淀 川長治さんの時 代
画家の太田英博さんと田中幸光(右)
むかし、淀川長治さんという映画評論家がいましたね。
その話をしてみたいと思います。
テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」という番組を、ずいぶんながいあいだ持っておられた方です。彼は、番組のおしまいに「さよなら、さよなら、さよなら」と3回もあいさつをする人でした。妻が札幌で交通事故にあったおなじ日、――平成10年11月11日(水曜日)に老衰のために亡くなられました。「みなさん、わたしは明日死にますからね」を繰り返し繰り返しいっていた人です。 このことばをいいはじめてから、5、6年後に亡くなられたわけです。そりゃあ楽しい人生だったに違いありませんね。
淀川長治さんとは、テレビ朝日の館内でたびたび会っていました。彼は隣りの全日空ホテルに住んでいました。テレビ朝日のすぐ隣りですから、歩いてこられる距離です。歩数にして200歩ぐらいでしょうか。すっかり曲がってしまった腰をかがめて、風の日も、雨の日も、カラヤン広場をのろのろひとり杖をついてやってきます。
それが、テレビカメラのまえに座ると、しゃんとして、生き返るというふしぎなエネルギーを持っている人でした。
画面で見ると、顔色も色つやもいいのは、メイクのせいです。出演するときは、スタジオのまえにあるメイク室に入り、だれでもいろいろお化粧するわけですが、きのうまでテレビに出ていた人が、老衰で亡くなった! と聞いて、世間はびっくりしただろうと思います。タレントの菅野美穂ちゃん(TVドラマ「イグアナの娘」に出ていた女性 )と淀川長治さんがアークヒルズの受付あたりで鉢合わせになると、美穂ちゃんに向かって「大きくなったね」といって、淀川長治さんは自分の子どもみたいに喜ぶんです。彼女にはいつ会っても、大きくなったね、というんです。150センチすこしぐらいですから、ちょうど淀川長治さんくらい。淀川長治さんは、たいがい車椅子に座っていますから、大きく見えただけかも知れません。
「ええ、おかげさまで大きくなりました」なんて彼女はいうんです。
美穂ちゃんは、可愛い顔をしているけど、ちっとも大きくならない。もう二十五、六歳になっているでしょうか。淀川長治さんは、美穂ちゃんがお気に入りだったようです。
「日曜洋画劇場」がはじまったのは、昭和42年4月。そして平成10年10月まで淀川長治さんが解説者としてテレビに毎週登場していましたから、なんと36年間(来年降板するニュースキャスター久米宏さんの18年間のちょうど2倍 )もテレビ朝日系のブラウン管に出ていた計算になります。おどろくべき長寿番組です。すべて洋画にしぼり、しかもゴールデンタイム二時間枠のレギュラー番組として定着。テレビ朝日のカンバン番組になっていました。
「チャンピオン」「子鹿物語」「裸足の伯爵夫人」「帰郷」など話題の洋画をどんどん放映し、《淀川長治》の番組として亡くなるまで話題をさらっていましたね。晩年になればなるほど、この番組の視聴率がアップしました。視聴者の多くは、淀川長治さんのお元気な姿を見たかったからでしょうか。
彼の「さよなら、さよなら、さよなら」がお経のように聞こえたものです。――ぼくの顔を見ると、淀川長治さんは片手をあげて、「やー」といってくださる。
亡くなられるころには、すっかり総白髪になり、目もはっきり見えなくなって、苦労されていたようですが、テレビ朝日の編制局には淀川長治さん担当の女性がいて、館内を車椅子に乗って彼女に押されていました。だいたいは、試写室という小部屋にいくのですが、淀川長治さんは夜遅く、11時すぎまでそこで仕事をしていました。映画をモニターしているんです。小部屋に入ると、次週の予告映画も観ますから、時間は四、五時間くらいかかります。そして、ちゃんとメモを取る。映画が好きという程度の人間ならざらにいますが、淀川長治さんは、映画がなければ生きられないほど狂っているんですね。こういう人間は、凄いと思います。
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カラー放送を開始したのは、資料によれば昭和41年の第1回目からで、そのときの放送作品は、ユナイト映画の「誇りと情熱」というアメリカ映画でした。ケーリー・グラント、フランク・シナトラ、ソフィア・ローレンといった大型俳優による自信作。ぼくは後年ビデオでそれを観ました。イタリアの女優ソフィア・ローレンの全盛時代で、いちばん美しいころの映画。いらなくなった映画ビデオを大量にもらい受けました。
ただ、当時はどこもまだ音声吹き替えはやっていなくて、スーパーインポーズという字幕方式で放映されます。テレビ朝日では、これを大胆にも音声吹き替えを決断した最初の放送局となります。劇場映画の名作を、吹き替えで放送するということで、編制局内では意見が真っ二つに割れ、洋画ファンにとって、名優の演じる声が替えられていたら、がっかりするだろうという意見が根強くあったようです。字幕方式はもう古いと考える若手の意見とぶつかり、最初から揉めたという記録が残っています。この記録は、30周年記念社史とともにテレビ朝日からいただいたものです。
で、それまで「土曜洋画劇場」で放映した「ローハイド」「ララミー牧場」で得た視聴データを参考に決断を下します。この映画もなつかしいですね。声優を使って全編吹き替えるという方針にしたわけです。これがあたって、視聴率がいきなりぐーんとアップします。
たとえば、アラン・ドロンならば野澤那智、フランク・シナトラならば家弓家正、オードリー・ヘップバーンならば池田昌子、マリリン・モンローならば向井真理子という具合に、俳優と役柄にあった声優たちの厳選がおこなわれます。これが、現在のテレビ映画の吹き替えを決定づけていったわけで、ほかの局でも、テレビ朝日が使った声優キャストがだいたいの基本になって、海外の俳優たちの専属声優システムというものができあがっていったわけです。これに最初から貢献したのは、じつは淀川長治さんだったわけで、この検討委員会の主要なメンバーでした。こんなウラ話は、一般には知られていないと思いますが、すばらしい仕事をされました。彼は映画とともに生き、映画の未来を信じた人だったと思います。
なにしろ映画については経験ゆたかで、なんの気取りもなく、視聴者の知りたいツボをぴしゃりと射抜く、あのしゃべり方はちょっとありません。映画が終わって、ふたたび淀川長治さんが登場し、そして次週の予告につづくエンディング部分で、「今週はこのへんで。来週またお目にかかりましょうね。それではさよなら、さよなら、さよなら」と、余韻を残して終わります。
このワンパターンとなるエンディングは、淀川長治さんご自身が決めたのだろうと思います。たいへんいい番組になっていると思うのは、そのエンディングです。テレビ朝日には、質問の電話がたくさん寄せられたらしいのです。
「さよなら、さよなら、さよなら」と三回も繰り返すのは、何か理由があるのか、という質問で、ずっとたってから、ある日番組のなかで、ほんとうは30回くらいいいたいのだけれど、テレビ局から下ろされたくないので、3回にとどめているのだというのです。
――これを観ていらっしゃる方々はたいへん大勢で、1000万人か、1500万人かわからないけれど、それぞれの人にお別れするんですから、「さよさら」一回だけじゃ、どうしても足りません。で、そういう理由でぼくは3回やっているんですね。3回しかやっていないんですといったほうが、ぼくの気持ちに近いんです。おわかりいただけたでしようか? では、また来週お目にかかりましょうね。さよなら、さよなら、さよなら。――という具合。
91歳で亡くなられるまで、現役でとおした偉大な映画人でした。
民放テレビ局というのは、ほとんどCM収入でまかなっています。ですから、CMと映画との関係は切っても切れない関係にあります。といいますのは、航空機事故にあう映画には航空会社のCMは入れない、自動車事故をあつかう映画に自動車メーカーのCMを入れない、というような考えがとうぜん出てきます。
これには淀川長治さんはたいへん意を用いておられ、映画がCMによって中断されることの、感覚的な落差とギャップについて、深く考えた人だったと思います。このあいだ、ぼくは小説のなかで、もう亡くなった人をしずかに思い出すというシーンを書いていたとき、偶然にも、テレビのコマーシャルで「やっぱりお墓のなかがいちばんのようです」というナレーションが聞こえてきました。やれやれ、思わず噴き出してしまった! さっそく忘れないためにメモを執りました。殺人事件が出てくる映画で「やっぱりお墓のなかがいちばんのようです」なんていうコマーシャルがやられたら、とてもおかしいにきまっています。それだけじゃなく、視聴者の気分が殺がれてしまうでしょうね。
これと似たようなことにならないために、テレビ番組は考えるべきだと彼はいったわけです。
淀川長治さんと会っていると、ほっとします。
ぼくは事業に失敗しましたが、それでもへこたれず、負けても、こんど勝てばいいと思わせる勇気を与えてくれた人、――それは淀川長治さんでした。彼の「さよなら、さよなら、さよなら」は、ほんとうに「さよなら」なんだと思います。そして、「ぼくは明日死にますからね」というあいさつ。なんていうほがらかなことばだろうと思います。明日死ぬ、そうであってもいいとする達観。エンターテインメントの極地。これ以上のことばはないと思えるくらいすばらしいんです。
人生を擲なげうつこともしない、そういう度胸を教えてくれたのは、ぼくの敬愛してやまないヘミングウェイでした。「人生は 戦いぬくだけの値打ちがあるのだ(The world is a fine place and worth fighting for.)」といったのもヘミングウェイでしたが、何も歯を食いしばって、何十年もクソ度胸を試しつづける必要なんかない。あればあったで、なければないで飄々ひょうひょうと生きる人生こそ、楽しいじゃないか、そうおっしゃる淀川長治さんの声が聞こえてくるようです。彼は人生を精一杯に楽しんだ人だと思います。
ぼくは、淀川長治さんの人生を見倣って、飄々と生きてみたいなと思っています。そのように思う主人公をペーパーの上に書き込んでいます。
で、高校生のとき、父親から漢和辞典というのをゆずってもらい、とにかく日本語が読めるようになりたいと思いました。まず新聞が読めるようになりたいと。これがなかなか読めませんでした。で、みんなに追いつくには、辞典を読むにかぎると短絡的に思いました。漢和辞典には、漢の時代の元の文字の興りから、どのように変遷し、また意味がどのように変化していったのかということが、ちゃんと書かれていました。
漢和辞典を読むといいましても、もともと読めないのですから、最初はちんぷんかんぷんでしたね。次第になんとなくわかるようになってきます。そのなんとなくというところが、だんだんとはっきりしてきます。ついに「ははーん」と思います。「だからなんだ!」と合点するものが見えてきます。ぼくは、その「ははーん」をまず勉強したいと思いました。つまり、扁と旁つくりの組み合わせです。
その方法で英語も独学しました。高校生ではあっても、ぼくの場合は全部が全部、独学でした。仲間といえば森茂さんぐらいでしたね。彼はぼくと違って優秀でした。ぼくは何回も勉強しなければわかりませんでしたから。
英語、――というよりも、ひろくヨーロピアン言語全体が、扁と旁でできている、ということなんです。そのようにいう学者なんかいないと思いますが。ぼくは、あきらかに単語は扁と旁でできている、と思います。テレビは「tele‐vision」というように、「tele=遠い」と「vision=映像」というギリシャ語が語源になったことばがくっついたものですし、電話なら「tele‐phone」というように、「tele=遠い」と「phone=音」ということばがくっついたものです。妊娠はconceptionといいますが、「con-=共に」「ception=生殖器官」の合成語なわけです。妊娠だって、相手がいなければできませんので、単語にはご丁寧にも「con-=共に」がくっついているわけです。「con-」が頭にある単語はすべてそういう意味を含んでいます。Conceptionはのちに「概念」という意味に発展していきます。産み落とされるまえの胎児の状態をいい、名前もなくて、この世にまだ存在していないもの、つまり、さまざまな想念を胎盤に守られてすくすくと育つ「概念」という意味になっていくわけです。
すると、英語も意外に楽に知ることができるというわけです。
はじめて見る単語でも、あたらずといえども遠からずで、どんなことばなのか、予知することができるようになります。英語の80パーセントはすべて外来語ですが、ギリシャ語がローマの船に乗ってやってきたことばは、大陸からきたことばとは違います。たとえばアップルは林檎ですが、ギリシャ語では木の実という意味になります。モノクロのモノは、ギリシャ語で、古代ギリシャ時代の数字の「1」です。単一のという意味になり、クロは、クロームの略で、乳剤です。単一の乳剤ということになり、カラーじゃないというわけ。モノトーン、モノレールなど。
こういうことは、中学生のときに少しでも教えてくれたなら、よかったなと思います。それに、楽しいし。ぼくでもわかっただろうと思います。辞典を読みますと、そのことばは、どこからやってきたことばなのか、海を越えてやってきたのか、陸づたいに――つまりヨーロッパ大陸を歩いてやってきたのかなどまでわかります。単語のルーツがそれぞれわかってきます。漢字も英語も、構文までおなじですから、白文のままで漢詩も読めます。つまり、空海が読めるというわけです。
今回、アメリカの詩について書いたのですが、たとえば、このように鑑賞しますと、いくらかはおもしろく鑑賞できるのじゃないか、そう思って書きました。これは、ぼくの27歳になる娘のために書いたものです。
川田さんにせっかく手紙を書くのですから、何か近作をお贈りしたいと思いましたので、これをお送りいたします。ともかく、元気でやっております。ぼくのマンションは港区内の外務省のすぐそばです。生活圏じゃありませんが、こういう仕事をするには便利なところです。眠たくなれば寝て、書きたくなれば書き、時間はまったく気にしません。
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宮部みゆきさんの推理小説、『模倣犯』は130万部も売れているそうです。数億円の印税収入。ヒット作をつくりたいというのが、ぼくの目下の志。フランスのバルザックという作家は、たいへんな浪費家で、借金まみれのなかで創作し、大作をつぎつぎに書きまくっています。
あのエネルギーはなんということでしょうか。ぼくなどは、いくら望んでみても、とうてい叶いません。
イタリアには、「やぶれて英雄になる」ということばがあります。
ダ・ヴィンチとマキャヴェッリの話をいうことばです。このふたりは、つるんで人生最大の失態を演じています。マキャヴェッリは逮捕され、ダ・ヴィンチは5年間もままならない暮らしに追い込まれます。借金があるなどという生易しいものじゃなかったようです。
ですから、彼らは偉大な仕事ができたわけです。つまり、ありあまるほどの時間が、ある日、ぽっとできてしまったということです。おかげで、後世に残る傑作がつくられます。ダ・ヴィンチは人体解剖図や機械工作図をつくり、近代医学に貢献し、マキャヴェッリのほうは『君主論』やさまざまな論文を書きました。フィレンツェ政府の一介の行政書記官とは思われない業績です。ダ・ヴィンチのほうは、もともと土木工学師です。
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「男子3日会わざれば剋目かつもくして待つべし」ということばが『三国志』のなかに出てきます。
3日も会わないでいると、それぞれの相手がずいぶん変わってしまっているから、剋目せよ、というわけでしょう。おもしろい表現です。川田さんと会わなくなっていったいどのくらいたつでしょうか。それはそれはお互いに大きく変わっているでしょうね。このぼく自身も変わってしまいました。自分でもわかります。冒頭に申し上げたように、イタリアに住んでみたいなんて! 自分でも驚いています。
「やめとけ!」といって忠告してくださる人もいますが、ぼくは、39歳のときに、ガンを患い、いちどは拾ったいのちだと思いますと、怖いとはちっとも思わなくなりました。それ以来、ぼくは母親の血筋を引いてしまったのか、大胆さがおもてに飛び出してきた感じです。今回のダイナミックな事業失敗といい、現在、ぼくの個人的な借金は額にして9000万円もありました。資本金の9割はぼくのお金ですし、あと借り受けた額がたくさんあります。ほんの少しずつ、1000万円借りた銀行には、月々5000円ずつ支払っているような程度です。あとは待っていただいています。
100億円もの借金がある人が先日TVに出ていました。彼は、月々2万円ずつ支払っているといっていました。その調子でいくと、いったい彼は、何年払いつづけることになるんでしょうか。100億円の借金があっても、ちゃんと生きられる社会にはなっているようです。げんざい、ぼくは事業を廃業していますが、じっさいは、会社は完全にまだ死んでいるわけじゃないんです。
つまらない話なので止めますが、ぼくは、人生はなかなかおもしろいと思っています。何があるかわからないストーリー。マキャヴェッリだって、逮捕監禁されてこそ、いい仕事ができたのですから。人はやぶれて英雄になる。――まさしくそう思います。
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ついでですが、9月号の文藝春秋を見ていましたら、直木賞作家の藤堂志津子さんの写真が載っていました。札幌の「芸術の森」で撮られているものでした。ちょっと失礼ないい方ですが、もうおばさんになっています。
ぼくが彼女に会ったのは、昭和五十七、八年ごろだったと思います。東京から札幌に引っ越して間がないころで、長い入院生活を終えたころ。彼女はパブリックセンター(札幌の広告代理店 )で仕事をする前のころだったと思います。ぼくは何かの用事で、彼女に原稿依頼をしました。
「ああ、残念だわね。ヒマなんですけど、ちょっと忙しくしてて」といいます。
「何してるんですか?」
「じつは、小説を書いているんです」
「ほう、小説ですか……」といって、ぼくは相手にもしませんでした。それで食べていけるはずもないだろうと、心のなかでひそかに思いながら、彼女のブンガクの話を聞き流していました。それからふたたび会ったとき、偶然にもパブリックセンターのなかでした。沖田部長(現専務)から彼女を紹介されました。なーんだ、ここにいらしたんですか? といいましたら、入ったばかりだといっていました。彼女はホクレンの仕事に取りかかったばかりで忙しく、しばらく一階の喫茶店で話し込みました。
「小説は、いかがですか?」と尋ねますと、「書いたわ」といいます。
「ほう、そうですか」といいながら、ぼくは彼女にどんな小説を書いたのか訊きもしませんでした。
エンターテイメント系の小説には、まったく関心がなかったからです。自分はひそかに書いていることなんて、まったくいいませんでしたが、当時ぼくは、もっとも関心のあったイギリスの小説の話を、他人事のようにおしゃべりしただけだったと思います。彼女はぼくの話もちゃんと聞いてくれました。
そのうちに、暑い八月になり、彼女の『マドンナの如く』という作品がいきなり直木賞にノミネートされていることを知りました。そして、次作の『熟れてゆく夏』で第100回直木賞を受賞しました。ぼくはもうびっくりしました。
彼女の周辺は急に慌しくなったみたいです。
彼女の本名は熊谷政江さんといいます。北海道の熊谷、――その「熊」というネーミングが悪いと思ったのでしょう、編集者の意向に添って、現在の名前、藤堂志津子に切り換えたのだそうです。そういうことってありますよね。で、ぼくもかたちが悪いのですが「田中ゆきみつ」としています。ともに30代。いや、ぼくはもう40歳になっていましたね。39歳で亡くなったショパンの年令を過ぎていたと思っていたころでした。ある若い女性といっしょに札幌の厚生年金会館でショパンを聴いていたころでしたから。
それからというもの、ぼくは隠れて小説原稿を書きました。
隠れてとはいっても、他人さまだけに隠れてです。なにしろワープロは業務用のでっかいもので、キヤノンから出ていた「キヤノワード60」を一階のリビングルームに設置して、家族のまえで夜となく昼となく書斎の鬼になって打ち込んでいました。1台が162万円もする、車なみに高価なワープロでした。
現在、藤堂さん54歳と雑誌には書かれています。まだまだ若い。札幌でいつかふたたびお目にかかったとき、「田中さんも書けば……」といわれてしまいました。 はげしい嫉妬をおぼえました。ぼくはむかしから嫉妬深い人間でした。
人のやれることは自分もやれると思い込んでいる人間でした。逆に、自分にできることは、人もできると思い込んでいました。
ぼくのガンは、第4腰椎で、そこに3つのガンができていました。入院先で考えていたことといえば、小説を書くことでした。かりに五年生きられるとすれば、小説の一編ぐらいは書けるかもしれない、そう思っていました。――この体験をもとにして書いた小説『ひまわり』の一部を写してみます。
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「田原さん。わたしはね、男の人には夢を捨ててほしくないんです」
17年まえ、そういってくれたのは、20歳の学生さんだった。田原が39九歳のときだ。田原がガンの手術を受けたときに出会った看護学校に通う学生だった。彼はその女性に見せたのである。ベッドのうえで即興でふざけて書いた小説だった。
名前を佐原美佐子といった。
彼女は膝の靭帯じんたいを切って、おなじ病院に入院していた。期末試験がちかいというので、美佐子はベッドなかで英語の勉強をしていたらしい。ある日、英和辞典を借りにやってきて、田原が手術を受けた日の朝、美佐子は退院した。退院する彼女は、辞典を返しにやってきて、つぶやくようにいったことばが「男の夢」の話だった。麻酔からさめて、田原は美佐子がいい残していった「男の夢」の話をつらつら思い出し、痛く感じ入った。田原はいつか小説を書きたい、ともらしていたから、ここでいう夢とは「小説」のことだ。かりに5年生きられれば、小説の一編ぐらいは書けるだろう。
田原は、そのときちょうど術後の麻酔をぬくために、酸素室に入っていた。なんとも妙な気分だった。まるで、排便の真っ最中に彼女がとつぜんあらわれたような、落ちつかない気分だった。まだ麻酔が抜けきっていなかったから夢うつつの感じで、彼女の顔を真下から仰ぎ見るあのアングルは、なにしろ強烈だったことを覚えている。
だから、美佐子の話はぼんやりとした感じで受けとめるしかなかった。耳から入る話よりも、彼は目から入る彼女の視覚的な情報を精一杯つかみ取ろうとしていたらしい。田原の病気がなんであるか、彼女は知っていたし、たぶん、そのときのさよならは、永遠のさよならになるだろうなと、彼は思った。
病院で聴いた音楽はぜんぶ、美佐子のウォークマンで聴いた。そして、何週間かたち、ベッドの背面が四十五度角まで立てられ、座ることができるようになると、食事もほとんど自分でとることができた。配膳用のカウンターを手まえに引っぱってくれば、本も読める。やがて日記や手紙も書けるようになる。田原は、ほとんどなんの期待もせず、つらつらと佐原美佐子あての手紙を一通書いた。そして患者仲間の手で、投函。はんぶんは、悪ふざけだった。
すると、一週間もしないうちに、彼女からまじめな返事がとどいた。
なかに、エドワード・ジェンナーに関する分厚いコピーが同封されている。なぜか、彼はエドワード・ジェンナーの種痘法について知りたいと思っていたし、事実、そのとおりのことを手紙に託したのだ。たぶん、看護学校にはその種の資料もたくさんあるだろうと勝手に希望をつづっていた。しかし、それは彼の口実だった。種痘法など、どうでもよかったのだ。その手紙はたぶん、いまも家のどこかにあるはずだ。
で、病院と彼女の寮とのあいだで、何通かのやりとりがあって、3月21日、ちょうど日曜日の晴れた日の朝、田原は退院した。――おれは退院したぞ! と、叫びたい気分だった。退院したその足で、彼は自分の車で、豊平区の看護学校にいってしまった。
ユキ子は、家で退院する夫を迎える準備をしていたかもしれない。
美佐子は、玄関先で、田原がやってくるのを立って待っていた。
田原たちは、近くのレストランで食事をし、それがおわると、彼女を乗せて札幌駅へとむかった。美佐子は春休みを利用して、その日、彼女の実家のある室蘭へ帰省することになっていた。だから札幌駅についたら、お別れする、そういう予定だった。ところがその日、大きな地震があった。午前11時32分、浦河沖地震が発生したのである。マグニチュード7・2。最大震度は浦河で6、140万都市札幌では4を記録した。田原はちょうど車を運転していて、よくわからなかった。
北海道の長距離列車は全線ストップした。しかたなく、ふたりは駅の喫茶店に入って運転再開の時間がやってくるまで、つき合うしかなかった。そこにいたのは、なんと九時間もいたことになる。そのとき店内に流れていたのは、ビートルズの「抱きしめたい」とか「プリーズ・プリーズ・ミー」とか、名前の忘れたグループサウンドだったりした。
「それで、いまはだいじょうぶなんですか?」と、美佐子はきいた。
「まったくダメです。病院のなかじゃ、そんな気分にはなりませんからね」と、田原はいって、笑ってごまかした。実際は深刻な問題だった。勃起不全の話である。男性にはそのような症状があるということは、すでに彼女は知っていたらしい。が、美佐子は多少興味を持ったらしく、興味ある質問を彼に浴びせる。
「かわいそう! ダメなんですか? いろいろためしてみました?」
「やってみたけど、ダメなんです。若くても腰椎の手術にはつきものの問題で、だいじな神経を切られてしまえば、ドクターがいうほどかんたんじゃなさそうな気がする。……」
「腰椎の場合は、しばしばあると聞いていますが、どうでしょう」と、美佐子はいった。もしかしたら、一種の神経過敏症なのかもしれない。デリケートな問題だった。
「もし、このままだと、どうなさるんですか?」
彼女の唇のあいだから放たれることばは、田原のおかれた立場の核心を衝いていた。それにその動きが、彼に未来を予感させた。
「わたしを誘ってくださったのは、なぜですか?」
「いい質問。しかし、なぜかな……」
田原はたばこに火をつけ、相手の黒い目をのぞきこんだ。ぞっとする人生だろうなと、彼は思った。同情すべきクリフォード卿の悲劇が、彼の目の前にたちあらわれた。――慈悲というものは、神の遣つかわすものだ。慈雨が空から降って大地をうるおすように、まさにそうあるべきものとして、彼は受け入れようと思いはじめた。
「田原さん、なぞなぞは、止しません?」
田原は彼自身の心を苛さいなんだ。美佐子は彼の申し出をどんなふうにきいたのか知らない。――そのときの田原の格好は、院内で使っていた厚手の冬もののガウンを着ただけだったから、どんなにことばを着飾っても、はじまらない。おまけに松葉杖を使っていたのだから。
「ご自分をいじめるのは、もう止しません? 田原さんには、将来があるんですし、もっとまじめに生きてください。人間としてです。そうじゃありません? きっと治ります」と、美佐子はいい切った。
それが田原にたまらない慰藉を与えた。「このあいだから、目がかすんだ感じで、辞典の小さな文字が読みにくくなってね……」
「手術するとそうみたい。――わたしの顔、ちゃんと見えてますか?」
「そりゃあ、ちゃんと見えてますよ。きれいにね」
「まあ、きれいは余計です」
といって、美佐子はストレートのコーヒーを少し飲んだ。そのうちに冬の太陽がひとまわり小さくなり、やがて夜になり、窓ガラスに自分たちの顔が大写しになって見えると、店内が騒がしくなった。
「まだかしら。ちょっとわたし見てきます」といって、美佐子は改札口のようすを見に出ていった。じきに戻ってきて、「まだダメみたい」といい、室蘭方面の長距離列車は静内大橋の橋脚が破壊されたり、鉄道に土砂くずれが発生して、ストップしたままだといった。
「今夜は、ダメかもしれないな」と田原はいった。
「そんな! そんなこといわないでください」と、美佐子はいった。
「だいじょうぶだよ、きっと動くよ」田原は、気休めをいった。
「田原さんになぐさめていただかなくてもいいんです」と、美佐子はいった。
彼女の小さな手に、ワインレッドの花柄のハンカチが握られていた。彼女の手は、からだに似合わず小さかった。美佐子の眉毛の数本が、つんと立っているのが気になった彼は、美佐子をいつか写真に撮ってみたいと思いはじめた。
そのうちにレコード曲が変わり、マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の前奏曲がかかって、ボリュームが一段アップする。なにか芝居めいた店内が、舞台装置のような雰囲気になる。
いろいろな人間がいた。
列車を乗り継いできた者もいただろうし、どこか名のある料亭の女将おかみといった感じの、和服姿の女もいた。地方の農協の関係者らしい男たち、漁師の浜ことばをあやつる男女や、寝具販売かなにか商売の話に熱中している男たちもいる。みんな、この舞台のうえで、それぞれの役割を演じる俳優のようだった。しかし、ビジネスマンらしい姿は見えない。彼らは、列車をめったに使わない。
やがて、閉店時間がやってきて、田原たちはそこを追いだされた。
外は真冬だった。
外に出たのはいいが、駐車場はすでに閉まっている。足の便がうばわれて、彼は寒さにふるえながら松葉杖をたよりに、雪道を歩いた。しかたなくふたりは近くのホテルに泊まることになった。なにしろガウンしか着ていなかったのだから、ホテルの人間もびっくりしただろう。ガウンに松葉杖。田原たちの事情など、彼らの知ったことじゃない。
ベッドは硬くて、寝心地はよくなかった。いかがわしい安ホテルだった。スチーム暖房はあまり効かず、落ちつかないけばけばしいつくりだった。ベッドわきの壁はすべてミラー張りになっていて、よく見ると天井までミラー仕掛けになっている。美佐子は黙って、シャワーを浴びるために浴室を使った。
田原はコルセットで上半身をきつく締めつけていたから、ベッドのうえで寝転がってコルセットをはずすと、ほっとした。やがて美佐子がやってきて、「お願いがあります」といった。
清拭(せいしき )をやらせていただきたいんです。お願いします」というのだ。いかにもお願いします、といって頭をさげた。