日本が露戦争にてたのは?

 

こんばんは。

歴史には大別して、空論じみたイデオロギーの時代と、現実感覚に富んだ時代のふたつがあるとおもわれる。日本が、日露戦争で勝利した時代は、現実感覚に富んだ時代だったという人がいる。日本は、イギリスのように産業革命がないのに、産業革命以上の大きな時代の波をつくった。

 

いま、われわれの生活のなかに、これまでになかった文明が出現しようとしている。そして、そのことに気がつかない人びとが、あちこちでそれを阻止しようとしている。この新しい文明とともに、新しい家庭像が生まれ、仕事、恋愛、生活の実態が変化し、経済も新しくなり、政治もまた新しいものとなる。なにより大きいのは、意識の変革が平行して起こることである。

(アルビン・トフラー「第三の波」日本放送出版協会、1980年)

 

この文章は、いまから37年前に出たアルビン・トフラーの「第三の波」第1章の冒頭の文章である。第一の波は農業革命、第二の波は産業革命、第三の波は情報革命。――トフラーは、きたるべき未来の情報革命についてのべたものである。

情報革命時代といわれて、ずいぶんたつ。

何が情報革命なのか、日本人にはほとんどわからなかった。物づくりに自信と情熱をもっていた日本人は、物づくりが情報革命なのだとおもったのである。それは違っているが、その違いを知る人はひじょうに少ない。いまだに日本人は物づくりに情熱をそそいでいる。

ビル・ゲイツも、スティーブ・ジョブズも、ある企業にインスパイアされ、じぶんもあのような会社をつくりたいとおもって大きくなった。それはソニーであり、盛田昭夫である。作家ポール・オースターは、かつてこんなことをいった。

「小説を書くというのは、実際に起こらなかったことを想いだすようなものだ。その意味で、ノンフィクションを書くよりはるかに難しい」と。

ぼくは、いまから114年まえに起こった日露戦争のことを、しばしばおもい出す。日本が近代国家になってたかだか35年ほどたった時代、日本は大国ロシアと戦争した。戦争して勝てるとおもったのである。清国と戦ったとき、日本は勝てるとおもっていなかった。勝てるとはおもっていなかったが、日本人はプライドをかけて戦った。その結果、勝つことができた。なぜ勝てたのだろうか。その答えがわかれば、日露戦争に勝てた理由もわかる。

昨年、イギリスのメイ首相が来日し、まさに第4の「日英同盟」のような両国の蜜月交渉を成功させた。EU離脱後の日英経済関係をより促進しようという目論見である。一部の報道では、真顔で「日英同盟」をうんぬんしている。「両国の緊密な絆」は100年の紐帯関係を結んできた、と書かれた。

100年の紐帯関係とは、どういうものであったか、第3次「日英同盟」で日本は中立国でいられず、望まない第1次世界大戦に参戦することになった。

――150年まえの明治という時代は、とても遠い世界になったようにおもえる。で、先日、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」のことをひょいと想いだして、ある年配の男、――たぶん80に手がとどくような男で、元商社マンの男――にその話をした。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の冒頭の部分である。

「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。/その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑(しゅゆう)は松山……(略)。/この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない」と書かれている。

――その3人とはいったいだれなのか? 

ということになるけれど、ひとりは俳人の正岡子規、残るふたりは、松山藩士・秋山信三郎好古(よしふる)と、真之(さねゆき)兄弟である。おもしろいのは、3人とも戊辰戦争のとき、賊軍とされた伊予松山藩の出身である。

 

 

秋山真之

 

日露戦争を描くのに、まず、この3人の生き方を描いていく。

こんな小説は、ぼくは読んだことがなかった。ただの戦記ものでないことはいうまでもない。司馬遼太郎という作家は、いった何を書こうとしたのだろうと振り返って、その文章を想いだしたとき、この長編小説の冒頭の部分で、青い山脈のようにそば立つ風景があらわれてきたのである。それは「この時代の小さに日本」だった。

明治という時代を彼は描きたかった。だから「この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、……」と、ことわっているのである。その話をすると、Hさんは、

「じぶんもそうおもうよ」といった。そして「その好古が亡くなったとき、仲間たちは、むかしの武士は死んだといったらしいよ」とつけ足した。

彼はみずから望んで軍人への道を歩いたのではなく、自然ゆたかな松山藩士としての人生をまっとうした人間、いかにも武士らしい生涯を、作家はひとりの武士として描いたようだ。弟の真之のほうは50歳まで生きたが、日本海作戦では参謀として頭脳を極限まで使い果たし、あろうことか、敵に背をむけるような危険な「丁字戦法」をあみだし、圧倒的な勝利を手に入れた。

その後、ほんわかした海軍の官僚生活を送らず、海軍中将まで昇進したが、健康をそこねて待命となり、小田原で倒れて1ヶ月後に帰天した。臨終のことばがある。

「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りゆきますから」と。

「ほう、そうですか」とHさんはいった。

ぼくは日露戦争を決断した日本の、まことに苦しい時代、戦費をめぐって高橋是清が奔走した歴史をいくどか書いてきた。世界最大の海軍をもつロシアに宣戦布告をする日本の話を書いてきた。

 

 

ジェイコブ・シフ

 

とうじ日本は、戦争をする金などない。

その金をどこから調達するのか? ということだが、まず戦費を調達するために、高橋是清はヨーロッパに出向く。そのころ、ジェノヴァではアルゼンチンの艦船2隻が建造中だった。アルゼンチンは、チリとの戦争にそなえて建造していた。そして間もなくアルゼンチンが、チリと平和条約を締結したことを知ると、日本側は是が非でも、その2隻を手に入れたいとおもう。

ところが買う金がなかった。

この話は、「坂の上の雲」にも書かれていない。

そして、ロシアとの日本海海戦の記録もちゃんとしたものはなかったから、司馬遼太郎の小説には、丁字戦法の概略しか書かれていない。――ちゃんとした記録「日露戦争 観戦武官の記録」という膨大な1400ページにのぼる海戦記録が、アルゼンチンにあったのである。その記録(全5巻)が日本側が手に入れたのは、平成5年のことである。これは機密文書として、それまでアルゼンチンから出ることはなかった。

その記録は、いったいだれが書いたのか?

アルゼンチンの海軍大佐マヌエル・ドメック・ガルシアという男で、彼は、日進に観戦武官として乗り込んでいたただひとりの外国人である。100年以上もまえの戦争である。日本では、そのような事実は、どこにも公に記録されることなくすぎていった。日進にひとりの外国人が乗り込んで観戦していたことなど、まったく知られていなかった。しんがりを務めた日進は、100人ちかくの死者をだした。阿鼻叫喚の惨状を、ガルシアはその目で見たのである。そして彼は帰国後、3年をかけて記録していったものである。

「平成5年ですか、……。そりゃあまた、どうして?」とHさんはいった。

「ロシアは、同盟国にはたらきかけて、日本海海戦に援軍を呼ばなかったのは、たぶん、ロシアの威信にかけて、日本に敗けるはずはないと信じたんでしょうな」

「そうでしょうね。敗けるなんて、考えていませんね。……日本は日本で、1902年に締結した日英同盟があるからでしょう。これは軍事同盟で、もしも他国がロシア側について参戦をしたとき、イギリスは日本側について戦うというものでしたからね。イギリス海軍もりっぱでしたから」

1902年1月30日、ロシアの極東進出政策への対抗を目的としてイギリス外務省において、第1次日英同盟がむすばれ、その後、第2次(1905年)、第3次(1911年)と継続更新された。

こうした世界の状況のなかで、司馬遼太郎は、日露戦争をタテ軸にして、正岡子規、秋山兄弟のゆく末を見さだめ、明治の青春群像を明るく描いた。国のために、命をささげる、という志を描いたのである。

さて、日露戦争の戦費の総額は、18億2629万円。

内外の国債をのぞけば増税によってまかなわれ、所得税でいえば、一律に税額の70パーセントが増徴された。さらに第2次非常特別税法により、それぞれ所得階層において累進的に30パーセントから200パーセントが加えられた。これにより、内国債6億7200万円に達した。

しかし、それでもざっと約9億円が不足する。

高橋是清は、日本政府が起債した8200ポンド=約18億円の戦時公債のうち、3925ポンドを、ジェイコブ・シフ(Jacob Henry Schiff  1847-1920年)というユダヤ人の協力のもとで捻出することに成功した。

しかしこれは、ぼくにとって、長いあいだの疑問だった。なぜなら、高橋是清はなぜユダヤ人のボスに会う気になったのか、ということである。会って、戦費を貸しつけてほしいというとき、何を担保にしたのだろうとおもった。信用だろうか? それとも、反ユダヤ主義をかかげる帝政ロシアの何かと引き換えに?

それはないだろう。

それとも、一君万民の竪琴を奏でつつも、日本がアジアにおける第2のユダヤ人になりそうだと訴えたのだろうか。徳川一強の時代を乗り越え、ようやっと世界の列強に肩をならべて、新生日本のスタートを切ったばかり。

高橋是清は、ロシアを知る榎本武揚に、ロシアについて、なにがしか尋ねたにちがいない。そのころ、ウラジオストックは、急ピッチで整備をすすめていて、ロシアの太平洋艦隊のもっとも理想的な巨大な軍港建設をはじめていた。そのウラジオストック港は、北海道の箱館港からわずか2日間で行ける距離でしかない。

これは、日本にとってたいへんな脅威である。

「日本側に、ユダヤ人がお金を用立てたのは、なぜ?」という質問に、ヘブライ大学のベン・シロニー元教授は、つぎのように話している。

「大金を日本に貸しつけても、かならず回収できる!」

しかし、それが主な動機でないことは明白である。国際的にはだれが見ても、日本には勝ち目のない戦争だったのだから、回収のリスクがきわめて高いことが知られていた。

高橋是清は、明治36年(1903年)11月、日銀の松尾臣善総裁から、日露交渉がまとまらず、開戦となったばあい、日銀として軍費の調達に全力をそそがなければならなかった。もしも開戦となれば、1年で海外で流出する正貨は、外国の銀行が持ち出すもの3500万円、輸入代金として流出するもの3000万円、計6500万円。

これにたいして、日本銀行が所有している外貨は1億1700万円しかなく、残りは5200万円、これには、戦争後、海外支払いとなる軍需品の代価はふくまれておらず、どうあっても戦争継続は困難であることがわかる。

さらに、アルゼンチンから買いつける「日進」、「春日」両戦艦の費用もままならず、高橋是清は、アメリカ経由でロンドンに出向き、バース銀行頭取のバー、本店総支配人のダンに面会し、募債活動を開始する。香港上海銀行、チアター銀行、ユニオン銀行幹部にもあたるけれど、芳しい進展はなかった。

しばらくしてバース銀行の取引先であるクーンロエプ商会のジェイコブ・シフが、500万ポンドを引き受けてアメリカで外債として発行してもいいといっていることがわかり、彼と会うことになった。

栄光ある孤立を誇っていたイギリスが、極東の小国日本と「日英同盟」をむすんで世界を驚かせた。なおかつ、海軍の主力艦である戦艦「三笠」をはじめ、装甲巡洋艦など、日本はイギリスに戦艦建造を発注するなど、近代戦争の戦力を着々とすすめている日本を見て、世界のユダヤ人社会、――とくに、「反ユダヤ」を掲げる帝政ロシアと生涯戦いつづけることになるジェイコブ・シフにとって、個人的な軍事同盟を日本と締結し、日本の戦力を使って、ロシアにたいして鉄槌を仕掛けることを目論んだとしても、おかしくない。

そのジェイコブ・シフに会えたことは「天佑(てんゆう)」であると、のちに高橋は述懐している。高橋にとってまさに青天のへきれきだったことだろう。高橋是清はのちに、こうのべている。

明治37年5月、いよいよ日本公債を発行することが発表され、数日まえには、日本軍が鴨緑江の戦いで勝利したことが新聞に報道されたりして、日本公債は予想外の人気を呼んだ。応募者は英米ともたちまち発行額の数倍になり、その日の午後3時にしめきられ、なんと、目的額をあっさりとクリアしてしまったのである。この公債発行は、ロンドンとニューヨークで同時に開始され、申込者が列をなし、2、3ブロック先まで人がならんだといわれている。

高橋是清は、はじめからイギリス政府の意を汲んで、ひそかにユダヤ人のボスにあたりをつけ、イギリス政府が用意した大テーブルを前に、ヴァーチャルな「日ユ同祖論」を現実のものとして訴えたというのだろうか。彼は日本の窮状をうったえ、資金の提供を願い出る。

すると、銀行家の晩餐会で隣席したシフから、

「日本兵の士気はどのくらい高いか?」という質問をうけ、高橋が応答すると、翌朝、500万ポンド公債をシフが引き受けることが伝えられたという。これには、さすがの高橋是清も驚いたにちがいない。

「この戦争は自衛のため、やむを得ずはじめたものであり、日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。支払い能力の多くは関税収入である」といった。

シフは2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助したことで、日本勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけをつくったのである。

以後日本は、3回にわたって7200万ポンドの公債を募集。シフは、ドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけ、これも実現した。結果として日本は勝利を収め、シフは一部の人間から「ユダヤの世界支配論」を地で行く存在と見なされるようになる。

これ以後、シフは、高橋是清との親交を結んだのはいうまでもない。

日本は、約18億円の半額である9億円を借り受けることになったが、高橋是清のいうように、担保のほとんどは関税だった。だが、その担保の関税をいちども差し出すことなく、日本政府は完済した。その9億円という金額は、当時、日本の国家予算の60年分に相当し、巨額にのぼる。

ジェイコブ・シフが用立ててくれた3925ポンドが完済できたのは、1986年(昭和61年)のことだった。――これはヴァーチャルな歴史ではない。現実なのである。

■現代素粒子物理学。――

西尾幹二氏とュートリノ振動の2025年

 

西尾幹二全集刊行記念講演「スペイン、オランダ、イギリス、フランス、ロシアは地球をどのように寇掠したか」。2013・07・23。

 

今年2026年の正月は「お元気なのだろうか」、とおもってしまう。だがなぜいま、「ガリレオ=デカルト論」なのだろうとおもってしまった。この世におられた西尾幹二さんとは、現代文化会議の席で、幾度かお目にかかって以来、ちょっと年月がたってしまったが、彼のブログ記事をときおり拝見し、お元気なごようすに、ほっとしていた。

ヨーコとの待ち合わせは、日本橋の高島屋の入口だったので、時計を見ながらゆっくり歩いていった。

その日は日曜日とあって、日本橋を歩く人はまばらで、なんとなく閑散として見えた。

日本橋といえば、夏目漱石の小説によく出てくる。また、その裏手には「漱石名作の舞台」と彫られた漱石の碑がある。

ぼくはいつも散歩をして、何か考えている。その日も何か考えて歩いていた。コーヒーを飲みながらでも、ぼくはよくひとり考え事をする。そこにノートがあれば何か書く。何も書かなくても、何かを記憶する。

午後1時をすぎた。

たとえば、西尾幹二さんは、グリニッジ天文台について書かれたりする。

ロンドン郊外のグリニッジを標準に子午線を設定したのは科学的な理由からではない。西尾幹二さんのいわれるように、あきらかに世界の支配権をめぐる政治的な駆け引きから設定されたのである。ベルリンがグリニッジ標準時を認めたのは1916年のことである。西尾幹二さんの説では「地球の表面に先にラインを引いたほうが勝ちで、人類はイギリスがかぶせた網の中に閉じ込められた」といっている。

そのとおりだろうとおもう。そのころのイギリスは、文字通り大国であった。それが歴史なのである。

 

 梶田隆章氏ご夫妻。――2015年12月10日、ストックホルムのコンサートホールでノーベル賞授賞式がおこなわれ、スウェーデンのカール16世グスタフ国王から物理学賞のメダルと賞状を授与された。

 

かつてのガリレオ=デカルトの二元論は、いまでは否定されているけれど、じっさいには、現代の自然科学はガリレオ=デカルトの仮設にそって発展をとげている。しかも、自然の数量的、幾何学的、運動学的要因に分解し、観察し、定式化する高度化と緻密化へのエネルギーは、依然としてとどまるところを知らないようだ。

物質をめぐる数量化は、ガリレオ=デカルトの二元論にはじまるものの、その後、バークレイ、ヒューム、カントらによって懐疑的にとらえられ、ついには否定されるにいたった。

だが、ガリレオ=デカルトの「自然の数学化」は、自然科学の方法として、いまでも盛んにおこなわれている。色、味、匂い、手触りなどといった性質でさえも、主観のなかに閉じ込めようとしている。

これは仏教でいう唯識論の域を出ない話かもしれないぞ、とおもう。

西尾幹二氏はその話をしてされている。

宗教と科学は、正反対の方向を向いて動いてきた。

カミナリは、神の怒号であり、避雷針で避けることは神への信仰のさまたげになるといった。ヴェネチアの聖マルコ寺院に避雷針をすえることは、「まかりならん」というわけである。

ベンジャミン・フランクリンは、カミナリの電気的本質を明らかにし、「電気」というものを文明の利器に利用した。

16、17世紀の天体研究者たちは反宗教的なものではなかった。彼らの科学は、中世の神学を母体にしてきた。コペルニクスは、太陽は宇宙の灯火であるといった。それはケプラーの天体観測によって、それを補正した。

ニュートンは地上と天体の力学の解明にともない、宇宙は一定の法則によって動く偉大な機械であると考えるようになった。

そして2015年、日本の物理学者は、素粒子ニュートリノの発見で、標準理論を超える新たな地平を切り開くことになった。ニュートリノは質量がゼロとうたわれていたが、「ニュートリノ振動」の発見で、ニュートリノには質量があることがわかったというもの。

1983年、岐阜県神岡町にある神岡鉱山の地下1000メートルの場所に、小柴昌俊博士が考案した素粒子観測装置「カミオカンデ」がつくられた。その装置で、マゼラン星雲からやってきた超新星ニュートリノをつかまえることに成功した。ニュートリノがもたらすチェレンコフ光を検出することに成功したのである。

それで、小柴昌俊博士は、2002年にノーベル物理学賞に輝いた。天体物理学の分野に新たな扉を開いた。

1987年2月23日、約16万光年離れた大マゼラン星雲で超新星爆発がおきた。カミオカンデは世界ではじめて超新星から飛来した11個のニュートリノを検出した。理論では予測されてはいたが、超新星ニュートリノが観測されたのははじめてだった。

その後、陽子崩壊とニュートリノの謎に挑む「スーパーカミオカンデ」がつくられた。陽子崩壊の瞬間をとらえることができれば、素粒子物理学のなかで多くの謎が残る「大統一理論」の新たな検証となる。

それと、もうひとつの目的は、ニュートリノ自体の観測だった。

スーパーカミオカンデは、ニュートリノや陽子崩壊で発生するチェレンコフ光をとらえることで、ニュートリノ反応や陽子崩壊を観測することができる。地下深くにもうけられたのは、宇宙線や電波などの観測の障害になるものを地中に吸収させるためである。スーパーカミオカンデの水槽は、内水槽と外水槽それぞれ容量は3万2000トンと1万8000トン。そのなかには、内水槽には1万1100本、外水槽には1900本の光電子増倍管が取り付けられている。

ニュートリノ振動。――カミオカンデでは、ミューニュートリノが、タウニュートリノに変身する《ニュートリノ振動》現象は、すぐには判断できなかった。

観測データを検証してすぐには判断ができなかったが、それがおきることは知られていた。中川昌美、坂田昌一、牧二郎、ブルーノ・ポンテコルボなど先駆的な研究で、それがおきることはよく知られていた。約10年間はデータ解析に費やされ、その結果、ニュートリノ振動がじっさいに起きていることがわかったというもの。

ニュートリノは圧倒的に軽く、当初はそれが問題だった。

ニュートリノ振動で、ニュートリノには質量があることがわかったわけだが、「特殊相対性理論」では、物体が速く動くと、物体とともに動いている時間はゆっくりとすすむ。どんどんスピードをあげて光速に近づいていくと、時計はほとんど進まなくなる。

ニュートリノが途中で変化したということは、途中で時間がすすんだということを意味している。その速さは光速ではないということ。

光速で飛べるのは質量がないばあいであって、もしも質量があれば、光速で飛ぶことはできない。

このようにして、ニュートリノは、「反物質の謎」にせまる鍵をにぎっていることがわかった。

ビッグバン宇宙は、その後冷えていき、現在の宇宙になった。ビッグバンのひじょうに熱い宇宙の初期の段階では、どう考えても物質と反物資が同じ数だけつくられたとおもわれる。

それがだんだん冷えていく過程で、どこかで物質の《素》だけが残らないといけないのだが、それにニュートリノが深くかかわっているのではないか、といわれている。物質と反物質の数が合わないのだ。――梶田隆章博士の考えでは、そのように説明されている。数が合わないために、物質世界ができた。

こうして、変身するニュートリノの発見で、梶田隆章博士は2015年、ノーベル物理学賞を受賞した。

「ハイパーカミオカンデ」の構想は、こうした日本の物理学者たちの功績を一段とすすめる画期的な構想で、2027年の実験開始に向けて大きく動きはじめた。その装置は、地上634メートルの東京スカイツリーが、地表からさかさまに地下に向かって伸びているようなイメージをおもい浮かべてしまう。

その地下の先端は、東京ドームに匹敵する巨大な堆積を誇る水槽でできており、2015年、この構想に向けて、計13か国の国際研究グループが結成された。スーパーカミオカンデが5万トンの水槽であるのにたいして、ハイパーカミオカンデは、100万トン。

その内壁には直径50センチの高感度センサーが10万個取り付けられる。この高感度センサーは、微弱なチェレンコフ光を、さらに強力なセンサーでとらえようという装置である。

「産業利益ではなく、人類の知識のために」というのが、小柴昌俊博士の考えである。日本の素粒子物理学は、小柴昌俊博士のいう路線をまっすぐに突き進んでいる。その構想の母体は朝永振一郎博士との交流から生まれたものだろう。日本のニュートリノ研究の系譜はいま、若い研究者に引き継がれた。

ヒッグス粒子による質量獲得というアイデアの元は、南部陽一郎博士だった。2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎博士は、ヒッグス粒子によって素粒子が質量を獲得するメカニズム、――「対称性の自発的やぶれ」を考えだされたことで知られている。「CP対称性のやぶれ」のCは、Charge(電荷)の頭文字で、Pは、Parity(鏡映)の頭文字である。

今後は、ニュートリノは、望遠鏡としても期待されている。星のウラ側や、星の真ん中は知ることができなかったが、星のなかを飛んで行けるニュートリノを使えば、なんでも見通すことができる。

――ぼくは、東京の街を歩きながら、こんなことを考えていた。

映画「タクシードライバー」  

 

2026年

ューヨークを描いた作家たち

 年の暮れ、ある友人から電話をもらった。ニューヨークから帰ってきたところだといっていた。

「レストラン21(トゥエンティーワン)に行ったの?」ときくと、

「21Club(トゥエンティーワン・クラブ)のことでしょう? そこで、ランチを食べてきましたよ」といっていた。

「ヘミングウェイの写真、あったかい?」ときくと、

「ありませんでしたよ」という。

「よく見てなかったんじゃないの? まあ、21Clubの話、くわしく聞きたいね」というと、「来週、銀座で会いましょう」ということになった。

 ニューヨークといえば、ポール・オースターについて何か書きたくなった。

 ポール・オースター(Paul Auster 1947~)は、ニューヨークの街をさかんに描いている。特にブルックリンのあたりを舞台にした小説がある。彼の作品が日本で比較的読まれている理由は、オースターの表現がアメリカの雰囲気を感じさせ、扱われている土地が日本人になじみの多い場所が多いからだろう、という人もいる。しかも、彼の文章は、過去に遡るようにニューヨークを描くことが多く、あのシャーウッド・アンダーソンのように現在時制では描かず、ひと味違った描き方をする作家である。

 ぼくが彼に注目したのは1980年代以降のことだ。

 彼の作家としての地位をゆるぎないものにしたのは、なんといっても「シティ・オブ・グラス(City of Glass,1985年)」、「幽霊たち(Ghosts,1986年)」、「鍵のかかった部屋(The Locked Room,1986年)」の3作ではなかっただろうか。いずれもニューヨークを舞台にして描かれている。

 この3作に共通しているのは、ニューヨークに住む孤独な人物が登場し、ふとしたことから、都市空間の迷宮に入り込むというような描き方をしていることだろう。まるで迷子になったかのように、人間の存在感の揺れる物語なのだ。たとえば、……。

 

 

常盤新平さん

 

 

 

 ニューヨークは果てしない空間、出口のない迷路だった。どんなに遠くまで歩こうが、またどんなによく隣人や街路を知るようになろうと、彼はいつも自分が迷子になった気持ちがした。街のなかだけではない。自分自身のなかでも。散歩をするたびに、彼は自分を置き去りにしているように感じた。

「シティ・オブ・グラス」より

 

 そんなふうに語っている。

 1962年、ぼくが北海道のいなかから出てきて、銀座の街に住むようになって、世の中を見渡したとき、まさにそんなふうな気持ちがしたのをおぼえている。当時の日本は東京オリンピックをひかえ、銀座通りの石畳が掘り返され、都電がなくなり、地下鉄工事がはじまって、銀座の通りはいたるところに鉄板が敷きつめられ、その上を歩かされた。

 自分という一個の存在が、とても小さな存在であることをおもい知らされた。オースターという作家は、都市を描きながら、ニューヨークは、アメリカのどんな都市とも違う視点で描写している。たとえば、トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出(A Christmas Memory,1956年)」や「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's,1958年)」とはちがう描き方をしている。

 ヘミングウェイの「日はまた昇る」は、人によれば、観光案内のような描き方をしているという人がいるけれど、オースターのばあいも、シティとしてのニューヨークの都市空間機能、――交通アクセスや、観光名所などがいろいろと登場し、旅行者がながめるような視点で、驚きをもってニューヨークの街が描かれている。

「きみは想像する。このおなじ玉石の上を最初のオランダ人入植者たちは木の靴で歩いた。そしてさらに時を遡れば、だれもいない小路をすすみアルゴンクイン族の勇士たちが獲物を追いつめていったのだ」と書いたのは、ジェイ・マキナニーである。

 ソール・べロウもまたニューヨークを描いた。

 彼の傑作「この日をつかめ(Seize the Day, 1956年)」は、アップダウンのブロードウェイ沿いにあるホテルの窓辺から眺めるニューヨークが描かれている。ニューヨークは、人種や階級の雑多な人びとが住んでいる街で、ほとんど一様に成功した老人がまことに多い。

そういう人たちがホテルに住んで暮らしているのだ。

ブロードウェイに出ると、じつに雑多な人びとが歩いている。

 

 ブロードウェイはまだ明るい昼下がりであった。排気ガスの立ち込めた空気は鉛のような陽光の輻(や)の下でほとんど動きがなく、おがくずの足跡が肉屋や果物屋の玄関先に残っていた。そして大きな、大きな群衆。あらゆる人種と階級の尽き果てることのない数百万の人びとの流れが吐き出され、ひしめき合っている。あらゆる年齢、あらゆる能力、あらゆる人間の秘密の持ち主たち。

「この日をつかめ」より

 さっき電話をかけてきた友人は、まだ50代で、日本橋の証券マンである。

大学がぼくとおなじで、学部はちがうが、先輩、後輩の間柄だ。彼は若いころヘミングウェイの「日はまた昇る」と読んだらしいが、格別の感想は聴いていない。というより、彼は文学とは無縁の生き方をしている。

 ニューヨークを舞台にした映画「タクシードライバー」がいいといってくれたのは彼だった。主演はロバート・デ・ニーロ。第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞した。

 

「そのタバコが燃え尽きたら、あんたの時間はおしまいよ。(When that cigarette burns out, your time up.)」

(アメリカ映画「タクシー・ドライバー」より)

 

 こんなセリフがあった。この映画には、元海兵隊員で、不眠症のタクシー・ドライバーが登場する。大都会ニューヨークへの嫌悪と絶望を抱いている男である。街の恐怖と退廃を、鮮烈に描いた映画だった。1976年の問題作。

少女の娼婦が、ドライバーに身を売るシーンのセリフである。身を売るとはいっても、スカートを開いて、あそこをちょっとばかし見せるだけである。

その持ち時間は、たばこ1本が燃え尽きるまでというわけ。

「When that cigarette burns out, your time up.」

 むかし、1960年代のころは、東京にも、この種の安手の娼婦がいた。あのころは、マッチ棒1本が燃え尽きるまでだった。ほんの瞬間である。風が吹いて消えても、運の悪いことに、それでおしまい。

 先輩と新宿界隈を歩いていて街角で声がかかり、女と出会ったことがある。行った先は、夜の同伴喫茶の店だったようにおもう。いちど女と、そういう店に入ったことがある。そのときの店内は、真っ暗だった。

 値段は、いくらだったのだろう。もう覚えていない。学生のポケットマネーで買える程度だったからタカが知れている。いまのお金で5000円ぐらいではなかっただろうか。女の下腹部は、期待したほどよく見えなかった。マッチの火は、薄ぼんやりしたものだった。見えないから、バカな男は燃えるのだ。

 映画のなかでは、ドライバーは異常なほど正義感を燃やし、少女をなんとか矯正(きょうせい)させようとする。そして、アメリカン・ヒーローとしての結末をもたらす。少女役になった女優は、マスコミでも取り上げられ、話題になった女優で、ジュディ・フォスターだった。ドライバー役に扮したロバート・デ・ニーロの表情が好きだった。

 ――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせ、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができる。――スティーブン・クレインの描く「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説、あれはすごかったなとおもう。

 この小説は、娼婦を描いたことから、不道徳であると非難された。しかしこの物語は、結婚外で性的な関係をもった女性が破滅していく姿を描き、衝撃をあたえた。ぎゃくにドライサーが描くキャリーという女性は、男を食い物にしてのしあがっていくしたたかな女性として描かれた。ドライサーの「シスター・キャリー」という小説は、処女作ながら、現代アメリカ人女性の真の姿を描くことに成功した。

 1925年に発表された彼の代表作「アメリカの悲劇」は、貧しい青年が出世のために恋人を殺害し、死刑になるまでを描いたもので、この作品は、アメリカ自然主義文学の最高傑作とされている。

 ぼくは、1900年から1930年までのアメリカの自然主義文学は、この2作で代表されるとおもっている。で、最後にひとこと。――クレインはそういう現実を直視した作家であるとともに、彼は詩人でもあったのだが、彼の詩についてはもう紙幅がなくなったので、いつか書いてみたいとおもう。

 スティーブン・クレインの見た街、ニューヨーク。

 スティーブン・クレイン(Stephen Crane, 1871-1900年)という作家は、そういうニューヨークを描いた。彼は米ニュージャーシー州に生まれ、大学時代から「ニューヨーク・トリビューン」紙の通信員として働きながら、ニューヨークのスラム街を取材し、最下層の人びとの悲惨な暮らしを目のあたりにし、そのときの体験を通して、「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説を書いたのである。この小説は、娼婦を描いたことから、不道徳であると非難された。しかしこの物語は、結婚外で性的な関係をもった女性が破滅していく姿を描いた。

 このころのニューヨークは、スラム街を形成することになったダウンタウンに多くの移民たちが流入し、人間も、本能や環境に支配される動物であり、弱肉強食、適者生存という自然がもつ法則が、人間社会にも強く働いていることを実感させる時代だった。そんななかで、娼婦マギーは煩悶し、苦しみと悲しみの果てに自分の命を絶つ。

 スティーブン・クレインといえば、アメリカの自然主義文学の先駆をなした作家といわれている。ヘンリー・ジェームズや、ジョセフ・コンラッドなどの同時代の作家から高い評価を受け、フォークナー、ヘミングウェイなど、のちの作家たちにも影響を与えた。ニューヨークって、そういう街なのか? とおもう人も多いだろう。かつてはそうだったようだ。

 黒ずんだ背の高い工場に街路が閉じ込められて、たまに酒場から漏れてくる光が街路を照らす。酒場からは、特有の匂いとともに、ヴァイオリンがやたらとかき鳴らす音が聞こえ、敷いた板をぱたぱた踏み鳴らす足音が聞こえ、大通りの向こうに見える煌々とかがやくモダンな照明は、けっしてたどり着けない星にも見えるのである。

 この小説を読むと、都会の群集ひしめく歩道や、ブロードウェイ、商店の緑色のショーウインドーを通して、街ゆく人びとの姿を映し出し、ぼくは日本のどこにもないアナザー・カントリーの、大急ぎで成長する街のようすを想像してしまう。そういう街で、ウォルト・ホイットマンが生まれ、ハーマン・メルヴェルが生まれ、ヘンリー・ジェームズが生まれ、ドス・パソスが生まれ、スコット・フィッツジェラルドが生まれた。

 まさしく「グレート・ニューヨーク」と呼ぶにふさわしい街である。

本国憲法」と「京軍事裁判」2

 

戦後日本は、大いに欧米化したが、完全に欧米化することはなかった。欧米化しても、日本人は内向きで、海の向こうを見据えるような気概とは無縁の精神構造を持っていた。そのため、日本は、脱亜には成功したが、入欧には失敗した。

1980年代には、いずれ世界経済の覇者になるだろうという大げさなうぬぼれがあったが、地政学的には影響力を欠いていた。なぜなら、戦後の平和憲法下で、軍隊保有の権利を放棄したため、経済大国でありながら外交的には卑小な存在でしかなかった。世界の軍事力ランキングでは、日本は第7位を占めている。うち上位6国は、核保有国である。核の非保有国では日本が第1位である。

 

 

 

 

かつて日本政府は、多国籍軍への資金援助として総額135億ドルを拠出したが、イラク軍から解放されたクウェートが戦後に出した感謝決議の対象国に、日本の名前は書かれなかった。そして日本は、アジアのなかでは大国と見なされ、反面、欧米諸国の一員と見なされたため、アジアでは孤立していった。

なぜなら、アジア地域では圧倒的な経済力を持っていながら、それにふさわしい指導力を発揮したことは過去一度もなかったからだ。日本が国際舞台で、序列がもたらす秩序ある信頼は、その指導力いかんによることは明白で、いつのばあいも日本は列強に伍していて、アジアを代表していなかった。

 

田中幸光

 

今次大戦で、北海道以北の北方4島とサハリンは、メロンを割るように、北海道からばっさりと切り離された。うち北方4島の返還をめぐって歴代の政府は涙ぐましい努力をつづけてきた。だが、ドイツはどうだろう。いまはポーランド領になっている旧ドイツ人800万人が暮らすかつてのドイツ領を、返還しろ! とは叫ばれていない。ぼくはディアスポラ・ドイツ人の置き去りにされた無念さを忘れられない。

かつてハーマン・メルヴィルは、日本についてこう書いている。

「日本は、二重に鍵のかかった国である」と。

鎖国のことをいっているのだが、現在の外交の局面においても、「二重に鍵のかかった国である」といえるかもしれない。鎖国意識がまだ残っているのだろうか。日本は鎖国をしているあいだにも、欧州の歴史は重要な時期に直面し、帝国主義のもと、植民地政策を押しすすめてきた。日本が気がついたときは、日本の帝国主義による領土拡張は、すでに時代遅れになっていた。植民地帝国による支配は、近代的な歴史的転換点に差しかかり、運わるく戦争で手に入れた領土は、国際的な正統性を見失ってしまったのである。

「茶の本」にはつぎのように書かれている。

「たいていの西洋人は、日本が平和で穏やかな技芸にふけっていたあいだ、日本を野蛮な国とみていました。そして、満州の戦場で大殺戮に手を染めると文明国扱いをするのです」と。

西洋人のものの見方がこのように違うのである。

ふるい話だが、インド独立後初代の首相になったネルーは、日露戦争に勝利した日本について、「日本の勝利は私の熱意をかき立てた。()頭の中は民族主義的な考えで一杯になった。私はヨーロッパによるくびきから解放されたインドの自由とアジアの自由について物思いにふけった」と。

イギリスのある軍人は「何にもまして、それはアジアにおける欧米の優位に対する挑戦であった」と語った。

旅順陥落は、1453年のコンスタンチンノープル陥落をおもい起こし、「歴史上もっとも偉大な出来事のひとつに数えられるべきである」と語られた。それほど、西欧列強を驚かしたのである。

近隣諸国への侵攻は、征服のためではなく、解放戦争であったという日本のプロパガンダに似た褒めことばである。事実、その後の日本の拡張政策は時代錯誤のなかで西欧列強の資本主義者を標榜する新リーダーのご機嫌をそこね、パールハーバーでは眠れるライオンをたたき起こし、侵略の汚名をかぶった野蛮な戦いに挑んだのである。

このことは、戦後多くの識者たちによって「間違った戦争」と呼ばれ、反戦思想を生み、7年弱の占領下をくぐり抜けた日本の若者たちは、学生運動によって日米安保体制への批判を繰りひろげた。戦争の知らない若者は、平和憲法のもとで、ふたたび強国による戦争に巻き込まれたくないとする強烈なアピールを繰り広げた。こうした若者が、戦後の時代を築いたのである。

占領下のマッカーサー時代に、トルーマン大統領の特使として来日したジョン・フォスター・ダレスは、吉田茂に日本の再軍備の必要性を迫った。軍備導入が約束されるまで彼は日本を去らなかった。現在の自衛隊はこうして生まれた。

日米安保と再軍備、――これはアメリカの極東政策の要として強烈に押しすすめられていった。そして、日本は驚異の戦後復興を成し遂げ、もはやだれにも止められない勢いのある高度経済成長期を迎えたのである。政治評論家の森田実は、かつてこんなことをいっていた。

「日本人は本当に恐ろしい社会を築いてしまったように思います。都会の空気も川も周囲の海も汚染され、自然環境が破壊されてしまいました。国民自身もすっかり経済的利益ばかりを追い求めるようになり、人としての道を重んじる偉大な理想は置き去りにされています。これはまさに絶望の時代です」と。

そうして経済が発展していく勢いは、だれにも止められなかった。

いつまでつづくのでしょう? という質問に応えて、ある識者は「まるで無限級数的に拡大していくように思えます」と答えている。こうして、リビジョニスト(歴史修正主義者)たちによる、ふたたび日本特殊論が、このとき巻き起こったのである。

そんなはずはない!

と考えたのは、ほんの一部の人たちだった。だが、1967年、経済規模でイギリスを追い抜いたとき、リビジョニストたちの「日本特殊論」のあいかわらずの大言壮語が、あたかも真実味を帯びて見えたのである。英国病と比較される日本経済が、目覚ましい躍進に見えたのである。

話はもどるが、日本の終戦は、アメリカの予想よりはるかに早かった。とつぜんの「ポツダム宣言の受託」だった。

1945年6月7日には、ドイツが降伏。そのころ、米トルーマン大統領は同年6月には「オリンピック作戦(沖縄上陸)」を承認し、46年3月1日に「コロネット(関東平野)作戦」を開始し、46年11月15日に、終戦を想定していたが、じっさいの終戦はずっと早く、45年8月15日だった。このことはアメリカを少なからず驚かした。

なぜそういうことになったのか、という研究がある。

日本は、戦争をはじめたが、戦争をどう終わらせるか、ほとんどだれも考えなかった。それなのに、アメリカの予想より1年以上も早く終戦となった。かんたんにいえば、ポツダム宣言が功を奏したように見える。このポツダム宣言をめぐっては、まだ謎が多い。

この話は、別の記事にもぼくは書いている。

戦後になってみれば、連合軍、――それもほとんどアメリカ一国の占領で米の対日方針が大急ぎでつくられ、45年の11月になってはじめて初期の基本的指令がまとめられるという、アメリカの後追い政策がつくられた。それはマッカーサーによる非軍事化と民主化政策であった。

敗戦し、占領下におかれた日本は、アメリカのいいなりになっていた。憲法をつくれといわれれば、憲法をつくり、おれの話を聞けといわれれば、聞きたくもないマッカーサーの話を、吉田茂はしぶしぶ聞いている。

それでも一国の宰相・吉田茂は、葉巻をくわえて、泰然としている。

そのときマッカーサーは、軍人としては優秀な人物だったけれど、ずいぶんと芝居かがったことをする男で、彼はコーンパイプを愛用していた。「コーン」というのは、つまりトウモロコシの芯を繰り抜いてつくったもので、パイプのなかではきわめて安直な安物だ。彼はこれを愛用していた。そうはいっても、彼は敗戦国日本においては絶対的な権力者で、連合軍最高司令官だったので、安物は安物でも、彼のトレードマークになった。

吉田はマッカーサーの話の途中で、笑いはじめる。対話というよりは、独演会みたいなものだったからだろう。たいていの日本人は、「恐れ入りました」といって平伏しながら、うやうやしく拝聴するものだが、吉田はクスクス笑ったのである。

「何か、おかしいことをいったか?」とマッカーサーはきく。

「……いや、なに、そうではありません。あなたがあんまり歩きまわるので、ライオンが檻のなかにいるような気がして、おかしくなったんですよ」

マッカーサーは部屋のなかを歩きながらしゃべるクセがあって、何か、子供がむきになってしゃべっているみたいに見えたのだろう。

「日本政府の発表する数字、あれは実にいい加減なものじゃないか!」とマッカーサーは吉田に問い詰める。すると吉田は、

「もし戦前に、わが国の統計が正しい数字を出していれば、あんな戦争は起きなかったでしょうな。また、もし正しい数字を出しておれば、わが国が勝っていたでしょう」といった。

こういわれて、マッカーサーも笑わずにはいられなかったのだろう。マッカーサーも、にやりと笑った。当時の自由党では、選挙のときは、吉田総裁がいかに占領軍と丁々発止交渉しているかをウリにしていたそうだ。あるとき、マッカーサー元帥から葉巻をすすめられるが、吉田は、

「いや、元帥、ご好意はありがたいが、わたしはコレをやっておりますので」といって、手にしたのはなんと、日本製のたばこ「ひかり」だった。

「愛国心と負けじ魂をもつ総裁のもと、わが自由党は、日本の未来に責任を持って対処するのであります」

吉田も、マッカーサーに敗けず劣らずけっこう芝居かがったことをいうものである。マッカーサーはコーンパイプと同時に、葉巻も吸っていた。吉田が葉巻党であることをマッカーサーもよく知っていて、

「きみもどうかね?」とすすめる。そのすすめめ方が気に入らなかったのか、マッカーサーのすすめる葉巻を見て、

「そいつはマニラ産でしょう。わたしは、ハバナのもの以外は吸わないのですよ」といって断った。この場面をのちに、いろいろといわれることになる。

マッカーサーは親子二代ともフィリピンに関係していて、それを皮肉っているのである。オレは当時から高級とされるハバナ産を吸っているんだ、バカにするな! と吉田は、いいたかったのかも知れない。吉田茂周辺の本をのぞくと、こんなふうなやり取りが書かれている。

マッカーサーも、そういう吉田には一目おいていたとおもわれる。

マッカーサーに「日本は4等国だ!」といわれて、ある人は大いに敵愾心を燃やしたかもしれない。はじめて見る進駐しつつあるアメリカ兵を見て、子供たちは喜んだ。チューインガムをもらって、子供らは手を振っている。そばで見ている大人たちは無表情で、こころのなかでは、これからは英和辞典が要るだろう、と考えた人がたくさんいた。そればかりか、渡航の自由化がおこなわれると、大挙してアメリカの大学に学びに行った。

ひるがえって、明治期の知識人は、ぼくをつねに震撼させる。

当時は、国家存亡の危機にあったので、列強に伍して大局的に判断する人びとがまことに多かった。国家はそういう逸材を求めていたことは確かである。

だが、戦後、GHQで憲法草案がつくられたとき、日本政府は肝をつぶした。そこには、男女平等がうたわれ、女性の参政権がうたわれていたのである。男女平等は、当時の「アメリカ合衆国憲法」にもない条項だったからだ。

日本の成人女性に参政権を与えようと企画したのは、GHQのなかでも、アメリカから日本に派遣されたGHQ勤務の、長期契約のアルバイトの若い女性ベアテ・シロタ・ゴードン(22歳)だった。――幸いにも、男ばかりの派遣要員のなかで、そういうことをいうのは彼女だけだったらしい。女性の問題は、やはり女性が担当すべきと判断され、彼女は日本国憲法起案の一担当者となる。だが、彼女の9つの提案のうち、採用されたのは「女性参政権」1つだけだった。

彼女は弁護士でもなければ、専門家でもない。

通訳をつとめ、6ヵ国語を話せる女性だった。

アメリカで職を探していた折りに見つけた、日本への派遣要員募集に応募してきたひとりの長期アルバイトの女性なのだ。なぜ彼女は日本にやってきたのか? 彼女の父親が日本にいたからである。父親に会いたくて日本にやってきた女性である。

それがマッカーサー元帥に起案提出して受理され、吉田茂首相に国会を開かせ、賛成多数で可決されると、日本国憲法にはじめて女性の参政権がうたわれた。まことに目の覚めるようなダイナミックな話ではないだろうかとおもう。

こういうことがなければ、日本は、まだ時代に立ち遅れていたかもしれない。われわれは、こういう国と戦争したのである。人間の上下のない国、――それは少しいい過ぎとしても、――アメリカの民主主義というものをまざまざと見せつけられた出来事だったとおもう。

しかしこの話は、もう遠い過去の話である。

「戦後」ということばは、日本でしか使われない。72年たっても日本人は「戦後」意識をいまも引きずっている。ドイツとは、真逆な道を歩んでいる。これでいいはずはない。戦後を意識するあまり、まるで、戦前の時代を葬り去ろうとしているかのようだ。

さて、いま戦後72年を迎え、幾多の困難をくぐり抜けてきた日本は、それでもアジアの盟主として、アジアの近隣諸国への配慮を怠ることなく、ともに共栄する理念を打ち出すときだとおもわれる。

黒船来航に端を発する近代国家への急速な発展と、第2次世界大戦後の奇蹟的な経済成長、そして2011年3月11日の東日本大震災後に見せたあの被災地コミュニティの驚くべき結束の強さ、この並外れたと評される海外メディアの論調をおもうとき、ぼくは、日本の多様な復興に向ける潜在力を、こんどはアジアに向けて発信するときなのではないか、とおっている。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキを唱えるまえに、日本は東アジアに向けて、何をなすべきかと考えたいとおもう。

本国憲法」と「京軍事裁判」1

 

マッカーサー

 

また、8月15日がやってくる。先日、ある青年におしゃべりした話を、あらためて書いてみたい。昭和21年(1946年)5月、東京裁判がはじまった。――まず、その話から稿を起こしてみたい。

正式な名称は「極東国際軍事裁判(The international Military Tribunal for the Far East)」といい、この名称のなかに、「international」という語がでてくるため、国際法と何か関係があるように受け取られそうだけれど、そもそもそういう意味はなく、これは「多くの国が関わる」という意味でつけられたもので、これは国際法によらず、「マッカーサー条例」によって開かれた裁判だった。

したがって、東京裁判は国際法に基づくものではないために、国際法でいう戦争の条項は、戦争中、一般市民を殺したり、捕虜にしてはならないと規定され、そのような扱いをした者は罰するという立場ではなく、おもに「平和を乱した罪」が問われた裁判であった。

当時の国際法では、戦争そのものを対象とした裁判というのは存在しない。この流れが覆されて、はじめての「戦争裁判」が行なわれたのは、第2次世界大戦のナチスを追訴したニュールンベルク裁判だった。東京裁判は、それにならったものである。東京裁判は、連合国軍最高司令官マッカーサーの参謀部が検事と相談して決めたもので、これは、国際法に基づかない裁判であったことが、今日わかっている。

 

吉田茂

 

昭和21年にはじまった極東国際軍事裁判。――すなわち東京裁判の審理は、2年後、25名の被告全員を有罪と判定し、絞首刑7名、終身禁固刑16名、有期禁固刑2名を下して閉廷した。ニュールンベルク裁判(無罪3名)とはちがい、全員有罪の判決が下された。

これに楯突いたのが、インドのパル判事だった。彼は「全員無罪」とした。

かつてぼくは、「ポツダム宣言」について、日本は受諾するしないの経緯を書いたことがある。歴史的認識の話をすれば、その政治的な対応をつぶさに検証する必要がありそうだ。なぜなら、日本は「無条件降伏」をした、といわれているが、日本は一度もそのような無条件降伏はしていないのである。

無条件降伏をしないにもかかわらず、日本は「無条件降伏」をしたと報じられ、日本の歴史の教科書にも「無条件降伏」をしたと書かれた。これはおかしいのではないか、と、ぼくはずっとおもっている。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は、ポツダム宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告した。このことは翌8月15日に玉音放送で全国民に発表された。そして、9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリ号の甲板上で、日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書「休戦協定」に調印した。これによって、宣言は、はじめて法的な効力を持つにいたった。

しかし、一般には、「ポツダム宣言」の受諾は、のちに「無条件降伏」と書かれるようになった。

無条件降伏?

ポツダム宣言には「我々の条件は以下のごとし」と書かれている。この条件には、「陸、海軍の無条件武装解除」と書かれていて、ほかのどこにも無条件降伏とは記されていない。

ところがマッカーサーが来日すると、「日本政府と交渉する必要はない」という建前を押し通し、日本のマスコミは抑えられ、占領軍のいいままになる識者も大勢いるなかで、「日本は無条件降伏した」という受け止め方をされてしまった。これは、どうしたことなのだろう、とおもう。

同時通訳者の西山千氏は、「通訳術と私」という本のなかで、このようにいっている。《大戦末期、ポツダム宣言が発表され、日本の無条件降伏を要求してきた》と。西山千氏がほんとうにポツダム宣言の原文を読まれていたなら、「無条件降伏」ということばは出てこないはずである。

ポツダム宣言をめぐって、日本政府は、どういう対応をしたかといえば、鈴木貫太郎首相は、即座に断をくだすのではなく、「静観したい」という意味のことをのべたとされている。これでは弱腰と見られるというので、のちに「黙殺する」に決定したと書かれている。これが、大きな問題に発展した。

なぜなら、連合国側では、この「黙殺」をignore――つまり「無視する」ということばに翻訳したとすれば、連合国側が態度を硬化させたことが理解できるからである。もしもrejectという訳語をあててしまったなら、これは「拒否」以外のなにものでもなく、もっと誤解されていたかも知れない。日本側の意図は、首相がのべた「静観したい」という意味なのだから、訳語は明らかに外れている。

こんな誤訳を、だれがしたのかというと、ぐうぜん読んだ鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」(新潮文庫、平成16年)という本によれば、日本側だったようだと書かれ、《付記》に、「黙殺」をignoreと訳したのは、同盟通信社で、当時、海外局長をしていた長谷川才次氏が深く関わっていたらしいと書かれている。

この「黙殺」を、連合国側がもしもignoreと受け取れば、「黙殺」のニュアンスがよくつかめずに、けっきょく、日本側はこれを受け入れないと突っぱねたかたちに誤解されてしまったことは残念なことである。翻訳が国の歴史を変えるような、おもってもみない局面を引き起こしてしまうとしたら、恐ろしいことである。

鈴木貫太郎は戦後、この一事はのちのちにいたるまで、「余のまことに遺憾と思う点である」と書いている。

そして昭和21年(1946年)5月、東京裁判がはじまった。

先にもいったように、東京裁判は、連合国軍最高司令官マッカーサーの「マッカーサー条例」による、国際法に基づかない裁判だったのである。先年の「NHKスペシャル」のドキュメンタリーでも、ポツダム宣言をめぐる日本側の解答に深く突っ込んでいなかったのが惜しまれる。

昭和21年にはじまった極東国際軍事裁判、――すなわち東京裁判の審理は、2年後、ニュールンベルク裁判とはちがい、全員有罪の判決が下された。

ただし、インドのパール判事(1886-1967年)年だけは「全員無罪」とした。その勧告文の最後の文章を引用すると――。

「――以上述べてきた理由にもとづいて、本官は各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、……云々」とある。このパール判決の勧告文はつぎのように結ばれている。原文は英語で書かれている。

 

It is very that:

“When time shall have softened passion and prejudice, when Reason shall have stripped the make from misrepresentation, then justice, holding evenly her scales, will require of past much of past censure and praise to change places,”

時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、そのときにこそ、正義の女神はその秤(はかり)を平衡にたもちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。

 

このように書くパールの英文は、とてつもなく長文で、かつ難解な文章でつづられている。この文章は末尾にあたり、南部の政治家ジェファーソン・ディービス(Jefferson Davis 1808-1889年)という人の文章を借用して書かれたもの、といわれている。

1860年、アメリカは国を2分する南北戦争が勃発し、リンカーンが大統領に就任すると、南部の11州は合衆国から脱退し、国は「アメリカ連合国(the Confederates States America)」と名乗った。USAとは対照的に、当時はCSAと略して呼ばれた。

パール判決の骨子は、この南北戦争の戦犯裁判の前例をだして下された裁量である。先年の「NHKスペシャル」でも、このパール判決をめぐるドキュメンタリーをまとめて放送していたので、少しは参考になる。

この「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、……」という文章は、もともとはジェファーソン・ディービスの得意とする文章だったらしく、いま読んでも、遠い大時代を感じさせる文章である。パール判事は、戦勝国アメリカの判事を向こうにまわして、ひとりタテをついたわけだった。そもそも国際法には戦争を裁く条項がないとして、全員無罪としたものである。

この論議は、いまもつづいている。

いっぽう、マッカーサーと対峙した吉田茂は、もともとは外交官で、政治には不向きな人だった。なにごとも不器用に政治を行なったが、マッカーサーの信頼は、だれよりも大きかったとおもう。短気で偏屈な政治家であったが、仕事には忠実だった。そういう吉田のキャラこそ、この時期、必要だったとおもわれる。

当時にあっては、時代のほうが彼を要求していたのではないだろうか。国民に望まれて、ふたたび吉田は担ぎ上げられ、国難を乗り越えてきたのではないだろうか。初期の吉田内閣のときの側近だった白洲次郎は、吉田を評してこんなことをいっている。

「吉田というのは正直者で、欠点は涙もろいことだ。だれかが泣き落としでくると、コロリとだまされてしまう」と。腹黒さが、すこしもないというわけだ。

マッカーサーは日本を去って、こんなことをいっている。

「あれは日本の自衛戦争だった」と。

自衛戦争は、国際法に照らして、罪にはならない。

もちろん、日本は好きこのんで戦争をしかけたわけではない。満州その他から手を引かなければ、油は売らないという米側の脅しに屈することなく、日本は祖国領土の自衛のため、戦争への道を歩きはじめたといえる。しかし、戦争はやるべきではない。もちろんそうだが、あの戦争を理解するには、当時の追い詰められた日本の政治的な現状を理解する必要がある、とぼくはおもっている。

しかし、おもしろいのは、1948年のジョージ・ケナンの「冷戦の論理」がのべているように、ジョン・F・ダレスのすすめる日本の再軍備とマッカーサーの非軍事化がぶつかり、日本の力を利用して、世界の冷戦時代をむかえ、日本を西側陣営の国にして、日本を利用しようというダレス国務長官の熱意が勝り、日本は警察予備隊、それがやがて自衛隊となり、極東にその橋頭堡を築くための政策転換をはかっていく。しかも、当初考えてもいなかったアメリカ戦略の一翼をになってわが国の国体が大きく変わっていくのである。日米安保体制はこうして生まれ、沖縄に米軍基地をつくっていくことになった。

日本の再軍備をめぐってジョン・F・ブレスはいう。

「3年まえ条約ができておれば、日本は、今日とくらべようもないほど悪条件のものができたであろう。今日、われわれは勝者の敗者にたいする平和条約をつくろうとしているのではない。友邦としての条約を考えている」という。これは、マッカーサーの当初の統治思想と180度転換した考えである。

吉田茂は、それにたいして、

「日本はアムール・プロプル(自尊心)をきずつけられずに承諾できるような条約をつくってもらいたい。平和条約によって独立を回復したい。日本は自由世界の強化に協力したい」と答えている。

ダレスは、「日本は独立回復ばかり口にする。独立を回復して自由世界の一員となろうとする以上、日本は自由世界の強化にどう貢献しうるのか。いま、アメリカは世界の自由のために戦っている。自由世界の一員たる日本は、この戦いにいかなる貢献をしようというのか?」と吉田に問いかける。

すると吉田は、

「いかなる貢献をなすかといわれるが、日本に再軍備の意志ありやを知りたいのであろう。いまの日本はまず独立を回復したい一心であって、どんな協力をするかの質問は過早である」といった。

日本はいまでも小さな島国である。だが、北東から南西の方向へおよそ2000キロにおよぶ弓なりになった国土をもち、四季がとても豊かである。アメリカの地図でいえば、日本はアメリカの東海岸とほぼおなじ長さがあり、総面積は、たとえばモンタナ州にも満たないほど小さい。耕作可能な土地は全体の17パーセントしかなく、国土の3分の2は、人が住むことのできない険しい山岳で占めている。河川はイギリスのように輸送に適さないほど流れは急峻である。

1億2711万人(世界10位)の日本人は、ブルガリアとおなじ面積のなかでひしめいている。人口は、イギリスとイタリアを合わせたよりも多いのである。これをヨーロッパの国と比較すると、経済面でいえば、GDP(国民総生産)はドイツの約1・5培ある。――ここまでは、多くの人が日本特殊論として書かれてきたものを要約したにすぎない。

当の日本人も、そういう議論が大好きで、19世紀から、神の国日本で生まれたわれわれは、特殊なのだといって、歴史の教科書にも堂々と書かれてきた。その日本人像を明快に特殊なものとして世に広めたのは、ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本だった。日本人は、西洋人とはまったく違った行動基準をもつ国民であると書かれた。その本は傑出した日本人論である。

たとえば「もののあはれ」ということば。――

これが日本人の気持ちをよくあらわしたことばであると知って、多くの西洋人は、「もののあはれ」を理解しようとした。そうしてできあがった訳語が「the pathos of things」という英語だ。つまり、はかなく消えていくものに美を発見する感性。日本人は、すぐ散ってしまう桜の花をことのほか愛する。

「一週間で散ってしまうから美しいのです」という。

で、多くの外国人は、

「日本は定義できない。日本人は定義できない」という。日本を理解しようとして考えるのは、外国人ではなく、多くの日本人だろうと外国人はいう。「欧米で定義されるような意味で日本を理解できる人なんて、だれもいない」と外国人はいう。ちゃんと定義した文章を、ぼくは読んだことがない。多くの外国人は、1900年前後に書かれた2冊の本をあげている。新渡戸稲造の「武士道」と、岡倉覚三(天心)の「茶の本」である。いまさらいうまでもなく、この2冊の本は、日本人像を探求するのに格好の本となり、画期的な本となった。

■ある写真展の会場にて。――

肉のゆえに」

 

ぼくは北海道の中学生のころから、写真というものにあこがれていた。

北海道・北竜村恵岱別(えたいべつ)の田中の本家に、かなり年上の従弟がいて、長男・次男とも写真技術を身につけ、次男はある建設会社の写真班の一員として一家をなした。

そういうこともあって、ぼくは中学生のころ、じぶんはカメラも持っていないころから、お兄さんの手ほどきで、写真技術というものを身につけた。

本家の8畳の部屋が、夜、そのまま暗室になって、真っ暗いところでフィルム現像の技術を教え込まれた。

だからぼくは、中学校の修学旅行に、お兄さんのジャバラ式のカメラを持って出かけた。写真には特別の魔力があった。

現像液の入った金属製のトレイの上に屈みこんで、ゴムのついたピンセットでつまんだ印画紙の表面に、だんだんとシロクロの像が浮かび上がってくる。その瞬間は、まるで魔術のようだった。

お兄さんは二眼レフか、ブローニーで撮っていた。

ロクロク判という6×6センチのフィルムで、35ミリよりずっと迫力があったが、ぼくはこのロクロク判の真四角なフレームが好きになれなかった。どんなに撮っても、像を見て美しいとは感じられなかったからだ。

 

田中幸光

後年、――1962年、ぼくが大学生になり、東京・銀座で暮らしていたとき、ベトナムの戦局を報じる朝日新聞の第一面にあるコラムに、釘づけになった。

タイトルはいまでも覚えている。「骨肉の愛ゆえに」というタイトルだった。ある顔の黒いベトナム少年が写っている。

ベトナムにも朝がきて、彼はズダ袋をかかえたまま路上のすみで眠り込んでいて、その遠くには大勢の人びとが食糧を求めて一列に並んでいる。そして、みんな少年を見ているという写真だった。

コラム記事は、親とはぐれたまま疲れ果て、食うことも忘れて眠り込んでいると書かれていた。

ぼくはそのときおもった。タイトルのいうとおり、この光景はまさに「骨肉の愛ゆえ」の一枚だったからだ。記者は感情を押し殺し、事実をありのままに書かれていた。

一面トップ、全15段のうち、3段ぬきの縦長になったコラムだったが、写真の占める位置は、とても大きかった。記事はまるで写真のキャプションのように見えた。UPIだったかロイターだったか、通信社名はもう忘れてしまったが、この一枚は報道写真として、とても雄弁にその日の朝の戦局の情勢を物語っているとおもった。

写真がとらえた歴史的瞬間、――まさに世界を変えた一枚の報道写真というものがあることを知った。それは一枚ではなく、数かぎりなくあって、20世紀は映像の世紀だったなとおもう。

ぼくは小説というフィールドで、つくりもののフィクション芸術というものを考えてきた。事実ではないものの、文学作品を通して、20世紀という時代をつかみ取ろうとしてきた。ある面では成功し、ある面では失敗し、何かが足りないという焦燥感に打たれた。

小説はフィクションなのだ、ということをおもい知らされたのである。

だが、考えてみれば、事実を撮りつづけた写真報道は、多くを語ると同時に、人が生まれて、生きてきたある瞬間の出来事のなかでポツンと写されているにすぎない。

彼が生きていようが、亡くなっていようが、そしてそこが戦場であろうが、日常の路上であろうが、スチール写真は、まるで死んでいるかのように動かない。動かないまま一枚の写真として完結している。

それが写真なのだ。だが、ほんとうにそうだろうか? とぼくはおもった。

札幌のあるデパートで写真展があり、ちょっとしたついでに覗く機会があって、それを見たときのことだった。

ぼくは50歳になっていた。

デパートのイベント会場というところは、いっぷう変わった雰囲気があり、せわしなく動きまわる人びとの足を、たちどころに止めてしまうというような信じがたいほど動かない空気をためていることがある。

雨やどり気分に誘われて、会場の入口を覗いたら、数人の客が、やはりそぞろ気分でフレームのなかを覗きこんでいた。そのなかに、年はいうに60はすぎていようとおもわれる年恰好の、白髪まじりの女性がいた。

やはりフレームのなかを覗きこんでいるのだったが、その人の顔が、どこかで見たことのある、おもい出そうにも思いいたらないというじれったいものをおぼえながら、ぼくは、その人と立ちならぶようにして、白い壁に視線を投げていた。

写真の作者は、ぼくの知らない年配の人の、ながの経歴をじゅうぶんに示す、作品はかなりふるいものだった。カラー作品もあったが大半は白黒のスティールで、土門拳の「筑豊のこどもたち」や、木村伊兵衛のものなど、ひところの生活の信憑性というものを、めんめんと写しこんだものを偲ばせる写真に似ていた。

一枚々々が、別々のものでありながら、おなじ時代の匂いを放っており、なにか原質素朴な味わいがあって、作者によって写しこまれた人物たちの、その一瞬だけ動作を止めた姿が、ずいぶんぼくの記憶のなかにあるものと似た格好で写っているのだ。

いずれも35ミリのモノクロームで撮られたらしい。

四ツ切り、全紙、全培大に引き伸ばされているものの、光量が足りないぶんだけレンズを開き、ひとつひとつの動作がにじんだようにぼけを出している写真が、柔らかい2号くらいのペーパーに焼きこんでいる。

フラッシュとか、ストロボとか、あるいは反射板とかをいっさい使わないで、贅沢な自然光のなかで撮られているらしい。

強烈なハイライト部はたくみな暗室技術でつよく押しをきかせており、人物の立居振舞いをバランスよくととのえている。

そして一枚の写真に、おそらく相当の時間と労力を費やし、カメラの存在さえも忘れさせるほどの時間を彼らに惜しみなく与えたであろう。

作者の力づよいワン・ショットが、そこに刻みこまれていた。

たった一枚の写真が、人をほのぼのとした気分にさせたり、小さな幸せをおもいおこさせたり、あるいはまた、たまらなく辟易させたり、怒りや悲しみに満ちた気分にさせたりする。作者にとってその一枚は、そういう感情を表白するに足る一枚であって、なにか、失われた空白をたちまち塗りつぶしてしまわないともかぎらない威力とひらめきを与えることがある。

……しかし、観覧者の足をたちどころに止めてしまうものがあるとしたら、それは感動とは異質なものをふくんでいることがある。婦人は、かなり時間をかけて、ゆっくりとながめていた。

リノリウムの床とパーティーションの間がすこしあいていて、仕切りの向こうから覗いている彼女の足も、ゆっくりとした動作だった。ぼくは婦人の足をちらっとながめ、他の男客にまじって観覧するこの婦人の存在が、会場のなかで妙に浮いたものに感じられるのが不思議におもわれた。

なにか特別な注意をしきりに引いているらしいのだが、それが、何であるのかわからなかった。

――紺の縦縞模様のまえ裾が、地味な印象を与えていた。だが、それはけっして地味に失するというのではない。それはもう、一度も洋装をこころみることのなかった姿であり、そのどこにも調子の浮いたところがない。余計な気配りから解放された、ちょっと見過ごせない年季のいった動作だった。

ぼくは、床からのぞいている女性の足元を見ながら、どのあたりの写真をながめているか、想像していた。

姉妹らしいふたりが写っている写真があり、姉のほうはすっかり大人びた化粧をしていて、なにか嫁入りまえの娘さかりのころ、たまたまそばにいる妹といっしょに撮られている、といったふうな作品だった。

たたみ敷きの広間で、脚を投げ出しておかっぱ頭の少女は、そばにきちんと座っている姉に何か話している。

姉は和服姿だか、とくべつのものではない。

おそらくふだん着のままなのだろう。その髪は美しく梳()かれ、頭のうしろのほうに目も細いべっこう櫛(ぐし)をさしている。

縁側の板は、ところどころ朽ちたように白くなっていて、踏み石のうえに小さな下駄がそろえて置かれている。ふたりの姿の真後ろは、広間の戸が開け放たれて、ぼんやりとした陽だまりのなかに植え込みの影がにじんで見える。夏のことであるらしい。

この「二人の女」と題する作品は、1955年と記されている。

これとならんで同年のものが数点あった。

そこには女たちの姿はない。日焼けした男たちの姿ばかりだった。女性はちょうどそのあたりを見つめているようだった。

ぼくはゆっくりとした動作で、フレームのなかの写真をながめた。

そのときぼくは、「はっ」と気づいた。写真をながめる彼女は、もしかしたら、ぼくを育ててくれたロシアの女性、ナターシャかもしれない! 写真のなかのその人は、彼女自身かもしれない! とおもった。

――ぼくにはこういう経験が、実際にあった。あのとき見た「二人の女」という写真はすばらしかったなとおもう。一枚の写真が、ぼくの遠い過去を呼び覚ましてくれたのだった。――「骨肉の愛ゆえに」。

ベトナム少年の写真を、ぼくはふたたび想いだしたのである。その写真とだぶるように、女性は、8つ年上のロシア人ナターシャだったことをぼくに教えた。日本人になるために、彼女は、ヘアを染めたのだ。そして、ぼくら兄弟は、子守りだった彼女に育てられたのだった。

 山口淳の「PAPA  & CAPA ヘミングウェイとキャパの17年」(阪急コミュニケーションズ、2011年)

 

メリカ」と「日本」は、いまわろうとしている

年の瀬におもう。「A year that raises both hopes and concerns.」

 

こんばんは。いま、1914年の世界の話をしてみたいのです。 

1914年6月28日午前11時、サラエボは夏のよく晴れた朝だった。

ふたりを乗せた1台の車が、間違った角で右折した。車は期せずして大通りを離れ、抜け道のない路地で止まったのです。

これが歴史を大きく揺るがすことになりました。

目のまえに、セルビア人テロリスト、19歳の学生がたたずんでいたからです。彼は車のほうに歩いていき、ポケットから拳銃を取り出し、狙いをさだめて引金を二度引いたのです。撃たれたのは、オーストリア=ハンガリー帝国の息子フランツ・フェルディナンドとその妻ソフィーでした。

30分とたたないうちに、ふたりは死にました。これが何千万人という人びとの命を奪い、世界の歴史を変える出来事となりました。こうして第一次世界大戦の火蓋が切られたのです。この出来事を予想した者は、世界でひとりもいませんでした。

 

 

 

第一次世界大戦はなぜ起きたのでしょう? 

という問いかけはよく耳にします。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子だったフェルディナンドがサラエボで、セルビア人によって暗殺されたことに端を発し、大衆がこれに熱狂したわけです。ブダペストでは「セルビアの豚に死を」と叫び、ウィーンでは新聞が「強盗と人殺しのセルビア」と書きたてました。セルビア政府のいかなる関与もなかったのにです。

こうした世論は政府を動かし、セルビア政府に宣戦布告をしました。ところがこの事態でロシアが怒り、それに対してドイツが怒り、つぎにフランスが怒り、イギリスも怒りだして世界大戦となったわけです。

これが民主主義の、国民主権の真の姿だ、とぼくはおもいます。

その本にはそういう話は書かれていませんが、政治的なむずかしい話なんかより、こんな話のほうが、ピーンときます。

「あんなやつらは、殺してしまえ!」

――そういうことで、民主国家があのヒトラーを生んでいきました。ヒトラーひとりが悪者のようにいわれますが、ヒトラーはもっとも民主的に戦争を企画した人物です。ドイツの国民はつねにヒトラーを支持し、1938年にオーストリアを併合したときの内閣支持率は99パーセントまでに高まりました。ほとんどのドイツ国民がヒトラー政権を支持したわけです。

信じがたい話です。

さて、白洲次郎がいう「成熟した」国民なんて、世界のどこにもないのだということをもう一度、ここで考えてみたいとおもいます。白洲次郎のいう、「民主主義もけっこう、平和主義もけっこう、……」というとき、その「理論の出発点」に立ち返ってみれば、どちらも危険だという理屈になりませんか。

こうした話には、何を前提にするかによって、歴史の姿かたちが違ってきますから、歴史を見る目も、とうぜんおのずから違ってきます。ただ、ぼくはヘミングウェイとキャパの残した業績は、分野は違っても、「戦争」というキーワードで、かんたんに括れないほど大きなものだったようにおもわれます。

青木氏は、それでもいいました。

「むかし、うちにいた馬が、戦争に持っていかれて、死んだという話を聴いています」と。

北海道でも、戦争に徴用された馬は2万頭を超えたという話があります。

それらは、どうなったのか、馬たちの末路を知るすべはもうありません。ヘミングウェイは、そのころ、「――とにかく新しい毎日なんだ」とつぶやき、その目くるめく新しい毎日を見つめていた、とおもいます。

以前なら、事務所に来客があると、コーヒーなどを振る舞って好きな話をしたものです。

ぼくはおしゃべりが好きで、若い人がやってくると、いま読んでいる本の話をします。本といっても、たとえばニーアル・ファーガソンという人の書いた「憎悪の世紀」(上巻、仙名紀訳、早川書房、2007年)という本だったりします。

彼はハーバード大学の歴史学の教授だそうです。

二度の世界大戦、壮絶なスペインの内戦など、人類を凶行に駆り立てたむごい戦争の話が満載の本です。

当時28歳の青木氏は、「戦争の話ですか、……」といって、最初は気のすすまないような顔をしていましたが、「この本ですよ」といって手渡すと、彼は大げさな受け取り方をして、分厚い本を手に取り、

「おっ! 重いですね」とつぶやいたものです。

「重いですよ。上下2巻本ですから」といって、もう1冊をぽんとその上に乗っけました。

「こんな分厚い本、読んでるんですか?」とたずねます。

「ぼくは1年かけても、読めそうもないですね」といいます。

「こんな本、4日もあれば読んでしまいますよ」というと、目を丸くしています。

「……いや、これ一冊なら、二日で読みますよ」というと、

「500ページもある本を、どうやって読むんですか?」とききます。

「こういう本を、月に50冊は読みますよ。文庫本なら一日です」というと、

「へぇぇ、……!」といいます。

それはちょっと大げさかも知れませんが、伝説の男、Т・E・ロレンスは日に45冊読んだという証言があります。それこそ眉唾ものですが、一日に20冊は読んだかも知れません。たしかに読めるのです。

速読法というのがありまして、ぼくは学生時代にそれを独学でマスターしました。

先日、ある人と図書館に行き、その帰りにどこかの喫茶店に入り、二時間で、500ページの本を半分読みました。彼は、ぼくが速読をしていることを知っていたので、驚きませんでしたが、隣りの席にいた学生さん風の女性は、たぶん驚いたでしょう。ページをめくる音で、この人、ちゃんと読んでいるんだろうか? と思ったでしょうね。ときどきページをめくる音を聴いているようでした。そして、ぼくの顔をちらっと見ました。

ときどき手に持っていた付箋をつけるので、この人の読み方はおもしろいとおもったかも知れません。ぼくはいつもそうしています。付箋のついたページは、あとで熟読します。あるいは重要なページならコピーをとります。

それはそうと、青年は、「この100年に世界が殺戮の恐怖の場と化した歴史には、興味がありますね」といい添えました。

「興味、ありますか? うれしいですね」

「はい、ありますけど、……」といいます。

「……けど?」

ある本には、序章の冒頭に、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」の話が出てきます。

20世紀を目前にして書かれたこの「宇宙戦争」の原題は、The War of the Worldsとなっていて、ちゃんと複数形の「Worlds」と書かれています。火星人と地球人との戦争であることを踏まえています。

小説のほうは、火星からの侵略戦争のストーリー建てになっています。

これはたんなるSF小説ではありますが、専門家の目には卓越した洞察力に満ちているのだそうです。

この本が出版されてから100年のあいだに、ウェルズが想像したとおりの悪夢の歴史がはじまったわけです。われわれのこの戦争を、いったいだれが予想したでしょうか。

小説の舞台はロンドンを中心に、ポーランド、セルビア、ベルリン、トルコ、上海、ソウルが戦火に巻き込まれていくというストーリーになっています。

「宇宙戦争」に出てくる侵略者=火星人は、大量死をもたらす究極の兵器を持っていて、装甲車はもちろんのこと、火炎放射器、毒ガス、航空機なども持っていて、地球上の各都市の防衛線はあっけなく突破され、情け容赦のない砲弾が撃ち込まれます。――この物語は、荒唐無稽なつくり話として、多くの読者はおもったに違いありません。本が出版されたのは1898年ですから無理からぬことでしょう。

それはそれとして、ぼくは戦争に従軍した作家ヘミングウェイの話をしました。

そして、ヘミングウェイと親しかったロバート・キャパの話をしました。キャパもまた、従軍カメラマンとして、ヘミングウェイに劣らない、瞠目すべき仕事を成し遂げています。

ヘミングウェイは、パリ、スペイン、キューバ、アフリカなど世界を股にかけた行動派の作家でしたし、もちろん、20世紀の文化のある面では象徴的なといえる映画や商業ジャーナリズム、雑誌メディアなどにひろく愛されました。

キャパは、ハンガリー生まれの従軍カメラマンで、機動性のある小型カメラで、あちこちの戦場に勇敢に飛び込んでいった男として知られています。戦争写真家という存在を、はじめて世界に知らしめた草分け的な写真家でした。

そんなふたりは、スペインの内戦さなかのマドリッドのホテルで面談したのが最初で、それ以来、17年間、ヘミングウェイとの友好をつなぎます。

ときどきケンカしてみたり、仲直りしてみたり、その付き合いは、キャパが撮ったというヘミングウェイの写真を見ればわかるように、すばらしいものです。

ぼくは、2011年に出た山口淳の「PAPA CAPA ヘミングウェイとキャパの17年」(阪急コミュニケーションズ、2011年)と題された本を読んで、ふたりの付き合いがどんなものかであったかを知りました。

「とにかく新しい毎日なんだ!」

ヘミングウェイは語ります。

建国してまだ浅い歴史しか持っていないアメリカという国のことを考えると、ふしぎです。世界の覇者になれた国は、例外なく、影響力のある強いことばを持っています。

ヨーロッパにはけっしてない特質です。

この強国は、贅肉がつきすぎて、幾度か発熱して成長病にかかりましたが、旧ソ連の崩壊によって、もっともパックス・アメリカーナの謳歌する時代となり、アメリカナイズされたグローバリズムの到来をもたらし、頼りにされるいっぽうで、世界から脅威と反撥をまねいています。

それよりも、いまはプーチンの戦争で、せっかくゴルバチョフが西側の覇者アメリカとの共同路線に漕ぎつけたというのに。

しかしアメリカは《約束の地》――神が約束したカナンの地といわれた大陸で、かつては「文明と未開地の中間にある動く周辺」といわれた国です。

それが彼らのフロンティア時代であり、つねに熱をおびて、たえまなく動いてきました。杭(くい)と税官吏で配置された境界ではなく、西へ行けばだれでも自分の土地を持つことができたフロンティア時代には、アメリカの夢、人びとの夢が、そこに託されたでしょう。

権力者じゃなく、法律が支配する国で、勤勉で冒険好きな人間なら、だれにでも無限のチャンスが与えられる国。――そうしてつくられていったのがアメリカ合衆国だったとおもいます。

ジャック・ロンドンはそうして作家になり、明治時代に日本にやってきました。それも、日露戦争を取材のために。

そこに民族が相寄り、相つどって、異種雑多な人びとによって近代統一国家ができあがっていったわけですが、そのために彼らはだれでも、「自己証明」というものを胸にぶらさげることになりました。アイルランド系、イタリア系、スパニッシュ系、ユダヤ系、中国系、そしてニグロというように。

顔や肌や目の色も違う多数派集団。

それがアメリカ独自の多国籍社会を構成することになったわけです。

そこにおいて人間は、一本の「留め金」みたいな存在でしかなくなり、そのリベンジのあらわれが、よりパッショネートなはけ口となって、一種混血音楽ジャズが誕生し、より俗悪になって、人びとを鼓舞させながら、いっぽうではだらけさせ、ヨーロッパから持ち込んだ伝統文化と低俗文化との癒着を生んでいきました。

それがヨーロッパにも世界にもない、アメリカ独自の文化に育ったのだと、ぼくは思っています。貴族も王様もいない彼らの国では、なにごとにも頓着しない、無鉄砲でおおらかなキャラクターを育み、臆病風を吹かせない人びとをつくりました。

アメリカで育った映画スターたちは、無数の孤独な人びとに恋愛や情事の幻影を与えましたし、チャーリー・チャプリンは、はずかしめられた人びとを演じ、権力にひるまず、恋にやさしくて人情を持ちつづける、どこにでもいる巷の人間を代弁して、大いに喝采を浴びました。

さて、

繁栄のなかの失業と貧困。

――そんななかで人びとは希望や夢を失わず、依然としてアメリカの夢が無傷のまま、まだ残っていると信じて疑わなかった時代がありました。歴史的な物差しで測れば、ヨーロッパの諸国にくらべたら、ちっぽけなものでしかないけれど、だからこそ、彼らは一攫千金(いっかくせんきん)の夢を求めて西へ西へと暫進していったように、彼らもまた自己実現のために、あらゆることに挑戦したとおもいます。

つまり、小説家になることは大統領になることとおなじか、それともたやすいか、むずかしいか、いずれにしても大したことじゃないと踏んで、人生のインデックス(指針)を大いに賭けた者も多かったとおもいます。

なぜなら、彼らにとって、裕福な生まれがすべてでありませんし、州知事にもなれたし、一介の労働者が、名声を馳せる脚本家にだってなれたし、いっぽう黒人だからといって、いつも拗()ねて暮らせるような生易しい社会でもなかった。

ですから、彼らは資本主義社会のつねとして、みずから工場やオフィス、どこであってもいとわずに、働くときには大いに働き、楽しむときには大いに楽しみ、それで報酬を得てつぎの夢を追っかけたのです。人生を大いに楽しみながら、おおらかに野望を遂げていった人がたいへん多い。

彼らの望むものは、どんな野望であっても、いつかは実現させることができる自分たちの国を誇りにし、その謙虚な自信と自由な考えが、彼らをいつのまにか、ふるい立たせ、鼓舞していったのだと思います。

そして、アメリカの華やかな社交界が形づくられていったわけです。――そこには、真贋入り交ざった宝石のような社会と、カットグラスのように脆い美しさ、憐れさ、魚鱗のようにきらめく誘惑と幻影が見られます。

しかし権威や形式を否定するダダイズムやシュール・リアリズムを生んでいったヨーロッパ社会とはぜんぜん違った世界をつくり、さわがしい政治的な意見といっしょに、情事のささやきも聞こえる社交舞台ができあがりました。

彼らの国は、もちろん伝統や歴史が少ないのですが、そういうささやかな伝統とか栄光とか、名誉、勇気などという抽象的なことばが彼らを鼓舞していく反面、これに反撥していったアメリカ作家がたいへん多かった。

ヘミングウェイは、そのかわりに町の名、道の名、川の名、連隊番号といった具体的な固有名詞でつづられる小説を多く書きました。

登場人物の気分、作家の気分みたいなものがそこに滲み出て、作家が何をいいたいのか、はっきりと表現された作品ができあがります。「武器よさらば」など。文学が美しく、つよいものに見えるのは、そういう作品を読んだときです。

いっぽう、スコット・フィッツジェラルドは「人生はすべて崩れ去ることのプロセスである」といいましたが、そういいながらも、戦争がわれわれをこんなふうに傷つけたのだという甘えがまったく見られないのです。

「平気で酒もたばこものみ、いままでキスした男は何十人といるわ。これからだって、きっと何十人かの男たちにキスすると思うわ」という、ジャズのビート旋風に乗って、踊るビ・バップのように、新しいアメリカ娘を登場させたフィッツジェラルドの処女作「楽園のこちら側」は、時代のセンセーションを巻き起こしました。

これから、この国の時代をデザインするのは、いったいだれなんでしょうか? 

大統領でしょうか? いま、そういうアメリカが変わろうとしています。ウォーク(wokeness)な社会正義の戦士があちこちに立ち上がりました。

■アメリカ文学。――

シャーウッド・ンダーソンという人作家

 

 シャーウッド・アンダーソン(1876―1941年)

 

フィンランドは、隣国ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、長年の国策を大きく転換させたことは、予想されたこととはいえ、ぼくには驚きだった。北大西洋条約機構(「NATO」は英語圏では「ネイトー」と発音しています)への加盟を目指している。

他の欧州連合(EU)加盟国とおなじく、フィンランドは隣国ロシアからの観光目的の入国を大幅に制限した。

そんななか、マリン首相はこれまでも、仲間とクラブに通ったり、音楽フェスティバルに行ってみたりと、自分の趣味の活動について明らかにしてきたものの、「パーティー好きの首相」として批判する声が、国内の一部からも出ていた。

パーティー動画の流出事件で問題になったフィンランド首相、そして薬物検査では陰性とはいえ、こんどは「騒がしく踊るパーティー動画」が流出したりして、野党が批判したとか。

 

 

ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長とマリン首相(左)

 

マリン首相の少し前の出来事。――首相公邸でのパーティーに参加した女性客2人がトップレス姿で写真を撮ったことについて、謝罪したという話があった。

先ごろぼくは、堀内都喜子氏の「フィンランド 幸せのメソッド」(集英社新書、2022年)という本を読みはじめたばかりでした。そして、とつぜんだったけれど、彼女は閣僚を連れて、日本にもやってきのです。マリン首相は母乳を与えるようすなどをSNSに投稿するいっぽうで、率直なメッセージを発信しているという。彼女があるスーパーのレジ係だったことは事実だけれど、エストニアのある大臣が彼女のことを「レジ係でも首相になれる」といってひんしゅくを買ったりした。

そういう国を羨望してのことかもしれない。首相の就任直後のことでしたが、ツイッターで「フィンランドを誇りに思う。貧しい家庭の子でも十分な教育が受けられ、店のレジ係でも首相になれるのだから」と投稿した。

これに対して、マリン首相は

「私たちは普通の政府です。女子更衣室で雑談しているのではありません」と返した。

それ以来、ぼくはマリン首相を応援したくなった。

それと、ぼくは個人的にはフィンランドがむかしから大好きなのだ。あの「フィンランディアFinlandia」は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスよって作曲された交響詩である。

シベリウスを産んだ偉大な国なのだから。そして、世界一むずかしいフィン語を話す国民を、ぼくはこころから尊敬している。

 

(シャーウッド・アンダーソン「ワインズバーグ・オハイオ」、上岡伸雄訳、新潮文庫、2018年)

さて、先日の日曜日、36歳の友人と会って、久しぶりにコーヒーなどを飲みながら、そんな話をした。そして、1924年ごろの米国社会と、 作家シャーウッド・アンダーソンの話をした。

ぼくも若いころは、「短編小説」も「長編小説」も、これといって区別しないで、ことさら長短で選ぶこともせず、手当りしだいに読んできた過去を持っていると話した。大筋において、いまも変わらない。

通常、英語では前者をshort storiesと呼び、後者をnovelsと呼ばれているのだが、アメリカにかぎっていえば、ショート・ストーリーなる分野が盛んになったのは南北戦争以降のことで、これを文学史的には」アメリカン・リアリズム」といってきた。

それ以前の散文による短いフィクションはtalesと呼ばれるのがふつうで、テールは、ショート・ストーリーとは区別したほうがいい場合がある。早い話、ポーの「アッシャー家の崩壊」や、N・ホーソンの「若いグッドマン・ブラウン」も短編だが、ずっとテールと呼ばれてきた。

そのころの長編の散文小説はromancesと呼ばれる時代があった。いっぽう19世紀のイギリスは、いずれの場合も区別せずnovelsと呼ばれてきた。

 

 

 

短編小説がアメリカで流行した背景には、商業ジャーナリズムの勃興があった。

商業ジャーナリズムの勃興は、イギリスの産業革命と当時にはじまった。しかし、じっさいには海を渡った大西洋の対岸、アメリカで実現したものだった。雑誌の誌面をにぎわすショート・ストーリーの需要がイギリスより多かったことにもよるだろう。その源流は、なんといってもマーク・トウェインである。

そしてその直系がシャーウッド・アンダーソンということになる。

アンダーソンこそが「われわれの世代の父親である」といったのはウィリアム・フォークナーだった。ヘミングウェイの場合は、父はシャーウッド・アンダーソンであり、母はガートルード・スタイン女史だったといっていい。このふたりの出会いの成功が、のちのヘミングウェイの作品に魅力たっぷりに結実していることは間違いない。

 

左が筆者

 

 

そのアンダーソンも、文体は開拓民に伝承されたストーリーテーラーの語り口と、前衛作家ガートルード・スタイン女史に学んだ散文詩的な語りの入り交ざった口語体だった。ぼくはそういう彼の覚めた文体にあこがれた。心理描写のない文章をつらぬいた。

夕べ、アンダーソンの短編「つかなかった嘘(The Untold Lie)」を久しぶりに読んでみた。

 

「お前さん、おれにお説教しに来たんだろ? え?」と彼は言った。「うん! そりゃもういいんだ。おれは卑怯者じゃねえよ。もう腹は決めてるんだ」そう言って、彼はまたひとしきり笑うと、溝を跳び越えた。

「ネルは馬鹿じゃねえ」と彼は言った。「あいつは、結婚してくれなんて言わなかった。おれが、あいつと結婚したいんだ。ぼつぼつ身を固めて、餓鬼を持ちたいんだよ」

シャーウッド・アンダーソン「つかなかった嘘」より

 

 

雨の日の写真作品。作者名を失念した。

――この文章だけを読むと、フォークナーとそっくり。

ガートルード・スタイン女史に学んだ散文詩的な語りの入り交じった口語体の見本のようだ。そういうわけで、ぼくは思いっきり、シャーウッド・アンダーソンのファンになった。

ヘミングウェイが「ぼくにとって最も重要な作家はAndersonだ」と語っていることからもわかるように、その影響はどれほどだったか、ヘミングウェイの「われらの時代(In Our Time, 1924年)」を読めばわかる。なにしろ、文章がいい。読めば、たちどころに文章の起伏が見え、多くの示唆を投げかけている。

ヘミングウェイがパリを目指すとき、彼からスタイン女史宛ての紹介文を書いてもらっている。アンダーソンは、そのころウィリアム・フォークナーの小説を認め、出版の世話をしている。アメリカの代表的な作家ふたりを世に送り出した功績はひじょうに大きい。アンダーソンは「アメリカ現代文学の父」と呼ばれるようになったのは当然だろう。

シャーウッド・アンダーソン(Sherwood Anderson, 1876年-1941年)は、オハイオ州キャムデン(Camden)というところで生まれた。――キャムデンといえば、南北戦争時代は南部の砦として、「キャムデンの戦い」では多くの戦死者を出したところである。

「多くの死者」といってわからなければ、10数万人の死者といえばいいだろうか。いまのウクライナどころの規模ではない。そこだけで、20万人に迫る人の死を見ているだろう。

彼は高校を中退したのち、1年あまりの軍隊生活をし、その後、さまざまな職業を転々とし、1908年に、塗装会社を設立して事業をはじめたものの、1912年11月、執務中にとつぜん会社から姿をくらまし、4日後に朦朧となって発見されるという謎の失踪事件をおこしている。

父は南北戦争に騎兵として従軍したことから、小さな馬具商をいとなむが、迫りくる時代の機械化で、たちまち一家は破産し、夜逃げ同然の状態でキャムデンを逃げ出す。

アンダーソンが8歳のときだった。

父はいたって楽天家で、貧乏を苦にするようなタイプではなく、南北戦争時代の自分の勇姿を語り、そういう誇りもあって、ペンキ屋稼業をはじめたが、彼はまじめに働こうとせず、気の向かない仕事には目もくれず、むずかしい仕事はいっさい引き受けようとしない。

おまけに、度し難いほどの浪費グセがあり、どこかから馬を見つけてくると、こんどは「冒険」と称して、家を留守にすることは毎度のことで、商売もあがったりになる。

馬に乗って遠出をするので、いつ家に帰ってくるかわからない。しかし、この父親の語る南北戦争時代の「ホラ話」は、のちの作家アンダーソンに大きな小説の構想へと発展していく。

アンダーソンの書いた自伝「A Story Teller's Story」を読むと、その父親のことを「偉大な語り手」と呼んでいる。少年には、どこまでが真実なのか、どこまでが空想なのか、わからなかったものの、その「A Story Teller's Story」は、小説のようだとおもったにちがいない。

シャーウッド・アンダーソンという作家が生まれたのは、そのような父親の話のなかから生まれたといっていいかもしれない。――ぼくの父も、ぼくが子どものころ、軍隊の話を持ち出して、よく「軍隊では、……」といっていたものだ。

父は旭川の第7師団から中国戦線に出征した機関銃兵だった。

それは父にとっては、大きな体験だったにちがいない。

語らずにはおられなかったわけだ。父は作家にはならなかったが、じぶんの前では、大いにおしゃべり作家だった。野営、野営の任務がおわり、駐屯部に帰還してきた70名ほどの兵士を整列させると、上官はいった。

「今夜は、これから貴様らに褒美の女を遣わす。これから女を抱いてこい! ただし、明日の午前8時までには戻ること! いいか、忘れるな! 行ってこい!」

父は嬉しそうに、子供だった自分に語ってくれた。

しかし、小学5、6年生の自分には、その意味はわからなかった。

シャーウッド・アンダーソンの自伝には、――8、9歳のころとおもわれるころのことだが、家にはなまけ者の父と、愛情ゆたかな母、そして7人の子どもたちがいて、不平ひととついわずに他家に奉公に出たりして、いろいろと家計を助けている。

たいていの賃仕事は、他家での洗濯で、賃仕事をして、彼なりに経済感覚をみがいていったものとおもわれる。

これじゃいけない、とおもったのか、母親の献身と愛情の深さに目覚めるが、その母の死は、大きな出来事となった。

のちに作家になってからも、

「Chekhovのような筆力で、母親の臨終を書くことができたら、……」と書いている。アントン・チェーホフは、短編作家として大きな存在だった。「Mother」や「Death in the Woods」という名作は、こうして生まれた。

ある日、単身シカゴに移ったアンダーソンは、セオドア・ドライサーらの知遇を得て、執筆活動をはじめる。彼の豊富な体験と父ゆずりの話術だけで小説を書いたわけではない。

シカゴの街は、ワインズバーグの片田舎とは大違いで、そのころ、小さな文学的ルネサンス時代を迎えていて、バルザック、チェーホフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、ヘンリー・アダムズ、ガートルード・スタイン女史といった作家たちの作品が読まれ、都会的な創作環境ができあがっていった。

で、1919年、オハイオ州の小さな田舎町を舞台にした短編集「ワインズバーグ・オハイオ」が評判を呼び、一躍有名作家になる。

その後も、私生活では結婚・離婚を繰り返しながら、「卵の勝利」、「暗い笑い」など、数かずの優れた短編集を発表するが、1941年、南アメリカへの旅行中、腹膜炎にかかって死亡。享年64。

――まあ、かんたんにいえば、アメリカ的な土着性とヨーロッパ的モダニズムとの複合を試みたアンダーソンということができる。そのアメリカ文学史上に占める位置はたいへん大きく、後進作家のシンボルとなった。

彼の文章スタイルの影響を強く受けた作家は、前述のフォークナー、アーネスト・ヘミングウェイのほかに、ジョン・スタインベックや、トーマス・ウルフ、さいきんではレイモンド・カーヴァーなどの名があげられるだろう。

しかし、彼が作家になるまで、それは想像もできないほど苦難の道を歩いてきた。話はもどるが、母親が亡くなると、放浪癖のある父親は、子どもたちを放り出して行方をくらます。

一家は離散となる。

それからは彼は、さまざまな職業につき、畑の番人とか、ペンキ屋の助手、尋ね人の手伝い、工員、――これはどういう工員なのかはわからないが、そのうちに、自分を試すために、シカゴへ行きたいとおもうようになり、シカゴに行ってからも、倉庫でドラム缶を転がす仕事にありつく。

しかし、彼はほんとうは画家を志望していたから、こんな悲惨な仕事はもうたくさんだとおもい、みずから志願して米西戦争に従軍し、帰国後はこんどは広告代理店で働くことになり、裕福な家庭の娘O Nelia Laneと出会い、ふたりは結婚する。

Laneはふたつの大学を出たインテリ娘で、さいわいなことに、アンダーソンは、彼女のもっている文学書を借りて読み、そればかりか、彼女からはフランス語の手ほどきを受けていた。

――さて、自伝によれば、そのように書かれているのだが、そういうインテリ女性が、田舎者のアンダーソンのどこに惚れたのか、結婚をあっさりと承諾しているのである。そればかりか、彼にさまざまなことを教えている。

たとえば、文章の文法上の誤りや、誤字、いいまわしの難を指摘してくれたりして、いつの間にかふたりに子供ができ、結婚することになったように書かれている。

彼の作家になるまでの半生には、ここでは書ききれないほどぎっしり詰まった濃密な物語がたくさんあって、まるで小説を地でゆくような人生を歩いている。「自伝」ではなく、表紙を変えれば、それはそれで小説といっていいかもしれない。

さて、彼の代表作「Winesburg, Ohio」、――ちゃんと書けば、「Winesburg, Ohio: A Group of Tales of Ohio Small-Town Life、」ということになる。これを彼は「短編小説群(short story cycle)」といったそうだ。

この作品は、主人公のジョージ・ウィラードが子供のころから独立して、若い男となって、最終的に故郷を去るまでの半生を描いたストーリーに構成されている。

物語の舞台は、著者がオハイオ州クライドで過ごした子供時代の思い出に基づいている。それは、オハイオ州の架空の町ワインズバーグに設定されている。

作品は、主に1915年後半から1916年初頭に執筆され、出版の直前にいくつかのストーリーが完成し、「...ひとつのコミュニティの背景を中心に、全体の補完的な部分として考えられた」らしいことがわかっている。

1802年、フランスのシャトーヴリアンは「キリスト教精髄(Génie du christianisme)」という短編を統合して一冊の聖書のような本にして出版した。これが当たって、フランス革命時、そして革命後の荒廃したパリの人心を建てなおすのに大いに貢献したとされてる。

実は、「手(Hands)」の一部をここでご紹介するつもりだったが、紙幅がなくなりそうなので、かんたんに触れておきたい。

 

オハイオ州ワインズバーグの町にほど近い山間の崖、そのすぐそばに小さな木造の家が建っていて、その壊れかかったベランダの上を、太った小柄な老人が、せわしなく歩きまわっていた。クローバーの種を蒔いておいても、野生のからし菜ばかりが生えてしまう細長い畑の向こうに、畑から帰ってくる苺積みの人びとをいっぱいに乗せた荷馬車が通る街道を見ることができた。若い男や女の苺積みたちは、騒々しく笑ったり、怒鳴ったりしているのだった。

Upon the half decayed veranda of a small frame house that stood near the edge of a ravine near the town of Winesburg, Ohio, a fat little old man walked nervously up and down.Across a long field that has been seeded for clover but that had produced only a dense crop of yellow mustard weeds, he could see the public highway along which went as wagon filled with berry pickers returning from the fields.The berry pickers, youths and maidens, laughed and shouted boisterously.

 

frame house=木造住宅。

Seeded for clover=「クローバーの種を蒔く」。

とりたててむずかしい語はないけれども、文章の流れに余計な描写もない。そしてとっても映像的だ。

ぼくは原文をいつもkindleにダウンロードして読んでいる。原文は現在、フリーで読める。文章に興味のある方は、いちど原文を読まれることをおすすめしたい。すばらしい英文である。

■漱石の「坊ちゃん」はなぜ市電の技術者になったか。――

イギリスの大地を走る日本製高速車「AZUMA(あずま)

小池滋氏

 

きょうは朝から冷たい雨が降っている。 ぼんやりとだが、雨のなかを疾走するイギリスの高速電車《ジャベリンJavelin》のことを想い出した。もちろん製作は日本の日立。

イギリスの鉄道は、1825年に開通した世界で最も古い鉄道である。

1825年、蒸気機関を利用する鉄道が初めてイギリスで実用化された。この技術は約30年後の幕末(1853年)の日本に、蒸気車の模型として到来をもたらした。世界で最初の蒸気鉄道は、イギリスの炭鉱でとれる石炭を運搬する目的でストックトンとダーリントン間約40kmに設営されたストックトン・アンド・ダーリントン鉄道である。

日本で初めて走った鉄道は、艦船に積んで運ばれてきた模型だった。

幕末の嘉永6年(1853年)7月、ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる4隻の軍艦が長崎に入港して江戸幕府と開国の交渉を行なった。約半年におよぶ滞在期間中に何人かの日本人を艦上に招待して、蒸気車の模型の運転を展示した。招待されたのは幕府の川路聖謨、佐賀鍋島藩の本島藤夫、同じく飯島奇輔らで、彼らは藩に戻って藩主に報告した。

長崎につづいて、1854年、横浜で蒸気車の模型が走った。これはペリーが2回目の日本訪問に際して大統領から将軍への献上品として持参したものだった。これが、日本のサムライたちをびっくりさせた。

「亜米利加(アメリカ)人って、何者?」と。

 

2019年5月15日、日本から導入した車両が、イギリスの東海岸を走ることから《AZUMA(あずま)》と命名された。

 

ぼくは、小池滋氏が英文学者であることは知っていたが、鉄道史研究家であることは、すこしも知らなかった。

文学作品の背景にあるイギリスの鉄道が深く関わっていることを知り、鉄道関連についても、大きな研究対象になっているという話だ。1979年に出版された「英国鉄道物語」では、19世紀のイギリスの鉄道に焦点を当て、その成立と発展について社会史・文化史の面からの分析をおこなっている。圧巻の1冊である。

また、イギリスで盛んな鉄道保存運動への知識も深く、自らも石川県で廃線となった尾小屋鉄道の車両保存活動にも参加しているという。

このほか、小池氏は19世紀のイギリスの技術者、イザムバード・キングダム・ブルネルの研究会を発足させるなど、彼の顕彰活動にも力を入れている。

そういえば、……文藝春秋社から70周年記念で「世界の都市の物語」(12巻)の「ロンドン」編を小池滋氏が書かれていたことを想いだした。1992年のことだった。じぶんが知る小池滋氏は、これ一冊といっていいかもしれない。

そういうことも知らないぼくは、小池滋氏のことを、あまりにも知らなさすぎた。

彼の本はたまに読んできたけれど、英文学以外の本はなんとなく敬遠していた。そのうちに、たいくつまぎれに一冊ぐらいは読んでみようと思うようになった。せっかく図書館から借りてきたのだから、10冊のうちの最後の1冊を手に取った。

こんなにわくわくさせてくれる本は、ほとんど読んだことがない。

夏目漱石が書いた「坊ちゃん」が長じて、市電の技術者になる話が書かれ、漱石は、どういう意図で彼を技術者にしたのか、まあ、その理由が日本の近代鉄道史を背景に、ミステリーふうに書かれていておもしろかった。

「坊ちゃん」は小説なのだから、作者がどう書こうと勝手な話なのだけれど、小池滋氏は違った。とことん突き止めているのだ。こういう評論はちょっとめずらしい。そこには、明治40年代の日本の特殊事情と鉄道事情が隠されていたという話である。

ちょっとご紹介すると、小池滋氏の本は、英文学にかぎらない。

 「幸せな旅人たち」(南雲堂 1962年)、「ロンドン ほんの百年前の物語」(中公新書 1978年)、「英国鉄道物語」(晶文社、初版1979、再版2006年)、「ディケンズとともに」(晶文社 1983年)、「島国の世紀 ヴィクトリア朝英国と日本」(文藝春秋社 1987年)、「鉄道世界旅行 絵入り」(鈴木伸一絵 晶文社 1990年)、「もうひとつのイギリス史 野と町の物語」(中公新書、1991年)などなど、……英文学者にして、小池滋氏は大の鉄道ファンのひとりなのである。

ぼくは不幸にも、そういう本をほとんど敬遠して読まなかった。

 

(小池滋、「世界の都市の物語」ロンドン編、1992年)

図書館から借りていた「《坊ちゃん》はなぜ市電の技術者になったか」(新潮文庫、2008年)という本を、寝ころんで読みはじめた。第1ページからどんどん引き込まれ、あっという間に半分近く読んだ。そこには、表題のとおり、夏目漱石の「坊ちゃん」の話が書かれている。夏目漱石も知らない話もあるのだ。

なぜなら、小説の本文を引用して、「……その各列車が霧の深い時は、何かの仕掛けで、停車場(ステーション)間際へ来ると、爆竹の様な音を立て、合図をする」と書かれていて、「何かの仕掛け」というところを見ると、漱石がじっさいに見た話ではないと思われる。人から聞いて書いたのかも知れない。

じっさいに現場を見ていれば、爆竹が車輪に踏まれて、パンパン鳴らしているところを見たはずである。こうでもしなければ、信号機が霧でかすんで見えないからだ。人も自動車も通っている街である。ずいぶん危険な状況だったようだ。

「坊ちゃん」は、四国の中学の先生をやめて東京に戻り、「街鉄(がいてつ)の技手(ぎて)」になって、月給25円をもらっていたと書かれている。ここには書いていないけれど、25円というのは、悪くない。独身ならば、楽に生活していける額だ。

坊ちゃんは「清」という女中といっしょに住んでいた。

ここにある「街鉄」というのは、街中を走る路面電車のことである。「技手」というのは運転手兼整備要員。小説には「街鉄」も「技手」も、くわしいことは何も書かれていない。

小池滋氏は考えた。――

かんたんに鉄道の生い立ちをいうと、明治15年、新橋駅(現在の汐留駅跡)から銀座通りを経由して日本橋まで、東京馬車鉄道が開業した。明治23年5月に、上野公園で開かれた勧業博覧会で、アメリカから購入した電車が日本ではじめて公開運転された。

これを契機に路面電車が営業運転されたのは、明治28年1月31日。京都駅近くから伏見までだった。東京での市電営業は、明治36年で、馬車鉄道の軌道を電化して営業を開始したのが「東京電車鉄道」で、8月22日のことだった。

その後「東京市街鉄道」、「東京電気鉄道」、「東京電車鉄道」の3つができ、そのうち「東京市街鉄道」を略して「街鉄」としたものだった。

坊ちゃんは、この街鉄に就職したというわけである。

それが間もなく3社が合併して、明治39年9月11日からは「東京鉄道会社」となり、5年後の明治44年には、こんどは東京市電気局の手に移って、公営企業となった。

 

(小池滋「坊っちゃんはなぜ市電の技術者になったか」、新潮文庫、2008年)

 

小説の出てくる「街鉄」の愛称は、たった3年間のことだったことがわかる。

坊ちゃんは地方から出てきて、8年後には公務員になったというわけ。もちろん小説にはそんな話はこれっぽっちも出てこない。

まだ「街鉄」と呼ばれていた時代を描いているのである。

そういうことを考えると、漱石っていう人は、たくみにその時代の新しいことを描いていたことがわかる。さっきの爆竹の話をすれば、なんていうこともない話だ。

当時、東京は霧が立ち込めて、街の風景がいまのようにはっきり見えなかった。

そのために、早朝の路面電車は、信号機のあるプラットホームに近づくと、レールの上に置いた爆竹が、車輪に踏みつけられて大きな音をだし、運転手に注意を与えていたというわけである。――なんと、まあ、原始的なシステムを採用したものである。レールの上に爆竹を置く人がいたというのであろう。夜、爆竹を踏んでも大きな音を出したとおもわれる。

本には、明治39年現在の東京市内電所の路線図が2ページの見開きでついている。「汽笛一声新橋を」ではじまる「鉄道唱歌」(明治33年)。はじめの一行にはなじみがある。ところが、

 

 玉の宮居は丸の内

 近き日比谷に集まれる

 電車の道は十文字

 まだ上野へと遊ばんか

 

――ではじまる「電車唱歌」は、ぼくは知らない。

「坊ちゃん」発表のころは、この唱歌を読めば、当時の市内3車線はほぼわかるようになっているという。

この歌は、第52節の「靖国神社」で終わっている。

このことからも、漱石がいちばんなじみがあったのは、やっぱり「街鉄」のほうだったようだと書かれている。だから、漱石が坊ちゃんを街鉄に就職させたというのも納得がいく。このことからいえば、「坊ちゃん」とは、夏目漱石自身のことだ、そう思えば話は早い。

忠実な女中の清が亡くなり、坊ちゃんの菩提寺である「小日向(こひなた)の養源寺」の墓に埋めた、と小説には書かれている。夏目家の菩提寺は小日向にあった。

当時漱石は千駄木に住んでいた。坊ちゃんと清が住んでいたのは、やっぱり文京区千駄木あたりと推測される。

坊ちゃんの家賃は月6円。そこから街鉄本社のある数寄屋橋まで通ったと思われる。現在のJR有楽町駅の東側。――つまり、現在の交通会館のあたりか。――この交通会館は、鳴り物入りで昭和37年に建てられた。当時そこにはまだバラックが建っていたが、反対したバラックの住民たちは、がんとして、土地買収に応じなかった。

そのころ、ぼくは銀座かいわいを新聞配達していた。ようやっと、それをつぶして建てられたのが交通会館だった。会館の屋上には、ラウンジになった展望台みたいなレストランがあり、当時、米海兵隊員らが大挙して入っていった。

ところで、「技手」というのは、職工や運転手より格が上で、仕事のマネジメントをしたり、監督したりする役だったと書かれている。小説に書かれているような坊ちゃんではなく、彼は専門学校出で、大学出のエリートではなかたので、いろいろあったに違いない。

こうしてみると、この本は、小説「坊ちゃん」を理解するに恰好な本ということになりそうだ。

よく、ここまで調べ上げたものだと感心してしまう。坊っちゃんを取り巻くイメージが、だんだんはっきりしてきた。そればかりでなく、それを書いた漱石の文明にたいする魂胆が、透けて見える。

漱石はもとより、文明論者である。小説「三四郎」には、そのことがよく描かれている。それはともかく、微に入り細を穿って論証のかぎりを尽くして書かれたこの本は、「いちいちごもっとも!」と、合点したくなる。

21世紀の今じゃ、日立製の電車《AZUMA(あずま)》が、イギリスの大地を高速で走っている。おなじ日立製の先行高速電車《ジャベリンJavelin》の実績が買われて、日本語が冠をなす高速車両が走ることになったのである。《ジャベリン》というのは、ロンドン・オリンピックに因んで「投げ槍」と命名されたらしい。

日本人の観光客も、さいきんのコロナウイルス拡大の影響で、出かけることも少なくなったようだ。だが、訪英すれば、だれもが一度は見ることになる「ロンドン塔」は、11世紀の1066年、イギリスを征服したウィリアム征服王によって建てられたものである。

それ以来、フランス語がイギリスの公用語になった、というと、

「え! そうなの?」と、間違いなく日本人はみんな驚く。

 

まあ、話せば長い話になろう。

もともとの英語は、語彙が一音節というような単語が多く、その語彙も少なく、外国語と対応できる語彙数を持っていなかったので、ほとんど使いモノにならなかった。たとえばホテルは、フランス語は「オテルhotel」、――hを読まない。英語は「ホテル」としたわけで、いってみれば、フランス語をただ英語読みする程度だった。

そうやって以降ほぼ300年間は、かれらのイギリスでは、フランス語が玉座に就いたのである。そして、多くの政治犯がここに幽閉され、処刑された。

第二次世界大戦中は、ナチス党の指導者ルドルフ・ヘスがここに投獄され、ドイツのスパイとして処刑されている。――もしもここに日本人のガイドさんがいたら、こういうだろう。

「夏目漱石は明治33年から35年にかけて留学中にここを訪れ、あの有名な《倫敦塔》を書いたのです」と。

イギリスで蒸気機関車が実用化されてから間もなく200年を迎える。

鉄道発祥の国で、日本語の名前を冠した高速列車が去年の5月15日、 営業運転を開始したことはすでに記した。ブリテン島の東側を南北に結ぶ東海岸本線を、極東の国・日本から導入した車両が走ることから《AZUMA(あずま)》と名づけられた。日本が誇る新幹線車両の技術が認められ、一両も納入した実績のない日本が、どうやってイギリスの大動脈を走ることになったのか、その大がかりなプレゼンテーションと厳しいテストを経て導入が決まり、営業運転までこぎ着けたのか、あらためてその経緯を追ってみたくなるけれど、その話は、いずれまたにしたい。――

は万病を癒す?」だと!

 

中学校時代の国語の恩師・渡辺晋一先生にいわせると、月50冊を読むなんて、すごいな! といわれたことがあるけれど、もとより読書家は、最低でも月50冊以上の本を読んでいる。それはとくべつの能力とはいえないだろう。

T・E・ロレンス、――つまりアラビアのロレンスは、「1ヶ月に450冊を読んだ」といっている。速読の世界チャンピオンは、1冊の文庫本を1分で読む。

だからといって、そんなに速く読みたいともおもっていない。

きっと、そういう彼は、読書なんか、楽しんでいないだろう。ぼくは、読書の愉しみをけっしておろそかにしない。ぼくは精一杯に読書を愉しみたいのである。

で、きょう、――2025年12月21日(日曜日)は、茂木健一郎氏の「あなたにもわかる相対性理論」(PHPサイエンス・ワールド新書、2009年)とという本、瀧井宏臣氏の「ダントツ技術――日本を支える《世界シェア8割》」(祥伝社新書、2013年)という本を2冊読み、それから図書館から借りてきたおなじみのハヤカワ・ミステリー本だが、そのなかの「死は万病を癒す薬」(レジナルド・ヒル、2009年)という、奇妙なタイトルの小説を再読した。

     

死は万病を癒す薬だって?

おもしろいタイトルである。原題は「A Cure for All Diseases」となっている。

このタイトルをどこから採ってきたのかというと、サー・トマス・ブラウンの「一医家の宗教」からこっそり採ってきたらしい。「人はみな癒されまいと努力する。なぜなら、死こそが万病を癒す薬なのだから」という文章がある。

作家レジナルド・ヒル自身が、このことばをエビグラフとして小説の冒頭にわざわざ掲げている。そして、小説の最後に、「サンディタウンへようこそ、健康ホリディーのふるさと!」と書かれ、「よしてくれよ」アンディ・ダルジールは言った。

「健康ホリディーでああいう目にあうんなら、また煙草を始めたほうがましだ!」(588ページ)。

――そんなことが書かれている。

けっきょく主人公のアンディ・ダルジール警視は、健康ホリディーでいいおもいをしなかったのである。

生命の危うさを実感しながらようやく回復に向かったとき、人のすすめでヨークシャーの東海岸、サンディタウンにある民間病院の付属療養ホームにしばらく入院する。

病人といっても、彼はもともと敏腕警視だ。

 

 

 

 

 

ひょんなきっかけでさまざまな人物と出会う。――病院というところは、一般社会とおなじだと気づく。

男女を問わず、子供から老人まで、さまざまな階層の人たちが入院している。職業もさまざまで、職をリタイアした人も多いし、末期患者もあつかうのだから、新型コロナ・ウイルス以外でも、死にそうな人があちこちにいる。事実、一晩に3人も4人も急死する。

サンディタウンの大地主で、環境や健康にフレンドリーな町の再開発を推進するトム・パーカーや、彼の家に遊びにきている心理学専攻の大学生シャーロット・ヘイウッド、町の名士で裕福なレイディ・デナム、アヴァロンの院長でアメリカ人医師のレスター・フェルデンハマーや、そしてずっと音信不通でもう死んだかとおもわれていたフラニー・ルートまでが現われる。

その彼とダルジールとのつながりはけっこう長い。

べつの小説にもこのふたりは登場している。

そういう静かな海岸の町を舞台に、殺人が起きる。

「動機は?」

「犯人は?」

まあ、だれもがいちばん先に考えたくなるのが動機だろう。仮説をたてれば覆され、すすむとおもえば予想もしない壁が立ちはだかる。ここで、野暮なあらすじはいわないほうがいいだろう。

ただひとついえることは、冒頭のエピグラフ。――

「人はみな癒されまいと努力する。なぜなら、死こそが万病を癒す薬なのだから」というジェイン・オースティンのことばだ。

彼女が1817年に書いたとされる「サンディトン」を下書きにしたような小説? 「したような」ではなく、明らかに下書きにしている小説だ。オースティンのこの小説は未完でおわっている。だから作者は書く気になったのだろう。

だから、そこにはレジナルド・ヒル一流の滑稽さはない。

たとえば、スティーヴン・キングが書くような滑稽さもない。たとえば「スタンド・バイ・ミー」のパイ食い競争とか、「グリーン・マイル」の処刑リハーサル・シーンなどもない。

たいていの書き手は、ドアを締めて推敲にかかる。スティーヴン・キングはドアを開けて推敲にかかる。そして、尊敬するレイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り(The Big Sleep)」の殺害された運転手について訊かれたチャンドラーは、じぶんの手落ちをおもしろがっていった。

「ああ、あれか。実を言うと、(死んでしまっていることを)うっかり忘れてしまってね」といったとか。

北杜夫の「楡家の人々」では、だれも死なず、うっかり死んだはずの人間を、物語の途中で死んでもらうのを忘れていた、と告白したのはおもしろい。

歴史が塗り替えられるからだ。

三島由紀夫絶賛の「楡家の人々」は、トーマス・マンの長編「ブッデンブローク家の人々」の影響を受け、自身の家族をモデルに大正・昭和の戦前期にわたる精神科医一家を描いたものである。

ジェイン・オースティンは 1816年8月6 日に「説得」を完成させたあと、1817 年 1 月 27 日に「サンディトン」を書きはじめた。

しかし病気のため、彼女が亡くなる丁度4か月まえの3月18日に、第12章の、多分途中まで書いたところで中断した。全体の6分の1から4分の1程度ではないかと推測されている。

この小説を、作者レジナルド・ヒルは、自分なりに完成させてみたいと考えたにちがいない。

「サンディトン」のテーマは、これまでの6つの小説とは大きく異なる。これまでの小説は、もちろんいろいろな相違はあるものの、基本的にはヒロインの結婚がテーマとなっていた。

「サンディトン」においても、エドワード、シドニー、クララ、ミス・ラムの恋愛、結婚を中心にプロットが展開する可能性は否定できないけれど、この作品では明らかに投機やリゾート開発といった社会的、経済的問題が大きなウエイトを占めている。これは従来の小説にはぜんぜん見られない特徴だ。

「あとがき」によると、この小説の構想に10年を要したと書かれている。そりゃあそうかもしれない。アイデアに満ちていて、ひねりにひねった作風だ。

ジェイン・オースティン作品を研究してみたいという大学生には打ってつけの小説かもしれない。

オースティンの「サンディトン」に出てくる登場人物をそっくり引き継いでいるからで、プロットばかりかキャラクターまで、そっくりそのままヒルによって未完の小説を引き継いで書かれている。

だからぼくは読む気になった。

Sanditon――The story behind Jane Austen's last unfinished novel.

作者レジナルド・ヒルは1936年イギリスに生まれ。

1970年に「社交好きの女」で作家デビューを果たし、1990年には「骨と沈黙」でCWA賞のゴールド・ダガー賞を受賞した。「骨と沈黙」は、原書版で3回は読んでいる。

ぼくは前作の「ダルジールの死」をすでに読んでいる。そのまえは、「闇の淵」、「真夜中の挨拶」なども読んでいる。

ぼくはミステリーものを読むときは、たいていはリビングルームで、ひっくり返って読む。そのわきで妻がテレビを見ている。途中で、お茶にし、ひと息入れながらも目だけはページを追っている。だって、つぎのような文章が出てきたら、目が離せないのだ。

 

「いいかげんにしてください!」フラニー・ルートがぴしりと言った。

「ぼくたちは被害にあった女性の話をしているんですよ! 逮捕されたのはぼくらの知り合いだ。その逮捕が正当か不当かは関係ない。この国でいったん法律にわしづかみにされてしまったらね。制度はその犠牲者を必要とする。そして誰が犠牲になるかなんて、選んでいるわけじゃないんだ!」

バスコーは首を振って言った。

「彼は男だ!」

「いや、医者が人の首を絞めたりしない、という意味です。医者なら毒薬を与えるとか、あるいは巨額の請求書で心臓発作を引き起こすとか」

ダルジールは笑って言った。

「ああ。だけど医者だって人の子、挑発されることもある」

「相手はゴッドリーという男性です――治療師ですわ――その少し前に、弟が紹介してくれましたの――あたくしの慢性的な症状を、ミスター・ゴッドリーが緩和してくれるかもしれないとトムは申しまして――あたくしは、信じないとはっきり言ってやりました――正直なところ、経験からいって、このみじめな体を少しでも楽にするには、自分の知識に頼るしか方法はありません――あたくしは前々から、あの人は激しやすい気性だと思っていましたし、そういう人が年を取ると、高血圧が危険なほど高まります。あの顔を見て心配になりましたから、あたくしは声をかけて助けを申し出ましたの」

ああ、ミドルレッド、わたしは何をしたんだ?

爽快な気分で目を覚まし、すっかり清められたという感じがした。トイレに出たものを考えれば、当然だ。疑うやつがいたら、音響効果を聞かせてやれる、ミドルレッドのおかげでな!

入れるより出すほうがいい、と言うとおりで、今朝は確かに気分がよくなっていた。

でも、悪いニュースがあるのよね。テディが水に入る前にローレックスをはずしたのを、わたしは不思議に思った。ローレックスといえば、十年前に難破した船の残骸から引き揚げられてもまだ動いているっていうでしょう。それで、彼のトランクスを取りにいったとき、時計をよく見たのよ。絶対に香港製だった。平底船の売人から二十ポンドで買うような代物。伸縮するゴールドのブレスレットは、その気になれば指二本で曲げられる! たぶん金欠のテッドはもらった時計を売り払い、伯母さんを騙しておくために偽物に投資したんだわ。あの福引で当てたっていう話は、かなり怪しげだったもの!

――物語の展開は、ダンスをしているかのようにリズミカルで、話題は19世紀のジェイン・オースティンのころとちょっと趣きが違うけれど、ヴィクトリア時代のつつましさが文章のあちこちにあらわれ、それでいて、きびきびしていて痛快なのである。

 

ぼくらの行く道はまた交差することがあるでしょうか?

もちろんあります。この世か、あの世でね。

ですから、最後は確定的なグッドバイではなく、希望を込めたアウフヴィーダーゼーエンにしておきましょう! 

ところで、削除するには、コントロール・パッドの左下にある小さなDマークを押せばいいだけです。ぜんぶ削除したければ、もう一度それを押してください。利口であれ、親愛なるアンディ、そして善良は善良になれる者に任せておきなさい。(これは、C・キングズリーの詩「借別」のもじりか)。――最後には、そんな文章が書かれている。

「人生の過去・現在の記録をすべて削除する?」 

そういうことができるなんて、ぼくはおもわず唸ってしまった。

 

「また雨が降りそうね」というので、

「また雨ですか。でも、降ってほしいですね」

「田中さんは、いつもお元気で、いいわね」と彼女はいった。

「そうでもありませんよ。前立腺がんの疑いで、……」

「え? 前立腺がん? ……前立腺て、いったい男性のからだの、どこにあるの?」ときいている。

「さー、どこだろう?」