韓圖(カント)、所哥羅垤斯(シオコラテス)の話
おはようございます。
朝早くから、いきなり漢文の話を書きます。
「――そうかい。楽しいかい。ついでに、辞書には載っていない話をするよ」といって、ぼくはこんなことをいいました。
漢学の伝統がしっかり根をおろしていた明治のころは、ヨーロッパ哲学の翻訳もなかなか容易ではなかったようです。人名もすべて漢字に翻訳されています。
北インドに生まれた仏教のことばが、中国にわたってすべて漢字に翻訳されていったのとおなじです。人の名前まで漢訳されました。
たとえば、哲学者カントは「韓圖カント」と書き、ソクラテスを「所哥羅垤斯シオコラテス」と表記しました。それらの論文の中身も漢文が主流だったので、すべて漢字に頼らざるを得ませんでした。
そこで、アリストテレスは「亞利斯多拉アリストツトル」、デカルトは「垤加爾多デカールト」、プラトンは「伯拉多プラト」、ヘーゲルは「俾歇兒ヘイゲル」と記されました。
「おもしろい! お父さんはどうしておぼえたの?」
むかしの本を読んで覚えました。
当時のエリートたちは、というより、女学校を出るほどの女性たちも漢文が読めることがあたりまえだったわけです。まずもって漢文が読めなければ、勉強もできなかったわけですね。テキストはすべて漢文で書かれていたからです。
ちなみに「フィロソフィ」は、「専ラ理ヲ講ズル学」というわけで、「理学理論」と訳されました。ギリシャ語の由来は、「ソフィア(知識)」を「フィロ(愛)する」という意味です。知識を愛する学問。
これを、のちに「哲学」という字に翻訳したのは、西周(あまね)という人です。
もしも外来語そのままにカタカナ表記になっていたとしたら、こんなふうになっていたでしょうね。
「理性」はヘアヌンフト、「意識」はベヴストザイン、「現象」はフェノーメン、「主観」はズプエクト、「客観」はオプエクト、「概念は」ベグリフ……というぐあいに。哲学論文の邦訳は、およそ呪文のようになっていたでしょう。
「へぇ、そうなんだ! そっちのほうがずっとむずかしい」
「漢文といっても、ついこのあいだまで漢文だったんだよ。漢文の読み方を勉強したいと思ったら、漢文を読むことですよ」といいました。
じっさい、読めば読むほど自然に分かってきます。
この「自然に」というのがコツです。
むずかしい本を読んで分かろうとするよりも、ほんものを読んで分かろうとしたほうがいいようです。英語を分かろうとするとき、英文法の本とにらめっこすると思いますが、肝心のことが分からなくなります。つまり、英語の語感です。英語の語感は文章を読まないことには分かりませんね。
この世に生まれて3年しかたっていない女の子でも、おしゃべりがじょうずです。お母さんのことばを覚えるからです。
3歳の女の子が、「どうもどうも」なんていうのを聞くと、笑ってしまいます。
でも、彼女にはちゃんと語感が備わっていて、びっくりするくらい大人っぽいおしゃべりができるわけです。
♪
きのうは、ふたたび五十嵐さんからお電話を頂戴し、「三国志」の世界から「かおり」の世界へと引き戻されました。ぼくは、ちょうど漢文を読んでいたところです。かおりさんの世界も悪くないなと思いながら――。
さて、先日は「三国志」についておしゃべりしました。
そのなかで、曹操は宦官(かんがん)の家系に生まれたと書きましたが、これにはちょっと説明が要るかと思われますので、ふたたびペンを執ります。
「宦官の家系に生まれた」ということ自体、とても奇妙に思われると思います。なぜなら、宦官というのは、宮廷の後宮(こうきゅう)、つまり奥御殿、――皇帝の妃(きさき)や女官たちが住まうその場所に勤務する男性役人のことをいいます。
この役人になるためには、睾丸を切り落とす必要があったのです。もちろん大人になるまえ、10代の若いころに切り落とします。
曹操は、代々宦官の家系に生まれたというからには、睾丸を切り落とさなかった役人がいたということになりますか? 少なくとも、彼の父親は切り落とさなかったのではないか、そう思ってもふしぎではありません。
睾丸を切り落としてしまうと、子孫は生まれないわけで、ちゃんと子孫を残しているということは、そこに何か事情があると思っていいでしょうね。
宦官はなぜ睾丸を切り落とす必要があったかといいますと、奥御殿の、女性だけが住む場所に勤務するわけですから、間違いがあってはならないわけです。皇帝以外の男が、もしも女官に子種を残すようなことがあってはならないからです。女官たちは、皇帝の子種を宿すことが使命です。
そういう場所に、りっぱに男性機能を有する成人男性が勤務すること自体、奇妙な話です。
で、調べてみますと、即位した皇帝がまだ子供のときは、宦官のなかに一般役人も、特に命を受けて宦官の職に就いていたことがありました。
曹操の父親もそのひとりであった可能性がありますが、いましばらく調べてみる必要があります。詳しいことは分かりませんが、そうでなければ、曹操が生まれるはずがありません。
そのことを蛇足ながら、ここに申し添えておきたいと思います。
このような宦官制度は、中国はもとよりのこと、オスマン帝国、インドのムガール帝国にもかつてありました。
皇帝や後宮に接近して政治の実験をにぎるなど、宦官の政治的な影響力には大きなものがありました。曹操の時代にも宦官という役職は、そういう意味では名誉ある役職だったようです。
そうはいっても、子供を産まない女官は、皇帝が亡くなると、殉死させられます。それほどきびしい世界だったようです。
ところが、宦官は、若いころに睾丸を喪失するので、第2次性徴が止まり、男性機能が衰えたり、髭も生えず、声変わりもしない男となって、特有の「宦官症」という病気を発症するわけです。それはどういうものか、想像の域を出ませんが、かつての中国にそのような制度があったといいます。
♪
当時の政治的な勢力には、外戚、宦官、清流の3つがあったようです。
外戚(がいせき)というのは、母方の親戚です。清流というのは、名門というほどの意味です。
これは後漢の時代のことですが、竇武(とうぶ)と太傅(たいふ)の位置にあった陳蕃(ちんばん)が、宦官の曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)の専横をうらみ、これを取り除こうと謀りますが、機密がもれて、ぎゃくに曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)によって殺されるという事件が起こりました。
これが起こったのは、皇帝がわずか13歳で即位したばかりのころです。
大将軍の竇武は、霊帝(れいてい)の前の皇帝、つまり桓帝(かんてい)の皇后の父でした。桓帝には子がなく、霊帝は傍系から入って帝位についた人で、桓帝の竇とう皇后はなお皇太后として、朝廷内に重きをなしています。その背後にいたのがすなわち皇太后の父、竇武です。
一般にこのような皇后、皇太后の里方の一族を外戚というわけですが、後漢の時代には、竇武のように外戚の大物が、軍事面の最高権力者である大将軍の地位につくのが、ふつうでした。
太傅(たいふ)の陳蕃(ちんばん)は、この時代、清流と呼ばれた儒教的な知識人であったようです。太傅というのは、いわゆる皇帝の指南役というような名誉職で、官僚集団の最高位にありました。
当初、桓帝は出身のいやしい田(でん)貴人を寵愛し、皇后に立てようとしますが、陳蕃に反対されて、家柄のいい竇武の娘をやむをえず皇后にしたという経緯があり、陳蕃と竇武はそのときから協力関係を築きます。
この両者が打倒しようとした曹節や王甫ら宦官は、いうまでもなく皇帝の奥向きの用をつとめる去勢された男たちのことで、いわば皇帝の私的なネゴシェーターでした。そういうことで、この事件は、外戚勢力と知識人、官僚勢力が結託して、皇帝の権威をかさに着る宦官勢力を追い払おうとして失敗した事件でした。
このように、正義の味方であったはずの清流派が勢力を失い、濁流のような宦官が実権を握るという時代になり、それが原因で、後漢王朝がだんだんと滅亡していったという象徴的な事件です。
ひと口に宦官といっても、このように権力の強い集団になっていったわけです。
――中国には、正義が滅び、悪が栄えるという時代がいくども訪れます。
「三国志」をいっそうおもしろく読み解く歴史がそこにあり、それらを下敷きにして読んでいきますと、とてもわくわくします。
黄巾(こうきん)の乱が起こった年、曹操と孫堅はともに数え年で30歳。
劉備は24歳。
この3人は、黄巾の乱によって物語の舞台に登場します。この年、孫堅の長子の孫策(そんさく)は10歳、次子の孫権はわずか3歳。諸葛亮孔明は4歳です。
若いころ、「乱世の姦雄(かんゆう)」と評されてにんまりしたという曹操は、宦官曹騰(そうとう)の養子、曹崇(そうすう)の長男として生まれています。――これで謎が解けました。曹崇(そうすう)の息子として生まれていたわけです。つまり、養子の子でした。
宦官曹騰が亡くなったとき、魏の明帝は、「高皇帝」の尊号を贈ります。
死後の追贈ではありますが、中国史上、ただいちどの宦官出身の皇帝となりました。
その養子となった曹崇(そうすう)は、もと夏侯(かこう)氏の出であったといわれますが、養父がためこんだ莫大な財産によって官職を買い、太尉にまでなりました。このことは、清流派からみれば、唾棄すべき濁流です。曹操は、そういう自分の出自におそらくコンプレックスをもっていたのではないでしょうか。
♪
さて、その曹操には謎めいたことばが残っています。
劉備が漢中を手に入れたのち、曹操の魏王の向こうを張って漢中王となります。漢中はかつて漢の劉邦が項羽に追い込まれたのち、この地を根拠に天下統一を成し遂げ、漢という国号の由来になっている土地です。
そのめでたい漢中を手に入れた劉備は、きっと漢王朝の復活の夢に燃えていたことでしょう。このときが劉備の生涯のなかで最良の日々であったと思われます。
そのとき、劉備に負けてやむなく撤退した曹操は、「鶏肋(けいろく)」、つまり、鶏のあばら骨という謎めいた命令を出しています。この「鶏肋」ということばの意味は緒家によっていろいろに解釈されているようですが、ぼくは、ある専門家のいうことばに真実味があるのではないかと思い、以下、それについてすこし述べます。
それまでは、曹操が狙った漢中を、いま一歩のところで獲得できなかったことに、負け惜しみをいったらしいという解釈が一般的でした。
曹操は、張魯が降伏したのち、漢中の住民数万を長安にただちに移住させています。また漢中軍事の統治に当たっていた杜襲(としゅう)もまた、住民をうまく手なづけ、八万あまりの住民を洛陽と鄴都(ぎょうと)に自主的に移住させています。
劉備がせっかく手に入れた漢中は、人のほとんどいない空の土地でした。劉備は、曹操との戦いに際して、蜀の学者、周羣(しゅうぐん)に戦いの成否を占ってもらったところ、彼は「その土地を得べきも、その民を得ず」と答えたといいます。はたしてそのとおりになっていることから、ぼくは先の「鶏肋」の意味を、つぎのように読みました。
人口の激減したこの時代、人間はある意味では土地よりもずっと値打ちがあったはずです。土地の占領がむずかしいと知った曹操は、その土地の人間を連れ去ったと思われます。残った土地は、なるほど食べるところのない鶏肋のようなもので、「取るに足りず」です。曹操の負け惜しみなどではなかったとぼくは見ます。
いかがでしょうか?
曹操のほうが、1枚も2枚も上手です。
そのまえに、曹操は、長江沿岸の地域が、孫権の攻撃を受けるのを心配して、住民を北に移住させようとしたことがあります。ところが、これに驚いた住民10万は、長江を渡って東に逃げてしまいます。そのため長江の西の曹操側の地域は、合肥(ごうひ)の南の晥城(かんじょう)をのぞいて無人地帯となります。
住民は、どうやら孫権の支配地域のほうが暮らしやすかったとみえます。のちに曹操が漢中の住民を内地に移住させたのは、このときの経験に学んだらしいといわれています。
ある日、孫権は曹操に手紙を送ります。
「春水まさに生ず、公よろしく速やかに去るべし」と。春になって川の水かさも増えたので、一刻も早く帰りなさいといいます。さらに別紙に「足下死なざれば、狐は安らかならず」と書き記します。そなたが生きているかぎり、拙者は安心できないのですといいます。
これを見た曹操は、「孫権はわしを馬鹿にしてはおらぬな」といって、なんと素直に撤退しているんですね。
若いけれど、孫権の力を見くびらず、正統に評価していたと見る人もいます。
このとき、孫権は大きな船をしつらえて、大胆にも曹操の軍営を偵察に出かけます。曹操側は船めがけてさかんに矢を放ち、片側に矢を受けた船は大きく傾きます。
すると孫権は船の向きをくるりと変え、反対側にも矢を受けてバランスを取り戻し、悠々と引き上げていったといわれます。
このとき、曹操は59歳。孫権は32歳だったそうです。
親子ほども年がちがう孫権に、曹操は好敵手を見出したようです。
ふしぎなことに、このふたりは一度も会ったことがありません。
ふたりが最も接近したのは、この戦いのときでした。
劉備と曹操、劉備と孫権はそれぞれ面識がありましたが、孫権と曹操はいちども出会っていません。いつも手紙です。
関羽(かんう)を討つにあたって、孫権は曹操に手紙を送ります。このとき、曹操は魏王になっていて、孫権よりも格が上です。そのため、同盟を結ぶには臣従というかたちを取らなければならなかったようです。この手紙で孫権は、さらに曹操には天命があると説いています。天命を受け、皇帝となるよう暗にうながしたもので、要はご機嫌とりです。
受け取った曹操はその手紙を臣下に見せ、
「この児(じ)は吾(われ)を炉火(ろか)の上に著(ちゃく)せしめんと欲するや」といったそうです。こやつめ、わしをストーブの上に座らせようとしているな、と。
この解釈は、ちょっとむずかしい。
曹操は、著名な詩人でもあります。そういう詩人のいうことばは、文字通りのことではないように思われます。
というのは、中国の五行説でいえば、漢は火徳をもって王朝を開いたということになっています。火の上に座るとは、漢王朝を乗っ取ることを意味します。もうひとつの意味は、文字通りストーブの上に座れば、やけどするという意味ですね。このふたつを引っ掛けたことばだとしますと、たいへんユーモアがあり、たいへん意味深長なことばです。どっちとも取れるような文言になっています。もし天命とする漢の皇帝になれば、ただし、やけどもするとも読めます。
いま述べましたことは、「三国志」には書かれていませんが、「史記」に書かれています。「史記」は物語ではありませんが、事実を書いて「三国志」なみにおもしろい書物です。
♪
漢字には、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、行書、草書、楷書(かいしょ)などさまざまな文字があります。そのうち篆書は戦国時代に用いられ、漢代の通用字体は隷書(れいしょ)でした。ところが後漢末期に隷書から行書体が生まれます。ついで行書体から楷書体が生まれます。
楷書というのは、現在ふつうに使われている正字体です。
曹丕(そうひ)が皇帝に即位したころ、いくぶん楷書化した文字になっていたといわれます。亳(はく)県の曹操一族の墓から出てきた墓磚(ぼせん)の文字は、初期の行書体だったと書かれています。
現在のわれわれの感覚からしますと、楷書がもっとも整った字体で、それをややくずしたものが行書体、さらにくずしたものが草書体と思いがちですが、事実はその逆で、草書体は行書体よりもさらに早く、初期の隷書体から生まれたといわれています。たたじ、漢代には章草(しょうそう)体といわれ、現在の草書体とは多少ちがうようです。
この時代にもうすでに書家と称する人がいました。その拓本を見てみますと、ほとんど楷書体です。行書から楷書に移る過渡期の文字のようです。それまであった篆書、隷書は、印章文字や石碑、建物の額など特殊な用途に使われるだけで、実用の字体としては淘汰されていきました。
わが国でも、江戸時代には草書で書かれた文字が中心だったようです。毛筆で和紙の上にすらすら文字をつづけて書きますから、草書体がもっとも適したようです。庶民も、草書で書かれた文字は読めますが、楷書で書かれた文字はむずかしくてほとんど読めませんでした。
これは古代中国でもおなじで、のちにできた楷書体文字は、ほとんどだれも読めなかったといわれています。
そのかわり、隷書や篆書は読めるというふしぎな現象が起こっています。
篆書体は、印鑑に使われる文字のことで、現在でもふつうに使われていますが、それを読めといわれると、はたしてどうでしょうか。一画一画、篆刻(てんこく)された文字は、ふつうの楷書体と違って、いまではたいへん読みにくい部類の文字です。
――もう秋も深まりました。今朝は寒くて霜柱が立ったかもしれません。いずれまた、お会いしましょう。今朝はこのへんで。











