。そのとき吉岡が、病院に弁護士先生といっしょに来ましてね、たぶん、わたしが死ぬと思って、そのまえに謝りたいと思ったんじゃないかな。でも、わたしは断りました。会う必要がないと」

それからしばらくして、吉岡が謝罪の記者会見をすることになり、広島まで4人全員と出向いた。「いまさら謝らなくてもいい。ほんとうに謝罪する気があるなら、警察といっしょになって、ずーっとウソの供述をつづけた内幕を、ぜんぶ世間に暴露しろ!」というと、

「そうします」といって吉岡はうなだれたという。それから吉岡は間もなく、結核で死んだ。じぶんの死期を知っていたふしがあるという。

今回は、橋本忍の代表作となった映画脚本「真昼の暗黒」を取り上げたけれど、おなじ正木ひろし原作の「首」という映画がある。

これも橋本忍の単独脚本だが、これは、ぼくがちょうど正木ひろし弁護士と出会った年に公開された。この映画の話も先生から聞いてはいたが、見る機会がなかった。むろん、「橋本忍 人とシナリオ」にはシナリオが載っている。森谷司郎監督、小林桂樹主演。

正木ひろし氏が戦中に手がけられた警察官による公務員特別暴行致死事件、――俗に「首なし事件」と呼ばれ、その顛末を書いた正木ひろし氏の「首」が原作である。

警察の暴行によって殺されたらしい被害者の遺体は、すでに埋葬ずみだった。

暴行の事実の立証を依頼された正木ひろし氏は、証拠である被害者の遺体を司法解剖するしかないと判断した。

しかし地元警察が目を光らせている。

現地ではとうていできそうにない。

司法解剖するなら、親しくしている東大法医学教室しか考えられないが、そのためにはまず遺体を掘り起こし、さらには首を切断した上で、東京まで運ばなくてはならない。いくら遺族の依頼とはいえ、果してそんなことができるだろうか。

逡巡する正木ひろし氏には、「おれの首を斬って、調べてくれ」という被害者の叫びが聞こえるようだったという。

正木ひろし氏は決断し、東大の法医学教室で解剖助手を務めている老人をともない、現地に向かった。

ヘタをすれば死体損壊の現行犯で逮捕されかねない。

正木ひろし弁護士は老人に指示して墓を掘り返し、首を切断して容器に入れ、満員列車に乗り込む。鉄道の臨検におびえ、異臭をあやしむほかの乗客に冷や汗を流しながら、東京へと向かう。

運ばれた首は東大法医学教室で福畑博士によって解剖され、ようやく、暴行の生々しい痕跡が明らかになるというストーリーである。

――それから、正木ひろし弁護士について、もうひとつ書きたい。

この人は、もともと画家を志望しておられた。その話はすでに書いた。これは、直接ご本人から聴いている。

「ぼくは画家になりたかった。東大法科と、東京藝大を受験したら、両方とも受かってしまった。親にかくれて絵描きになりたかったが、受験の年に親が死んだので、断念した」という。

「先生の絵は、すごいですね」というと、

「ぼくはこれを毎日ながめて、事件のことばかり考えて過ごすんですよ。絵のほうは、こういうことでしか用を足しません」という。

氏の2階の執務室に、八海事件の惨状が描かれた模造紙全紙の絵が、部屋中に貼られている。ぼくはその絵をつぶさに見たのである。

正木ひろし氏が亡くなられたのは昭和50年だった。

ある日、高島博士の医務室におじゃますると、正木さんが亡くなられたという話を聴いた。高島博士は、昭和55年、ぼくが札幌へ転居したとき、

「きみがいなくなって、さびしいよ」という手紙を頂戴している。それからのことは分からない。

ある邂逅。弁護士・木ひろし先生との会い 1

 

こんばんは。こん夜も古い話をします。

ぼくはそのころ、「センス」というグラフ雑誌の記者をしていました。

ぼくは法律にまったくくわしくありませんが、昭和43年、雑誌「センス」の取材で、弁護士・正木ひろし氏に会ったことがあります。

そこで奇妙なことに、正木先生に法律というものを教わったのです。教わるつもりがなくても、法律にあまりに無知なぼくを見て、先生は黙っていられなかったのでしょう。

ぼくは当時、正木ひろしという弁護士は、そんなに偉い人だとは知りませんでした。平凡社の百科事典にも名前が載る、恐るべき弁護士先生でした。

 

正木ひろし弁護士

 

ぼくは、法医学の高島博博士(元日大教授)の紹介で、正木ひろし氏と会うことができました。これもまた、奇妙な縁です。日大とはまったく無縁なぼくが、高島博士の勤務先に毎週のように通っていました。

おもしろい先生だったからです。

「先生、アリバイの原稿を書いてくださる先生を、どなたかご紹介いただけませんか?」といったのです。

すると、先生は正木ひろし氏を紹介してくださったのです。

そしてぼくは、大きなつくりの、四谷にある正木ひろし法律事務所を訪ねました。

「アリバイについての原稿ご執筆の依頼で参りました」といいました。

「ほう」といって、高島博士の書かれた紹介状に目を落とされ、

「どうぞ。……」といって、ぼくを2階の執務室に招き入れました。

2階に上がると、廊下や突き当りの執務室の壁に、模造紙全紙に殺人事件の犯行現場らしい絵が再現されたような大きな絵が、ところ狭しと貼られています。その絵はとてもリアルで、殺人現場のようすを克明に再現した、画家が書いたような迫力のある絵でした。

素人が描いた絵とはとてもおもえませんでした。

佳境に入る刑事事件を扱う弁護士先生の奇態な現場シーンを垣間見るおもいがしたものです。広い執務室には、だれもいなくて、正木ひろしさんは留守なのかもしれないとおもっていたら、小柄な男が、デスクの引き出しの中から名刺入れを取り出し、「正木です」といって自分に差し出したのです。

「先生ですか、たいへん失礼をいたしました!」といって、ぼくは頭を深々と下げました。すると、

「ぼくはいま忙しいんですよ。ご覧のように八海事件を担当しておりましてね、……あなたはこの事件のことを何か知っていますか?」と尋ねられました。

「いいえ、……」

「ぼくは、最高裁でこの事件の弁護をしなければならないので、多忙なんです。高島先生のご紹介ですから、お断りはしません。引き受けましょう。ですが、あなた、どうでしょうか、原稿を手伝っていただけるなら、引き受けましょう」といわれたのです。ウムをいわさぬ凄みがありました。

「はい」とぼくは承知してしまったのです。

「それじゃあ、……」といって、先生は立ち上がり、そして別室に隠れます。

ぼくはしばらく執務室のようすをながめていました。

先生の大きなデスクの上に、絵筆が乗っています。絵の具もあります。全紙大の模造紙の後ろは書棚になっていたけれど、なかにある本は、お堅い本ばかりです。デスクの上にはタイプで打ったような資料がいろいろ置いてありました。

やがて先生があらわれ、3冊の本をポンとデスクの上に置きました。そして、いろいろページを繰って付箋で印をつけていき、3冊とも閉じると、

「この付箋のついたページに、アリバイについての記事が載っています。これをよく読んで、換骨奪胎、まとめてくれませんか。それで、どうですか? 3冊ともぼくが書いた本です」といわれました。ぼくは面食らいました。

正木ひろし弁護士事務所を訪れて、手ぶらで帰ってくるよりはましだとおもい、ぼくは引き受けることにしました。しかし、ぼくには法律の知識はまるでない。自分の書いた記事に、正木ひろしという著名な弁護士先生の名前がつく。

とんでもないものを引き受けることになったとおもっていました。

ぼくは24歳、結婚したばかりでした。

「先生、ぼくは法律を知りません」といってしまった。すると、

「それはさっき聞きました。……きみが、文章が書けるかどうかです。1週間後、原稿を持ってきてほしい。ぼくが校閲します」といわれた。そして、さいきん先生が出されたという「裁判官」という本をいただきました。身が引き締まるおもいがしました。

オフィスに戻ると、それからは、3冊の本と格闘しました。ご著書の文意の流れを正確に理解するために、付箋が付されたページだけでなく、全ページ通読しました。すばらしい本でした。

これをグラフ雑誌の記事にするのです。

ページの写真構成はもう決まっていました。

当時、警察官友の会の会長をしておられた柳家金五郎さんとの企画で、両手に手錠を嵌められた人物の写真を載せることになっていました。顔写真は柳家金五郎さんのしかめっ面。そういうイメージ写真を想定していました。

手錠を嵌めたスーツの袖に、白いフォーマルのワイシャツの袖口を出し、ある紳士がある日、とつぜん緊急逮捕されるというイメージを訴求しました。その大きな写真の両脇と、3ページ目が記事のページになっています。

400字詰めの原稿用紙で12枚の分量。

「現実をフォトジェニックに」というのがこのグラフ雑誌のコンセプトでした。

書いた原稿の中身はもう忘れましたが、それを持って1週間後に先生の事務所を訪れたときの記憶が、ありありといまも脳裏に浮かびます。

正木ひろしさんは、この20枚の原稿を色鉛筆で真っ赤になるほど修正なさった。しかし、文章の骨格はいじらなかったのです。やおら2時間か、2時間半の時間を費やし、正確さにおいて比類ない文章に直されました。

直されたところは、法律用語でした。法律用語を使って書かれた箇所は、すべて直されました。正木ひろし氏がぼくに書いてほしいと期待したものは、法律用語をまったく知らない、ごくふつうの読者が読んでも分かる文章に書きなおしてほしいということだったのかも知れません。

そして、すべてが終わったとき、ぼくはえらく恥じ入った気分になりました。

正木ひろし先生は、おっしゃいました。そのときのことをおもい出して、以下、先生のいわれる法律の話を、ちょっとご紹介してみたいとおもいます。

「きみは、法律をどうおもうかね? きみは法律を知らないといったが、知らないではすまされない。その話をしたい」と先生はおっしゃり、「カルディアネスの板」の話をされました。

古代ギリシャのカルディアネスでの出来事です。

難破船から海に投げ出された船員は、漂流する1枚の船板につかまります。ひとりがつかまっているうちは沈まないけれど、ふたりがつかまると沈んでしまうという船板です。ふたりがつかまると、板は沈んでしまうので、ふたりの人間は、はからずも争いになり、ひとりは、まちがいなく殺されます。

「――だが、こういう殺人は、事件として罪には問われません。分かりますか? 刑事訴訟法の緊急避難にあたり、現行の国際法でも無罪とされます。人が人を殺しても、罪には問われない。そういう法律もあるのですよ。むろん、そのぎゃくもある。ふつうは、人を殺せば罪に問われます。――法律とは、何か? それを知ることですよ」と先生はいわれました。

そして、法律の解釈には7つあり、それをすべて知れば、大学の法科を出たと同等の知識が身につくともおっしゃいました。で、7つの解釈法なるものを教わったというわけです。

ぼくにとって、正木ひろしという弁護士は、偉大な人でした。

くわしいことは忘れましたが、先生はある裁判で、ある男を真犯人であると名指しし、それが間違っていたために、弁護士資格の停止処分を受けられました。こんな弁護士はほかに知りません。

のちに松本清張の「カルディアネスの舟板」という小説が出版され、緊急避難を想定した故意の殺人事件をあつかい、犯人は、そのトリックを見破られて、破滅していくという物語が書かれました。

ふるい小説ですが、松本清張さんの本を読んでいたら、弁護士が出てきたので、正木ひろし弁護士先生(1896-1975年)のことをおもい出したのです。

■仏教について考えよう。――

教に見るいの方程式



おはようございます。

 ぼくは今年83歳になるのですが、考えてみたら、いまだにあこがれているものがあります。小説を書きたいということです。17歳で作家になることを夢見てきましたが、書けども書けども、駄作ばかりで、精魂尽き果てた感じになり、少しばかり欲をセーブしてみようかと思っています。

 

むかし隋の国に、「摩訶止観(まかしかん)」を書いた偉いお坊さんがいました。594年、中国荊州(現在の湖北省)にある玉泉寺のお坊さんで、天台智顗(ちぎ)という人です。

これは、仏教の論書のひとつで、止観(禅定の1種)について述べられたものです。それからぼくは、彼の「法華玄義」を読み、たいそうな刺激を受けました。そこにはむずかしいことがいっぱい書かれていましたが、なんとなく分かったような気分になり、大乗仏教の奥義を覗き見た感じがしました。いまどき智顗の本を読む人は、少ないかも知れません。

1999年、ぼくは㈱タナックという会社の社長をしていました。


二葉亭餓鬼録
考える人びと

 

そのとき社員として張り付いてくれていた野澤匡さんという方が、

「社長、お話があります」といいます。

資金繰りで悩んでいたぼくを見て、何かいいたかったのでしょう。話を聞いてみると、

「社長は仏教に興味がありますか?」といいます。仏教に興味はあるものの、内心それどころではなかったので、どういうことですかと質問しました。

もしもよかったら、時間をつくって、自分の話を聞いてくれませんか? といいます。

「いいですよ」そういってから、数日を経て、彼と喫茶店に入り、お話というのを聴いてみました。それは、仏教の話でした。釈迦の教えでした。くわしいことは忘れましたが、聴き終わって、なにかしら、こころの澱が消えていきました。勇気の出る話だったと思います。その意味で、ぼくは野澤匡さんに救われました。

ぼくはそのころ、仏教を正しく知ってはいませんでした。間違いだらけの記憶しかありません。経本を飲み込めば、安らかになります、と彼はいいます。

そして、ぼくは間もなく、「法華経」を読みはじめました。1999年から2006年ごろにかけて、仏教の研究にのめり込みました。「ブッダへの旅」という原稿が完成したのは、2006年です。原稿は1500枚くらいになりました。それを製本し、彼に読んでいただいたと思います。

すると、「小乗仏教」は、読まないほうがいいといいます。あれは、小さな乗り物で、「大乗」のような大きな乗り物のほうが多くの人を救います、といいます。いわれてみれば、その通りなのですが、ぼくは仏教の興りから理解したいと考えました。

――さいきん、三重県のある女性から「人が死んだら、魂はどうなるの?」というご質問を受けました。ブログにくわしく書いてほしいというリクエストがあり、そのときの疑問を織り交ぜて、書いて差し上げました。。

ぼくは学者でありませんから、何も知りません。知りませんけれど、釈迦のことばをいろいろと思い出します。たとえば釈迦は、「海には魚が何匹いるの?」という比丘(びく)や比丘尼(ビクニ)たちの質問に答えて、「それは知る必要がない」と答え、「夜空にまたたく星は、いくつあるの?」という質問にも「それは知る必要がない」と答えています。そして、

「死んだら、どうなるの?」という質問に答えて、「それは、知る必要がない」と答えています。これはどうしてなのでしょうか? 「教えてください、……」という比丘たちの訴えに、釈迦は黙っています。これを「無記」といい、「無記の教え」を広めます。

多くのお坊さんにおなじような質問をすると、釈迦とはまるで違う答えをいうでしょうね。亡くなって49日を過ぎると、ホトケになり、いつまでも家族のそばにいるというでしょう。これは、人が死んでも魂は生きつづけるというあらわれです。この考えがどうして生まれたのかといいますと、北インドで興った仏教が、中国にもたらされたとき、中国の儒教と仏教とが混ざり合い、融合します。

仏教の「空(くう)」は儒教の「無()」と混ざり合い、仏教は中国各地に広がりました。はじめて仏教を取り入れたのは「三国志」に登場する曹操(そうそう)という人です。紀元200年ごろのことです。中国語では仏教のことを「浮屠(ふと)」と呼びます。中国にもたらされた仏教は、大乗仏教のほうです。つまり在家仏教、北伝仏教ですね。サンスクリット語で書かれた経典がつぎつぎに中国語に翻訳されました。玄奘以降の訳を「新訳」と呼ばれ、多くの翻訳家を輩出しています。名前までちゃんと残っています。

なかでもクマーラジーヴァという人物は偉大な仏教者で、サンスクリット語で書かれた経典を、当時の中国の儒教になじみやすいように、中国の先祖供養と合わせて仏教をひろめていきました。

したがって、先祖供養をする仏教という新しい仏教が中国で誕生したわけです。日本は、その中国仏教をまるまるそっくり漢文のまま取り入れました。もともとは先祖供養などしなかった仏教ですが、日本は、インドではなく、中国から取り入れたために、日本でも先祖供養をするために仏教を取り入れました。ですから、中国でも日本でも、人が死ねばホトケとなり、50回忌まで供養されます。まるで、生きている人のように供養がおこなわれます。

しかし、紀元前500年ごろに生まれた釈迦仏教には、先祖の話はこれっぽっちも出てきませんね。魂の話や、来世の話、過去世の話などはいっさい書かれていません。人が死ねば、もうただの物体となります。魂もありません。魂がなければ、拝むこともないので墓もありません。

ただし49日のあいだは、魂が浮遊するといわれ、ハエやゴキブリさえ殺しません。これは輪廻(りんね)転生すると思うからです。人間の生から、別の生に生まれ変わると考えているからです。

この考えは、仏教が生まれるはるかむかしの「ヴェーダ聖典」の時代に書かれた教えであり、インド人は、これをずーっと信奉してきました。

六道輪廻というのがそれです。

最初は五道輪廻でした。地獄、極楽の思想はこうして生まれました。人間は死んで畜生に生まれ変わることもあり、ウマに生まれ変わったり、ネズミに生まれ変わったりするというので、むやみに殺生しないのがインド人のやり方です。

この輪廻転生説は、日本の仏教者にも見られます。

なるほどお経本にはそう書かれているからです。輪廻をするというのなら、もう先祖供養をする必要がないのです。なぜなら、もうそこには人間じゃなくて、別の生に生まれ変わっているからです。これはどうしてなのでしょうか。輪廻を説くいっぽうで、実際には中国・日本では先祖供養が行なわれています。もう魂がなくなったというのに拝みつづけます。とてもおかしな現象ですね。

ひるがえって、日本の仏教は、そもそも古典語を持たなかったので、釈迦仏教に触れて、多くの優秀なお坊さんが、明治になってからヨーロッパの大学に留学して仏教学を学びに出かけました。それくらい日本の仏教は立ち遅れていました。

ロンドン大学のバロンという学者は、マガダ語、パーリ語、サンスクリット語などに精通し、釈迦の唱えた経典研究の第一人者ですが、南条文雄さんという偉いお坊さんは、そういう釈迦の初期仏教というものを研究されました。

日本では、東大の中村元さんが有名ですね。

さて、「死んだら、魂はどうなるの?」という質問ですが、釈迦の唱えた仏教の立場でいえば、何もなくなり、きれいさっぱりと消えてしまう。これが正解のようです。現代科学では、魂の存在は証明されていません。しかし、まだわからないことがたくさんあります。

ついでにいえば、釈迦の唱えた仏教は、解脱(げだつ)の仏教でした。煩悩(ぼんのう)から解き放たれて自由になること。ところが、紀元3、4世紀ごろから「生、老、病、死」を唱えた釈迦の四諦説はひっくり返えされ、救済の仏教へと変身を遂げました。それが大乗仏教と呼ばれる宗教です。

仏教を信仰する在家の人びとに希望を与えるために、信ずれば救われるという仏教に変えてしまったわけです。

なぜなら、解脱することがとても困難だったからです。

解脱を遂げた人は、釈迦をふくめて7人います。最後に悟りを得た釈迦は、その悟りをひとり占めにしないで、ひろく教えという形で宣布しました。どうすれば安穏に日々暮らすことができ、長く健康で生きられるかを説きました。当時は30代後半、40代が人の生涯でしたが、みずからの悟りを実行した釈迦は、80才まで元気に遊行(ゆぎょう)の旅をつづけることができました。

釈迦が亡くなり、涅槃(ねはん またの名をニルヴァーナという)に入られたわけですが、その後釈迦一族はみんな殺されました。過去世や来世を一切説かれなかった釈迦は、摩訶不思議な教説を鵜呑みにすることをいましめました。自分が死んでも、仏塔を立てて拝んではならないともいいました。釈迦の悟りの素晴らしさは、「スッタ・ニパータ経」というお経に詳しく書かれています(岩波文庫)。

さて、答えになったでしょうか? 

仏教経典の代表的なお経といえば、なんといっても「法華経」でしょうね。総花的なお経で、なんでも総合的に網羅されています。しかし、「法華経」というお経はぜんぶで16巻ありますが、現在発見されているのは3巻だけです。あとの13巻は未発見です。そういうことから、3巻をならべてみても、辻褄が合いません。大きく抜け落ちているためです。

「般若心経」も有名です。262文字しかありませんが、これ、ほんとうにわかる人がいるのでしょうか?

「無、無、無、無」と書かれ、釈迦の唱えたことがすべて否定されています。

なぜ、おしまいに密教の真言が書かれているのでしょうか? もともとは真言はありませんでした。これを翻訳した玄奘は、最後に真言をくっつけました。

これがいま、日本ではわからないまま読誦(どくじゅ)されているわけです。

おかしいとは思いませんか? これは顕教(けんぎょう)のお経で、顕教は読んで字のごとく、読めばたちどころにわかるお経のはず。しかし、さっぱりわからないお経の代表になっていますね? それと、お経の最後に謎めいた密教の真言がつけられています。顕教と密教がひとつになったようなお経です。

空海というお坊さんは、これを写経しています。ただの写経ではありません。

「一字一拝」といって、一字を書いて一拝する。一字を書いて一拝する。これがほんとうの写経です。

よくよく考えてみれば、お経には、人の成仏について述べられていなければなりませんね。成仏が目的なら、どうしても方法が書かれていなければなりません。ところが、いずれのお経にも「成仏法」というのが書かれていません。その理由はいったい何でしょうか?

どのようにすれば「成仏できるか」、肝心のことが欠落しています。

もちろん釈迦は、成仏法を説かれませんでした。なぜなら、成仏するための宗教ではないからです。人びとが解脱をするための教えだったからです。解脱と成仏。――このふたつは似て非なるものです。

ぼくは以上のような話を述べました。疑問がいっぱいあったからです。

疑問に答えるかたちで「ブッダへの旅」という本を書きました。1500枚の原稿を書きましたが、まだ完成していません。完成するどころか、ようやっと巨大な山裾野にたどり着いたという感じです。

和の先を示すindex finger?

 

韓国の李在明大統領が来日して、単独インタビュー記事で日韓双方の利益を模索、と書かれていた。なーるほど、「模索」とはいいことばだ。「摸索」とは、「どうすべきか、自分でいろいろ試行錯誤を繰り返しながら、その方法などを探っていくこと」(新明解国語辞典、第6版)と出ている。

いま、世界には書くべきものがいっぱいあるようにおもえる。

「ロシアのプーチン大統領なんか、ウソばっかり。政治とは騙すこと。……ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は背が低いけれど、なかなかの役者だ。もとより、彼は喜劇俳優だからね」

ヨーコが外出してしばらくしてから、ぼくはベランダの一角に温かい冬の太陽が差し込んでいる風景を漫然と眺めていた。……1900年の太陽も、おなじようにロンドンの巷(ちまた)を照らし、多弁時代の幕開けを告げたのだろうか。

ジョージ・バーナード・ショーは作家だが、ロンドンの政治家がやるように、街角のに辻に立って、20世紀の霊感をうけたかのごとき演説をする。ショーはもともとアイルランド人である。20歳でアイルランドに永遠の別れを告げ、一旗あげようとロンドンにやってきたのだ。その最初の9年間に文筆活動で6ポンド稼いだだけだった。それでもめげないのが、バーナード・ショーだ。

映画「マイフェア・レディ」の原作者である。

さいきんの本を読んでも、なんとなくおもしろくなくて、つまらない。

「むかしの小説や詩のほうがえらくおもしろくおもえる。なぜなのだろう。ロシアやアメリカの話を

聞かされても、ちっともおもしろくねぇ」という。

ドレークやマジェランのような存在はもちろん、シンドバッドやイアソンのような、無類におもしろい話をもう見失ってしまって、あの大航海時代のクックを最後に幕を閉じてしまった感じがする。おもしろさにおいては、彼らの半分も成し遂げていないように見えて――。ぼくが歴史にこだわるのは、おもしろいからである。

 

 

 

田中陽子

 

ヨーコとのそもそもの馴れ初めは、新橋だった。これは、そのときに撮った写真だ。

うな重を食べさせたら、「おいしい、おいしい」といって、頬っぺたに「ちゅっ」とキスしてくれた。

「キスはちゃんとするもんだ!」というと、ヨーコはいった。

「今夜、ウチにきて」と。ヨーコの部屋は草加のある2階の部屋だった。鉄の重いドアがすでに開いていた。

「それから……」うん? それからどうしたの?

お茶を飲んでから、しばらくして、「ヨーコのおっぱい吸いたい」といった。すると、ヨーコは立ち上がって室内のライトをぜんぶ消した。消したって、まだ明るい時間だった。

「きょうは、これでおしまい」とぼくはいった。

それにしても、吉田松陰の話はおもしろい。

歴史に名もない主役たちを登場させ、神話的に、暗喩させることに一所懸命な大江健三郎ではないけれど、ぼくには「歴史(history)」ではなくて、その親戚みたいな「芝居がかり(histrionics)」とでもいえるような、……つまり、「演劇」としての歴史、物語、家族の物語でもいい、そんなふうに見えてしかたない。

「歴史(history)」自体に、そもそも「演劇」という意味があるのだけれど、ここでいう「歴史」は、もっとペルソナリッヒなというか、個人的なもの。――ぼくは、それにハタと気づいた。

「歴史」はデスクの上にちょこんと置いてあるようなものじゃない。われわれとまるで無関係に、存在するものじゃないっていうことを。

ときには評論家たちの論評を読むこともある。しかし、それらにはマユツバものが多い。時代をミスリードしているように見える。

「(読者が)子宮みたいに、空っぽの何かを満たしたいと期待すれば、うぬぼれガスで腹が膨れあがった作家の想像力が、屁をペン先から出すようにして綴られた産物のように見えて、じつは恐ろしく冗漫な自然誌(ナチュラル・ヒストリー)なのだ」という意味のことばを残した偉大なサミュエル・ジョンソンのことをおもい出す。

ちょっと例が卑猥だけれど、――「空っぽ」の部分は今のことばでいえば「子宮」となっていて、もともと古英語では子宮は「空っぽ」という意味であったことを知る。東洋のわれわれには、馴染みのないことばではあるけれど、いいえて妙なこのことば。

――小説家っていうのは、「空っぽ」を満たす仕事をする。やがてイメージが育ち、子宮が膨らんでくる。

膨らんではくるけれど、生まれる前は、まだ胎児のまま。人間として認知されていない。名前もまだない。その状態を「妊娠」といい、中国では「糸車」に譬えて、糸が巻かれて大きく膨らんで成長するあいだのことを、「コンセプション(conception)」といい、「まだ生まれないもの」、「やがて月満ちて生まれるはずのもの」、「受胎」、「妊娠」という意味を持ついっぽうで、近代になって、転じて「概念」という意味も具わるようになった。

小説家は、この「コンセプション」を「子宮」ではなくて、「頭」のなかで、想像力だけでつくりあげるのである。――いわれなくても分かる? 

まちがっていたら、お詫びするしかないのだが、ぼくはそうおもっている。

日本は近代になって、西洋の人びとといろいろ軋轢(あつれき)を起こした。何かがちがっていたからだった。「生麦事件」、「哲学館事件」など。――こんどはその話をしてみたいとおもった。

日本人同士だってよく論争を引き起こしている。

芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争、「風俗小説論争」、「異邦人論争」などなど。そうやって日本の作家たちは、論争し合って日本近代文学のベクトルを示してきた、とおもわれる。

Mさんがやってきた。

「寒いの、暑いの」といいながらやってきた。

「――あっ、いたいた。ああ、ここは暑いねぇ。夏温度だねぇ、39℃もある」といいながら入ってくる。彼の顔は日に焼けて真っ黒だ。

57歳。もうじき58歳になるという。

「エアコンに当たって、けっこうここは夏温度ですね。コーヒーは、やっぱりホットを飲みたくなりますよ」といっている。

コーヒーを飲みたくなってやってきたようだった。彼は、きょうもいつものホットコーヒーを催促する。

「じゃあ、これ飲むかい?」といって、さっきのお客さんからいただいたDrip pack coffeeというのを手で持ち上げた。

「ほー、DOUTORかい? ……いいねぇ。いただきますよ。これ、どうしたの?」ときいてみた。

「なーに、友人の奥さまからさっきいただいたんですよ」

「奥さま? ……だれですか?」

「だれでもいいでしょ。妙齢な、貴婦人みたいな奥さまですよ、伊藤梅子みたいな」

「だれですか、伊藤梅子って?」

「ぼくも知りませんよ。会ったことがないんだから、……」

「会ったことがない? ふーん」

「そりゃあそうですよ。伊藤博文さんの奥さまなんですから」

「伊藤博文? じぶんも、どこかで聴いたこと、ありますよ。たぶんね」といっている。

「だれかと勘違いしていませんか? 明治になって新政府ができて、初代の総理になられた人。その奥さまですよ」

「えーっ? なんでまた。……」

「伊藤博文って好色な男でしてね、ほかにも数々の女がいた。なんか、明治天皇から注意されたそうですよ。それも稀代の処女喰いでね。ははははっ、だれかとそっくり! 男は処女がお好き」

「だれだってそうですよ」

「Mさんもそうですか?」

「むかしはそうでしたね。いまは、そうじゃなく、若奥さまに魅力を感じておりますよ」

「むかしは、二夫にまみえずといって、女は再婚しないものでしたね。たったひとりの夫に連れ添う。そういう人は少なくなりましたか」

「田中さんと話すと、いつも明治時代の話になる。……まあ、おもしろいけどね」といっている。

「――髪の毛にも肌にも色素はなく、眉も睫毛(まつげ)も、体毛と呼ばれるものすべてが白い。肌の色はミルクのごとき、べったりとした透明感のない白さである。全身、白い絵の具を塗りたくられた人形のようなのだが、……」と、ぼくはある文章を読みあげた。

「……なんだい、それは? 田中さんの小説かい?」という。

「いいや、小池眞理子さんの作品ですよ。《イノセント》という小説でね」

「ほう、そうかい。……小池眞理子? 聞いたことないな」といいながらトイレから出てくる。

「田中さんらしいな、ははははっ。……」といっている。

「ぼくには書けませんよ、こんな文章は」

「いつも書いてるくせに。……そうじゃない?」

「――体毛と呼ばれるものすべてが白い。肌の色はミルクのごとき、べったりとした透明感のない白さである、……なんて書けないですよ。この人の文章は、こういう文章でなかなかいいですね。昭和30年代から40年代にかけて、こういう文章が書ける直木賞作家はいませんでしたからね」

「彼女は直木賞をとったのかい?」

「取りましたよ。……もう20年まえになるかなあ。それ以来、ときどき読むことがありますよ」

「ところで、田中さんの書こうとする小説は、どんな傾向の小説? 松本清張のような推理ものを読んでるらしいけど、書くのは推理ものじゃないよね」

「もちろん。……まあ、翻訳ものではレイモンド・カーヴァーみたいな小説で、ヘミングウェイのような小説にあこがれます。これはあこがれているだけで、書けない」

Mさんには、2杯目のコーヒーをつくってあげた。先日は「カプッチーノ」の話をしたんだっけ! とおもう。

「外国の小説は読まないので分からないけど、……まあ、なんとなく分かるよ。なんだっけ? キリマンジャロだっけ? ミケランジェロだっけ? あれには参ったな」とMさんはいう。彼はむかしのことをおもい出したのだ。

「きょうは田中さんと喫茶店に行きたかったんだけど、きょうはえらく天気が悪いな、いまに降ってくるぞ。……あれ? もう降ってきたかな、……」といって背伸びをして外をのぞく。外の景色がきゅうに暗くなったようだ。

「またちょっと、降ってきたようだな。……きょうは、6時ごろから降るっていってたけど、雨脚が早まったようだな」という。

「どうしようかな、困ったな」と、またいっている。

「何が困ったの?」

「きょうは、新規営業することになってて、それさえやれば、大雨が降るので、きょうは早仕舞いしていいという話なんだけど、これじゃあ、ダメだな。……営業ができない」という。

「カッパ貸そうか? Mさんにもらった読売新聞のカッパだけど」というと、

「それはいいな、貸してくれる?」というので貸してあげた。カッパのズボンを履いたところで、Sさんが姿をあらわした。

「おう、ちょうどいいところに帰ってきたんだね」というと、

「危なかった。……大雨に降られるところだったよ」といって、事務所に入ってきた。

けたたましい雷鳴がとどろいた。

近くに爆弾が落ちたような音がして、マンションの館内に大きく反響した。ものすごい音だった。

「降ってくるぞ! ……これからカッパ着て、仕事かい?」とSさんがいっている。

「仕事もクソもないよ。ははははっ、……こうなったら破れかぶれだ」

「こんなに慌てて、どこへ行くんだい?」とSさんがきく。

 

草加の夏祭りの日

 

「営業ですよ、新聞の営業、これから1本あげなくちゃ! ……参ったな」といっている。

「事務所で取ってあげようか? 会社の名義でさ」というと、

「ははははっ、そういう手があったか。そうしてくれる? たすかったよ」といって、彼はカッパを着たまま椅子にふたたび腰かけた。

「まあ、……コーヒーでもいれるかい?」

「じゃ、もう1杯もらおうかな」という。ぼくはふたり分のコーヒーをつくり、差し出した。

「きょうは参ったな」とMさんはいっている。また雷鳴がする。こんどは町のほうだ。すると、たちまち大きな雨が降ってきた。外はどこも大雨になって景色が変わった。その風景を見ているだけで、寒々しい感じがした。

「降ってきやがったか。……Sさんは、いいときに帰ってきたねぇ」とMさんがいう。

「おれは、まずいと思ったから、用事があるといって、夜勤は外して、早々にきり上げてきましたよ」Sさんは、現場で警備の仕事をしている。

「それは正解だな。……きょうは、どこまで行ったの?」

「足立区だよ。西新井のさ、……」といってたばこをぷーっと吹かしている。その顔が藤沢周平の小説に出てくる紙問屋の亭主みたいな顔になって見えた。髭(ひげ)づらで、それがある日、きれいに剃りあげて、いそいそと町に出るのである。女房は亭主の異変に気づき、ひそかに夫のあとを追う。追われているとは知らないで、女のところに出かける。

女は、身持ちの悪い浮気女で、いつの間にやら男とできてしまっている。

おなじ紙問屋の神さんで、彼女は亭主にすっかり愛想をつかしている。その女の愚痴を聞いているうちに、できてしまうという話である。

「《海鳴り》という藤沢周平の小説、おもしろいね、上巻はもうじき読み終わる」というと、

「あれは、なんていうこともない小説ですが、男女のからみがおもしろいですなあ」という。

「酔いつぶれた見知らぬ女を介抱してやって、連れ込んだところが逢引専門の宿。そこで女を楽にしてやろうと思って、男は女の帯を解く、そこがいいなあ」というと、Mさんがいっている。

「田中さんは、そういう文章を書けばいいとおもうよ。書けるとおもうよ。もっとリアルに書けるはずですよ」

「それはそうだね、ははははっ!」といって笑ったのは、Sさんだった。

藤沢周平の小説は、しっとりとくる小説で、江戸町人の気質をうまく書いている。大雨が降りつづいている。また雷鳴が鳴った。……きゅうにヨーコのことをおもい出した。この雨じゃ、ヨーコは帰れないかもしれない。

「生きていくためには、刑事訴訟法のひとつも読んでおかなくてはならない。とつぜん、ある女性に訴えられたら、Mさんなら、どうします?」というと、

「おれかい? おれはとぼけますよ」とつぜん話題が変わった。

「とぼけたって、日本の裁判は通りませんよ。なにしろ、さっきもいったように、無実の罪で訴えられてしまうんだから」

「ふーん」

「……警察官は逮捕し、検察庁に送り、検察官は起訴するかどうか、容疑者にいろいろ尋問し、証言を取って裏づけを取る。間違いないという確信を得たら、そこで起訴に踏み切ります。そうなると裁判になります。警察官に逮捕されたからといって、起訴されるとはかぎりません。起訴するのは検察官です」

「検察官? ほう、そうなのかい」とMさん。

「そうですよ。……日本の検察官は、ひとりひとり全権を持っています。訴えるか、訴えないか、ひとりの検察官の判断で決めます。司法と行政が区分されているのは、そのためです。田中角栄は首相のまま、ロッキード事件でひとりの検察官によって起訴されました。検察庁でみんなで審議をして起訴するかどうかを決めるのではなくて、たったひとりの検察官が自分の考えだけで決めることができるんです。――これは、外国にはない制度かもしれませんね」

「起訴するのは警官かと思った」と彼はいう。

「違います。警察官は捕まえるだけです。それが彼らの仕事です。捕まえた先は、警察庁から検察庁へ書類が送られる。しかし、まれに戻されることがある。証拠が不十分の場合は、裁判には勝てないので差し戻されます。戻されると、容疑者は無罪放免となる」

「ほう、そうなのかい。検察官の仕事は、いったい何なのか、知らなかったよ」という。

「だから、検察官の心証を悪くすると、起訴されやすい。痴漢問題で起訴した結果、冤罪だと分かったとき、起訴した検察官は間違いなく左遷されますね。それでも、間違って起訴され、社会的な地位を失った被害者は、もう元にはもどれない。哀しいけれど、しかたがない。その保証も微々たるものだし、彼の人生は台無しになりますからね」

「おれはだいじょうぶだよ。……だって、電車なんかに乗らないからね」という。

「それは違うね。……街を歩いていてとつぜん痴漢で訴えられたら、どうします?」

「街を歩いていて?」

「そうです。電車内であろうと、駅のコンコースであろうと、デパート、映画館、ホテル、どこにいても痴漢に間違われる可能性がありますよ。デジカメ、鏡などを持ち歩くときは、要注意ですよ。あとで調べられてもいいように、バッグやカバンのなかは、きれいにしておくといいんじゃない?」

「それはそうだな」

 

夏目漱石「坊ちゃん」集英社文庫

 

「……ぼくは、このマンションに住んでいて、2階の鉄階段から降りてくる女性を仰ぎ見たとき、パンティが見えたんですよ。あのときは、ドキッとしましたね。《あなた、見たでしょ?》といわれたら、もうおしまいだからね。住人さんにはそういう悪意ある人はいませんが、《見たでしょ?》と訴えられたら、これもまた痴漢になりそうだ。見えちゃっても、痴漢といわれれば、痴漢行為になってしまいそうだな」といっている。

「パンティぐらいなら、よく見ますよ。おれなんか、巻きスカートでバイクに乗る女性とすれ違ったとき、バッチリ見えちゃって。風を切って走らせているんだから、スカートなんかめくれますよ。ちらっと見ただけだけどね、はははははっ」といっている。

「その、ちらっとがいけない! よく見えないから、バカな男は燃え上がるのさ。パンティぐらいどうということはないのに、当人にいわせれば、おじさんたちには見られたくないと思っているのか、いやらしいと思うだけで、やり過ごしてくれますがね、人の集まる場所ではかなりの要注意ですよ」

彼と話していると、いつも話が落ちてくる。

茹でた薩摩芋が、彼はもう1本食べた。コーヒーを飲んでいるので、小腹に入れるにはちょうどいいらしい。

ちょうどそこへ、8階の奥さまが、にゅーっと顔を出した。

「このあいだは、お電話いただいて、何かしら?」という。

Mさんは立ち上がると、薩摩芋を飲み込んで、あいさつしている。

「先日のぶどう、巨乳、うまかったです。それをいいたくて、……」といっている。

「ははははっ」と奥さまは笑っている。

「巨乳じゃなくて、巨峰でしょ?」とぼくがいうと、

「え? そうそう、巨峰です! おれ、何いってるんだろ。……」といって顔を赤らめた。

「巨乳でもいいわよ、……。じっさい、巨乳なんだから……」と奥さまはいっている。あぶない、あぶない、……といいながら、Mさんは、こんどはコーヒーをごくりと飲み込んだ。

「ヨーコ、帰ってきたかなあ、……」というと、

「電話してみたら?」とSさんがいう。

きょうは着付け教室に出かけているはずだとおもった。大雨のなか、自転車に乗ってラ・メゾン・ブランシュに向かっている光景を想像した。まさか! とおもったが、心配になってヨーコに電話してみた。

「はい、……」とヨーコが電話に出た。

「いたのかい? それならいい、……」というと、

「何かご用? ……」

「いや、……」

「何?」

「うん」

「だれかいるの?」

「うん」

「ははははっ、いるのね! 例の人たちが」といって電話が切れた。

よーく考えたら、さっきヨーコから電話があったのだ。冷蔵庫を開けたら、ニシンが入っているので、それで電話をしてきたのを忘れていた。マンションの奥さまからいただいたものだった。そのときにはヨーコはすでに部屋に帰っていたのだ。

■アーネスト・サトウの日記抄。――

(14巻)をところどころ再読して

  

 アーネスト・サトウ

 

ぼくは、人の書いた日記を読むのが好きです。ふるくはあの長大な「ピープス氏の日記」、綿々と女の感情を書き込んだ「アナイス・ニンの日記」など。その他、寿岳文章、河盛好蔵、戸板康二、宇野千代、富岡多恵子らの日記も、おりにつけ読んできました。

先年から、ぼくは萩原延壽氏の書かれた「遠い崖」(朝日文庫)を読んでいます。

回想録「一外交官の見た明治維新」で知られるアーネスト・サトウ(1843‐1929年)が、遺言で寄贈したのがサトウ文書です。その中身は、イギリス外務省通訳生として18歳で日本に旅立った日から約65年間にわたる45冊の日記が多くを占めています。

これを萩原延壽氏は、みずから読み解いた日記を軸にして「遠い崖」というタイトルで、1976年から90年にかけて朝日新聞に連載した労作です。それを加筆修正して、全14巻として出版され、すでに多くの読者を持っています。

 

 

吉村昭さん

 

アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」

 

 

ざーっと、生麦事件から西南戦争のあとまでの激動の日本を、数々の外交文書や書簡を織り交ぜて、そのころの時代を多角的に描写しているのが特徴です。

新聞掲載のときに、ぼくはところどころ興味のある部分だけを切り抜いて読んでいたのですが、あまりにも膨大で、あまりにも詳細をきわめ、ときどき目を見張るような文章に触れ、ほとんどなじみのない記事の影で、時代が大きなうねりを見せ、外交日記というこの新分野の醍醐味をおもしろく読んでいました。

通訳で、情報収集の仕事に打ち込んでいたサトウは、勝海舟、徳川慶喜ら幕府側の要人だけでなく、西郷隆盛、伊藤博文ら倒幕派とも積極的に交際していることがわかります。

明治2年までの7年間は、サトウは、日本におけるイギリスの政策の中心人物でもあったようです。日記に登場する人物や事柄は多岐にわたっていて、萩原延壽氏のあとがきによれば、「ただ筆者の想像力を刺激する対象に向かって、ひたすら書いていくうちに、結局『サトウとその時代』を描くことになってしまった」と書いています。それがぼくのお気に入りとなったのです。本文を深く読めば読むほど、サトウを主人公にして、サトウの目を通した日本近代の歴史の生成という大きなシーンを描いていることがわかります。

そのバックボーンはサトウの日記ですから、これはもう小説にほとんど近いものといえそうですが、そこに綴られている文章は、多くは姿かたちのある書簡や外交文書などです。ぼくは、サトウの魅力にどんどん引き込まれていきました。

明治政府が独自にスタートすると、サトウは古神道を論じたり、英和辞典をつくったり、幅広く日本学にも力をそそぎました。とうぜんその足跡も追っています。関係者の子孫をたずねて史料の欠落した部分を埋めたり、あらたに聴きおよんだ新資料も収集し、ときに、同僚だったウイリアム・ウイリスらとのこころ温まる友情を描いていたり、植物学者だった武田久吉らその息子たちとの交流も描かれていて、これまで知られていなかった人間交流も生き生きと描写しています。

もとより、連載していたときから多くの内外の関係者から、髙く評価されていたようです。2001年8月、ながい苦闘の執筆を終えて妻の宇多子さんを見送り、その10月24日、出版完結を見届けて萩原延壽氏は亡くなられました。「あとがき」には、「いまは、ただホッとしているというのが実情である」と、さりげない述懐のことばが書かれておりますが、このことばには万感がこもっています。

2002年1月、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」(朝日新聞社刊)が大佛次郎賞を受賞しましたが、死後のことでした。選評のなかで、吉村昭氏のことばが光ります。

「幕末にアーネスト・サトウとウイリアム・ウイリスというふたりのイギリス人が来日したが、このふたりに焦点をあてた着眼が素晴らしい。幕末、明治政府樹立に諸外国中最も強く関与したのはイギリスで、幕末の生麦事件以来の出来事にサトウは外交官として、ウイリスは医師として直接接触し、それぞれの日記、書簡類に記録している。()氏は、14巻におよぶ大著の完結発刊直後に世を去られたが、意義ある仕事をなさいましたね、と心から申し上げたい。」

ちょっと蛇足ですが、「サトウ」という名前についてひと言。

ぼくは、学生のころ、このアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の名前を見て、日本人の血が入っているのか、とおもっていました。英文のつづりを見るとわかりますが、イギリスはロンドンで、スウェーデン人の父とイギリス人の母との間に生まれた3男坊でした。彼の子孫はもともとアイルランドにあり、古くは「Satow」姓があったらしいのです。くわしいことはわかりません。

《犬は人を敬し、猫は人を下す》Dogs look up to us. Cats look down on us.

 

3時ごろ、Sさんがやってきた。きっとくるだろうとおもって、こっちは身構えていた。

そしてKさんが顔を出し、きょうは、読売新聞の夕刊は、数え間違いをしたらしくて、1部足りなくなったとかいって、きょうは置いていかなかった。

そういうわけで、きょうはかんべん願いたいという。

「また、きますよ」といってさっさと出ていった。夕刊は、サービスでいただいていた。それからSさんと事務所でコーヒーを飲んでおしゃべりした。きょうのSさんは、いつものSさんと趣きがちと違った。何かの話で女の話になり、Sさんはこんなことをいった。

「女性の気になる部分を、逆に褒めてあげると、まったく抵抗なく喜ぶものですなあ。ある人にとっては、欠点に見えても、べつの人、――つまり、田中さんのことだけどね、ははははっ、……魅力的に見えるんでしょうな。美の基準なんて、そういうもんですかなあ」という。

「そうかもしれませんね。《万物の尺度は人間である》というからね」というと、

15世紀のヴェネチア女性が履いた靴。少しでも背が高く見えるようにと、ヒールを高くした。人類初のハイヒールは、彼女たちが考案した。ぼくは2011年9月、江戸東京博物館で開催された「ヴェネチア展」にて、本物の靴と衣裳を見ている。会場では撮影できないので、アウトラインをスケッチをした。

「だれのことば?」

「プロタゴラスっていうんだ」

「そいつは、知らねえな。まあ、わかりやすくいうと、彼女を嫌う人がいるいっぽうで、彼女を好きになる男もいるっていうことですな、いつの世にも」

「《蓼(たで)喰う虫も好き好き》というからね」

「そりゃあ、そうだ」

「《犬は人を尊敬し、猫は人を見下す》。……だれだっけ? ウィンストン・チャーチル。《私は豚が好きだ。犬は人を尊敬し、猫は人を見下す。しかし豚は人を対等に扱う》っていいますから」

「ヨーコが怒ると、これはなかなか魅力的な女に見えるらしいよ。彼女のいっていることが、なーるほど、ごもっともとおもってしまってね。彼女はいつも正論を吐くので、どこにも逃げ場がないんですよ」

「親切な女は、屁理屈をいう男には、ちゃんと逃げ道をつくるもんです、そうですよね? いい女は」と、Sさんはいっている。

「田中さんのいう逃げ道の話で、いま、おもい出しましたよ」

「なにを?」

「女のスカートの中にね。……そこに逃げたっていうヴェネチア議会の男の話ですよ」という。

「つまり、上野千鶴子さんの書いた《スカートの中の劇場》? そうそう、ヴェネチアの女性はヨーロッパ人の平均より可愛いけれど背が低い。だから彼女たちは、ハイヒールというものを考案したのさ。……議長がつるし上げにあって、逃げたところが女のスカートのなかだったっていう話ですよ。だれにもわからない。いい方法を考えついたもんですね?」

「いまじゃ、スカートが短くなっちまって、そんな芸当はできませんな。隠れるところなんてないし、……。だいいち、じぶんなんか、ちょっとすみませんといって、女のスカートを持ちあげようもんなら、強制わいせつ罪で、つかまっちまう」

「それはそうです。そんなこと、やっちゃいけませんよ。……Sさん、バレンタインで、女性から何かもらいましたか?」

「そういえば、ギリチョコっていうやつですがね、平べったい板を1枚、もらいましたなあ。今次、新型コロナウイルスが蔓延する世の中になっちまうと、ウイルスまみれのチョコなんて、恐ろしくて」といっている。

「その女性は?」

 

 

     

15世紀のヴェネチア女性が履いた靴。少しでも背が高く見えるようにと、ヒールを高くした。人類初のハイヒールは、彼女たちが考案した。ぼくは2011年9月、江戸東京博物館で開催された「ヴェネチア展」にて、本物の靴と衣裳を見ている。会場では撮影できないので、アウトラインをスケッチをした。

 

 

「事務所の事務の女性ですよ、20代でしょうな。でも、これまた、人妻でね」という。Sさんは人妻に縁があると見えて、彼のいい女はぜんぶ人妻なのだ。あるいは、すでにいい人のいる女だったり。

「バレンタインって、いったい、ありゃなんですかなあ」という。

「そう、バレンタインでおもい出しますよ。戸板康二さん、すでに亡くなりましたがね、彼はいってましたよ。――バレンタインは、破廉恥の隣りにあるとか」

「そりゃあ、なんですかな?」

「ははははっ、……もともとは、《春は、バレンタイン聖人の隣人》とかいいますからね。そのことばからきているんだとおもいます」

「春は、バレンタインの隣人? きいたこともない。なんですかな、そいつは?」

辞書にはこう出ている。

「バレンタイン・デーとは、西暦270年2月14日、異教徒の迫害を受けて殉教した聖バレンタインを記念し、男女相愛の日とされて、1年に一度、女性から公然と求愛でき、また一度破れた恋もこの日祈るとよみがえる。恋人に手紙やプレゼントを贈る風習もある」(「コンサイス・カタカナ語辞典」三省堂、第4版)と出ていた。

「その、隣人というのが、わからない」

「つまり、イエスの隣人、その隣人でしょうね。……破廉恥の隣人は、おもしろいとおもいませんか。ぼくなんか、むかしからずーっと破廉恥の隣人でしたからね」

「それもそうですなあ」と、Sさんはえらく感心していう。

「そんなに感心されなくてもいいですけど、……。阿部達二っていう人、知りません? その人のエッセイ、なかなか軽妙で、オール読物なんかに載ってますよ。出石尚三さんの小説も載ってますね。両氏とも、なかなか該博な知識の持ち主で、尊敬しています。さっきのギリチョコじゃありませんけどね、それを受け取って、にやにやしている中年の、いや、老年のおじさんたちの図は、破廉恥といわれても仕方ないでしょう」

「そういう田中さんは、もっともらっているんでしょうな」という。

「悲しいかな、もらってませんね。いや、1週間前、もらいましたね。23歳のОLさんで、背が179センチもあって、きれいな日本語をしゃべる美人OLさんなんですね」

「田中さんは、スミに置けませんな。で?」

「お返しはいいっていうんですよ、彼女は。ほんの、わたしの気持ちですってね。そんなこといわれると、めろめろになってしまう」

「どこの人?」

「よく知りませんが、東京でしょう? 30代のお兄ちゃんが、越谷にいるそうです。先日、ある人の玄関キーをふたりで取り替えていたら、彼女、すっごく力んじゃってね、おならをしたんですよ」

「ほう、ところで卓球の平野美宇ちゃん、ご存じでしょう。世界選手権で戦っている最中に、おなら、windが出たっていっていましたな。ちがったかな。世界選手権じゃなくて、中国の陳夢をやぶって優勝したときだったかな。世界ランク1位の陳夢(Chen Meng)をかんたんに3対0でやぶっちまった。おならをして、アジア選手権に優勝した平野美宇ちゃんですな」

「彼女、力んだんでしょうね」

「ヨーコさんからは、もらいますか?……?」

「ヨーコはたぶん、わすれたんでしょう」

「いや、もらってるな。あの人は、そういうことをわすれたりする人じゃないですからな」とSさんはいう。

ヨーコからはもらわなかったけれど、べつの人から、べつの意味で、チョコのついた菓子をいただいた。あれは、バレンタインとは関係ないんだろうなとおもっている。ヨーコがユズ茶の元をつくって、小瓶に入れたやつをプレゼントした、きっとそのお返しだ。

「しかし、夫婦の愛って、すばらしいとおもうよ。……ケンカしたって、はじめっからわかり合ってる仲だしね。……」

「愛? いきなり夫婦の愛ですか? 夫婦といっても、後期高齢者とかになっちまうと、愛っていうものがどういうものだったか? ……塩野七生さんの『ルネサンスとは何であったか』(新潮社、2001年)という本を読むと、《ルネサンスとは、見たい、知りたい、分かりたいという欲望の爆発が、後世の人びとによってルネサンスと名づけられることになった》と書かれています。掲載された塩野七生さんの雑誌も《海》でしたね」

「そういうもんですかな。しかし、ありますよ、愛は。――古代中国に、《陰陽5行説》ってあるでしょ? それですよ」とSさんはいっている。

とつぜんむずかしい話になった。Sさんの口から、「陰陽5行説」が出てくるとは思わなかった。

 

ヴェネチアの女性ファッション。塩野七生さんの「海の都の物語」より転載。

古代中国の「陰陽5行説」に出てくる「7情」というのは、嬉(き)、怒(ど)、憂(ゆう)、思(し)、悲(ひ)、恐(きょう)、驚(きょう)の7つの感情が書かれている。それは、よく考えみれば、たがいに打ち消しあう諸刃の剣だと考えてしまう。

よくも悪くも、取りようによっては、いくらでも都合よく取れるもので、感情の異常な変化は、女の抑圧としてトラウマになるといわれているのだけれど、……。ストレスのもとになる7つの感情を和らげてあげると、たしかに、リラックスできるような気になる。和らげてあげる最大の方法は、じぶんの場合、「ことば」だ。そして、ヨーコの足の裏を揉む。

ヨーコはたぶん、それは行動だというかも知れない。

なるほど行動には違いない。――だから、足の裏を揉むのだが、何回も、何回も、ヨーコがもういいというまで揉みつづける。しまいには、彼女は眠ってしまうのだ。

「奥さん孝行なんですなあ、田中さんは。……だから、それは愛なんですなあ」といっている。

このあいだ、じぶんはヨーコの料理を褒めた。

ヨーコがつくる料理は、美しい。盛りつけにもそれを感じることがある。美的な配慮が奥ゆかしいときがある。きのうはカレーライスだったが、自分がひとり食べるときのことを考えて、あらかじめつくってくれている。

むかしから、《男は松、女は藤(ふじ)》などといわれている。

松には藤がからまるように、女は男を頼りにするというたとえらしいけれど、ところが、ヨーコのいうとおり、じぶんは松なんかになれず、藤になっちまって、ヨーコにからみついているというわけだ。

……うははははっ! しかし、ことばって魔術だなあと、つくづくおもう。

ヨーコはさいきん、足の裏を揉みはじめて、足がラクになったといっている。これは、女のたしかな反応である。足の裏にはいろいろなツボがある。性感帯もあるのだ。しらべてみると、性感帯は、中医学でいう「気」、「血」、「津液(しんえき)」の旺盛なはたらきで感じ取るツボと書かれている。

「出ましたな。……性感帯の話が、……」とSさんはいう。

「ところで、例の電子辞書、どうですか? 使えますか?」

「ああ、あれですか。……このあいだ、カバンていう字を忘れて、辞書で打ってみましたよ」

「漢字のカバンですね?」

Sさんは俳句をひねるので、辞書が要る。そのために電子辞書を手に入れたのだ。

「やっと、出ましたな。さんざん苦労しましたよ」といっている。

「美空ひばりは、出なかったでしょう?」

「出ませんでしたな、……ところが、【よのなか】《世の中》っていう字をしらべたら、そいつは、愛し合う人と憎み合う人と出ていましたな。田中さんのいうとおり、【れんあい】《恋愛》は、特定の異性と特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したい、と書かれていましたな。小説を読んでるみたいだ」

「――ということは、それは、山田忠雄主幹の三省堂の新明解国語辞典でしょう。漢字の話も出ていましたか? カバンの、いわれなんか書いてありましたか?」

「いわれ? べつになかったですよ」

「なかったですか。ほう……」

カバンは「鞄」と書く。――ちょっと古いが、「オール読物」の2007年2月号に阿部達二という人の書いた《歳時記くずし》というページに、鞄のいわれが書かれている。それによると、明治23年2月22日、明治天皇は上野公園で開かれている内国勧業博覧会に出かけられ、途中、馬車の窓から銀座の谷沢商会のまえに「鞄」という看板がかかっているのをご覧になったそうだ。

天皇も、おつきの者も読めない。

のちに使いを出してたずねると、舶来の皮のバッグを売るために「革包」と書いたらしいのだが、それが横書きになっていて、字と字がくっついて、「鞄」の1字に見えたのだそうだ。中国語の「鞄」はホウ、ハクと読み、「なめし皮、それを作る職人」という意味。これ以降、日本では鞄はバッグという意味になり、日本読みは「きゃばん」を当てたのだけれど、これがどうもいいにくいというので「かばん」ということばになって、国訓文字になったという。

「ほんとですか? ウソみたいな話じゃないですか」とSさんはいった。

「そういうことなら、ひとつ漢字ができますなあ」と彼はいった。

「《金》に《矢》と書いて「鉄」の字をつくる。

この字は、どうでしょうな? 鉄は、金を失うと書くじゃないですか? じぶんは、金を失いたくないのでね。妙な字をつくりましたなあ」という。

「あっ、おもい出しましたよ。北海道のJR北海道旅客鉄道株式会社の《鉄》という字は、たしか、矢になってたと思いますよ」

「そりゃあ初耳ですなあ。事業者たちは、考えたんでしょうな。……」

「みんな、ウソみたいな話ですがね。……そういえば、中国人のいう配偶者は愛人と書く。知ってました?」

「配偶者ですか。愛人とは、おそれいりますな」

「ふつう、奥さんのことは、老婆(ラゥプオ)と書くそうですよ。……母は?」

「母親じゃないのかい?」

「これ、娘なんですって」

「ほんまかいな!」

「ふつう、女ヘンに古と書いて、クーニャっていうそうですよ。または女ヘンに児とも書く。……飯店は、ホテル。これはご存知でしょう?」

「だったら、田中さん、手紙は?」

「トイレットペーパーかな?」

「じゃ、手紙はどういうのかい?」

「手紙? ……うーん、たしか、信とかいうんじゃないの。正式には郵便信かな?」

「辞典なんて、《ことばを、ことばで写生する》ってよくいいますね。三省堂ブックレットという本に、そんな話が書かれていますよ」

【おんな】《女》は、①人のうちで、やさしくて、子供を生みそだてる人。女子。女性とあって、「婦人」という語が消えている。もう「婦人」とはいえなくなった。「婦人警官」とはいえなくなったわけ。

【おとこ】《男》は、①人のうちで、力が強く、主として外で働く人。男子。男性と出ていて、三省堂の語釈は、原則的に小学5年生までで習う漢字の範囲で書かれているという。だが、子供のレベルに落としては書かれていない。

さて、ここまではわかる。

ところが、――

【じこ】《事故》の語釈を読んで、ぼくはびっくり。

「②その物事の実施・実現を妨げる都合の悪い事情」と書かれている。それはそのとおりかもしれない。用例が載っていなくて、ピンと来ないのだ。「いつだったか、じぶんはおまわりの職務質問にあって、カバンのなかを調べられ、カッターナイフがあったものだから、ちょっと来いと呼ばれ、草加警察署に連れていかれましてね、……。その話、いいましたよね? あのときは、説明にこまりましたよ」と、Sさんはいっている。

「ああ、それはぼくにもおぼえがありますね。木刀を裸で持ち歩いていて、職務質問を受けました。そりゃあそうですね。友人から木刀一本をもらい受けた日のことですよ」

「友人の名前と、住所、連絡先をいえっていうのでしょう? じぶんもいいましたがね」とSさん。「それですな。ここに3本ありますな」といって、Sさんは立ちあがって木刀の一本を持ち上げた。

「おっ、重いですな、……」といった。

これを木剣(ぼっけん)ともいう。つまり、凶器なのです。黒檀、蚊母樹は高価で、重い。赤樫は軽いけれど、強く打ち合うと折れやすい。

「《剣は一人(いちにん)の敵まなぶに足らず》ということばがありますね。この意味、わかりますか? だからといって、国民といえども、そのひとりから成るわけで、その意味は、万人を相手にしたときとおなじなんですよ」とぼくはいった。

「つまり、木刀を振るう人は、ひとりだけれど、天下国家を相手にするとき、万人を相手にする兵法にはかなわないって意味ですかな?」

「そうなんですね。でも、ぼくはこのことばが好きですね。剣道では《打って反省、打たれて感謝!》ということばがあります。相手を打って勝ってもけっして奢らない。打たれたときは、なぜ打たれたか知ることになる。勝った! 勝った! といってガッツポーズをしようものなら、1点減点される。打つことは、人の死を意味するので、喜ぶ場合ではないからです」というと、

「そりゃあ、そうでしょうな」といった。

「残心(ざんしん)ということば、英語にも、フランス語にもありません。ウクライナからやってきた剣道家は、ちゃんとした日本語で、そういっていました。剣道は、いってみれば、《残心》を極める武術といえるかもしれませんね」

「いかにも! ……ああっ、トイレしたくなった。わすれていましたな。……さっきから、我慢してたんですよ」といいながら、たばこの火をもみ消してSさんは立ち上がった。

《関羽の青偃月刀(えんげつとう)が首を三つ飛ばし、張飛の蛇矛(じゃぼう)が四人を馬から叩き落としていた。さらに首が飛びつづける》と読みはじめると、

「《三国志》ですな? そんな感じがしますな」とか、いっている。

「人が、用を足しているときに狙い撃つのは、卑怯です。フォークランド紛争のとき、英国人は、草原でズボンを降ろして、用を足している敵兵を見て、指揮官は撃ち方やめい! といって発砲を止めたそうですよ。英国人には、武士の情けではなくて、れっきとした騎士道精神というものがありましたからね」

それにしても、1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄港、イギリスに無断で民間人を上陸させたことに端を発している。日本は、日露戦争前夜、アルゼンチンにはひとかたならぬ世話になっている。装甲巡洋艦「日進」と「春日」は、建造後、アルゼンチンから買い受けたものである。そのアルゼンチンが! とおもったものだ。