圖(カント)、哥羅垤斯(シオコラテス)の話

 

おはようございます。

朝早くから、いきなり漢文の話を書きます。

 

「――そうかい。楽しいかい。ついでに、辞書には載っていない話をするよ」といって、ぼくはこんなことをいいました。

漢学の伝統がしっかり根をおろしていた明治のころは、ヨーロッパ哲学の翻訳もなかなか容易ではなかったようです。人名もすべて漢字に翻訳されています。

北インドに生まれた仏教のことばが、中国にわたってすべて漢字に翻訳されていったのとおなじです。人の名前まで漢訳されました。

たとえば、哲学者カントは「韓圖カント」と書き、ソクラテスを「所哥羅垤斯シオコラテス」と表記しました。それらの論文の中身も漢文が主流だったので、すべて漢字に頼らざるを得ませんでした。

そこで、アリストテレスは「亞利斯多拉アリストツトル」、デカルトは「垤加爾多デカールト」、プラトンは「伯拉多プラト」、ヘーゲルは「俾歇兒ヘイゲル」と記されました。

「おもしろい! お父さんはどうしておぼえたの?」

むかしの本を読んで覚えました。

当時のエリートたちは、というより、女学校を出るほどの女性たちも漢文が読めることがあたりまえだったわけです。まずもって漢文が読めなければ、勉強もできなかったわけですね。テキストはすべて漢文で書かれていたからです。

ちなみに「フィロソフィ」は、「専ラ理ヲ講ズル学」というわけで、「理学理論」と訳されました。ギリシャ語の由来は、「ソフィア(知識)」を「フィロ(愛)する」という意味です。知識を愛する学問。

これを、のちに「哲学」という字に翻訳したのは、西周(あまね)という人です。

もしも外来語そのままにカタカナ表記になっていたとしたら、こんなふうになっていたでしょうね。

「理性」はヘアヌンフト、「意識」はベヴストザイン、「現象」はフェノーメン、「主観」はズプエクト、「客観」はオプエクト、「概念は」ベグリフ……というぐあいに。哲学論文の邦訳は、およそ呪文のようになっていたでしょう。

「へぇ、そうなんだ! そっちのほうがずっとむずかしい」

「漢文といっても、ついこのあいだまで漢文だったんだよ。漢文の読み方を勉強したいと思ったら、漢文を読むことですよ」といいました。

じっさい、読めば読むほど自然に分かってきます。

この「自然に」というのがコツです。

むずかしい本を読んで分かろうとするよりも、ほんものを読んで分かろうとしたほうがいいようです。英語を分かろうとするとき、英文法の本とにらめっこすると思いますが、肝心のことが分からなくなります。つまり、英語の語感です。英語の語感は文章を読まないことには分かりませんね。

この世に生まれて3年しかたっていない女の子でも、おしゃべりがじょうずです。お母さんのことばを覚えるからです。

3歳の女の子が、「どうもどうも」なんていうのを聞くと、笑ってしまいます。

でも、彼女にはちゃんと語感が備わっていて、びっくりするくらい大人っぽいおしゃべりができるわけです。

きのうは、ふたたび五十嵐さんからお電話を頂戴し、「三国志」の世界から「かおり」の世界へと引き戻されました。ぼくは、ちょうど漢文を読んでいたところです。かおりさんの世界も悪くないなと思いながら――。


さて、先日は「三国志」についておしゃべりしました。

そのなかで、曹操は宦官(かんがん)の家系に生まれたと書きましたが、これにはちょっと説明が要るかと思われますので、ふたたびペンを執ります。

「宦官の家系に生まれた」ということ自体、とても奇妙に思われると思います。なぜなら、宦官というのは、宮廷の後宮(こうきゅう)、つまり奥御殿、――皇帝の妃(きさき)や女官たちが住まうその場所に勤務する男性役人のことをいいます。

この役人になるためには、睾丸を切り落とす必要があったのです。もちろん大人になるまえ、10代の若いころに切り落とします。

曹操は、代々宦官の家系に生まれたというからには、睾丸を切り落とさなかった役人がいたということになりますか? 少なくとも、彼の父親は切り落とさなかったのではないか、そう思ってもふしぎではありません。

睾丸を切り落としてしまうと、子孫は生まれないわけで、ちゃんと子孫を残しているということは、そこに何か事情があると思っていいでしょうね。

宦官はなぜ睾丸を切り落とす必要があったかといいますと、奥御殿の、女性だけが住む場所に勤務するわけですから、間違いがあってはならないわけです。皇帝以外の男が、もしも女官に子種を残すようなことがあってはならないからです。女官たちは、皇帝の子種を宿すことが使命です。

そういう場所に、りっぱに男性機能を有する成人男性が勤務すること自体、奇妙な話です。

で、調べてみますと、即位した皇帝がまだ子供のときは、宦官のなかに一般役人も、特に命を受けて宦官の職に就いていたことがありました。

曹操の父親もそのひとりであった可能性がありますが、いましばらく調べてみる必要があります。詳しいことは分かりませんが、そうでなければ、曹操が生まれるはずがありません。

そのことを蛇足ながら、ここに申し添えておきたいと思います。

このような宦官制度は、中国はもとよりのこと、オスマン帝国、インドのムガール帝国にもかつてありました。

皇帝や後宮に接近して政治の実験をにぎるなど、宦官の政治的な影響力には大きなものがありました。曹操の時代にも宦官という役職は、そういう意味では名誉ある役職だったようです。

そうはいっても、子供を産まない女官は、皇帝が亡くなると、殉死させられます。それほどきびしい世界だったようです。

ところが、宦官は、若いころに睾丸を喪失するので、第2次性徴が止まり、男性機能が衰えたり、髭も生えず、声変わりもしない男となって、特有の「宦官症」という病気を発症するわけです。それはどういうものか、想像の域を出ませんが、かつての中国にそのような制度があったといいます。

当時の政治的な勢力には、外戚、宦官、清流の3つがあったようです。

外戚(がいせき)というのは、母方の親戚です。清流というのは、名門というほどの意味です。

これは後漢の時代のことですが、竇武(とうぶ)と太傅(たいふ)の位置にあった陳蕃(ちんばん)が、宦官の曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)の専横をうらみ、これを取り除こうと謀りますが、機密がもれて、ぎゃくに曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)によって殺されるという事件が起こりました。

これが起こったのは、皇帝がわずか13歳で即位したばかりのころです。

大将軍の竇武は、霊帝(れいてい)の前の皇帝、つまり桓帝(かんてい)の皇后の父でした。桓帝には子がなく、霊帝は傍系から入って帝位についた人で、桓帝の竇とう皇后はなお皇太后として、朝廷内に重きをなしています。その背後にいたのがすなわち皇太后の父、竇武です。

一般にこのような皇后、皇太后の里方の一族を外戚というわけですが、後漢の時代には、竇武のように外戚の大物が、軍事面の最高権力者である大将軍の地位につくのが、ふつうでした。

太傅(たいふ)の陳蕃(ちんばん)は、この時代、清流と呼ばれた儒教的な知識人であったようです。太傅というのは、いわゆる皇帝の指南役というような名誉職で、官僚集団の最高位にありました。

当初、桓帝は出身のいやしい田(でん)貴人を寵愛し、皇后に立てようとしますが、陳蕃に反対されて、家柄のいい竇武の娘をやむをえず皇后にしたという経緯があり、陳蕃と竇武はそのときから協力関係を築きます。

この両者が打倒しようとした曹節や王甫ら宦官は、いうまでもなく皇帝の奥向きの用をつとめる去勢された男たちのことで、いわば皇帝の私的なネゴシェーターでした。そういうことで、この事件は、外戚勢力と知識人、官僚勢力が結託して、皇帝の権威をかさに着る宦官勢力を追い払おうとして失敗した事件でした。

このように、正義の味方であったはずの清流派が勢力を失い、濁流のような宦官が実権を握るという時代になり、それが原因で、後漢王朝がだんだんと滅亡していったという象徴的な事件です

ひと口に宦官といっても、このように権力の強い集団になっていったわけです。

――中国には、正義が滅び、悪が栄えるという時代がいくども訪れます。

「三国志」をいっそうおもしろく読み解く歴史がそこにあり、それらを下敷きにして読んでいきますと、とてもわくわくします。


黄巾(こうきん)の乱が起こった年、曹操と孫堅はともに数え年で30歳。

劉備は24歳。

この3人は、黄巾の乱によって物語の舞台に登場します。この年、孫堅の長子の孫策(そんさく)は10歳、次子の孫権はわずか3歳。諸葛亮孔明は4歳です。

若いころ、「乱世の姦雄(かんゆう)」と評されてにんまりしたという曹操は、宦官曹騰(そうとう)の養子、曹崇(そうすう)の長男として生まれています。――これで謎が解けました。曹崇(そうすう)の息子として生まれていたわけです。つまり、養子の子でした。

宦官曹騰が亡くなったとき、魏の明帝は、「高皇帝」の尊号を贈ります。

死後の追贈ではありますが、中国史上、ただいちどの宦官出身の皇帝となりました。

その養子となった曹崇(そうすう)は、もと夏侯(かこう)氏の出であったといわれますが、養父がためこんだ莫大な財産によって官職を買い、太尉にまでなりました。このことは、清流派からみれば、唾棄すべき濁流です。曹操は、そういう自分の出自におそらくコンプレックスをもっていたのではないでしょうか

さて、その曹操には謎めいたことばが残っています。

劉備が漢中を手に入れたのち、曹操の魏王の向こうを張って漢中王となります。漢中はかつて漢の劉邦が項羽に追い込まれたのち、この地を根拠に天下統一を成し遂げ、漢という国号の由来になっている土地です。

そのめでたい漢中を手に入れた劉備は、きっと漢王朝の復活の夢に燃えていたことでしょう。このときが劉備の生涯のなかで最良の日々であったと思われます。

 そのとき、劉備に負けてやむなく撤退した曹操は、「鶏肋(けいろく)」、つまり、鶏のあばら骨という謎めいた命令を出しています。この「鶏肋」ということばの意味は緒家によっていろいろに解釈されているようですが、ぼくは、ある専門家のいうことばに真実味があるのではないかと思い、以下、それについてすこし述べます。

 それまでは、曹操が狙った漢中を、いま一歩のところで獲得できなかったことに、負け惜しみをいったらしいという解釈が一般的でした。

 曹操は、張魯が降伏したのち、漢中の住民数万を長安にただちに移住させています。また漢中軍事の統治に当たっていた杜襲(としゅう)もまた、住民をうまく手なづけ、八万あまりの住民を洛陽と鄴都(ぎょうと)に自主的に移住させています。

 劉備がせっかく手に入れた漢中は、人のほとんどいない空の土地でした。劉備は、曹操との戦いに際して、蜀の学者、周羣(しゅうぐん)に戦いの成否を占ってもらったところ、彼は「その土地を得べきも、その民を得ず」と答えたといいます。はたしてそのとおりになっていることから、ぼくは先の「鶏肋」の意味を、つぎのように読みました。

 人口の激減したこの時代、人間はある意味では土地よりもずっと値打ちがあったはずです。土地の占領がむずかしいと知った曹操は、その土地の人間を連れ去ったと思われます。残った土地は、なるほど食べるところのない鶏肋のようなもので、「取るに足りず」です。曹操の負け惜しみなどではなかったとぼくは見ます。

いかがでしょうか?

曹操のほうが、1枚も2枚も上手です。

そのまえに、曹操は、長江沿岸の地域が、孫権の攻撃を受けるのを心配して、住民を北に移住させようとしたことがあります。ところが、これに驚いた住民10万は、長江を渡って東に逃げてしまいます。そのため長江の西の曹操側の地域は、合肥(ごうひ)の南の晥城(かんじょう)をのぞいて無人地帯となります。

住民は、どうやら孫権の支配地域のほうが暮らしやすかったとみえます。のちに曹操が漢中の住民を内地に移住させたのは、このときの経験に学んだらしいといわれています。

ある日、孫権は曹操に手紙を送ります。

「春水まさに生ず、公よろしく速やかに去るべし」と。春になって川の水かさも増えたので、一刻も早く帰りなさいといいます。さらに別紙に「足下死なざれば、狐は安らかならず」と書き記します。そなたが生きているかぎり、拙者は安心できないのですといいます。

これを見た曹操は、「孫権はわしを馬鹿にしてはおらぬな」といって、なんと素直に撤退しているんですね。

若いけれど、孫権の力を見くびらず、正統に評価していたと見る人もいます。

このとき、孫権は大きな船をしつらえて、大胆にも曹操の軍営を偵察に出かけます。曹操側は船めがけてさかんに矢を放ち、片側に矢を受けた船は大きく傾きます。

すると孫権は船の向きをくるりと変え、反対側にも矢を受けてバランスを取り戻し、悠々と引き上げていったといわれます。

このとき、曹操は59歳。孫権は32歳だったそうです。

親子ほども年がちがう孫権に、曹操は好敵手を見出したようです。

ふしぎなことに、このふたりは一度も会ったことがありません。

ふたりが最も接近したのは、この戦いのときでした。

劉備と曹操、劉備と孫権はそれぞれ面識がありましたが、孫権と曹操はいちども出会っていません。いつも手紙です。

関羽(かんう)を討つにあたって、孫権は曹操に手紙を送ります。このとき、曹操は魏王になっていて、孫権よりも格が上です。そのため、同盟を結ぶには臣従というかたちを取らなければならなかったようです。この手紙で孫権は、さらに曹操には天命があると説いています。天命を受け、皇帝となるよう暗にうながしたもので、要はご機嫌とりです。

受け取った曹操はその手紙を臣下に見せ、

「この児()は吾(われ)を炉火(ろか)の上に著(ちゃく)せしめんと欲するや」といったそうです。こやつめ、わしをストーブの上に座らせようとしているな、と。

 この解釈は、ちょっとむずかしい。

 曹操は、著名な詩人でもあります。そういう詩人のいうことばは、文字通りのことではないように思われます。

というのは、中国の五行説でいえば、漢は火徳をもって王朝を開いたということになっています。火の上に座るとは、漢王朝を乗っ取ることを意味します。もうひとつの意味は、文字通りストーブの上に座れば、やけどするという意味ですね。このふたつを引っ掛けたことばだとしますと、たいへんユーモアがあり、たいへん意味深長なことばです。どっちとも取れるような文言になっています。もし天命とする漢の皇帝になれば、ただし、やけどもするとも読めます。

いま述べましたことは、「三国志」には書かれていませんが、「史記」に書かれています。「史記」は物語ではありませんが、事実を書いて「三国志」なみにおもしろい書物です。

漢字には、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、行書、草書、楷書(かいしょ)などさまざまな文字があります。そのうち篆書は戦国時代に用いられ、漢代の通用字体は隷書(れいしょ)でした。ところが後漢末期に隷書から行書体が生まれます。ついで行書体から楷書体が生まれます。

楷書というのは、現在ふつうに使われている正字体です。

曹丕(そうひ)が皇帝に即位したころ、いくぶん楷書化した文字になっていたといわれます。亳(はく)県の曹操一族の墓から出てきた墓磚(ぼせん)の文字は、初期の行書体だったと書かれています。

現在のわれわれの感覚からしますと、楷書がもっとも整った字体で、それをややくずしたものが行書体、さらにくずしたものが草書体と思いがちですが、事実はその逆で、草書体は行書体よりもさらに早く、初期の隷書体から生まれたといわれています。たたじ、漢代には章草(しょうそう)体といわれ、現在の草書体とは多少ちがうようです。

この時代にもうすでに書家と称する人がいました。その拓本を見てみますと、ほとんど楷書体です。行書から楷書に移る過渡期の文字のようです。それまであった篆書、隷書は、印章文字や石碑、建物の額など特殊な用途に使われるだけで、実用の字体としては淘汰されていきました。

わが国でも、江戸時代には草書で書かれた文字が中心だったようです。毛筆で和紙の上にすらすら文字をつづけて書きますから、草書体がもっとも適したようです。庶民も、草書で書かれた文字は読めますが、楷書で書かれた文字はむずかしくてほとんど読めませんでした。

これは古代中国でもおなじで、のちにできた楷書体文字は、ほとんどだれも読めなかったといわれています。

そのかわり、隷書や篆書は読めるというふしぎな現象が起こっています。

篆書体は、印鑑に使われる文字のことで、現在でもふつうに使われていますが、それを読めといわれると、はたしてどうでしょうか。一画一画、篆刻(てんこく)された文字は、ふつうの楷書体と違って、いまではたいへん読みにくい部類の文字です。

――もう秋も深まりました。今朝は寒くて霜柱が立ったかもしれません。いずれまた、お会いしましょう。今朝はこのへんで。

■イギリス人として、気高く高邁に。――

ィンストン・ャーチル

 

 ウィンストン・チャーチル

 

間もなくイタリアの、ミラノ・コルティナ冬季オリンピックがはじまる。

ところがいま日本では、女性党首のもと初の選挙戦に突入し、「日本のまんなか」とか、「へそのまち宣言」とか、「日本のへそ」を掲げる兵庫県西脇市や「日本の地理的中心」を名乗る長野県辰野町など、へそ自慢の声があちこちから発せられている。いま、そうした連呼舌戦の賑々しい日本列島のはじまりを迎えた。

「競馬の有馬記念も終わった」といって嘆息するSさん。

「女性党首が日本のへそ宣言なんかしたら、米トランプ大統領が、またやってくる!」とSさんがいう。「ダービーじゃあるまいし!」

ダービーはイギリスで生まれ、日本ダービーとしたに始まる。そんな中で、新型コロナウイルスの感染者数は、世界で8000万人を超え、死者は約180万人を数えたことなどはもうとうに忘れてしまっている。しかも変異種が不気味に猛烈な勢いで拡散を始め、その最初のころは、

志村けんさんとか、岡本行夫さん、岡江久美子さん、高田賢三さんなどコロナにつぎつぎに倒れた人も多かった。

さて、きょうはウィンストン・チャーチルについて、少し考えてみたい。

チャーチルは、二期目の首相就任の一ヶ月後、77歳になっていた。

だれもが知るその高齢で、「大丈夫なのか?」という国民の心配する声が巻き起こった。

チャーチルは、ラジオのマイクロホンに向かって、「われわれがものごとを改善したか、悪化させたかを判断するには、少なくとも3年は必要である」

といった。

事実チャーチルは、二度の心臓発作に見舞われながらも、80歳まで3年以上首相を務めた。

チャーチルが多くの関心を示したのは外交面だった。第二次世界大戦後、世界平和に対するソ連の脅威を最も感じていたのはチャーチルだった。そのフルトン演説は有名で、世界に警告を発した。

「バルト海のステッチンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降りています。その線の後ろに中欧、東欧の古くからの国のすべての首都が存在します。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な都市および周辺の人びとは、ソビエト圏と呼ばねばならぬところにいるのです。そしてすべては、いかなる形であれ、ソビエトの影響下にあるだけでなく、多くの場合、モスクワからのきわめて高度なコントロールの下にあるのです」

先日は、サッチャー首相の回顧録というのを一部読み返した。

この種の本は、多くは信じがたい政治的なシーンが書かれていて、興味のある人には魅力的な話なのだが、ぼくには退屈なページもあり、とても興味深いページもあって、その都度、いろいろと教えられている。

で、先日からぼくは、W・チャーチルの本をひっぱり出してきて読んでみた。ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill 1874-1965年)。――イギリスの現代史のなかにかならず顔を出し、イギリス文学史のなかにも顔を出す政治家、――というよりは、大いなる散文家として断続的に、しかも、かなりの頻度で本を出しているこの著述家は、ぼくにとっては散文家として、とても興味深い人物なのである。

日本では、著述家としてはほとんど語られることの少ない人物である。

もちろん散文家としてのみならず、彼にはほかに仕事があり、1940年から45年まで、イギリスの首相としての一期目の職もふくまれる。というよりは、19世紀のあいだにチャーチルは政治家になるまえから著述家として鳴らし、すでに5冊の本を出していた。

 

 「マラカンド野戦部隊物語(The Story of the Malakand FieldForce,1989年)」、

 「河戦(The River War, 1899年)」、

 「サブローラ(Savrola,1900年)」、

 「ロンドンからプレトリアを経てレイディスミスへ(London to Ladysmithvia

  Pretoria,1900年)」、

 「イアン・ハミルトンの行進(Ian Hamilton's March, 1900年)」があります。

 

彼が最初の国務大臣になる少しまえ、父親の伝記である「ランドルフ・チャーチル卿(Lard Chuchill,1906年)」という本を書いている。その後、およそ30年間に、すぐれた戦略家としての研究「モールバラ(Marlborough,1933-36年、3巻本)」という本も書いていて、ぼくは未読だけれど、その研究について書かれた本などを読み、いまさらながら驚いている。

そのうち、ぼくが読んだのは大学生のころで、「ロンドンからプレトリアを経てレイディスミスへ(London to Ladysmithvia Pretoria,1900年)」という本だった。神田の古書店で安く売られていた。これには、翻訳本はなかった。

それも、最後まで読んだかどうかおぼえていないが、ちょうど、ぼくはエミリー・ブロンテの「嵐が丘(Wuthering Heights)」を読む前後のことで、ぼくはそのころ、イギリスの本ばかり読んでいた。そういえば、Т・E・ロレンスの「知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom,1926年)」を読んだのもそのころだった。

チャーチルといえば、Т・E・ロレンスなのだが、そのころチャーチルとならんでロイド・ジョージの本が多く読まれていた。彼の「回顧録(War Memoris,1933-36年、全6巻)」はよく知られており、これは、チャーチルの大著「第二次世界大戦(The Second World War 原書では全6巻)」に匹敵する大著といわれ、大学では西村孝次氏のシェイクスピアの講義を聴きながら、こっそり読んでいた。政治に興味を持ったのも、そのころだった。

けれども、多くはТ・E・ロレンスの本に魅せられて、ペンギン・ブックス版で読んでいて、学生にも手軽に手に入れられる本だったので、チャーチルの本もおなじシリーズ本で読んだ。

ときどき大学の近くの神田神保町かいわいの古書店を散策し、ふるびた本を手に取り、気に入ると原書を買いこみ、多くは教室か喫茶店でひとり読んでいた。

学生仲間がやってきて、単位論文の提出日が迫ってくると、「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンみたいにして、ぼくは彼らの論文書きを手伝ったりした。20枚ばかりの論文を引き受けるかわりに、コーヒー一杯が飲めるというわけで、それが嬉しくて、よく引き受けたものである。最低5人の単位論文を書いている。

ある日、先輩の長尾克彦氏から、エリザベス朝の文学にかんする質問があって、シェイクスピアの「ハムレット」についての質問を受けた。それが元となって長い論文を書いてしまった。

たぶん原稿用紙で200枚は書いたとおもう。

それを印刷所に持って行って、表紙をつけて製本してもらい、そうして彼に手渡した。コーヒーを、何倍も、好きなだけ飲ませてくれた。

ぼくは「ハムレット」より、彼の「ソネット」をひそかに研究していて、その話を書きはじめたわけで、それはいいのだが、そうすると、止まらなくなった。

ところが、書けども書けども、シェイクスピアのソネットはよくわからないということがわかり、途中で投げ出して、チャーチルの話を書いたりした。すると、彼は目を丸くして、

「シェイクスピアは、どうなったの?」ときいてきた。

「あと、数年時間がほしい」と返事を書いた。

あと数年といえば、大学を卒業するころになる。

ぼくは不遜にもシェイクスピアをあと数年かければ理解できると考えていた。ところが、理解できるどころか、ますます疑問がわいてきて、それから社会人になってからもシェイクスピアと格闘しつづけ、それが完成し、第1稿ができたのは、それから5年もかかっていた。彼は辛抱強く待っていてくれた。けれども、それでもぼくにはよくわからなかった。

そして、長尾氏は、

「じゃ、チャーチルの何が、そんなにおもしろいの?」ときいてきた。

「チャーチルなら、いえます」といって、ぼくはシェイクスピアをそっちのけにして、チャーチルの話をした。

「ふたつの大戦のあいだの時期にわたしがしたあらゆる言動は、ふたたび世界大戦などになるのを防止することを、ただひとつの目的としていた。……こんどの第二次ハルマゲドンくらい、簡単に防止し得る戦争は古来あり得なかった。わたしは常に暴虐をくじき、破滅を避けるためには力を用いるという用意をもって臨んだ。

しかし、もしもわれわれ英米その他連合国側の国策が、ちゃんとした家庭であって、あたりまえとされる普通の一貫性と常識(コモンセンス)とをもって処理されてさえいたならば、《力(パワー)》が《法》を伴わずに出かけてゆく必要などなかった。

それどころか、正義のために流血の危険なく《強さ》を用いることができたのだ。自分らの目的を見失い、自分らがこころの底から信奉する信条まで放棄してしまったために、英仏はとりわけ、莫大な力と、偏らない立場をもつだけに、アメリカは、彼らのいちばん恐れる破局へと通じる条件が、しだいに打ち建てらてゆくことを許したのである。

こんにち、われらのまえに横たわる当時の不思議なくらいよく似た新しいいくつかの諸問題に対して、もし彼らが当時とおなじく、意図は善良だが、近視眼的な態度をくりかえすならば、3度目の戦争・動乱が起きることは必定であり、しかもそのときは、生きてその出来事を語り得るものは、ひとりもいないということなのだ。」(チャーチル「第二次世界大戦」より)

 

チャーチルという政治家は、このように、だれよりも歴史の高見から超然とかまえてものをいう政治家だった。

ある人は、チャーチルの文章を読んで、光輝く希望を与えたり、容赦なくつぎつぎと移り変わるさまざまな現実の困難に、シーンをパノラマのように展開させ、人びとはひとつひとつの出来事を、巨大な宇宙の展望を見るかのような目で、それを読んでいったと書かれている。

その本の第1章の冒頭、ここにはふたつの大戦のあいだの時期、――その大部分をチャーチルが要職につかずに過ごした時期にあてられていて、「わたしの目的は」と書き、まず――

「この時代に生き、かつ行動してきたものとして、まず第一に、第二次世界大戦の悲劇はいかに簡単に防止し得たかについて書かれ、いかにして邪悪なものらの悪意が、それらを打って一丸となって、もっと大きな有機体に改組しないかぎり、それのみがつつましい大衆に安全を約束し得るところの、あの根気強さとか、確信とかの要素を欠いているか等々を隠さずに、明らかにすることである」と書く。

これが、チャーチルの、この本を書く目的だったのだ。

膨大をきわめる本の中身は、ほとんどその目的のために書かれている。チャーチルの大戦まえの7年間というもの、ことあるごとにこのような演説に終始し、この要職にない政治家は、まるで、マケドニアの独裁者がもたらす危険を暴露するかのような語気をもって、ギリシアの雄弁家のように語っている。

チャーチルは迫りくるドイツの脅威に対処すべき方策を適切に対処しておれば、このような危険は避けることができたのだ、といっている。

外相になったアントニー・イーデンが、戦前、閣内にあって実に勇敢に戦ってきたのに、辞職のほかなしという心境に陥ったとき、チャーチルをおそった暗黒の絶望感は、文脈からも切々と伝わってくる。

「深夜から明け方まで、わたしはベッドに寝たまま悲しみと不安の念に身も細るおもいだった。ただひとり、この力強い若い政治家が、果てしなく陰気で、煮え切らない流れのようななりゆきに身をまかせ、あなたまかせの、相手の意図をはかりそこねるようにして、気力は少しもないといった態度であったが、敵対する政治家たち大勢に抗して、毅然と立っているかに見えた。……しかし彼はいま、わたしには、英国民の生きる望みを具現化していると思えたが、……その彼が、いまや、わたしからも、国民からも去っていったのである」(チャーチル「第二次世界大戦」より) 

全編、このような文章で書かれている。

まるでサミュエル・バトラーの小説「万人の道」をほうふつとするような文章だ。このように書きつづけるチャーチルは、文章家としても高く評価され、1954年にノーベル文学賞が贈られた。

もとより、日本とイギリスはふしぎな因縁をもっていて、薩英戦争以来、友好関係にあり、パークス公使が幕府を見限って薩摩や長州に先行投資をしたり、明治新政府を世界で最初に承認したこともあって、さらにチャーチルも賛成票を入れた日英同盟によって、日露戦争や第一次世界大戦では日本は勝利した。

チャーチルは「日露戦争」の結果は、ただ一国をのぞいて、すべての列強を驚かした。ヨーロッパで唯一の、冷静な目で日本の軍事力を測定できたイギリスは、この戦争で得るところは大きかったようだ。

イギリスの同盟国日本が勝利したことで、フランスは、イギリスとの友好を求めるようになったといわれている。

イギリスでは、現在でもチャーチル人気はとても高く、2002年にBBCがおこなった「100名の最も偉大な英国人」の世論調査では、1位に輝いたそうだ。なお、「第二次世界大戦(The Second World War)」(全4巻、佐藤亮一訳、河出書房新社、河出文庫、2001年)は、いまは翻訳本で読める。

「もしもドゴールが私より先に死んだら、はじめの計画通りでいい。しかし、彼が私の葬儀に来ることになったら、ウォータールーを通らせたいのだ」といっている。

チャーチルはじぶんの死に臨んで、そんなことをいっていたという話がつたわっている。なぜウォータールーを通らせたいのかって?

ナポレオンがイギリスのウェリントン将軍に敗れたという歴史的主戦場の名だからだ。やって来るなら、ドゴールには、悔しい思いをさせるウォータールーを渡らせようというチャーチルらしい魂胆なのだ。1815年6月18日、ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)は、双方熾烈をきわめ、その模様は、ビクトール・ユゴーの「レ・ミゼラブル」にも描かれた。

やっぱり、春は《けぼの》――ンボーの世界が見える!

 

 

だれもいないギャラリー

 

  今朝の日の出ごろは、霞がかかったような風景だった。そのなかから、太陽が薄ぼんやりとだれかの後輪のように、ハレーションを起こしたみたいにほの見えた。

今朝の新聞には、「イタリアのオリンピック」模様があちこちに報じられていた。

かつての詩人にも、過去からずーっと太陽を意識し、なかでもランボーは「La mer mèlèe,Au soleil.太陽と溶け合う海)」をうたっている。

詩人ランボーは、若いぼくに自分の「あけぼの」を呼びかけた人物として忘れがたい。ランボーの詩の特徴は、それだとおもう。

同様に、ランボーの死後に出版された詩集「イリュミナシオン」の《あげぼの》という作品も、きわめつけの詩だとおもっている。

「ぼくは、夏のあげぼのを抱いた」ではじまる散文詩だ。

 

ぼくは、夏のあげぼのを抱いた。まだ何も動いていなかった。水は死んでいた。野営した影たちは、森の道を離れてはいなかった。ぼくは歩いた。生き生きとして生暖かい息吹きを目覚めさせながら。すると宝石たちは目を凝らし、翼は音もなく飛び立った。……とつづく。

ランボー「イリュミナシオン」の《あけぼの》より

 

 

  前列左からヴェルレーヌ、ランボー。――ランボーは

  17歳ごろと思われる。画=アンリ・フアンタン=

  ラトゥール。印象派絵画の本にはきまって登場する

  絵である。

 

ここでは、詩のミューズが「あけぼの」になっているわけだけれども、しょせん、こころに描くのは女神。女神=エロスである。そう読んでしまうと、あまりにも生々しくて、みずみずしい。

世界の始まりを生きるエロスの衝動を感じさせる。詩人になりたいという、読む者をその気にさせるような文章である。 これらは詩人の物語であるとおもえばいいかも知れない。

詩人は挫折し、物語のてっぺんからいきなり反転し、ランボーが切り開いた現代詩全体の宿命、可能性の限界のすべてが、ここに盛り込まれているらしいことに気づく。

そこに、西條八十や、三好達治、小林秀雄らを虜にした悪魔が潜んでいるようだ。

「地獄の季節」は、語られる意味さえも極端に変えてしまった。

変えてしまったばかりか、いわばパッチワークみたいに継ぎ足された物語の間から、近代散文詩の「あけぼの」が差し込んできたかのようだ。

文学史のなかでは、これを「自由詩の誕生」といっているらしいのだが、この気運にもっとも大きなはずみを加えたのは、ヴェルレーヌとともに新しい韻文の探求につとめたアルチュール・ランボー(1854-91年)だったのでは、とおもう。わずか数年のあいだに、「生きながらにしてみずからに詩の切除手術を施した」(マラルメ)といわれるほど、ロマン派や高踏派をやっつけている。

そのあゆみは、ヨーロッパ絵画のあゆみと、ぼくには完全に重なって見える。ランボーが印象派絵画におよぼした影響は、はかり知れない。

マネの女たらしのスキャンダルは、マネの芸術を変えたし、カンヴァスに塗る色さえを変えた。太陽のイメージにまつわる愛の希求に象徴される描き方は、ランボーの詩文とそっくりなのだ。

それは「太陽に溶け合った愛」なのだろう。――太陽と番う海といってもいい。愛の究極的な1点を指し示した裸身の抱擁。瞬間を身にまとった永遠。――そういう考えを深めていった時代だったのではないか、とおもえる。

「マネの色は激しく、それでいて、磐石なデッサン力に支えられている。この両方をきわめた最初の画家は、おそらく、マネだったでしょうね」と、いつだったか、画家の高橋俊景画伯はいっていた。

有彩色の革命。――しかし、そういう意味ではゴーギャンもゴッホも、革命的な絵を描いているというのだ。しかし、そのふたりは、デッサンとのバランスに欠けた、と高橋俊景画伯はいう。色を全面に出す人は情熱家で、そういう意味ではゴーギャンもゴッホも、実人生のバランスを欠いていると。日本画家は、ぼくにそう力説する。

この話はおもしろい。じつに、おもしろいとおもう。

ゴッホの色彩は、いわれるとおり、情熱の色そのものだからだ。まるでカンヴァスが燃えるような色遣いだ。しかし、高橋画伯にいわれてみれば、デッサンは2の次、そういう印象があるなあとおもう。そういう人は、人生のバランスさえ欠き、彼らが生きているうちに報われることはなかったという。

ランボーも、15歳からの数年間はひときわ輝き、ヴェルレーヌとの事件を引き起こすまでは、輝いていた。彼の輝きは、詩文における色彩だったのだろうか。彼が好んで画家たちと交わったのは、そういうことも原因していたのだろうか。

ランボーの凛々しい美少年ぶりは、作品のイメージと強く結びついて、作品とは切っても切れない感じがする。石川啄木の美少年ぶりとよく似ている。ふたりとも夭折のアーティストだった。いっぽう、ランボーの友人だったヴェルレーヌは、短い生涯のあいだに、彼自身の容貌にかなり苦しんでいる。

ヴェルレーヌはきわめて美しく、繊細な叙情的な詩をたくさん書いたが、どう見ても彼の容貌とは釣り合っていない。それが強いコンプレックスとなり、奇行に走ったり、女性不信からランボーと同性愛にふけり、痴情のもつれから、ランボーにピストルを発砲して逮捕されるという事件まで引き起こしている。

ルネサンス期のイタリアをして、まさに人間の悪が花咲いた時代だったとすれば、ゆえにこそ、絢爛たる豪奢を帯びた時代としての魅力ある芸術が生まれていった。そのようにいう人がいる。ルネサンスは、「神を差し引いた人間の時代だった」といったのは、梅崎春生だった。

そしてまた、ランボーの時代に、詩の世界と絵画の世界が軌を一にして、スキャンダラスな悪の芸術が生まれていった。そういえるかも知れない。

「私とは、一個の他者である」

ランボーはそういった。Je est un autre. ――「私は考える」じゃなくて、「私において何者かが考える」というわけである。「私」=「私」という自己同一律に支えられた先験的な自己とは、まったく無縁の存在であるとランボーは考えたらしい。語り手の「私」は、たえず新しく生起し、そして死滅する存在というのである。

ランボーの詩には、一人称主語の「私je」が頻繁に出てくる。定冠詞の「le」についで2番目に多いといわれている。これは何を意味しているのだろうか。むかし、シャトーブリアンという作家がいた。彼の「ランセの生涯」という作品のなかで、「私は私自身を引用する(すると、私は時間でしかなくなる)」という意味の文章が出てくる。これとおなじだろうか?

ランボーも同様に、詩のなかで、「私」自身をほとんど引用しまくっている。そうおもえる個所がたくさんあることに気づく。こんなふうにいえば、むずかしく聞こえるかもしれないが、ランボーにとって、詩は、語り直された「私」ばかりで成り立っているように見えるのである。

■お気に入り、ブラームス「交響曲第1番」――

小澤征爾指揮ラームス「交響曲第番」

 

 ――何もいうことはない、この曲をまず聴いていただきたい。

 ブラームスの「交響曲第1番」ハ短調、作品68である。

 

 

ブラームス 交響曲第1番/小澤征爾指揮・サイトウキネン・オーケストラ

 

ぼくがこの音楽に触れたのはたぶん中学生のころだったが、ブラームスのことなど、何も知らなかったころのことだから、たいした記憶もない。

それからずいぶん時間をへて、1990年代初頭のある日、ぼくは札幌の、「芸術の森」にできた「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」(略称:PMF)の会場に出向いた。これは、1990年にレナード・バーンスタインの提唱ではじまった日本のクラシック音楽の国際教育音楽祭である。以来、

 

 レナード・バーンスタイン(1990年芸術監督)

 マイケル・ティルソン・トーマス(1990年-2000年芸術監督)

 クリストフ・エッシェンバッハ(1991年、1993年-1998年芸術監督)

 シャルル・デュトワ(2000年-2002年芸術監督)

 ベルナルト・ハイティンク(2003年首席指揮者)

 エド・デ・ワールト(2003年客演指揮者)

 ヴァレリー・ゲルギエフ(2004年、2006年首席指揮者、2015年- 芸術監督)

 

――といった、音楽家たちが招かれたフェスティバルだった。その初期のころ、会場がぼくの家から近かったこともあって、よく出かけていった。そこでぼくはブラームスの音楽を聴いたのである。

ブラームスは、大学生のころから、都内のコンサートで聴いていたが、ブラームスが自分のこころをとりこにしたのはずいぶんたってからだった。多くは新日本フィルの渡邉暁雄指揮によるものだった。

彼のコンサートは、ほとんど毎週聴いていた。

ちゃんと聴いておればよかったのだが、ぼくは音楽はただ聴くだけで、ぼくの音楽はほとんど渡邉暁雄指揮か、レコードのブルノー・ワルター指揮となんとなく決まっていた。

だから後年になって、はじめて小澤征爾さんの音楽を聴いて、身震いした。

そのころ彼はボストンにおられ、そのうちにウィーン・フィルがやってきて、カール・ベーム指揮の「第1番」を聴いて、ぼくはもっと身震いした。ぼくはブラームスを知らずにいたことをおもい知らされたのである。

そして、ブラームスの生涯を知り、数かずの彼の音楽を聴くようになった。

まず聴いていただきたいのは、第1楽章の、強い響きではじまる、バスとティンパニの連弾である。それが8分の9拍子という連弾で、突如として明るいト長調の和音が奏でられる。

木管と弦による音階的な下降が奏でられ、オーボエの主旋律と、それにつき添うホルンと木管が伴奏する。そのあたりが、もっともブラームスらしい音楽になっている。

専門家の話では、ブラームスの交響曲では例外とされているようだ。

つまり、このウンポーコ・ソステヌート――アレグロの第1楽章は、とてもゆるやかな序奏ではじまる。

「ウンポーコ(unpoco)」というのは、イタリア語の音楽用語で、ウン(un)は「1つの」という意味で、ポーコ(poco)は「少しの」だから、「やや少し」という意味を表している。

ウンポーコは単独では使われることがなくて、「アンダンテ・ウンポーコ(ややゆっくり歩くような速さで)」という意味になったり、「ウンポーコ・ソステヌート(たっぷりと、ていねいに)」という意味になったりする。ブラームスのばあいは、この「たっぷりと、ていねいに」という意味が重要なのだ。

ぼくはふたたび、テレビ受像機に写して、カラヤン指揮のブラームスの「交響曲第1番」をまわして聴いた。これがカラヤンの音楽か、とあらためておもった。1973年にリリースされたベルリン・フィルによる録音である。

音は不満の残る出来栄えだったが、さすがはカラヤン。ブラームスの曲趣をおもう存分に吟味してできた演奏で、なにも付け足すものはないとおもった。

後年、ぼくはウィーン・フィルを率いて来日したカール・ベーム指揮で、これを聴いた。そのときの驚きは、表現に困るくらい感動した。

ブラームスを演奏して間然するところがないとおもった。

時代は引き継がれていくもので、カラヤン亡き後、第1楽章をこのように演奏する音をはじめて聴いた。ワルターでも、ミュンシュでもなく、伝統の上にさまざまな解釈をほどこされ、ようやくカラヤンによって締めくくられたはずの「第1番」は、そのとき、べつの音楽に甦ったのを感じた。

それ以来、ぼくはカール・ベーム指揮がブラームスの基本になってしまった。なんだか聴きなれているはずのブラームスだったが、じっと聴いていると、どこか違う。

なんだろう? ぼくはブラームスという作曲家について考えた。

シューマン亡き後、ピアニストのクララ・シューマンをヨーロッパ演奏に送り出すときの、あの優しいブラームスの心遣いが、忘れられない。ロンドンでは、霧の誘惑をけっして信用してはいけないとか、疲れないように、からだを温めて休んでくださいとか、こまめに彼女あてに手紙を送っている。そして、クララからの返事がとどく。

そういう日々が、なんと40年もつづいたと書かれている。

クララとブラームスとの付き合いは、彼女の死をもって終りを告げるわけだけれど、その間、ブラームスは、作曲に邁進し、来る日も来る日も、繰り返し、ロマン派音楽の再生に没頭する。

そうして完成したこの「交響曲第1番」は、友人のリストやヨハン・シュトラウスとはぜんぜん違った音楽になった。

パリで――だったとおもうが、――この3人はひとつのテーブルを囲み、即興で何かつくることになった。最初にリストが、1小節をさらさらっと書いて見せた。つぎにヨハン・シュトラウスが、そんなのは朝飯前という感じで、日本の扇子を広げて、そこに、さらさらっと何か書いた。そしてブラームスの番になったが、彼は何も書けなかった。

ブラームスという男は、そういう男である、とぼくはおもっていた。

即興の妙手としては、少なくとも彼らふたりには、はるかに見劣りする。

しかし、ぼくには、ブラームスの音楽は、彼らにはない詩的な余韻、研ぎ澄まされた祈りの音楽に聴こえる。ロマン派最後の輝きを放ったのは、だれでもない、このブラームスだったとおもっている。

こんなふうにおもうと、ブラームスの音楽は、クララとともに生まれた、といっていいかもしれない。完成したその喜びを、ふたり分かち合ったのはいうまでもない。その喜びを、カール・ベームは表現してくれている、とぼくはおもった。

第1楽章の最初の導入部Un poco sostenuto-Allegで、すべてが決まった。こんな音楽は、聴いたこともなかった。

その音楽は、ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894年)によってベートーヴェンの「第10番」と名づけられた。ベートーヴェンの「第9番」の「歓喜」の合唱主題によく似ている。そればかりか、ベートーヴェン風に古風で、ベートーヴェン風にすぐれているからだろう。

ブラームスは北ドイツ人らしく、どこまでもくぐもった表現を押し通し、北国的な暗さと深さを奏でている。そう評する人はゴマンといるが、この曲の創作をおもい立ったのは彼の22歳のときだったといわれている。

シューマンの「マンフレッド」序曲を聴いたのがはじまりで、多感なブラームスはこのとき、新しい曲趣がおもい浮かんだ。

それが「第1番」で、第1楽章はまだできていなかった。そして1862年までにはだいたいのスコアが完成していたらしい。シューマンの妻クララ・シューマンも、ブラームスの新しいこの曲を見ていた。そして練りに練って、1876年の夏、ハンブルク近くのザースミッツで全体を仕上げ、その年の9月に完成したといわれている。

初演されたのは、完成された年1876年11月4日、カルルスルーエの大公の宮殿劇場で初演され、一週間後はミュンヘンで、12月にはウィーンでブラームス自身の指揮で演奏された。

ブラームスは、交響曲は4作しか残していない。

「第1番」は着想を得てから、じつに20年の歳月をかけて完成させている。

ブラームスはベートーヴェンから強い影響を受けているのだが、ふしぎなことに、ベートーヴェンのように、中間の楽章にスケルツォとか、メヌエットとかいう楽章をつくっていない。

しかも、この楽章をすべて第3楽章として描き、第2楽章を緩徐楽章風に描かれ、4曲とも、かたくなにおなじスタイルを押し通している。ただし、この「第1番」だけ、第1楽章と第4楽章にゆるやかな序奏をおいている。それがブラームスのスタイルなのである。

第4楽章に、ホルンののびやかな音色が出てくる。それは、シューマン先生の妻クララ・シューマンの誕生日の祝いとして、

 

 山の上高く、

 谷深く、幸あれ、

 御身に千回ものあいさつを送る。

 

という歌詞をつけて贈ったことのある旋律で、そのアルプスのホルンは、いかにものびやかな旋律を奏でている。

なんという曲であろうか、とおもう。

ブラームスにとって、クララとの思い出深い旋律だったのかもしれない。

で、今夜は、小澤征爾さんの指揮で聴いてみた。すばらしい。第4楽章は、アダージョ、ハ短調、4分の4拍子。ベートーヴェンとはちがったブラームスらしい喜びを歌い上げている。喜びながら、回想し瞑想する音楽だ。

ラビアの《レンス》」より

 

きょうは晴れ、草加は気温15度。静かな夕暮れを迎えています。――いかがお過ごしでしょうか。お送りしましたものは、日々なんの脈絡もなく、漫然区々と気ままに書いてきたもので、ぼくは書くよりも本を読むほうがずーっと好きで、あいかわらず、多読三昧の日々を過ごしております。

いままた、青年とのおしゃべりに付き合って、こんな時間になったものの、彼のいうT・E・ロレンスの興味に耳を傾けながら、彼の主著「知恵の七柱」(東洋文庫、全5巻)をひっぱり出してきて、それを広げながらのおしゃべりでした。ぼくがT・E・ロレンスと出会ったのは、昭和38年、大学2年のころです。ロレンス研究家の中野好夫の本「アラビアのロレンス」(岩波新書、1963年再版)を読み、映画「アラビアのロレンス」を見たのが契機で、おりにつけてロレンスの本を読みました。

そのころはまだ翻訳されていなくて、ぼくは彼の「Seven Pillars of Wisdom」という分厚いペンギン文庫版を読み、その格調高い文章にびっくりしたものです。英文をあまり読んでいなかったぼくは、それでも辞書と格闘して読んできました。とてもおもしろいからですが、ロレンスはほんらいは考古学者で、アラビア語が堪能で、英国のアラブ統一の政治的な野心に翻弄され、砂漠の国、そのファイサル国王の統治するアラブ統一の苦難のなかで、イギリス人にしてアラブ国家建設に加担していきます。彼は英陸軍中佐(のちに大佐)として、チャーチル植民地相の麾下(きか)で、大きな仕事に立ち向かっていきます。

彼の「砂漠の反乱」という本では、対トルコ軍との戦いの日々を克明に描き、映画は、この本を下敷きにしてつくられたようです。

 

T・E・ロレンス

 

最初に訳本が出たのは1971年で、柏倉俊三訳の「知恵の七柱」(全3巻、東洋文庫)です。近年、田隅恒生訳で全編訳出され、多くの資料をつけて、J・ウィルソン編全5巻として、おなじ東洋文庫版から出ました。これはすばらしい訳本で、ロレンスの格調高い文章がそのまま日本語に再現され、ロレンス研究の取り組みの深さが伝わってきます。

ロレンスは、20世紀初頭の英文学界に金字塔を打ち建てたと評されるくらい、文章の巧みさにおいてチャールズ・ダウティと双璧をなす人物と目されるようになりました。一考古学者・軍人が書いた文章とは、とてもおもえないような出来栄えで、やがて、チャーチルの本がノーベル文学賞を受賞しますが、それにまさるものがあると、ぼくはおもいました。ロレンスはけっして著述家ではなく、行動する思想家、そんなふうにぼくにはおもわれます。

たとえば、ダマスカスからアカバ湾を攻略する記録は、一編の叙事詩といっていいほど、その研ぎ澄まされた文章は目を惹きます。そんな話をするものですから、青年とのおしゃべりにも熱が入り、時間をわすれてしまいます。

「お父さん、お風呂、どうするの? 早く入って!」という妻からの電話。

風呂もいいけど、おしゃべりもいい。

こんな調子で、わいわいやっております。――というのも、ぼくは腰を痛めて以来、いつもこの時間に入浴しています。

少しふるい話からはじめます。

1963年、ロングランで上映していた「ウエストサイド・ストーリー」が終わり、その後、おなじ日比谷のピカデリー・シアターで「アラビアのロレンス」がかかりました。東京理科大学の学生だった野々村一郎くんが先に観て、えらく感動していたのを聞き、ぼくもおっかけ観に出かけたものです。都合4回も観ました。

ピーター・オトゥール主演の映画で、オトゥール自身、映画はこれが2作目というときでした。彼はアイルランド人で、もともと舞台俳優です。シェイクスピアを専門とする俳優だったことをあとで知りました。この映画は、アカデミー賞7部門を受賞しました。

実際のT・E・ロレンスについては、ぼくは多少の知識を持っていました。中野好夫の書いた「アラビアのロレンス」(岩波新書)という本を読んでいたからです。T・E・ロレンスといえば、かつては東京大学の教授に招聘(しょうへい)しようという動きがあったりして、彼はアラビア語が堪能で、中東事情に明るく、専門は考古学ですが、アラビアの軍事、政治にも精通しています。彼はのちに「知恵の七柱(Seven Pillars of Wisdom)」という本を書きました。

このタイトルは、旧約聖書の「箴言」に出てくることばで、「知恵は家を造り、7つの柱を立てる」から取られたといわれています。

この本をペンギン・ブックス版で手に入れ、若いころに読んだのです。かりに英文科を出ていても、なかなか読解するのに骨の折れる難解な書で、晦渋をきわめる文章でした。

いつだったか、北海道にいたとき、佐原清美さんという、当時20歳の看護学校の学生さんにその本をプレゼントしてしまい、いま、ぼくの手元にありません。果して彼女は読めたかどうか、たぶん読めなかったかもしれません。それ以来、ぼくはこのT・E・ロレンスという男に興味を持ちました。

映画では、身長188センチのピーター・オトゥールが演じましたが、じっさいのT・E・ロレンスは細身の男で、165センチしかなく、体型にくらべて、上半身がえらく大きく発達して、頭の大きな男だったようにおもいます。彼のじっさいの写真を何枚も見ています。

世界の火薬庫と呼ばれたキナ臭い中東戦争は、戦後の昭和48年まで尾を引いていて、昭和39年ごろ、中東戦争が巻き起こったとき、アラビアの新聞にはいっせいに「ロレンスあらわる」の見出し記事がおどったそうです。当時の朝日新聞の一面トップにも報じられました。アラビア独立の立役者だったイギリス人ロレンスは、彼らにとっては期待の星だったわけです。

あれから、50年がすぎました。

戦後の中東戦争は、1948年から1973年までつづき、その間、大規模な戦争は4度ありました。ユダヤ人国家のイスラエルと、周辺アラブ国家との戦争です。アラブ側の盟主だったエジプトのサダト大統領が和平に調印すると、戦争は終息しましたが、アラブ主義を掲げた一青年によって彼は暗殺されました。

ロレンスが活躍したのは、それよりもずっと以前の1920年代です。

当時、アラビアには無数の民族がいて、結束力に欠けていました。ロレンスはアラビアの独立を旗印に、アラビア統一のために活躍しました。彼は考古学者であり、軍人であり、著述家でもありました。あの格調高い文体は、どのようにして生まれたのだろうとおもいます。

前出のチャールズ・ダウティには「アラビア砂漠紀行」という本があります。ロレンスは彼のような著作を目標にしていたらしいのですが、なにしろ、ロレンスの人並みはずれた読書量は追随をゆるしません。3年間で5万冊を読破しているのです。1日あたり45冊という量になります。それに、彼には並外れた行動力がありました。

幼いころから自転車を愛用し、1日で160キロを走っています。その後、彼はラクダを愛用し、ロンドンの街をラクダに乗って歩きまわったりしています。そして、やがてオートバイを愛用するようになり、「オートバイ狂」といわれるようになって、時速177キロで飛ばした記録があるといいます。彼は1935年5月19日、このオートバイ事故で亡くなりました。享年46。

まずは、つぎの文章を読んでいただきたいとおもいます。彼の「知恵の七柱」(田隅恒生訳、東洋文庫、2008年、第2巻)、その第57章「戦闘」の文章を転記してみます。

 

この知らせに、われわれは即座に立ち上がった。ただちに荷物を駱駝に載せ、シリアの卓状地がこちら側に延びた端にあたる起伏の多い高原をダラウシャ族とともに抜けて行った。焼けたばかりでまだ熱いパンを手に持ち、食べながらの行軍で、その味には谷底を渡る大軍が巻き起こす砂塵の舌ざわりと、斜面をぎっしりと埋めている苦蓬(にがよもぎ)の独特の刺激的な匂いが混じっていた。長い、息の詰まるような夏の日が続いたあとの山中で暑い夜の静かな空気に包まれていると、何もかもがいきなり五感に印象を刻み込む。われわれのように長い一列縦隊の行進では、暗闇のなかを慎重に足を運んでいる先頭の駱駝が埃をかぶった芳香のある藪の枝を蹴ると、その香りの粒子が空中に舞いあがり、長い靄になって漂い、あとに続くものの道を匂わせるのだ。

(T・E・ロレンス「知恵の七柱」、第57章)

 

丸一日、これが続いた。途方もない暑さで、アラビアで私がいままで経験したこともない暑い日だったが、それに不安と走りどおしが加わって、きびしいことになった。頑健な部族民ですら残酷な太陽に屈服するものが出て、岩かげに這い込むか、放り込まれるかして生気の回復を図っていた。わが方は人数面の劣勢を機動力で補い、トルコ軍の動きのあれこれを迎撃する新しい適地を求めて長い山なみをつねに眺めながら駆け登り、駆け降りるのを強いられた。山肌は険しく、息が切れ、草木は走りまわるくるぶしに小さな手のように絡みつき、体を後ろに引き倒そうとする。するどく角ばった地面で足は切れ、エネルギーがあるほうの男たちも夕暮れの前には赤錆色の血痕を歩くたびに残していた。

(T・E・ロレンス「知恵の七柱」、第57章)

ぼくは、昭和38年に出た中野好夫の「アラビアのロレンス」という本を読んで、自分なりのロレンス像を勝手に描いていました。中野好夫は英文学者ですが、知る人ぞ知るロレンス研究家でもあります。当時、銀座の寮で夢中になってその本を読みました。

デビット・リーン監督の「アラビアのロレンス」がやってきたとき、その映画の迫力に圧倒されました。アレック・ギネス、アンソニー・クイン、オマー・シャリフなど錚々たる俳優たちが登場します。広い砂漠のなかでは、人間の姿など、まるで蟻のようにしか見えません。1960年代に、この映画を企画した人たちの才能はまことにすばらしい。

先年、デビット・リーン監督の生誕100年を記念して、東京・テアトル・タイムズスクエアで上映されていました。

中東近現代史のなかで、いまでもロレンスは大きな地位を得ています。

しかし映画「アラビアのロレンス」は、Т・E・ロレンスの実像ではありません。ベドウィン主体のアラブ独立軍を指揮する、金髪碧眼の青年考古学者Т・E・ロレンスは、欧米でつくられた人物像です。

この英雄伝説は、いつどのようにしてつくられたのでしょう。

イギリスが種を蒔いた20世紀最大の、そして21世紀におよぶ最長の地域紛争――アラブ・イスラエル紛争の原点である第一次世界大戦の直後において、どのようにかかわってきたのか、少し考えてみたいとおもいます。

ロレンスは20世紀における最も著名なイギリス人であって、第一次世界大戦後の中東問題の処理にからむ、その存在の大きさは、ロレンスの直属の上司だったウィンストン・チャーチルも遠くおよばないほどです。

それほど魅力ある、謎に満ちた人物なのです。

中東戦線でロレンスを取材した従軍記者ローウェル・トマスが帰国後、各地で行なった記録映画の上映が火つけ役となり、トマスはその後イギリスに招かれ、4年にわたって国内を巡業、ロレンスだけで100万人の動員に成功しました。そうして、国民的な英雄としてロレンス像を定着させたというのが、どうも真相のようです。

金髪碧眼の青年考古学者が、ラクダにまたがり、アラブの叛乱軍を率いて独立のために戦うというのが、そのシナリオだったようです。おもしろいことに、ロレンス本人が、この出し物を5回も見たと書かれています。

そして後半生を貫いた極度の自己否定ともいうべき奇怪な行動と、悲劇的な死。これでロレンスは、伝説的な英雄にまつり上げられていきました。

生誕100年を記念して訳出された、ヨルダンの歴史家スレイマン・ムーサの「アラブが見たアラビアのロレンス」という本は、いっぷう変わったロレンス論になっているらしく、ぼくはまだ未読ですが、訳出された牟田口義郎氏の話によれば、「アラブの視座」という、これまでになかった立場から書かれたユニークなロレンス論になっているそうです。

つまり、「アラビアのロレンス」とは、西洋人が西洋でつくられた西洋のお話であり、英雄の出現にその舞台を提供したアラブは、何ら関知していなかったというものです。これもまた、おかしな話です。

にわかには信じられませんが、西洋人のつくり話だといわれてみれば、たとえば、ロレンスの主著「知恵の七柱」には、いたるところにアラブ蔑視の姿勢が見られます。アラブ抜きの「アラビアのロレンス」など、考えただけでもおかしいと、牟田口義郎氏はのべています。

著者のムーサ氏は、ロレンスは骨の髄までイギリス人であったし、彼が祖国とアラブのはざまで、煩悶する悲劇の人であったとする通説を退けているというのです。牟田口義郎氏はいいます。

《彼はラッパを吹いて名声を手に入れたが、その一方で、自分の欺瞞に対する歴史の厳しい判決を恐れる一個の繊細で学識のある人物でもあった。この「内なる声」が彼の後半生の行動指針となる――これがムーサ氏の結論だ》と。

「アラビアのロレンス」は、アラブに何を残したのか、ムーサ氏の博捜の跡をたどると、彼の業績は、「アラブの叛乱」を指揮したという戦中よりも、むしろ、戦後処理の政治段階のほうがはるかに大きかったように描かれているというのです。

植民地相となったチャーチルの指令で、フサイン・ヒジャーズ王を見捨て、西アジアのアラブ世界を、フランスとイギリスが分割する政策に手を貸し、その裏で、「サイクス・ピコ協定」を結んだ事実は、ロレンスを怒りへと追い立てました。

これが事実です。ロレンスが砂漠が嫌いになったのは、そのときでした。自分がイギリス人であることを彼は恥じたのです。

「イギリスの矛盾した帝国主義的な政策こそ、現在のアラブ・イスラエル紛争の直接の原因である」とする牟田口義郎氏の論は、明らかに説得力を持ちます。

のこころを射止めた語 

 

こんばんは。

このところ、ぼくは藤沢周平のサムライの物語をいろいろ再読しておりまして、彼の小説は、ほとんど読んでいます。 作品の話は、たいてい、日記に書いたことがあるので、それを抜粋してここに転写することにします。お読みくだされば幸甚です。

                            ♪

いつだったか、夜、ヨーコと寝室で「日本アカデミー賞発表」のテレビを見ながら、自分は平気で本を読んだものだ。たとえば、藤沢周平の短編「証拠人」という小説である。この小説は、3度は読んでいるが、この「証拠人」は、じつにおもしろい。

羽州14万石の酒井藩における新規召し抱えのサムライ募集に応じた佐分利七内(さぶりしちないという浪人を主人公に展開するヒューマニズムあふれる物語。

当時のような戦乱時代には、藩による新規の召し抱えの人事募集がよく行なわれていたらしい。

腕におぼえのあるサムライたちを一般募集する制度である。

――現在でいうところの、入社試験にのぞんだわけだが、彼はすでに30代の後半に差し掛かっていて、もう若くはない。

面接した3人のサムライは、彼の身なりを見て、胡散臭い目でながめる。

ヒゲは剃ってはいるが、頭の曲げはぼうぼうで、どこかで野宿でもしてきたみたいな頭をしている。着物の襟は、手垢でつるつるに光っている。

「自分は、かくかくしかじかの戦いに従軍したおりの、勲功(くんこう)がござる」と七内はいった。

「ほう、それは、いつのことでござるか?」と相手は尋ねる。

「関が原でござる」と答える。関が原の戦いは、慶長5年(1600年)、石田三成らの西軍と、徳川家康らの東軍とが天下分け目の戦いであり、東軍が圧勝した。

だが、それはもう20年もむかしの合戦である。そのときは、小早川秀秋の寝返りで東軍が大勝したのだが、これにより徳川氏の覇権が確立された。そのとき、佐分利七内は、勝った東軍に加わっていた。

「ならば、その証拠を見せよ」という。

七内は、懐から油紙に包んで20年間持ち歩いていたある書状を取り出す。そして相手に見せる。3人は、ヨレヨレになった書状に目を落としながら、七内の顔をちらっと眺めやる。

……この男が? という顔をしている。

彼は平サムライではあったが、そのときに討ち取った敵の2人の首を持ち歩いたという証人がいる。そのときの話が書いてある。その証人の名前は、島田重太夫(じゅうだゆう)という敵のサムライで、そこでお互いに名乗りあったという。

「それならば、その島田重太夫なるものの確かな書状を、じきじきにしたためてもらい、それを受け取って来られるならば、召し抱えよう」といった。

さーて、彼は困った。

半分は、もうダメだろうと落胆した。

「ちなみに、もしもお召し抱えのあかつきには、碌(ろく)はいかほどに?」ときいてみた。

「100石でござる」

「100石でござるか!」

現在の金額でいえば、1000万円は下らないだろう。

年俸1000万円といえば、大手企業の課長、副部長クラスか? 関が原の戦いであげた自分の勲功を証明してもらうために、七内は島田重太夫というただ一度きり名乗りあったサムライを尋ねて、城下はずれの村にやってくる。しかし、目指す人物は3年前にすでに死んでいて、この世にいなかった。

七内の仕官の夢は、これで露と消えた。これからどう生きたらいいのだろうと彼は思う。士官の夢はもうあきらめようと決心する。

                              ♪

島田重太夫の内儀(ないぎ)に会うと、夫とは昵懇の間柄だったらしいサムライがはるばる亡き夫に会うために、こんな辺鄙な村までやってきたのかと思うと、気の毒になり、同時に嬉しくなり、男を家に泊める。七内は、ここにたどり着くまでに路銀もすっかり使い果たし、鐚銭(びたせん)の持ち合わせさえなかった。

腹が空腹で、「ぐーっ」と鳴る。

その音を聞いた内儀は、気の毒になって、めったにつくらないご馳走をたくさんつくって振舞う。その夜、彼は久しぶりに満腹になり、満腹すると急に眠くなり、夢も見ないで泥のように熟睡した。2日目の夜がきて、彼は物音を聞く。……戸口のほうで、だれか人の気配がして、ガタンという音を聞く。戸口の引き戸がスーッと開いた。だれかが侵入してくる。

泥棒か? と思う。

出てみると男の影が外に逃げていった。3日目の夜、また物音が聞こえる。

振り向くと、内儀はふたりの子供といっしょに、床のなかで気持ちよさそうに眠っている。これは泥棒ではない。いったい何者なのだろう。人の家に寝泊りして世話になっている自分は、内儀たちのために何かしてあげようと思う。

それから彼は、夜も眠らず、外の大きな樽の影でようすをうかがった。

やがて図体の大きな農夫が暗がりから這い出てきて、玄関の戸を開けようとしているじゃないか。それを見た彼は、男に飛び掛っていって、男を素手で投げ飛ばす。

サムライの腕は落ちたが、相手が農夫ならばいっこうにかまわない。

自分の相手ではないと彼は思う。ところが、図体の大きな腕力のある若い農夫は、力まかせに向かってきた。

何か棒切れのような物を振りまわしている。

七内はそばにあった洗濯板を持ち、応戦する。そのあたりの地面が濡れていて、不覚にも七内は滑って転んでしまった。男は上から棒切れを振り下ろす。振り下ろすまえに、七内は男の急所に素手で一撃を食らわすと、

「ううっ……」といって相手はあっけなくうずくまってしまった。

そして立ち上がると、男の額を蹴り上げた。

男はたまらず、「やめてけれっ! わしじゃ、わしじゃ!」といって闇のなかで手を伸ばした。

急所を強く撃たれたので、男は立ち上がれないのだ。

「ううううっ……」といって男は、片脚を立て、苦悶の色を見せる。

「名を名乗れ!」というと、

「わしじゃ、わしじゃ……」という。

男は、自分をだれかと勘違いしているらしい。

「拙者は、元、250万石の海坂藩に仕えた佐分利七内と申す。そこもとは、だれか?」ときく。

「おサムライさんであっしたか。……これはこれは、ご無礼、つかまつった」といって、

男は地面に額を擦こすりつけた。

「何しに来おった?」

男は、七内の顔を覗き込むように上を向き、何かぶつぶついっている。

「……まあ、夜這いでござる。かんにんしてけれ。わしも男でござるによって、……」といっている。

                            ♪

七内は寝ている内儀のことをちらっと思い出す。顔は日に焼けて黒いが、目鼻がととのい、子供をふたり産んだからだとは思えないくらい、腰のまわりにも贅肉がない。

彼女の亭主は、戦いくさのキズがたたって死んでしまったが、内儀はまだ若い。内儀にいい寄る村の若衆は多いのだろう。子供も上が7つになったばかり。これから内儀はどう生きるのだろうかと思う。

「そうか、……そういう考えもあるな」と、七内は考え直す。彼はひらめいたのだ。島田重太夫の後釜になるのも悪くない。いや、悪くないばかりか、願ってもないことだ。

自分は妻を娶ったことはないが、あの内儀となら、これからやっていけそうだと思う。しかし、剣の道とは違い、いくばくか、心もとない思いが脳裏に去来する。考えてみれば、女を抱いた経験が一度もないのだ。女の扱い方さえ知らない。

「……まあ、いいか。内儀が知っていよう」と思う。

これまで自分は、仕官することばかり考えて、百姓になることなど一度も考えたことはなかった。戦のない平和の田園の暮らしは、さぞ、人間らしい暮らしになろうと思う。

それにしても、さーて、内儀に果してどう話してよいやら、見当もつかない。いきなりやってきて、「拙者をそなたの婿の後釜に迎えろ」とは、どう考えてもいえそうにない。しかし、正直に話そうと思う。で、彼は内儀に正直に話しはじめる。

「拙者は、島田重太夫殿とは昵懇の間柄ではなかった。訳あって、仕官の道に入るにつけ、どうあっても、島田重太夫殿の勲功の証言がぜひとも要ることになった。で、ここまで島田重太夫殿を訪ねてまいったというしだいでござる。……」といった。

「ただ、それだけで、まいられたのでございますか?」

「さよう」

「佐分利殿も、ご苦労なさいましたね。……それにしても、こうしてはるばるお越しくだされたとあっては、死んだ島田も、さぞ喜んでいることと思います。どうぞ、ごゆるりとなさいませ」といって、内儀がこころからねぎらう。そしてその夜、村の夜這いと遭遇したわけである。夜這いかあ……、と思う。

七内は宮遣いの城下の宿にいても、一度も夜這いなどしたことがない。ここはいなかの一軒家。島田が死んで、遺された家族は、村の目ざとい好奇の目にさらされることになったわけだ。これは、なんとしても、あの家族を守らねばならない。そうこころに決めて、七内は夜警の番を買って出ることにした。

そのあとの文章を引用する。

 

七内にはどこにも、目指して行く場所はなかった。だが全くないわけではない、と

七内は思い直した。温かく、豊穣(ほうじょう)なものが、あるいは迎えてくれるかも知れない。

よろめいて立ち上がると、七内は着物の埃をはらい、家の中に入った。

家の中は闇だった。闇の奥に進んだ。

「夜這いじゃ」

七内は囁いた。やさしい含み笑いがし、闇の中から伸びた二本の腕が、七内をすばやく抱き取った。

(藤沢周平「証拠人」より)

 

小説は、ここで終わっている。すばらしい物語だ。

男の仕官の一途な思い入れと、その夢が絶たれた絶望と、人間の不幸と背中合わせになって訪れるとつぜんの幸せについての物語である。

藤沢周平の小説には、このようなカタルシスがいっぱいある。どの小説も、吟味に吟味を重ねて創作された小説だ。

――齢(よわい)40にして、この男はやっと幸せを手に入れたわけである。小説は、終わり方で良し悪しが決まるといってもいい。それからふたりは、どうなったか。読者は自分の想像力だけで、じゅうぶんに物語のその後を堪能することができるようになっている。

                         ♪

藤沢周平の作品のなかでは明るい小説の部類に入るが、そういう男を登場させた作家・藤沢周平の物語のつくり方にこそ、読ませる妙味がある。彼の小説でつまらない作品は読んだことがない。いずれも、こころにぐさりと刻まれるものばかりだ。

「おぬしに、討手を命ずる」という藩命がいったん下ると、断ることはできない。ところが、彼は、竹光で戦って相手を倒し、勝つ物語もある。

それがこの物語の山場だ。

藤沢周平がようやく円熟の期に差し掛かったのは、1980年代だったように思う。「時雨みち」、「霜の朝」、「龍を見た男」など名作がずらりと居ならぶ。なかでも、きょう最後に読んだ「小川の辺(ほとり)」という小説は、人間愛の機微を描写していて、なかなかおもしろい。その主人公は、30歳の戌井(いぬい)朔之助という。家老がいう。

「さきごろ、脱藩した佐久間森衛に討手を出したが、肝心の討手が急な病いで倒れた。

おぬしに第二の討手になってもらいたい。佐久間森衛を討ってもらいたい。これは、藩命でござる」という。――さーて、このつづきは、また書きます。

■シェイクスピアのソネット――

ェイクスピアの

 

さいきん首都圏は、好天がつづいている。

きのう、引き出しの中を整理していたら、8年前に北海道のある女性から受け取った懐かしい手紙がひょいと出てきた。

北海道の開拓農民の子だったその人の家は貧しくて、中学生の修学旅行に参加できなかった。その話が便箋2枚にぎっしりと書かれていた。

それから中学生の時代から58年がたっても、彼女には恨みの過去として残ったらしい。北海道でのクラス会の席でその人と58年ぶりに会ったとき、「わたしたちの生活は、ほとんど戦いだったわ!」といった。

そういう人生もあるのだ! とおもった。

すると、彼女は

「じゃあ、こんどはあなたよ。シェイクスピアの話をして」といった。

ぼくはきゅうに恥ずかしくなって、何を話したか、まるで覚えていない。まあ、ひとつあげれば、……

 

 

400年前のシェイクスピアの英語

 

 

私はしばしばあなたを詩神として呼びかけて祈り、詩を書くのにおおいに助けていただきました、そのため私の知らない詩人までみんな私をまねて、あなたを詩神と崇め、その詩を世にひろめております。ものも言えなかった私に高らかに歌うことを教え、その鈍重な無知さ加減に、空飛ぶ術を授けてくださったあなたの目は、学識高い詩人の翼にさらに羽をおぎない、その優雅な美しさに二重三重の壮麗さを与えました。

だがあなたは私の作品を最高の誇りとしてください、あなたにいのちを吹きこまれて生まれたのですから。

ほかの詩人の作品ではあなたは文体をなおすだけ。学識はあなたの優雅な美を飾りとするだけですから。だからあなたは私の学芸のすべてであり、この私の低俗な無知を学識の高みにあげてくれるのです。

(シェイクスピア「ソネット」第78番、小田島雄志訳)

 

私だけがあなたの助けを求めて祈っていたころ、私の詩だけがあなたの優美な恩恵を受けていました。だが、いまは私の優美な詩も恩恵を失って朽ち果て、私の病める詩神は別の詩人を受け入れました。

たしかに愛する人よ、あなたの美を歌うのは、私よりりっぱな詩人にふさわしい主題でしょう。

だがそういう詩人があなたのことを書きあげても、それはあなたから奪ったものを払い戻すだけです。彼があなたに美徳を貸しても、それはあなたの見せる振る舞いから盗んだもの。

彼があなたに美を与えてもそれはあなたの頬に見つけたもの。

彼があなたを称讃しても、それはあなたの中に生きているもの。

だから彼がどう言おうと感謝することはありません。彼が支払うのはあなたが自分に支払うものだから。

(シェイクスピア「ソネット」第79番、小田島雄志訳)

 

これは、学生時代に痛く感動してしまった思い出の詩である。ここでいう「あなた」というのは、エリザベス女王のこととされている。「あなたの美を勝手に盗んできて、これを詩に書いて、ふたたびあなたに献上している。そのことに、サンキューとお礼をいうことはないのです。なぜなら、もともとあなたの美なんですから……」というような詩である。

 

 

     

     ウイリアム・シェイクスピア

 

「私よりりっぱな詩人」というのは、当時、シェイクスピアのライバルだったベン・ジョンソンという詩人を指している。――この詩は、シェイクスピアのなかでもよく知られている。

ジョンソンは、オクスフォード大学出の、ギンギンの古典主義の大家。ラテン語・古代ギリシャ語を解する大詩人。

だれもが認める雲の上の人。――いっぽう、シェイクスピアは小学校しか出ていない、まだ無名の、詩人になることを目ざしている田舎者である。

事実、ストラトフォード・アポン・エーヴォンという水郷の村から出てきたばかり。

村の人口は2000人くらい。ロンドンにきて、ある小屋に雇われ、いまは馬番をやったり、ときどきは舞台の袖で、走りづかいをやっている。

村には、結婚したばかりの妻と生まれたばかりの双子の子供らがいる。――どうか、私を「学識の高みにあげてください」というわけである。

そういう内容の詩だ。

はげしい嫉妬に燃えて書かれた初期の作品。26、7歳のころの詩と思われる。――彼自身、名もない市民だったので、市民の気持ちが痛いほど分かっている。――だれだって、最初は名もない市民だって? 

それはそうだけれど、イギリス社会では今もって血統がものをいう社会。

あのサッチャー首相にしてからが、「たかが、肉屋の娘じゃないのさ」と肉屋の娘に揶揄されていたから、名門の貴族社会の出でもなければ、大学を出たわけでもないシェイクスピアにとって、この「名もなき市民」は、ことのほか大事な市民で、生まれる瞬間から世間や歴史に名が通る名門貴族を悼み、痛烈に諷刺しているように聞こえる。シェイクスピアが尊敬し、敬愛してやまない相手は、ただひとりだった。

ほんものの名門の出にして、悲しい出生を背負っているエリザベス女王、――ティーダー王朝最後の女王だった。

いかに女王への堅信をゆるぎないものにしているか、――いつかは世間に読まれて、世に知られることを期待して書かれたはずのこのソネットは、おそらく本音で書かれたに相違ない。

おもしろさのなかにある、感動。――笑いながら、笑ってすますことのできない感動。庶民の口は悪いけれど、ぎりぎりのぎりでも、どこよりもあったかいと思ったに違いない。

腹ペコオールスターの気分で、「幸いなるかな、歴史書に記録なき民よ」といったのはトマス・カーライル(1795-1881 イギリスの歴史家。歴史における個人の力を強調。『フランス革命史』ほか)だったかもしれない。

歴史上に記録なき庶民を羨むのではなく、自分を知り、自分に目覚め、自分を明確にしていく詩の主題は、記録なき民のなかにこそあるというのかもしれない。

イギリスらしさ、イギリス人らしさとは、王侯貴族の振る舞いや該博な知識のなかにあるのではなくて、じつは、生きた庶民の、重みのない空気にようなもののなかにあり、そうした熱望や絶望に直面する民こそ、イギリス文芸の値打ちを高めていったというわけ。

また悲劇の本質と、虚構の実体はおなじ重さであり、バランスをとっているものだけれど、秤にかけようのない名前には実体がなくて、重さもない。そういっているのだとも思える。

――おラァにも、まだ名前がなくてよかった、と自分がいっているわけじゃないのだけれど、シェイクスピアが熱望した若き日の嫉妬は、きっとわれわれの熱望を大いに刺激してくれるだろう。……。

■山は青きふるさと。――

井上靖の「」をふたたび読む

 

司馬遼太郎さんは、こどものころから、漢字というものが好きだった、と書かれている。

「韃靼疾風録」のあとがきを読むと「韃靼」という漢字は、明(みん)の辞書「字彙(じい)」によると、馬をムチ打って駆けるというイメージからつくられたという。こういう話は、じぶんはめっぽう好きで、じぶん自身もこうして漢字というものを覚えた。中学生のころから、漢和辞典を読んできた。漢字には、物語がある、そうおもうようになった。

 

井上靖、(1907-1991年)

 

草加市立病院で音楽演奏があるなんて、はじめは信じられなかった。

先日、草加市立病院の大ホールで、早稲田大学の木金管合奏団のコンサートが開かれたのである。この楽団は聴いたこともない。目録を見ると、全員、早稲田大学出身者で構成されている。ボランティアのひとりに、ヨーコが声をかけた。何かおしゃべりしてから、

「どうですか、記念に1枚、あなたの写真を撮らせてもらえませんか?」とぼくはきいたのである。

「いいえ、わたしはけっこうです」といって断られてしまった。

 

 

 

 

それを見ていたヨーコは、このときとばかりに、じぶんに大きな声で文句をいった。

あんなこと、いわなければよかったと反省する。

単純に、その日の記念にとおもっただけだった。彼女の写真を日記に貼り付けたいと単純におもってしまったのだ。人間には、物語が必要だ。めんどうな付き合いをはじめるわけじゃない。

「あなたのアタマは、単純なのよ、ははははっ!」と、ヨーコはひとり笑っている。

目録にあった「ノクターン」という名曲は、楽員のひとりが病気で、演奏することができなかった。あとは、アンコール3曲を入れて、13曲を聴いた。

静かなホールが、賑やかな音響が鳴り響き、俄然、コンサートホールになった。前列に陣取った患者たちのそばで、ぼくも座って聴いた。みんな病衣を着たままの姿だ。点滴している車椅子の患者も大勢いた。――いまおもえば、つかの間の、人生最後の輝きを奏でるノクターン(夜想曲)のように聞こえるじゃないかとおもった。

金管楽器のなかでも、大きなチューバ奏者が2人、トロンボーン奏者が3人、トランペットは数人、これにふつうなら、ティンパニーを加えるのだが、ドラム1人の構成だった。最後に、小型楽器の奏者である女性が出てきて、ヴァイオリンの独奏をした。

これはめずらしいことだ。

はじめはちゃんと聴いても、何という曲かわからなかった。強いてあげれば、司馬遼太郎さんの書いた「韃靼疾風録」という印象だった。そのうちに、じぶんの書いた曲のように聴こえてきた。それは「韃靼海峡」という物語だった。じぶんはこの「だったん」という漢字が好きだ。

 

井上靖「蒼き狼」、新潮文庫

ここには、羊もいなければ、牝牛もいない。何もない大地がひろがる。

空には鳥の鳴き声がする。ひばりが飛んでいる。

フルートの繊細な音階が、ころころと奏でる。大地の外れに、わずかに何かが動いているのが見える。あまりにも小さい。

馬を駆けてこっちに向かってくる。――タタール人の商隊か? 

そのあとから、ラクダの背に荷物を満載した長い隊列がつづく。隊列の長さは2キロもあろうか。帯のように長くつらなる隊列は、大地にうごめく虫けらのように見える。砂塵(さじん)が舞う。音は何も聞こえない。

カメラの位置から100キロは離れている。温度差が風景をゆがめる。隊列がだんだんと近づき、アップで写される。

「急げ! 万里の長城は近いぞ!」

先頭を走る武将は、叫んだ。――そこで、タイトルバックに切り替わり、「韃靼海峡」のタイトルが写され、ティンパニーの連弾から、主旋律のオーケストラ音楽がはじまる。

――こんなふうなファースト・シーンを考えてみた。

この物語は、海を見たこともないタタール人が、敵に追われて、1500キロも東に逃げ、偶然にも「韃靼海峡」を発見するという物語である。彼らの目は400キロ先を目視する。地球上、もっとも眼力の発達した彼らである。その目で、何を発見したのだろうか?

発見のドラマ「韃靼海峡」にふさわしい音楽が鳴りひびく。

族長の後継者が選ばれ、彼の嫁を探す。嫁は略奪した部族の女のなかから選ばれる。あたらしい血を入れようとする民族のならわしである。それにつづく略奪と戦い。

――国家は分裂の危機に瀕(ひん)し、ある者は、敵と戦い、ある者は、遷都(せんと)を夢想する。

そうして、遷都を選んだタタール人は、旅の果てに、そこに横たわる「海」を発見する。海の向こうに渡ろうとする。千載一遇のチャンスを生かし、彼らは舟をつくり、その海を渡った。

西夏(せいか)文字も失われ、回鶻(ウイグル)文字も失われ、彼らタタール人の足跡を記録するものは、現在、何もない。何もかも失われてしまった。

「ほう、そいつはドラマですか。おもしろそうですな。……」と、Sさんはいった。問題は、おもしろいか、おもしろくないかである。

「むろん、おもしろそうですよ。観たくなりますよ」と彼はいった。韃靼人は、子孫をつなぐために、強く生きたいと願った。生きるための切ない願い、それこそが、宗教にもまさる崇高な願いである。

現代人の多くは、神を信仰しながら、神なしで生きている。ほとんどの人は、そうだろう。いったい神は、どこに宿るというのだ? 

自分のこころのなかに宿るのだろうか。

神は別のところにおられて、自分を見つめてくださるという。ほとんどの人は、神を信仰しながら、神なしで生きている。

ぼくは、韃靼人の物語を空想すると、胸が熱くなる。彼らこそ、偉大だったとおもう。彼らは、渡り鳥に生きる術を教わった。

彼らは一匹の蝶に、海をわたる勇気を教わった。けっして神ではなかった。しかし、彼らは蝶が海をわたるのを見て、神のように信仰した。

のぼる太陽に、日々の安寧(あんねい)の祈りを捧げたかも知れない。東の国、太陽がのぼる国を目指そうと思ったかも知れない。これは、神への信仰とおなじだろう。

――タタール人の祖先は、資料によれば、8世紀から13世紀まで、モンゴル系の部族として、勇敢に戦った民族であると書かれている。ウィグル人を攻略したのはキルギス人である。そのキルギス人をやっつけたのは、タタール人(韃靼人)だった。タタール人は、モンゴルの地に遅れてやってきた民族らしいけれど、おそらく北方のロシア領に住んでいた民族のひとつだったろう。

彼らの風貌は特長的で、顔のつくりが平板にできていたと書かれている。寒い地方では、鼻が高くては凍傷になりやすい。エスキモーは、鼻が低い。タタール人は、寒いところにもいた。

 

 

田中幸光。「蒼き狼」を読み返したのは2000年の正月ごろだった。そのころの写真。

 

鼻をめぐる世界の民族の話を、どこかで読んだことがある。

それによれば、縄文人もまた、鼻が低かったと書かれている。鼻の低い人間は、北緯50度線以上、北に住むことができるといわれている。鼻の骨格から調べた研究である。このたび、モンゴル関係の資料をしらべていてわかったことは、チンギス・ハーンにかんする書物が圧倒的に多いことだった。そのチンギス・ハーンにして、不明な部分がいたるところにある。

那珂通世博士の名著として知られる「成吉思汗実録」は、読んではいないが、ハーンについて書かれた創作は、この書物と、「元朝秘史」に基づいて書かれていることが多いという。これは、元の時代に書かれた記録なのだ。

もともとは蒙古語をウィグル(回鶻)文字を使って書かれたものだったが、明の時代のはじめごろ、漢字に書き改められ、その際に、音標文字として蒙古語を音のまま記し、さらに各語の漢字に傍訓(ぼうくん)をつけて、本文の大意を漢文で要約して付け足したものといわれている。

いわば、翻訳の翻訳になっていて、蒙古語のただしい発音は現在、どこにも伝わっていない。

しかし、これは蒙古人のいわば「古事記」に相当するもので、ただこの1冊が、モンゴルの原初の歴史を語っているにすぎない。

「元朝秘史」の冒頭には、つぎのように書かれている。

蒙古民族の祖が上天の命によって、西方の大きく美しい湖を渡って来た蒼(あお)い狼(おおかみ)と、なま白い雌鹿(めじか)との交合によって生まれた。

「蒼き狼」ということばは、ここから引用されている。

井上靖が「蒼き狼を「文學界」に連載したのは、昭和36年、ぼくはまだ高校生だった。毎月買って読んでいた雑誌「文學界」で、その存在を知った。鉄木真(テムジン)、――のちの成吉思汗(チンギス・ハーン)が生まれたのは、西暦1162年だったと書かれ、それほど古いものではない。

そういえば、張騫(ちょうけん)の原稿を書いたときは、苦労した。

なぜなら、張騫の物語は、大月氏という、3000キロも離れた地へおもむき、13年かけて国に戻ったという記述しかない。司馬遷の「史記」では、たったの6行しか書かれていないからだ。

これでは話にならない。

タタール人は、もっと困難だったろう。どういう歴史を持っていたのか、皆目、見当もつかない。

そのタタール国の大きさは、ざっと述べても、西は中国の金・西夏・南宋、東はトルキスタン・東ヨーロッパ・地中海・アラビア、南はクメール、北はロシア・ウィグルのウラル山脈までの版図が広がっていたという。世界最大の大きさである。

これをモンゴル帝国に統一したのは、成吉思汗である。

彼はもともとタタール国のひとつの部族にすぎなかったというから、驚きである。

先週の木曜日、夜、晩(おそ)く帰ってきて、ひょんなことから、急に本を読みたくなって、深夜、手に取った本を寝転がって読んだ。井上靖の「蒼き狼」という小説である。

むかし――高校生のころ、ぼくは井上靖のファンだった。

小説「通夜の客」を読んだのがはじまりで、それからは、彼の小説をおりおり読んできた。「蒼き狼」は、井上靖の歴史小説で、ぼくは高校生だったが、この小説を毎号読んでいた。

ぼくが、歴史小説というものを最初に読んだ作品である。

これは、モンゴル帝国を築いた初代ハーンであるチンギス・ハーン(成吉思汗)の生涯を描いた作品である。ぼくにとっては遠いむかしのことだけれど、その後、新潮文庫版になったものでも再読した。むかし読んだ個所が、ところどころおもい浮かんでくる。

さてきょうは、この小説の話の展開のおもしろさというよりは、この小説は果たして「歴史小説」と呼べるのかどうか、といった問題について、少しおもうところを書いてみたい。

井上靖という作家は、だいたいが歴史に材をもとめて書いたものが多く、彼は歴史小説家なのだという印象がぼくにはあった。たとえば「天平の甍」は、仏教伝来の話を、まるで見てきたかのように描かれた小説である。鑑真(がんじん)率いる20数名の学僧たちや、年若い僧たちとともに日本を目指して渡航を企てる話は、ぼくらは歴史の本でしか知り得ない話である。

作家は、それを描いたのである。

ほんとうはどうだったかは、別として。

「蒼き狼」についても、おなじことがいえそうだ。

作家が唯一のたよりにしていた史料は、「元朝秘史」(昭和18年刊)という本である。モンゴル人は文字を持たなかったので、多くは隣国の史料にたよるしか方法がない。それはいいのだが、その「元朝秘史」も、ちゃんとした歴史書ではないので、たぶんに創作が混入しているようだ。

だからこそ井上靖は、小説を書くことができた、といえるかもしれない。

雑誌の連載が終わり、大岡昇平は、井上靖の「蒼き狼」は歴史小説を書いたのではなく、物語をでっちあげて、架空の話として書いていると批判した。

そこで、「歴史小説」とは何か? という問題が提起され、文学的な論争に発展した。

いうまでもなく、これは世界史上最も広大な版図を築きあげたモンゴル大帝国の話である。

その祖チンギス・ハーンを主人公にした小説なのだが、この種の小説は数あるなかでも、井上靖の小説の見どころは、鉄木真が、じぶんの出生の秘密に悩み、それをさぐる過程で、じぶんが「蒼き狼」であることを知り、それを語る小説、といっていい。

チンギス・ハーンにくらべれば、アレキサンダーやナポレオンなどの他の英雄たちも霞んでしまいそうだ。

――さて、小説の読みどころの一つは、鉄木真が自身の出生の秘密に悩み、それを自身が蒼き狼たることを証明することによって正当化しようとする点にあり、そして同じような悩みを抱えているはずの長子ジュチに対しても、同様に狼たらんことを求める物語。――そんなふうにおもわれる。

鉄木真とジュチ親子、そして、鉄木真の母ホエルンと鉄木真の妻でありジュチの母でもあるボルテを絡めた人間模様はとてもおもしろい。

あとがきの「《蒼き狼》の周囲」によれば、井上靖は大学時代に当時のベストセラーになった小谷部全一郎の「成吉思汗は源義経也」(大正13年)をあげ、同著に対する史学者の反論を載せた「中央史壇」に触れて、戦後には那珂通世の「成吉思汗実録」(「元朝秘史」、昭和18年)をたんねんに吟味し、チンギス・ハーンに関心を持ちはじめ、資料を集めて構想を練ったと書かれている。

執筆した時点では、作家はモンゴルに行ってはいなかったのである。

この小説は、1959年10月号から1960年7月号にかけて「文學界」連載された。

■モンマルトルのベル・エポック時代。――

リはえていた」

ベル・エポック精神を表現した当時のマニフェスト

 

今朝、嬉しい電話が入った。顕正会の先輩にあたる女性班長がたいへん褒めてくれたからだった。じぶんが入会して3年目でようやく一人折伏(しゃくぶく)できたからだった。

「田中さん、おめでとうございます!」といわれると、なんだか、じぶんはふたたび男になったみたいだった。あまりに嬉しくて、マンションを飛び出すと、そこにある箒であたりを掃きはじめた。

「おはようございます」といって10階の奥さまが挨拶した。

「何か、ございました?」といったのだ。よほどうれしそうな顔をしていたらしい。

さてきょうは、ベル・エポック時代のはなしをしてみたい。

エミール・ゾラのことばを借りれば、そのころ、「パリは燃えていた」。――むかしフックスという人の書いた「風俗の歴史」に、メゾン・ド・ランデブーの話が出てくる。早い話がつまり、素人売春斡旋所のこととわかる。

メゾンは、ごくふつうの民家の屋敷で、なりは街中に溶け込んでいながら、ひそかに男女の出会いの場を提供していたというわけである。

それが、人のあつまるパリのデパートの近くにあったというので、当局もその営業を認めていたということだろう。

それも、メゾン・ド・ランデブーの近くに10年住んでいても、隣りの家で何をやっているのか見当もつかなかったと書いてある。

19世紀のベル・エポック時代、パリはふしぎな街である。大革命とその後の混乱時代、ナポレオンの登場と敗北、そして普仏戦争とパリ・コミューン、やがてパリは壊滅状態となる。そういうさなかにあっても、メゾン・ド・ランデブーは繁盛をつづけていたようだ。

まさにパリは燃えていたらしい。

バルザックは書いている。

「王冠をいただくこの都市は、豊満な肉体をもち、心におさえきれない激しい欲望をいただく女王なのだ」と。「霊感で充満し、人類の文明をみちびく頭脳であり、偉人であり、不断の創造をつづけるアーティストであり、透徹した見通しをもつ政治家なのだ」と。

アセチレン・ガスの毒々しい灯りが夜景を彩り、そこに群がる男も女も、やけに楽しみをむさぼるかのように、一夜のアバンチュールを求めて蛾のようにやってくる。

むかしぼくは、バルザックの小説に夢中になったことがある。

仏文学者の飯島耕一氏に出会ってから、バルザックのおもしろさを知った。

「快楽は死を征服する」というわけである。平和がよみがえったベル・エポックのパリはまさに人生讃歌の完熟期だったというわけである。その時代は、金と地位にとりつかれた時代だった。

社会の変遷は、人びとの価値観さえ変えてしまう。19世紀のブルジョワは金持ちになったが、浪費は悪徳と見なされた。つまり、放蕩と浪費は貴族のすることであり、労働と貯蓄はブルジョワのすることと見なされた。その結果はご存じのように、貴族の敗北となった。

ああ、じぶんは貴族でなくてよかった! とおもった人が多かったかもしれない。

いっぽう金もないのに、金を借りて、しこたま浪費をした人びともいた。その代表的な人物といえば、さっきのバルザックである。彼は終生、借金地獄にいながら、名作を描きつづけた。

しかし、彼には10指にのぼる愛人遍歴をくり返し、女の尻を追いつづける人生をあゆんだ。なかでもベルニー夫人から4万5000フランも借金をし、返す見通しがなくても彼はいっこうに平気だった。彼女から催促されたことは一回もなかった。えらいのは、夫人が亡くなるまで14年間も彼女を愛しつづけたことだ。

 

イタリア人画家モディリアーニの「肩越しに見る裸婦」

ベル・エポックの文化・風俗といえば、パリのモンマルトルのキャバレー「黒猫(シャ・ノワール)」、「赤い風車(ムーラン・ルージュ)」と相場がきまっているかのようにいわれる。

それは事実ではあるけれど、ロンドンの「ミュージック・ホール」のほうが、パリのキャバレーよりも早くお目見えした。

ロンドンのミュージック・ホールの起源は、資料によれば1843年の「劇場法」によってつくられたという。

それまでのパブはお酒を提供するだけでなく、ちょっとした芸能を見せることも多かったらしい。この法律制定以来、大衆芸能はミュージック・ホールと姿を変え、独立することになったという。それが1870年代には300を数えたそうだ。

料金も安く、1階のホールが2ペンス、2階の桟敷席が4ペンスというから、お手ごろな値段である。

いっぽう、「パレス・オブ・バラエティ劇場」の入場料は、大衆席で3ペンス、特等席はその82倍の1ポンド6ペンスもした。

劇場型のミュージック・ホールは、2000席を誇っていた。イギリスはむかしからこの劇場にはなじみがあり、シェイクスピアの時代から芝居小屋がいろいろお目見えしている。ミュージック・ホールが繁栄した世紀末のイギリスは、帝国主義の真っ最中だった。それが国威高揚の場となり、それは大英帝国の産物として生まれたといっていい。

作家ジョージ・ムーアも書いているように、かつてルネサンス時代に人びとが陽気に演劇を楽しんだように、ベル・エポック時代のイギリスの人びとも、人生を愉しむことを知りはじめたのである。

あの高級ホテルの「リッツ・ホテル」も、しばしば「妻からのがれる場」、「浮気をかくす場」として利用され、昼間は「ラブ・ホテル化」した。そのころのイギリスの「ナイト・クラブ」は、いかがわしいクラブだった。ナイト・クラブとはいえ、実態は売春組織であったと書かれている。

ほんまかいな!

のちにできた「サパー・クラブ」も「ミッドナイト・サパー・クラブ」も、実態は「ナイト・クラブ」と50歩100歩。

ある日ぼくも、うわさを聞いて、新宿の某「サパー・クラブ」に足を踏み入れたことがある。椅子もない、赤じゅうたんを敷き詰めた床に、女たちが長い脚をのばして、談笑していた。ぼくがそこにやってくると、ひとりの女がぼくの手を引っ張って、床に座らせた。

「お飲物は、何を?」

と女はいい、メニューを広げる。

適当にオーダーする。レモンスカッシュか何か、ふたりで飲んで、ちょっとおしゃべりして、女はどこかで、食事をしたいといった。これが、夜を共にする合図だった。なんというお手軽な! とおもった。ものの30分で女をゲットしたわけだが、銀座のトリスバーで、何回も熱心に口説いて、やっと手に入れた女とはケタ違いに安い。

本場の「ナイト・クラブ」には、かならす休憩をするシテイング・アウト・ルームというのがあり、男女のささやきは、そこでおこなわれる。まあ、日本のサパー・クラブは、そのシテイング・アウト・ルーム(休憩室)のようなもの、といえかもしれない。

そのころのフランスの小説には、貧乏なお針子がよく描かれる。

たとえばウージェーヌ・シューの「パリの秘密」には、貧乏なお針子の娘が登場し、じゃがいもとミルクだけの食事をし、着る物にはできるだけ気をくばり、精一杯のおしゃれをして街に繰り出す。それが唯一の彼女の愉しみなのだ。

パリ人は階層を問わず、「趣味(グー)」にはうるさい。

そこに、「シックchic」という言葉と、「エレガンスélégance」という2つの言葉が出てくる。

貴族階級の追求した美の様式、それはエレガンスなのだ。庶民の追求したおしゃれは、シックなのだ。

この「パリの秘密」という新聞小説は、あのバルザックもドストエフスキーも嫉妬させたという名作で、ぼくは近年、小倉孝誠の書かれた労作「《パリの秘密》の社会史」という本に、ひじょうなおもしろさをおぼえる。

ロシア人がパリに亡命した20世紀初頭、そして世界のあちこちからやってきた1920年代は、祖国を捨ててパリにやってきたアーティストばかりだ。舞踏家のニジンスキー、ストラヴィンスキー、イタリアのモディリアーニ、ポーランドのキスリング、ブルガリア人のパスキン、日本人の藤田嗣治たちだ。

のちに彼らは「パリ派」と呼ばれるようになった。

イギリスからやってきた作家ヒューバンド・クラカンソープは、セーヌ川に身を投げて自殺しているし、パリにやってきたボヘミアンたちも、あのリルケも、パリのカルチエ・ラタン地区に足をのばし、モンマルトルは、ベル・エポックのパリを象徴する地域となった。

かつて、そこは敬虔な僧侶たちが入植した「殉教の丘」なのだ。

そのモンマルトルの歴史を一変させたのは、ロドルフ・サリという画家である。

ぼくは彼の絵を見たことはない。

彼はブランデー製造業者の息子で、画家としてのアトリエを、なんと「芸術酒場」に変えてしまったのである。1881年11月18日に店は開店した。

するとシャンソンが歌われ、政治の話が飛び交い、音楽はピアノ演奏となり、詩人たちは自作を朗読するステージともなり、カルチエ・ラタン地区の魅力がなくなったころ、みんなここに集ってたちまちキャバレー化してしまった。

それがのちに、「黒猫」と呼ばれる店になったのである。シャンソンの歌の歌詞も、ブルジョワなどをやっつける、当時の権力者たちを批判する歌となり、歌えば歌うほど喝采を浴びる場となった。

 

 犬も残らずしょうべんを引っ掛け、

 おまえらのつぶれた赤ら顔に

 マッカール銃の弾を食らって

 倒れたおまえらの腐肉に!

 

と歌われ、パリの正当な娯楽に飽き飽きした連中は、こぞってこの店に繰り出したという。「黒猫」の人気はかなりのものだったようだ。それからというもの、「赤い風車」、「大使」、「黄金境」、「葦笛」、「日本の長椅子」、「深夜族」、「にくまれ口」、「天国」、「地獄」……などなど、キャバレーが目白押しにできた。

「日本の長椅子」というのは、ちょっとわからない。

「黒猫」が閉店したのは、1897年2月で、それも賃貸借契約が切れたことと、オーナーのサリが病気になったことだった。閉店して4週間後、彼は死んだ。

少なくとも、1960年代には、まだ日本にもキャバレーがあり、銀座の雨降るビルの麓で、東海林太郎さんとならんで、いっしょに雨宿りをした愉しい夜もあった。そういうときでも、彼は直立不動の姿勢だったことを想いだす。

大学では、古賀政男指揮でマンドリンを弾き、御茶ノ水の楽器店でギターを手に入れ、こんどは古賀メロディーを弾いていた。

新富町界隈では、柳のふちを人力車が通り、夜の芸者たちの姿を見ながら、ぼくは京橋小学校のプールのそばで、ひとりヴァイオリンを弾いていた。

米海兵隊員が数人やってきて、「銀座はどこか?」ときいた。

「ここが銀座だ」というと、

「ちがうだろ!」と、ひとりは吠えた。

そうだ、銀座通りはこの先、5ブロック先! というと、彼らは喜色をうかべて、夜の銀座通りにむかった。

そばで旗屋を営む主人がいて、たばこを吸いながら、ぼくのヴァイオリンを聴いてくれた。そうした夜、銀座のエレベーター・ガールとのデートを楽しんだ。彼女はぼくの愛人ではなかったが、彼女のほうが、ただちょっと、寂しかっただけだ。

それが、ぼくのベル・エポック時代である。

■モダン・イングリッシュの時代。――

シェイクスピアの国、とばをいた歴史いろいろ

シェイクスピア

 

ことばって、おもしろいな、とおもう。

むかしイギリスに、モダン・イングリッシュの「outpeopling」っていうことばがあったこと、聞いたことあるでしょうか。

いきなりで恐縮ですが、今朝、そんな夢みたいなことを想いうかべた。

ヘンリー8世がケンブリッジ大学ではじめて欽定のギリシャ語講座というものを開設したとき、聖書が英訳された。

たとえば「バビロンに人を移す」という部分の「人を移す」をoutpeopling(アウトピープリング)と訳された。

こうしてつぎつぎにモダン・イングリッシュが誕生していった。人を外に出したからアウトで、それに人びとのピーブルを加えてアウトピープリングとしたわけである。「十字架にかけられる」はラテン語からきた語crucified(クルーシファイド)が一般的だけれど、彼はcrossed(クロスト)とするなど、これ以上やさしくできないほどの英語になった。

それから大航海時代になると、これらをoversea languages(オーバーシー・ランゲッジズ)といわれるようになった。このoversea languagesは、歴史的にも地理的にも、遠いところからやってきたことばという意味になった。さまざまなことばがやってきて、さまざまな英語がつくられていく。

これをRenaissance spellings(ルネサンス・スペリングズ)という。こういう難解な外来語が入ってくると、イギリスではやさしくいい直す風習が生まれた。つまりいい替えをする。

英語のふるさとは、アングロサクソン人のことばであるとされている。Englishは、むかしEngle =Angle人のことばだった。

アングル人はデンマークとドイツの国境にいたゲルマン民族の一派で、なぜアングルといわれるかというと、おもしろいことに、この地方は「釣り針」(angle)の形をしていたからだった。Englandという地名もアングルズ・ランドがなまったものといわれている。

さて、英語学の本家はドイツである。――そういうことは、学生時代にオクスフォード大学出身のベンジョミン・F・シスクという教授から教わって少しは知っていた。Often(オフテン たびたび、しばしば)の語を、アメリカ英語式に「オフン」と発音して読んだところ、先生から注意を受けた。それから先生の長い講義を聴き、中世英語ではoft(オフト)といい、それがなまってoftenになっていったという歴史的な経緯を聴かされたのだった。

目からウロコが落ちる思いがした。そして、television(テレビジョン)の例を出され、英和辞典の見出し語でふたつの違った語に分綴されている意味を教わった。これを先生は、日本語の漢語の偏と旁(つくり)の例で話されたのである。

Teleは、ギリシャ語の「遠い」という意味だから、「遠いヴィジョン」となる。そして、teleohoneは、テレ・ホーン、つまり「遠い音」となる。

「dogの動詞形は、何か?」と質問された。

みんなも分からない。名詞形の「犬」しかおもい出せない。辞典を見ても、当時は動詞形は出ていなかった。

「それは、まといつく、尾行するという意味になり、察のイヌという成文になった」と教わった。当時、昭和37年ごろの研究社版の英和大辞典にも、いろいろと漏れがあった。ぼくは、ベトナム戦争がはじまってから、英字新聞を購読していたが、分からない語がふんだんに出てきた。たとえば、sniper(スナイパー 狙撃兵)という語だった。

Snip(スナイプ)は「雉(きじ)」。それに-erをつけたらいったい何になるのだろうとおもった。辞典にも出ていない語が、英字新聞には毎日のように、ぞくぞくと出てくる。軍事用語、経済用語はいうにおよばず、科学用語、医学用語などなど、さまざまなことばでつづられていた。

 

ヘンリー8世

中世の時代には、ヨーロッパ文化の先進国はなんといってもフランスだった。

華々しく文化が爛熟したルイ14世の時代、アカデミー・フランセーズができ、それがヨーロッパの言語形成の雛形になった。この事業は国家的な規模になり、「国語は国家なり」ということを実践した時代であった。国語の発達した一等国は、ますます国力をつけ、押しも押されぬ強力な国になった。

フランス語がイギリスに最も多く入った時期は、1400年ごろだった。

これを「チョーサーの山」と呼ばれる。第2の頂点は1600年ごろ。――1600年ごろといえば、シェイクスピアの時代。これを「シェイクスピアの山」と呼ばれる。――つまり文芸、演劇がさかんになり、イギリスがルネサンス時代を迎えたエリザベス朝時代である。と同時に、宗教改革の波が押し寄せた。

ルネサンスと宗教改革というふたつの大きな波が、同時にイングランドに訪れたのである。

ぼくはこの時代をもっと知りたかった。イギリス一国の話だけじゃなく、イギリスに大きな影響を与えたフランス語、およびフランス文学との比較で、ヨーロッパ文学、ヨーロッパ言語というものを比較・研究してみたかった。

そういう角度で学位を狙うには、学部の学生には荷が重かったが、教授はじぶんの熱意に助言を惜しまなかった。

生粋の英語、――つまりアングロサクソン語というのは、取るに足りないわずかな量で、ほとんど1音節で占められる。というより、生粋の英語は、もともと古代ゲルマン語なのだから、ゲルマン人でなくても、いまでも低地ドイツに住む年寄りたちは、いくぶんなじんでいることばである。

ぼくがイギリスにいたころ、たかがオーバー・コートのことを、トップ・コートとも、グレイト・コートとも呼ばれた。ロンドンの街でも、2ブロック離れたら、もうこのように呼び名がちがった。

生粋の古代英語のある語は、旧ドイツ語だった。ドイツ語の低地地方の方言だったのである。これはたんに英語の語彙の数で比較した例にすぎず、たとえば、be動詞のisとかbeとか、定冠詞のtheといった基本的なことばは、すでにゲルマン語としてイングランドに入っていた。外来語ではなくて、大和英語のほうが圧倒的に使われている。

それが学問上の論文や科学記事になると、逆にゲルマン系のことばが下がって50パーセントを下まわり、フランス語系の外来語が多く使われていることが分かった。われわれ外国人から見れば、もともとあった大和英語のほうに親しみを感じ、意思の疎通がはかりやすい。

それにしても、それらは途中で語の音韻が変化して、「アー」が「エー」になり、「エー」が「イェー」になり、「イェー」が「イー」になり、「イー」が「アイ」になり、「アイ」が「アオー」になり、「アオー」が「オー」になり、「オー」が「ウー」になり、「ウー」が「アウ」になるというおびただしい語の変遷を繰り返したために、英語はとてもやっかいなことばになったのである。

こんなふうに大母音推移を繰り返してきたので、ほんらい違う意味のことばがおなじ発音をするということになった。

たとえばsea(シー 海)とsee(シー 見る)、meat(ミート 肉)と meet(ミート 会う)がそうだ。ただしスペリングはそのまま残った。

スペリングは従来のまま残されたので、たとえば語のなかに「h」、「b」、「t」があっても発音されない単語も生まれた。

フランス語の場合、これらの子音字は、そのあとに母音字がきたときにだけ発音され、語のおしまいが子音字でも、つぎの語が母音字ならリエゾンして発音される。これはフランス語の特長であり、けっきょく英語もそのように発音されるようになっていった。詩行を立てる場合、音節の数をそろえるために、わざわざ子音字でおわる語と母音字ではじまる語を組み合わせたのである。

文豪ジョンソン(Dr Samuel Johnson 1709-84年)は、たいていドクター・ジョンソンと呼ばれている。「ジョンソン辞典(A Dictionary of the English Language 1755年)」を出した人として知られている。

ジョンソンの辞典は文学界に多大な影響をおよぼし、当時Dictionaryといえば、ジョンソンの辞典を指した。当時庶民が使っていたことばは乱れていて、ジョンソンの辞典に載っていることば以外はだんだんと使われなくなった。それほど画期的な辞典だったらしい。

「常識」をぶち壊すことも辞さない。

だが、アインシュタインにはかなわないだろう。アインシュタインは「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう(Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.)」といっている。またこうもいっている。

「可愛い女の子と1時間いっしょにいると、1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。(When a man sits with a pretty girl for an hour, it seems like a minute.But let him sit on a hot stove for a minute - and it's longer than any hour.That's relativity.)」といった。

だが、かつては大英帝国に組み込まれていた旧植民地出身の英語作家たちは、ペンで旧宗主国に逆襲し、英語文学と英語をしきりにつくり変えているのだ。英国にながく住んでいるインドの作家ヴィクラム・セムや、スリランカ生まれのカナダの作家マイケル・オンダーチェ、ナイジェリアの作家ベン・ヤクリなどなど。

たとえば「何かをput outする」というのは、たとえば火を消す、(肩の関節)をはずす、「だれかをput outする」のは、人をいらいらさせることだし、不都合を起こしたり、競争相手を卑怯にも競技からはずすことにもなり、患者の意識を失わせることにもなる。

はたまた人が「put out」するというのは、貞操のタガをゆるめたり、身持ちのわるい、性にだらしのないことを意味したりする。その他、さまざまな定義がえんえんと書かれている。

しかし友人とぼくは、あることで意見が一致している。「ジョンソン辞典」は、たんなる辞典ではなく、あれは芸術作品であるという点である。彼の語義の定義はなにしろ吹き出したくなるほどすばらしいのだ。

詩人としてのジョンソンは、辞典づくりにおいてもじゅうぶんに発揮された。「to hiccoughしゃっくりする」は、「胃の痙攣とともにむせび泣く」ことであり、「embryo胎児」は「胎内で未完成の子」であり、「thumb親指」は「短くて強い指で、他の4本の指に答えている」と定義している。

「uxorious恐妻家の」は、男は「夫婦間の溺愛という病毒に冒されている」ことなのだそうだ。「backbiter陰口をたたく人」は、「こっそり誹謗する人、その場にいない人を非難する人」。「ガヴェストン」、これは人名なのだが、いろいろ書いてあって、最後に「とかくお追従をいうしか脳(のう)のない卑劣漢」と定義している。

ここを翻訳した文章は「能のない」ではなく「脳のない」とわざわざ書かれている。

辞典を翻訳するのだから、まちがいは極力避けたいが、この場合、あえてそうしたとも読めておもしろい。

イギリスにルネサンスが訪れたのは、1509年としている学説が有力である。

ヘンリー8世が即位した年である。

この王は学問の重要性のわかる人で、ヘンリー8世はイギリスじゅうにグラマー・スクールをたくさんつくった。グラマー・スクールというのはラテン語を教える小学校のことである。学区は、市や町という行政区ではなく、教会区にあわせて教会が金を出して授業料のない私立学校としたにはじまる。

シェイクスピアは、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの町でグラマー・スクールに通った。そこでラテン語を学んだ。国語である英語はあまり教えなかったらしい。いきなりラテン語を学ばせた。そういうことで、ヨーロッパの義務教育の小学校を出ると、だれでもラテン語が読み書きできるようになった。そういう意味では、ラテン語はヨーロッパの漢文なのである。

ドイツ人もイギリス人も、フランス人も、スペイン人も、英語がよく分からない人でもラテン語なら分かるようになったため、ヨーロッパの大学では、英語で授業をしていても、先生がいざ黒板に書くときは、ラテン語で書く。

彼らの共通語はラテン語なのである。

こうしてルネサンス時代を経ることで、モダン・イングリッシュが生まれた。

ルネサンスは神さまよりも人間のほうに関心を向け、おもしろいことに、人間中心の考えが浸透していった。

これをhomocentric(ホモセントリック 人間中心)といい、ぎゃくに神さま中心をtheocentric(セオセントリック 神さま中心)という。

ヘンリー8世は国じゅうにグラマー・スクールをつくり、大学改革を実行してりっぱなカレッジ(クライスト・チャーチなど、専門の学寮)をたくさんつくった。わざわざ新しい学問The New Learningのための講座を設けさせた。

これがモダン・イングリッシュの発祥を生んだ。

ちゃんとした英文の欽定訳聖書ができたのはジェームズ一世の時代である。

イギリスの大学、――というよりも広くヨーロッパの大学は、どこの学寮に入学するかで真価が問われる。

ケンブリッジ大学ならば、トリニティ・カレッジが世界最高の学府といわれている。パリのソルボンヌ大学は、文系を主体にしたパリ大学のひとつの学寮である。学寮は字のごとく、全寮制である。当時、小学校も大学も、女性の入学がゆるされなかった。

そこで、貴族の子弟は、邸宅に教授らを呼んで個人指導を行なわせた。だから、どこの大学も卒業していない才媛がぞくぞくと生まれた。現在でもそうだ。

30年ほどまえになるが、アメリカ駐在英大使にイギリスの女性が就任した。記者会見の席で、多くの記者から質問を浴びた。

「あなたはグラマー・スクールも、パブリックスクールも、どこの大学も卒業されていないのは、どうしてですか?」と記者の質問を受けた。バカな質問をしたものだ。名のある第一線の教授たちの指導を直接受けてきたので、どこの学校も卒業していない。彼女は、記者の質問に満足に答えなかったようだが、このことが、ぎゃくにニュースになった。

今朝は、とつぜん、こむずかしい話を書いてしまった。こんな話を書くつもりなどなかったのに!