男たちをろめろにした若き数学者、ワレフスカヤ

 

ロシアの数学者、コワレフスカヤ

 

 

若き美貌の数学者ソーニャ・コワレフスカヤの「コーシー=コワレフスカヤの定理」があることをおもい出した。これは驚くべき方程式である。ある条件を与えると、先の人生の解が計算できるというもの。この話を聞いたのは、藤原正彦教授からだったことをおもい出したのである。

この人の人生は、並外れて波乱に満ちている。作家としても、数学者としても歴史に名前を残しているのだ。

ドストエフスキーとつきあっていたのは彼女の姉だったが、ソーニャはドストエフスキーに認められたい一心で、小説を書いている。

これまでぼくは、ソーニャ・コワレフスカヤの記事をほとんど書いていなかったのはふしぎなくらいだ。――先日、そこまで書いてペンを擱いた。

 

数学者、藤原正彦氏

 

 

ぼくは彼女の定理を知っていながら、理解することをあきらめている。とてもむずかしいからだ。ただ、ソーニャ、――これは彼女の愛称で、ほんとうはソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ(Sofia Vasilyevna Kovalevskaya、1850年-1891年)といい、41歳で世を去っている。父親は貴族出身の軍人、母親は外国語に堪能な教養人で、――彼女が生まれた1850年という年は、黒船来航3年前のことである。

吉田松陰20歳、

高杉晋作11歳、

伊藤博文9歳という時代だ。

嘉永6年(1853年)には、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻をふくむ艦船4隻が、日本に来航し、大きな歴史的な出来事になっている。

それくらいむかしに彼女はモスクワで生まれた。数学者エミー・ネーター(1882年-1935年)も、ドイツの女性数学者として知られている。ソフィアが12歳のとき、近所に住んでいた物理学の教授が、光学に関する本を彼女に与えたところ、当時まだ三角関数を知らなかった彼女は、なんと、自力でそれを解釈しようとした。

彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのとおなじ方法で、それについて説明をしてみせたというので、仰天した教授は、彼女を「パスカルの再来」とまで呼んだ。そして、家庭教師をつけて数学の研究をつづけさせるよう親を説得。そのあたりから、コワレフスカヤには「天才」という名がつけられるようになった。この記事を書いた藤原正彦氏も、さぞびっくりしたことだろうとおもう。

しかし女性が数学者としてまっとうに生きていくのは、とてもむずかしい時代だった。そういう時代にあっても、時代はコワレフスカヤを放っておかなかったという特別な理由がある。コワレフスカヤはとびきりの美人であったことが、彼女の運命を翻弄することになった。才色兼備とはそのことなのだろうか? とおもう。

多くの本にはそう書かれている。ご覧いただくように、彼女の肖像写真を見るかぎり、数学者とはおもえないほど凛とした気品あるたたずまいを見せている。世の男たちは、放っておくはずがない。

ところが、ドストエフスキーがやってきて、姉とつきあっているのを知り、うらやましいとおもうようになる。コワレフスカヤは、フョードル・ドストエフスキーと知り合って彼に淡い恋心を抱くようになった。彼の注意を引くために、ドストエフスキーが好きなベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」の練習までしたけれど、ドストエフスキーは、姉のアンナにしか関心をもたなかった。そのうちに、彼女はドストエフスキーにじかに接近する方法を見つけ出した。

それは、ドストエフスキーもみとめるような小説を書くことだった。女の子が単純にそんなことを夢想したからといって、だれにもとがめられるものではない。

そうと決めると、彼女はムキになるところがあった。数学の勉強をしていて、父親に褒めてくれた喜びを、きっとおもい出していたにちがいない。

「ソーニャなら、できる!」

それはしかし、たいへんな文学的才能をたのみとしなければ実現できないことだったが、コワレフスカヤはそれをやり遂げるのである。そのうちに、力作がどんどんつくられ、ドストエフスキーの目にも留まり、そして、自分の将来のことを案じた。自分はほんとうに作家になりたいのだろうか、それとも数学者を目指しているのだろうか、自問自答する日々を送る。

やはり、数学に一度魅せられたら、彼女はその夢を捨てることはできなかった。

あの「ノーベル賞」を創設したアルフレッド・ノーベル(1833年-1896年)、その彼でさえ、コワレフスカヤのトリコになったと伝えられている。トリコになったばかりか、すったもんだの愛憎の修羅場のすえに、彼女に見切りをつけている。くわしいことはわからないが、世間では、ノーベル賞に「数学」部門がないのは、コワレフスカヤへのあてつけ? とまでいわれるようになった。真偽のほどはわからない。

その当時、レフラーというノーベルのライバルがいて、ノーベルとの仲が悪かったことが原因なのだが、これはコワレフスカヤをめぐる争いだったのでは? と憶測する記事もあって、ほんとうのところはわからない。

コワレフスカヤは、18歳で結婚している。

ところが、夫コワレフスキーのもとを離れて、彼女が18歳を過ぎたころ、単身、ドイツのハイデルベルグ大学へ留学してしまうのである。そこで彼女は数学の研究に没頭することになる。――ちょっとおかしなことに、彼女は、コワレフスキーと結婚して、自分の姓をコワレフスカヤに変えたのはいいのだが、結婚したとたんに留学しているのだ。

のちに判明することだが、彼女の結婚は一種の偽装結婚だった。

ロシア社会の封鎖性が原因だった。

彼女にはのびのびとした自由な研究が必要だったからだ。当時の女性たちは、親の意見によって反対されたばあい、理解のある男性と結婚することによって、親の「親権」から脱することができたからだった、といわれる。――このことは、ぼくは知らなかった。ネットでしらべていく過程で知った。

さて、冒頭に紹介した「コーシー=コワレフスカヤの定理」は、24歳ごろの研究だった。一般には知られていないかもしれないけれども、この定理は、大学で物理学・数学を専攻するばあい、かならず履修科目として取り上げられ、基本的な「偏微分方程式」のテキストにはかならずこの定理が記載されているはずだ。

藤原正彦氏の「天才の栄光と挫折 数学者列伝」(新潮社、新潮選書、2002年)にも紹介され、藤原正彦氏自身の「NHK人間講座」のシリーズ番組でも取り上げられ、ぼくはそれを見て勉強していたことがある。

コワレフスカヤはがんばったが、学者としてのヨーロッパの大学教授の道は、依然として閉ざされたままだった。なにしろ、当時は女性が大学教授になることなど、前例がなかったからである。

時がたって、彼女はようやっとウェーデンのストックホルム大学の教授になることができた。ロシア人女性として、はじめて大学教授の職にありつくことができた。

くわしくは1884年秋、ミッタク=レフラーはスウェーデンの数学者で、コワレフスカヤとおなじくワイエルシュトラスの弟子で、関数論、楕円関数論、アーベル関数論など、当時ストックホルム大学の学長だった彼からの招聘で、ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得ることができ、のち1889年には、ロシア人女性としては初の大学教授になったのである。このストックホルムは、彼女の終生の地となった。

のちに、アーベル関数についての新しい理論を適用して書かれた論文「固定点をめぐる剛体の回転について」を完成させ、その論文が評価されて、彼女が38 歳のとき、フランスの最大の科学賞「ボルダン賞」を受賞するなど、目覚しい業績を残した。

ボルダン賞(Prix Bordin)というのは、アカデミー・フランセーズが1年おきに贈る賞で、1835年に創設された。アカデミー・フランセーズの各分野に贈られ、1866年には、エルテール・マスカール(物理学者)に、1888年にはソフィア・コワレフスカヤ(数学者)に贈られている。

ボルダン賞の賞金は、幸運なことに、当初予定されていた3000フランから5000フランに増額された。1889年には、この分野における第2の研究成果によって、スウェーデン科学アカデミー賞を受賞した。また同年、チェビシェフらの推挙によって、コワレフスカヤはサンクトペテルブルク科学アカデミー初の女性メンバーとなった。

しかし、帝政ロシアの息づまる閉鎖的な空気から抜け出し、数学者として第一線に立つ自分の業績がみとめられたのは、彼女の並々ならぬ不屈の闘志による結果かもしれない。

コワレフスカヤは、モスクワではなく、当時、事実上の首都だったペテルブルクに帰り、18歳で「形式的に」結婚していたといわれるコワレフスキーと、それからは、ほんとうの結婚生活に入り、子供まで生まれているのだ。

この衝動はいったい何なのだろうとおもう。

社交界の華として振舞った5~6年間は、数学からほとんど遠ざかっていた。何があったのか、コワレフスカヤは、何もかも忘れたようにロシアに帰った。彼女の先生であるワイエルシュトラスからの手紙を受け取っても、数学にカムバックする気はなくなっていたが、ふたたびワイエルシュトラスのすすめに応じて、祖国をあとにした。

コワレフスカヤが33歳ごろ、夫コワレフスキーが自殺してしまった。理由はわからない。そのショックで5日間ぐらい、彼女は意識不明に陥ったといわれている。

しかし、少しずつ立ち直り、社交界にも顔を出すようになる。コワレフスカヤの知性と、その優雅な振る舞い、社交慣れした物いいが、彼女とことばを交わす殿方の多くを磁力のように引き付けるのである。

36歳になったコワレフスカヤは、どんなに魅力的であったか、想像の域を出ないけれども、目の前の静止画の写真を見ながら、彼女を歩かせてみたいと想像するだけでも、社交界の華に見えてくるのは否定できない。

そこでこんどは、彼女はマクシムという男とめぐり会い、ふたりは恋人同士になる。

だんだん親しくなると、マキシムは彼女を独占したいとおもうようになり、

「自分と科学と、どっちを選ぶのか?」と詰め寄られる。

彼女には、もとより選択肢はなかった。修復できないまでにふたりの関係は、だんだんと泥沼化していく。

やがて彼女は、数学にも限界を感じ、文学にも興味を失い、たまにマキシムと旅行などして憂さを晴らす。そして1890年の秋、旅行から帰ったコワレフスカヤは風邪をこじらせ、化膿性肋膜炎という病気にかかり、苦しみのベッドの中で、翌年1891年に、41年の生涯をだれにも看取られず、ひとりひっそりと閉じた。

――ぼくは、もう少し若かったら、彼女の数学はわからないが、彼女の自伝的小説を読んでみたいとおもう。ヨーロッパのいろいろな言語に翻訳されているのに、日本版はなぜかない。

男たちをろめろにした若きの数学者、ワレフスカヤ

 

ロシアの数学者、コワレフスカヤ

 

 

若き美貌の数学者ソーニャ・コワレフスカヤの「コーシー=コワレフスカヤの定理」があることをおもい出した。これは驚くべき方程式である。ある条件を与えると、先の人生の解が計算できるというもの。この話を聞いたのは、藤原正彦教授からだったことをおもい出したのである。

この人の人生は、並外れて波乱に満ちている。作家としても、数学者としても歴史に名前を残しているのだ。

ドストエフスキーとつきあっていたのは彼女の姉だったが、ソーニャはドストエフスキーに認められたい一心で、小説を書いている。

これまでぼくは、ソーニャ・コワレフスカヤの記事をほとんど書いていなかったのはふしぎなくらいだ。――先日、そこまで書いてペンを擱いた。

 

数学者、藤原正彦氏

 

 

ぼくは彼女の定理を知っていながら、理解することをあきらめている。とてもむずかしいからだ。ただ、ソーニャ、――これは彼女の愛称で、ほんとうはソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ(Sofia Vasilyevna Kovalevskaya、1850年-1891年)といい、41歳で世を去っている。父親は貴族出身の軍人、母親は外国語に堪能な教養人で、――彼女が生まれた1850年という年は、黒船来航3年前のことである。

吉田松陰20歳、

高杉晋作11歳、

伊藤博文9歳という時代だ。

嘉永6年(1853年)には、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻をふくむ艦船4隻が、日本に来航し、大きな歴史的な出来事になっている。

それくらいむかしに彼女はモスクワで生まれた。数学者エミー・ネーター(1882年-1935年)も、ドイツの女性数学者として知られている。ソフィアが12歳のとき、近所に住んでいた物理学の教授が、光学に関する本を彼女に与えたところ、当時まだ三角関数を知らなかった彼女は、なんと、自力でそれを解釈しようとした。

彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのとおなじ方法で、それについて説明をしてみせたというので、仰天した教授は、彼女を「パスカルの再来」とまで呼んだ。そして、家庭教師をつけて数学の研究をつづけさせるよう親を説得。そのあたりから、コワレフスカヤには「天才」という名がつけられるようになった。この記事を書いた藤原正彦氏も、さぞびっくりしたことだろうとおもう。

しかし女性が数学者としてまっとうに生きていくのは、とてもむずかしい時代だった。そういう時代にあっても、時代はコワレフスカヤを放っておかなかったという特別な理由がある。コワレフスカヤはとびきりの美人であったことが、彼女の運命を翻弄することになった。才色兼備とはそのことなのだろうか? とおもう。

多くの本にはそう書かれている。ご覧いただくように、彼女の肖像写真を見るかぎり、数学者とはおもえないほど凛とした気品あるたたずまいを見せている。世の男たちは、放っておくはずがない。

ところが、ドストエフスキーがやってきて、姉とつきあっているのを知り、うらやましいとおもうようになる。コワレフスカヤは、フョードル・ドストエフスキーと知り合って彼に淡い恋心を抱くようになった。彼の注意を引くために、ドストエフスキーが好きなベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」の練習までしたけれど、ドストエフスキーは、姉のアンナにしか関心をもたなかった。そのうちに、彼女はドストエフスキーにじかに接近する方法を見つけ出した。それは、ドストエフスキーもみとめるような小説を書くことだった。女の子が単純にそんなことを夢想したからといって、だれにもとがめられるものではない。

そうと決めると、彼女はムキになるところがあった。数学の勉強をしていて、父親に褒めてくれた喜びを、きっとおもい出していたにちがいない。

「ソーニャなら、できる!」

それはしかし、たいへんな文学的才能をたのみとしなければ実現できないことだったが、コワレフスカヤはそれをやり遂げるのである。そのうちに、力作がどんどんつくられ、ドストエフスキーの目にも留まり、そして、自分の将来のことを案じた。自分はほんとうに作家になりたいのだろうか、それとも数学者を目指しているのだろうか、自問自答する日々を送る。やはり、数学に一度魅せられたら、彼女はその夢を捨てることはできなかった。

あの「ノーベル賞」を創設したアルフレッド・ノーベル(1833年-1896年)、その彼でさえ、コワレフスカヤのトリコになったと伝えられている。トリコになったばかりか、すったもんだの愛憎の修羅場のすえに、彼女に見切りをつけている。くわしいことはわからないが、世間では、ノーベル賞に「数学」部門がないのは、コワレフスカヤへのあてつけ? とまでいわれるようになった。真偽のほどはわからない。

その当時、レフラーというノーベルのライバルがいて、ノーベルとの仲が悪かったことが原因なのだが、これはコワレフスカヤをめぐる争いだったのでは? と憶測する記事もあって、ほんとうのところはわからない。

コワレフスカヤは、18歳で結婚している。

ところが、夫コワレフスキーのもとを離れて、彼女が18歳を過ぎたころ、単身、ドイツのハイデルベルグ大学へ留学してしまうのである。そこで彼女は数学の研究に没頭することになる。――ちょっとおかしなことに、彼女は、コワレフスキーと結婚して、自分の姓をコワレフスカヤに変えたのはいいのだが、結婚したとたんに留学しているのだ。

のちに判明することだが、彼女の結婚は一種の偽装結婚だった。

ロシア社会の封鎖性が原因だった。

彼女にはのびのびとした自由な研究が必要だったからだ。当時の女性たちは、親の意見によって反対されたばあい、理解のある男性と結婚することによって、親の「親権」から脱することができたからだった、といわれる。――このことは、ぼくは知らなかった。ネットでしらべていく過程で知った。

さて、冒頭に紹介した「コーシー=コワレフスカヤの定理」は、24歳ごろの研究だった。一般には知られていないかもしれないけれども、この定理は、大学で物理学・数学を専攻するばあい、かならず履修科目として取り上げられ、基本的な「偏微分方程式」のテキストにはかならずこの定理が記載されているはずだ。

藤原正彦氏の「天才の栄光と挫折 数学者列伝」(新潮社、新潮選書、2002年)にも紹介され、藤原正彦氏自身の「NHK人間講座」のシリーズ番組でも取り上げられ、ぼくはそれを見て勉強していたことがある。

コワレフスカヤはがんばったが、学者としてのヨーロッパの大学教授の道は、依然として閉ざされたままだった。なにしろ、当時は女性が大学教授になることなど、前例がなかったからである。

時がたって、彼女はようやっとウェーデンのストックホルム大学の教授になることができた。ロシア人女性として、はじめて大学教授の職にありつくことができた。

くわしくは1884年秋、ミッタク=レフラーはスウェーデンの数学者で、コワレフスカヤとおなじくワイエルシュトラスの弟子で、関数論、楕円関数論、アーベル関数論など、当時ストックホルム大学の学長だった彼からの招聘で、ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得ることができ、のち1889年には、ロシア人女性としては初の大学教授になったのである。このストックホルムは、彼女の終生の地となった。

のちに、アーベル関数についての新しい理論を適用して書かれた論文「固定点をめぐる剛体の回転について」を完成させ、その論文が評価されて、彼女が38 歳のとき、フランスの最大の科学賞「ボルダン賞」を受賞するなど、目覚しい業績を残した。

ボルダン賞(Prix Bordin)というのは、アカデミー・フランセーズが1年おきに贈る賞で、1835年に創設された。アカデミー・フランセーズの各分野に贈られ、1866年には、エルテール・マスカール(物理学者)に、1888年にはソフィア・コワレフスカヤ(数学者)に贈られている。

ボルダン賞の賞金は、幸運なことに、当初予定されていた3000フランから5000フランに増額された。1889年には、この分野における第2の研究成果によって、スウェーデン科学アカデミー賞を受賞した。また同年、チェビシェフらの推挙によって、コワレフスカヤはサンクトペテルブルク科学アカデミー初の女性メンバーとなった。

しかし、帝政ロシアの息づまる閉鎖的な空気から抜け出し、数学者として第一線に立つ自分の業績がみとめられたのは、彼女の並々ならぬ不屈の闘志による結果かもしれない。

コワレフスカヤは、モスクワではなく、当時、事実上の首都だったペテルブルクに帰り、18歳で「形式的に」結婚していたといわれるコワレフスキーと、それからは、ほんとうの結婚生活に入り、子供まで生まれているのだ。

この衝動はいったい何なのだろうとおもう。

社交界の華として振舞った5~6年間は、数学からほとんど遠ざかっていた。何があったのか、コワレフスカヤは、何もかも忘れたようにロシアに帰った。彼女の先生であるワイエルシュトラスからの手紙を受け取っても、数学にカムバックする気はなくなっていたが、ふたたびワイエルシュトラスのすすめに応じて、祖国をあとにした。

コワレフスカヤが33歳ごろ、夫コワレフスキーが自殺してしまった。理由はわからない。そのショックで5日間ぐらい、彼女は意識不明に陥ったといわれている。

しかし、少しずつ立ち直り、社交界にも顔を出すようになる。コワレフスカヤの知性と、その優雅な振る舞い、社交慣れした物いいが、彼女とことばを交わす殿方の多くを磁力のように引き付けるのである。

36歳になったコワレフスカヤは、どんなに魅力的であったか、想像の域を出ないけれども、目の前の静止画の写真を見ながら、彼女を歩かせてみたいと想像するだけでも、社交界の華に見えてくるのは否定できない。

そこでこんどは、彼女はマクシムという男とめぐり会い、ふたりは恋人同士になる。

だんだん親しくなると、マキシムは彼女を独占したいとおもうようになり、

「自分と科学と、どっちを選ぶのか?」と詰め寄られる。

彼女には、もとより選択肢はなかった。修復できないまでにふたりの関係は、だんだんと泥沼化していく。

やがて彼女は、数学にも限界を感じ、文学にも興味を失い、たまにマキシムと旅行などして憂さを晴らす。そして1890年の秋、旅行から帰ったコワレフスカヤは風邪をこじらせ、化膿性肋膜炎という病気にかかり、苦しみのベッドの中で、翌年1891年に、41年の生涯をだれにも看取られず、ひとりひっそりと閉じた。

――ぼくは、もう少し若かったら、彼女の数学はわからないが、彼女の自伝的小説を読んでみたいとおもう。ヨーロッパのいろいろな言語に翻訳されているのに、日本版はなぜかない。

ドクター・ョンソン

 

 

フォースター「老年について」(みすず書房、2002年)
 

 

今朝はやく目覚めて散歩をした。――さいきんは気温がぐっとさがり、北海道なみに冷え込んだ。ひさしぶりに冬温度に接し、綾瀬川のずっと向こうの、家並みを越えたあたりで、白い煙が立ちのぼっていてるのが見えた。

何かもやしているのだろうか。

コンビニエンスストアから、おばさんがひとり駆け出してきた。

そして、お札を数えている。だれもいない信号が青になると、彼女は瀬崎町のほうに走っていった。

きょうは雨が降るという予報だった。この寒さなら、山間部は雪になってもふしぎじゃないとおもいながら、おばさんみたいに駆け出したくなる。

 

ジョンソン辞典

 

 

マーシュー・アーノルドが「南国の夜」を書いたのは、いつのことだろう。

それを教えてくれたのはE・M・フォースターの「老年について」と題された本だった。彼のエッセーははじめて読む。

フォースターは1879年に生まれ、1970年に亡くなったイギリスの作家である。評論家でもある。

「眺めのいい部屋」、「ハワーズ・エンド」、「インドへの道」がよく知られている。

フォースターの作品は、いちどは忘れられそうになった時期もあったようだが、その後、続々と映画化されて、2000年以降、フォースターの懸念がますます現実味をおびてきて、この世には、ぜったいに正しいなんていえる情緒的、政治的主張はないのだと、考えを固執することの危険性をうったえたことがよくわかった。

日常茶飯事に起こる人の死について、みんな世間ではなれっこになっていて、これじゃよくない、「私は、自分の死に脅える権利も、自分が愛した人はおろか、知らない相手のばあいでも、その死を悲しむ権利を放棄するつもりはない。人の死を悲しむのを気取って拒否したり、墓地からさっさと仕事に帰ってしまったのでは情けない。それも、まず墓地へ行かなければだめだが。――19世紀が死を大げさにあつかいすぎたとすれば、今世紀は逆に、そっけなさすぎるのではないだろうか」

などと書いている。

では、正しい悲しみ方をした人はいるのだろうか?

「ギリシア人がそうだった。ギリシア人は泣き、立ちなおり、追走した」と書かれている。

老年と、年をとることとはどう違うのだろうか? 

究極の選択として、死を間近に見据えたオルガン弾きの悲哀を、おのが身に上におきかえて、たのしい歌でもつくろうか? それとも、老人らしく、青年のまえではおとなしく、子どもたちのまえではより従順に、歯も生えない孫たちのまえでは、孫の世代になったつもりで、カラカラ、バーをやろうか?

彼の輝かしい人生は無冠だが、友人の勲章と金モールで覆われたお尻を見て、うらやましいとも思わず、軽蔑もしないで、おとなしく眺めていたことだろう。

ぼくはある老人を見知っている。

彼は80代だとおもうけれど、むかし宮大工の頭領をしていて、その年輪がそうさせるのだろうか、いまも毅然としたところがある。年はとっているのだが、何事もへつらわず、けっしておごらず、サミュエル・ジョンソンのように、自分のおもうことをずばりいう。

その「ずばり」が身に染みる。

ある人はこんなことをいった。

「イギリス人の悪口をいいたいときは、ジョンソン・ブルといい、賞賛したいときはサミュエル・ジョンソンという」これは、ジョンブル精神を引っ掛けたことばだ。自分のおかれた地位を肯定して、自分の「分」を知る方法というのがあるそうだ。ある平等主義者とジョンソンと会食をした席上での話。

「平等」についてそんなにいうなら、「あなたの召使にも、このテーブルに同席していただいたらいかがですか?」とジョンソンはいった。

「平等主義者のいう平等というやつは、上の者を、自分のレベルまでに引き下げようとおもっているだけで、下の者を自分のレベルに引きあげようなんて、まっぴらなのだ」

またこうもいっている。

「貧乏も骨身にこたえるほど味わったが、男らしくたえてきた。しかもそれを偽善的に取りつきくろうようなことがない。《貧乏こそ幸福の大敵だ》(Poverty is a great enemy to human happiness)」とジョンソンはいっている。

ジョンソンの弟子、ボズウェルがたずねた。

「子どもの教育には、何をいちばん先に教えるといいとおもいますか?」と。ジョンソンはそれに答えてこういった。

「きみ、何を最初に教えるかって? 問題にならんね。どっちの足からズボンをはいたらいいかを尋ねるのと、まるでおんなじじゃないか。どっちから履こうが、議論しようが、そのあいだは、ずっと尻は出ているんだよ。きみの子どもに、2つのうちどっちを先に教えようかと考えているあいだにも、子どもらは、両方ともおぼえてしまうだろうよ。(Sir, it is no matter what you teach them first, any more than what leg you shall put into your breeches first. Sir, you may stand disputing which is best to put in first, but in the mean time your breech is bare. Sir, while you are considering which of twe things you should teach your child first, another boy has learnt them both.)」

ぼくは、このくだりを読んで、ルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」、「鏡の国のアリス」をおもい出した。ことば遊びの仕掛けが文中にふんだんに出てくる。アリスが、王さまにこんなことを尋ねている。

「王さま、どこからはじめましょうか? (Where shall I begin, please your Majesty?)」

尋ねられた王さまは、

「はじめから、はじめなさい(Begin at the beginning)」そして、

「ずっと話をつづけなさい。それで終わりがきたら、そこで終わりなさい(And go on till you come to the end: then stop.)」

「先生は、本屋にたのまれれば、どんなヘボ詩人の評伝でもお書きになるのですか?」と弟子がジョンソンに尋ねた。

「そうだよ、そして彼は、ヘボだったというよ」

(Boswell: Will youdo this to any dunce's work, if they should ask you ?

Johnson: Yes, Sir, and say he was a dunce.)

ジョンソン「あした、町へは出かけないよ。ポープのことは知りたくもない」

スレイル夫人「あなたがポープの伝記をお書きになるっていうので、ポープのことを知りたいとおもっておられるだろうと、ボズウェルさんがお考えになったでしょうに」

ジョンソン「知りたいだろうって? そりゃあそうですよ。もし話が雨のように天から降ってくるならね、手を出しますよ。だが、わざわざ出かけていく気にはなりませんな」

(Wish! why yes. If it rained knowledge I'd hold out my hand; but I would not give myself the trouble to go in quest of iy.)

ジョンソンは25歳で、43歳のテーラーの未亡人と結婚した。45歳で妻に死なれてから生涯独身でとおした。

いっぽうミルトンは、家庭にあっては暴君で、娘にも満足な教育をさずけなかったが、自分では共和主義を押し通し、自由奔放さを追いもとめ、3度も結婚している。それを皮肉られるので、彼は「離婚の理論と理法」という、えらくしかつめらしい本を書いて、妻にそれとなく詫びを入れている。だが女は、男に服従するために生まれたことをずっと考えつづけていたのだ。

そういう彼を、ジョンソンは、

「彼は3度結婚したが、相手はいつも処女を求めた。」

「2度目の夫になるのは卑猥、下品なことだと考えた。」

(He thought it gross and indelicate to be a second husband.)

(Doctrine and Discipline of Divorce)」からだったと「詩人伝」には書いている。ミルトンといえば「失楽園」は有名だが、ぼくは途中で本を閉じた。それはジョンソンもいっている。

「彼の詩はホーマーに次ぐ大傑作だというので、こちらもじゅうぶん気を入れて読んではみた。あらゆる角度から落ちのないように批評した。しかしどうにも肩がこる作品だ。読みおえれば、ほっとして二度と取り上げようとはおもわない。」――そういっている。

ジョンソンは書いている。

「彼(ミルトン)は、生来自分だけで考える人間で、自分の能力を信じ、助力や妨害をきらった。先輩の考えや形象を受け入れることを拒まないが、あえて求めることはしなかった。同時代からの支持を乞うことも、受けることもしなかった。彼の書きもののなかには、他の作家の誇りを満足させたり、愛顧を求めたりするようなものはなかった。たがいに賞賛し合ったり、支持を求めることもなかった。彼の偉大な作品は、悲遇にして盲目となって書かれたものであり、その難関も彼の手がふさがれれば消滅した。彼は、なにごとも困難なものに立ち向かうために生まれたようなもので、作品が英雄詩として最高のものでないというのは、ただ、それが最初のものでなかったからいうだけの理由である。(and his work is not the greatest of heroic poems, only because it is not the first.)」

ジョンソンおよび多くの人びとは、「偉大にして最初の詩人」としてホーマーをおもい浮かべるからだろう。

後年の詩人シェリーは、こういっている。――「真の愛は、金や土とはちがう、分けても、奪うことにはならないところが。」といっている。しかし多くの人は、「ホーマーのように」と胸のなかでひっそりとつぶやいているのだ。

「ように」、「ように」、「ように」と――。ものの類似の底にあるものは、いったい何だろう? 「甲虫のような姿の男たちが、ヴァイオリンを手にやってきて、待ちかまえ、かぞえ、うなずき、弓を下ろす。すると、さざめきと笑いが沸き起こる、オリーブの木々がゆれ動いたように、……」

そこがおもしろいとおもう。

たんなる類似ではなくなるからだ。ほんとうは「木々がゆれ動いたように」ではなく、読者は別のなにかだをおもい浮かべるだろう。いまの自分にもっともふさわしい何かを。――壮年のころの自分には感じなかったものが、いま、感じられる。

数学 宙は楽に満ちている!

 

ぼくは風呂のなかで考えていたこの宇宙のナゾめいた物語。それをいま想像し、

「ガロアってすごいやつだな!」とおもった。

ぼくはガロアの提唱したというか、つぶやいた数々の不可解な内容、――彼の「方程式のべき根による解法の条件について」とか、その他について考えていたら、ある奇妙な事柄にぶつかった。

そう、たとえば「方程式の代数的解法についての概要」とか、「数値的方程式の解法についての覚書き」とか、「数の理論について」などなど、数々の論文や、そして円分多項式とか楕円函数にかんするモジュラー方程式なども証明なしで、ちゃんとのべられているさまざまな内容について考えていたら、目のまえにある、これまでおしゃべりしたフェルマーの方程式が解を持たないという話をおもい出した。

しかしそれよりも、「リーマン予想」のほうが数学の未来にとって、はるかに有益であるに違いないとおもい直した。まさに、ボンビエリが15歳のときに発見した驚きとともに、数学にとってもっとも基本的な素数への理解が先だろうと考えた。

素数は「代数の原子だ!」といったのはマーカス・デュ・ソートイだが、まさに素数は「数の原子」である。それは、宇宙にちりばめられた、きらきらする宝石のようなものかもしれない。素数が奏でる音楽を聴こうじゃないか、そういったのもマーカス・デュ・ソートイである(「素数の音楽」)。

「素数の音楽だって?」

「調和をもったメロディーだって?」

それは人間には創造することのできない完全な調和をもったメロディーが隠されているというのである。

だから彼はじぶんの著書に「素数の音楽(The Music of the Primes)」(冨永星訳、新潮社クレストブックス、2005年)というタイトルをつけたのだ。単純に考えると、素数は数学者の研究のなかでもっともわくわくする謎めいた存在なのだという。

むかしカール・セーガンが小説「コンタクト」のなかで、エイリアンが、素数を使って地球上の生命体との接触をはかろうとする話を描いた。これはSFだが、はるか遠い宇宙のかなたからエイリアンが素数を使って送ってくる電波「ドラムビート」、それはいったい何なのか? それはなんと、素数だったという話が描かれている。

しかし数学者たちはこんなふうには考えない。

ただ、何100年にわたって、雑音のなかから、なんとか秩序ある音を聞き分けようとしてきた。しかし、それでもわからない。

だが、19世紀のなかばごろになると、ベルンハルト・リーマンが素数の問題をまったく違ったやり方で考えはじめた。混沌とした素数の海のなかにある、ある種のパターンを探すことだった。いままで雑音にしか聴こえてこなかった音の薄皮を一枚を剥がすと、その下には、意表をつくような繊細なハーモニーがあらわれたというのだ。これがのちに、「リーマン予想」と呼ばれる予想なのである。以来、「リーマンて、すごいやつだ!」とおもわれるようになった。

「リーマン予想」がもしも解明されたら、どういうことが起きるか?

まだ現役の数学者にとって、素数は数学の基本中の基本であり、その数の性質を理解することができれば、研究にも大きな、甚大な影響をもたらす。

まず現行の100桁のクレジットカードの暗証番号が使えなくなる。それはすべて素数で成り立っているからだ。「リーマン予想」が解明されたら、たとえ100桁の素数であっても、すぐに探し出せる。航空機製造・運行やエレクトロニクス技術の発展に大きな影響が出てくるという人もいる。

そうすると、すべての素数暗号は、もう使えなくなるということなのか?

――そんなことはどうでもいい。宇宙は音楽で満ちているということのほうが、ずっと大きな驚きで、ずっと魅力的だ。

数学と音楽の基本的な関係を発見したのは、あのピュタゴラスなのだ。水を入れた壺を小槌でたたくと音が出る。その水を半分減らしてたたくと、音は1オクターブあがる。さらに水を3分の1にすると、最初の音と調和することを発見した。で、ピュタゴラスは「宇宙全体が音楽で総()べている」と考えた。

オイラーは疲れたとき、音楽で気分を切り替えた。

ライプニッツは「音楽は、人間の頭脳が、知らず知らずに数えることによって経験する喜びである」といった。

G・H・ハーディではないけれど、彼は応用数学には目も向けず、創造性あふれる純粋数学の芸術性をひたすらに追い求めた。それは「数学が美しいから」だった。その美しさは、数学の美しさと似ている。そこには「ハーモニーがある」とデュ・ソートイはいっている。

2000年もむかしの数学者たちが追い求めた美しい数学、それを、今風の視点でながめて呈示したのがゼータ関数である。これによって古代ギリシア人が想像もしなかった新しい数学の地平が見えてきたのである。オイラーは、素数が無限にあるからこそ、関数の値が無限のかなたに飛び去るのだということに気づいた。ゼータ関数と素数をむすびつけたオイラー積表示、――関数の値が無限に飛び去ることから、素数は無限に存在することを示す、――素数が無限にあることは何100年もまえのギリシア人たちも知っていたが、オイラーのこの「オイラー積」には新しい概念が組み込まれていた。

しかしリーマンの時代になって、そこには別の風景があらわれた。

これまで見たこともない風景だった。

複素関数が描いた風景の一部をこじ開けると、その先には素数の世界が広がっていたのである。ゼータ関数を使えば、ガウスの「素数定理」を解く鍵が、まさに見えてきそうだった。

このリーマンの発見は、素数の秘密を解き明かす音楽のように見えたかもしれない。そこに虚数を混ぜたのだった。1859年、33歳のときだった。この発見をリーマンはベルリン・アカデミーに論文を書いて発表した。これがのちに「リーマン予想」と呼ばれる世紀の大発見の足場になった。

■物理学。――

爆の父」と呼ばれたッペンハイマー

 オッペンハイマー

 

ぼくは、科学と文学は表裏一体だ、と人には応えている。その話をしてみたい。

ぼくは科学のことを考えるとき、ガリレオ・ガリレイの「右手の中指」のことをおもい出す。じっさいに見たことはないけれど、指を入れた台座に書かれていることばをおもい出す。

「この指の遺物を軽んじてはならない。この右手が天空の軌道をしらべ、それまで見えなかった天体を人びとに明らかにした。……」云々と記されている。

その指は、1737年3月12日、ガリレオの亡骸がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会の本堂へ移されたときに、遺体から切り取られたものである。なぜいま、ガリレオの指なのだろうか、とおもう。

真の科学者が、その重い腰をあげて権威と手をむすび、いやいや世界の本質をつかもうとしたそれまでの手法に疑問をもち、おぼつかない足取りで、こつこつと独自のあゆみを見せたその転機を示すものとして、ガリレオ・ガリレイの「中指」のことを忘れてはならないからだ。――と書かれている。

さて、きょうはガリレオの話ではなく、先日、ある人との会話のなかに出てきたオッペンハイマーという米国の物理学者の話をしてみたいとおもう。いまだからこそ、オッペンハイマーをまっとうに評価することができるとおもうからだ。

湯川秀樹の中間子理論は、オッペンハイマーの実験によって、その理論が正しいことが証明されたわけだけれど、そのときオッペンハイマーは、米国における物理学界の第一人者としての威厳をまだ保っていた。

保ってはいたのだが、原爆開発の責任者として、オッペンハイマーは「日本人に深くお詫びし、死をもって償いたい」という気持ちにかられていた。

それは、人類滅亡の危機をいちはやく察知していたからだった。

みずから成し遂げた原子力爆弾の成功がもたらす恐るべき大量殺戮兵器に加担してしまった自責の念でいっぱいになり、オッペンハイマーは科学者として、自分は何をやってしまったのかと、深く反省していた。

そして彼は、政治に無関心ではいられなくなったのである。

 

その後、彼は原水爆禁止運動をやり、政治的意見を明確にした。そのため、オッペンハイマーは、米国のすべての公的機関から除名処分を受け、赤狩り旋風とあいまって、物理学界からも追われた。

ぼくは先日、ジェレミー・バーンスタイン(Jeremy Bernstein)という物理学者の書いたエッセイ「ただ優秀なだけの人びと(The Merely Very Good)」という文章を読んでいる。そこに、おなじ物理学者だったオッペンハイマーのインタビュー記事が出てくる。

オッペンハイマーは詩人でもあったと書かれ、当のジェレミー・バーンスタイン(Jeremy Bernstein 1929年生まれ)自身も科学者なのだが、「ニューヨーカー」誌のスタッフ・ライターをつとめ、さいきんは「すべてに当てはまる理論(A Theory for Everythig)」ほか、物理学の本をいろいろ出していることがわかった。その彼のエッセーを、ぼくははじめて読んだ。

まず、その話からすすめたい。ロバート・オッペンハイマーは詩人でもあったというので、ぼくには格別の興味をもったのである。

オッペンハイマーは、1925年ハーバード大学に入学し、それから3年後には最優秀の成績で卒業し、しばらくイギリスで過ごしたのち、ドイツのゲッティンゲン大学で博士号を取得した。――それはいいのだが、イギリスではみずからの性的欠陥について事こまかく友人と語り合い、自分は同性愛者であることに悩んでいると訴えた。そのときの話がもつれて、ファーガソンという仲間の首を締め、問題を起こしてしまった。

ゲッティンゲン大学では、理論物理学者のマックス・ボルンに師事した。彼はわずか23歳で博士号を取得している。そのボルンによれば、

「彼はすばらしい才能の持ち主で、本人もそれをじゅうぶん自覚しているのだが、その自覚の表現が、これまたじつに厄介なもので、よく問題をおこした。わたしの量子力学セミナーで、オッペンハイマーは、たびたび発言者の意見をさえぎって、だれかれかまわず、自分の考えを主張した。わたしの話までも、よくさえぎって途中で自分の意見をいう始末だった。そしてあるときは、黒板にむかうと、チョークを持って、こういうのだ。《これはこうやったほうがずっといい!》と。いつしか、彼の振る舞いが目にあまるようになり、セミナーの学生たちは、彼の態度をあらためさせるよう嘆願書を出したりした」と。

そのころ、――つまり1926年ごろ、――量子力学は、エルヴィン・シュレーディンガーと、ボルンの弟子だったヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・A・M・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac, 1902 年-1984 年、イギリスの物理学者)によって生み出されていた。

そして翌年の1927年、ディラックが客員教授としてゲッティンゲン大学をおとずれ、たまたまオッペンハイマーが間借りしていた医師の家に下宿した。

ラディックは25歳、

オッペンハイマーは23歳。ふたりは友人になった。

「量子論の育ての親」と称されるデンマークの理論物理学者ニールス・ボーア(Niels Bohr) のにはおよばないものの、ラディックはそのころ、早くも偉大な物理学者だった。彼はひじょうに寡黙な青年だったが、たまに口をひらくと、異様なほど物事を的確にしゃべった。それがおうおうにして相手を打ちのめしてしまった。

これにはオッペンハイマーも、かなりの影響を受け、彼がボルンのセミナーをさえぎって、量子力学の計算では、自分のほうが上だと宣言していたころ、わずか自分より2歳年上のラディックは、その学問を生み出していたことにオッペンハイマーはおどろき、尊敬の眼差しをむけるようになった。

ある日、ふたりがゲッティンゲン大学の庭を散策していたとき、オッペンハイマーの詩作の話になった。

彼はすでに「ハウンド・アンド・ホーン」という雑誌に詩を発表しており、その話をしていた。そこでとつぜんラディックは、彼の話をついで、こういった。

「――きみは、よく詩を書いていて、物理学のほうも、よくできるものだね。物理というのは、未知の事象を解明し、人びとに理解させるものだ。いっぽう詩は、……」といいかけると、オッペンハイマーがそれを制して、何かいった。

何をいったのか、それはわからないが、その話のつづきを聴講生にあてさせるということをおもいついたらしい。このエピソードを書いたジェレミー・バーンスタインもまた、物理学者であって作家でもあった。

彼はおかしなことに、物理学の研究に没頭する学者の世界を嫌い、やがて作家になりたいという熱望が勝って、広告代理店での高収入の仕事に見切りをつけ、妻には一年分の猶予をもらい、貯金で暮らしながらひたすら本を書いた。そして、オッペンハイマーが詩を書いていることに興味を示すようになったのである。

いまではバーンスタインの名は、物理学者としてよりも、作家としての名声がずっと大きいだろう。

その彼がいっているように、「スペンダーにとってのW・H・オーデンは、オッペンハイマーにとってのディラックのような存在だったにちがいない」というのだ。偉大であることと、「ただ優秀なだけ」のちがいを、つねにおもい出させるエピソードとして、ぼくはおもしろいとおもう。

オッペンハイマーも、スペンダーも同様に、「焦点の定まらない」ところが魅力である。

オッペンハイマーは、あるときはユダヤ人、あるときはホモセクシュアル、あるときは共産党員、あるときはイギリス体制派の重鎮として振る舞った。

そして、きわめてエキセントリックなW・H・オーデンとラディックだが、ともにふたりは孤高の道を選んだ。歴史の歯車は、より孤高なオッペンハイマーの稀有な才能を見込んで、原爆製造という、ニューメキシコ州ロスアラモス研修所の所長のポストを与えられ、いまわしい仕事に手を染めることになったのである。彼は孤高の最たるものだった。

そのころのスペンダーの日記には、オッペンハイマーのことが縷々(るる)つづられているという。

「オッペンハイマーは美しい屋敷に住んでおり、中はすべて白く塗られていた。……彼はすばらしい絵画を所有している。わたしたちが家に入ると、彼はこういった。《さあ、ゴッホを見る時間だ!》といって、リビングルームに招き、そこにはみごとなゴッホの絵がかかっていた。ほぼ完全に夕闇につつまれた太陽が、畑の上に描かれている絵だった」という。

そして、

「オッペンハイマーは、これまで出会った人のなかでも一、二をあらそう際立った容貌をしている。頭の形は幼くて聡明そうな少年にようで、後頭部が突き出ていて、わざと長く形を変えた頭蓋骨をおもい出させるものだった。頭の骨は、たまごの殻のように壊れやすそうに見え、それを、かぼそい首が支えている。表情は晴れやかであると同時に、苦行僧のようでもある」

そのオッペンハイマーが国家への忠誠心を問われて、裁判にかけられ、国家機密関与資格を剥奪されていながら、それについてのコメントは一切なく、オッペンハイマーの告発者のひとりが、妻キャサリン・ペニング・オッペンハイマーのかつての夫はジョセフ・ダレットだったというのである。おそらく嫉妬だろう。

ダレットは共産党員で、1937年、スペイン内乱で共和国政府軍の側について戦い、やがてそこで戦死を遂げている。

いっぽうスペンダーは、1937年ごろにはイギリス共産党員であり、スペイン内乱にも参加している。オッペンハイマーは、それらの事実を知っていたかどうかは、わからない。

ある日、プリンストン高等研究所に、ラディックがやってきた。

当時、彼は50代半ばだった。

ラディックは物理学界では特異な地位を占めていた。アインシュタインとはちがって、相変わらず物理学の動向に事こまかく通じていて、さまざまな見解をのべている。彼はアインシュタインと同様に学派をつくらず、ひとりの弟子も持たなかった。

「物理学における真にすぐれたアイデアは、ひとりの人間の頭脳にやどる」といっていた。

そのころ、高等研究所では、週に一度のわりで、セミナーがひらかれていた。主催者はオッペンハイマーだった。

ある日、40人ぐらいの小さな部屋で、講義をしていると、途中からディラックが入ってきた。そのときの人間で、ディラック本人をじっさいに見た者は、オッペンハイマーをのぞいてひとりもいなかった。実物は、このエピソードを書くジェレミー・バーンスタインの度肝を抜いた。実物のほうが、ずっとすごい! とおもわせたからだった。

上から下まで青ずくめの服、――ズボンもシャツもネクタイも。――たしかセーターもだ。泥だらけのゴム長靴。そんないでたちだったらしい。斧を手に、研究所の森に入り、長時間かけて小道をつくっていたらしい。しばらくおとなしく席についていたが、しばらくして、ラディックはこういった。

「世間では、これを物理学というのかね?」と。

講義をしていたオッペンハイマーは、どうおもったか、それはわからない。ぼくは、このくだりを読んで、ふたたび「ガリレオの指」のことをおもい出した。ラディックの恐るべき才覚は、聴講者全員を釘付けにさせたという。

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904 年-1967年)は、ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第2世界大戦当時、ロスアラモス国立研究所の所長として「マンハッタン計画」を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトのリーダー的役割を果たし、「原爆の父」として知られるようになった。

オッペンハイマーは、「我は死神なり、世界の破壊者なり」といった。

原子爆弾が人にたいして使われ、数10万の日本人が亡くなったことに、猛烈なショックを受けたのは、オッペンハイマーだけではなかった。「マンハッタン計画」に関わった科学者たちは、戦後、ノイローゼになり、自分の輝かしい業績を封印した。

オッペンハイマーは、その贖罪の意識にとりつかれ、「日本人に深くお詫びし、死をもって償いたい」と自死を遂げたと報道された。自死はしなかったが、オッペンハイマーは戦後、反戦運動に転じた。国家に反逆したカドで、危険人物としてFBIの監視下に置かれ、私生活も、つねにFBIの監視下におかれるなどして、生涯にわたって抑圧されつづけた。

咽頭がんの診断のもと、手術を受けたのち、放射線療法と化学療法をつづけたがその効果はなく、1967年、昏睡に陥ったオッペンハイマーは、ニュージャージー州プリンストンの自宅で、62年の生涯を閉じた。

馬にょうべん引っけられた日

(改定)

ぼくの話を聴いてくれたひと

 

 

だれもいない美術館のホールで。ピアノの向こうにいるのはヨーコ

 

ぼくは、大きくなってから親の膝下を離れるのが苦もなくできた。たぶん母親の血を引いているのだろう。津軽海峡を渡って東京に出てこようというのが、そうだった。大胆な行動に出ることも、ほんとうは熟慮のすえに決断するはずだけれど、お父さんの場合は、それがしばしば違った。

これは、母親の気質をつよく受け継いでいる証拠だ。父親の血をすこしでも引いていたら、ちゃんとした橋もおそらく渡ろうとしなかったかもしれない。

これは、理詰めで理解できる性質のものじゃない。

女というのも、理詰めでわかり合える性質のものじゃないと、だれかが書いていた。

「女はどこまでもただの女、だがいい葉巻は、煙になる(A woman is only a woman, but a good cigar is a smoke.)」といったのは、イギリスのラドヤード・キプリングだが、これはただしむずかしいことばだ。

キプリングはインドで生まれ、何事もヒンディー語で考えた人というから、おなじ東洋人とはいえ、なかなかむずかしいことだ。が、彼には忘れがたい、風変わりな詩がある。

 

 皮がめくれるまでお前を殴ったこともあった

 しかし、お前を造った神にかけていおう

 お前のほうが、おれよりはるかに優れた人間だよ、ガンガ・ディン!

 Though I’ve belted you an’ flayed you

 By the living Gawd that made you

 You’re a better man than I am, Gunga Din! 

 

「ガンガ・ディン」というのはインド人の名前。ガンガ・ディンと別れるときに感謝のことばとして、このような詩を贈っているんだよ。これは「兵営譚歌」と題された彼の詩集に出てくる詩の一節。

その彼が、「女という種族は、男よりはるかに度しがたい(The female of the species is more deadly than the male.)」ともいっている。

キプリングの生涯に何があったのだろう、と考えてしまう。

詩人も作家も、作品のなかにそっと肝心なことを書いているものだ。その多くは、その人物の性格とは切っても切れない性質のものだ。原文は引かないが、シャーロック・ホームズものにもちゃんとある。たとえば、こういう文章だ。

 

東京都美術館にて

 

 「昨夜の、犬のようすがどうもおかしい」

 「犬は何もしとらんぞ、夜中は!」

 「そう、それがおかしいんですよ」と、シャーロック・ホームズが言った。

 

じつに、その先をぜひとも読んでみたくなる文章だね。

つまり、侵入してきた男は、犬がちゃんと覚えている人間だったから吠えなかったというわけだ。

そのように推理するホームズの判断はみごとというしかない。

これは作者の才能というよりも、生まれ育った幼いころの養育のたまものといえるかもしれない。学校で習う勉強じゃなく、日常生活の観察から生まれたするどい経験だろう。

またまたシェイクスピアだが、彼は「恋の骨折り損」というドラマで、「honorificabelitudinitatibus」という長ったらしい単語を使っている。

こんな英語はない。いくらになんでも……、というところだが、これはラテン語であり、並べかえると「Hi ludi, F. Baconis nati tuiti orbi(これらの戯曲はF・ベーコンの作品であり、世の人びとのためにある)」という意味になるらしい。

ついでにいえば、これは、博学なサー・エドワード・ダーニング・ロレンスという学者が唱えた説だよ。シェイクスピアはラテン語が読めた。それは明らか。なんとなく英語っほい 「お気をつけなさい、将軍。嫉妬というヤツに。

 

 「お気をつけなさい、将軍。嫉妬というヤツに。

 こいつは緑色の目をした怪物で、人のこころを餌食にし、

 それをもてあそぶのです」

 

「オセロ」ではそういっている。

嫉妬――お父さんもいろいろと、あきるほど嫉妬してきたけれど、嫉妬だけでがんばってきたようなものだ。「オセロ」というドラマはやきもちで身を滅ぼす男の話だが、このシェイクスピアという男については、むかしから謎がいろいろありすぎる。

お母さんが交通事故に遭った年の初夏、平成11年5月25日、お父さんといっしょに千葉の「シェイクスピア・カントリー・パーク」へ行ったことがある。大雨の旅だった。

館山で、てんとう虫みたいな可愛いレンタカーを借りて、雨のなかを走った。ワイパーを作動していても前が見えないくらいの大雨で、そのときの話はすでにしゃべったから、ここでは書かないけれど、ちょっとまえの出来事さえも、忘れてしまっている。

平成11年のことなど、60年前の出来事とおなじように、みんなかすんでしまっているんだよ、お父さんには。だから、これから書くお父さんの小説を読んで、むかしをおもい出してほしいとおもっている。

お父さんの書く小説は、ふつうとはちょっと違っているかも知れない。それはそうだろう。この詩文みたいな文章なのだから。……詩行には感動するというシーンもない。それでいて、登場人物の心理はみっちりと書くつもりだ。お父さんは文体を重要視する。ときどきおなじ原稿を口語体に書き直してみたりしている。例をあげると、たとえばこんな具合に。――

 

ふり返るのは、もう止そうとおもうんだ。だってそうだろ、きみがいってたように、むかしのことなんかおもい出してみても、しょうがないじゃないか。きみのいうとおりさ。

だから、ぼくはもうおもい出すことなんかしたくないのさ。むかしのことはね。だが、いっておくけど、いまぼくの頭のなかにある風景は、消すことはできないんだ。それだけは忘れないで欲しい。

きみはいったね、「カラス麦畑へ連れてって」って。だから、ぼくはいつかそこへきみを連れていくよ。それは約束だからね。そのカラス麦畑は、ここにはない。

遠いところにあるんだ。

ぼくの頭のなかにさ。おもい出してごらんよ、ほら、見えるじゃないか。小麦色した、たわわに実るカラス麦畑だよ。穂先がつんつんしてて、近づくとぼくらを突っつくんだ。イネみたいに、つんつんしているけど、農場の平野にはどこもイネの穂がうねっていて、どこもかしこも太陽にあたって、きらきら夏の陽射しを浴びているんだ。

それは平野の農場だよ。

ずっと平野の向こうの小高い丘の畝(うね)には、カラス麦畑があってさ、郭公鳥(かっこうどり)が鳴いてさ、ぼんやりした朝日のなかで、山から平野に降りてきた霧があってさ、川には水鳥たちが騒いでいて。――ほら、ぼくらがあぜ道を歩いてのぼっていったあの丘だよ。

せめて、きみをそこにだけにはいつか連れていってやりたいとおもってたんだ。

――きのうぼくは映画を観たよ。ビデオだけどね。「マイ・フェア・レディ」っていうんだ。きみも知ってるだろ、イギリスのコヴェント・ガーデン。野菜市場と劇場があったところが舞台なんだ。もうそのときのようすがすっかり変わってた。

映画にヒギンズ教授というのがあらわれて、花売り娘のやぼったいことばを標準語に矯正(きょうせい)する話なんだ。「矯正」なんていうことばもそこでおぼえたのさ。

これって、もともと本になってたものを映画にしちゃったらしいんだ。

もとの本は、「ピグマリオン」というらしいよ。The rain in Spain stays mainly in the plain.――スペインの雨は、おもに平野に降るっていうんだけど。そいつを、なんどもしゃべって、だんだんちゃんとした英語でしゃべるんだ。だから、ぼくもそいつをおぼえちゃったよ。

これを蝋燭(ろうそく)の炎のまえで、そいつを消さないでなんども発音するっていうわけ。オードリー・ヘップバーンとかいう女の子が、かっこうよく口を尖らして、抑揚をつけてしゃべるんだ。すると、ぼくにも英語が話せるような気がしてきたんだ。やってみたよ、じっさいになんどもね。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

それに、ピグマリオンてやつは、ふしぎなやつなんだ。自分でつくった象牙の像に恋するんだって。わらっちゃうよ。

「恋する」なんていうことばは、ぼくらはぜったい使わないけど、むかしの人は、古典的に「恋する」とかいってるんだよ。ぼくにもわかるよ、その気持ちは。

そういうことってあるからさ。だれにもいわないけど、ぼくの頭のなかにある人物が好きになるってことがあるんだ。もう死んじゃってるやつだけどね。

教授も花売り娘に恋しちゃったのかどうか、もう忘れてしまったけどね。というのは、ぼくは、映画の途中でよく眠るからね、そこはよくわからないんだ。それぐらい退屈な映画だったってことだけどね。ナターシャって、きみの名前のことだけど、これはロシア名だろ? 日本名はなんていったっけ?

ぼくはきみのことを「お姉ちゃん」と呼んでたから、もうわからなくなった。北海道にはロシア人がたくさんいたしね。

ナターシャみたいな女の子が、年寄りにかわって、子守りをしているところをちゃんと見てるんだ。きみもそのひとりだったけど、きみのヘアはブロンドで、ヘアが黒くないのに、きみだけはいじめられなかったね。いじめられてるきみを、ぼくは見たことがないんだ。

どうして?

 

――というような書き方。

おまえに「カラス麦」なんていっても知らないだろうとおもうけれど、オクスフォード英語辞典の前身だったサミュエル・ジョンソン版の辞典では、カラス麦は「イギリスでは馬が食べるが、アイルランドでは人間が食べる」と書いてあるんだ。これは有名なエピソードだからちゃんと覚えている。

北海道じゃ人間の食料になっていたんだ。馬にはもったいなくて食べさせないやつだ。そのかわり、カラス麦に似た燕麦(えんばく)を少量与えていた。

燕麦はもともと人間の手でカラス麦のなかから交配・進化させてきた寒冷地用の植物なんだよ。カラス麦の、枝分かれした子孫ということかな。

人間は燕麦なんか食べない。もともとカラス麦は、どこにでも自然に生えているもんだ。たぶんイネといっしょに渡来したものだろうけどね。いまじゃそんなものにだれも見向きもしない。ふつうの雑草になっちまった。

北海道には一時は15万頭もいた馬が、現在はすっかりいなくなった。おかげで燕麦というのも見かけることがなくなった。

お父さんがやわらにいたころは、北海道には15万頭もの馬がいたんだよ。

戦争時は、軍馬として徴用されたりして。ふだんは田んぼに引っ張り出して、代掻(しろか)きという苗代(なわしろ)作業もやった。田んぼにイネの苗を植えるので、土を水で練ってやわらかくするんだ。馬は、歩きながら尿便をたれる。それが運悪くメス馬なら、うしろで作業をやっているお父さん目がけて頭から引っかけるんだよ。寒くても、あったかい尿が、とつぜん降ってくるってことだ。

馬を責めてみてもしかたない。――カラス麦は、その名のとおり「カラスが食べる麦」という意味で名づけられた植物らしいだけれど、もうこれは雑草になっちまった。

お父さんのおじいちゃん、おばあちゃんたちは、その非常食を主食にして暮らしていたわけで、北海道がいかに立ち遅れていたか、うたた感慨を禁じえないというわけだよ。

13時50分発幌行き街道

 

ぼくは羽田発の午後の便で札幌ゆきのANA、ボーイング777を予約していました。その日ぼくはちょっと早めに出かけ、羽田で腹ごしらえをし、大急ぎで友人に手紙を書き、5月18日からはじまる、所沢で開かれる「第20回国際バラとガーデニングショウ」の招待状を送りました。そして、これから札幌に向かう話をつづり、運がよければ砂川で恩師に会うつもりです、と書きました。

機内はけっこう混んでいて、ぼくは前列の通路側の席に座りました。

そのときカバンのなかに持ってきた本は、ニコルソン・ベイカーの「もしもし(Vox)」(岸本佐知子訳、白水社、1995年)という本で、もう一度読みたくなったのです。

この種の小説を紹介してくださったのは、大学時代の中田耕治先生でした。先生はヘミングウェイの初期の短編をほとんど翻訳されています。以来、中田耕治先生とは御茶ノ水の喫茶店でコーヒーを飲みながらヘミングウェイの話を聴いたものです。

 

アンブローズ・ビアス「アウル・クリーク橋でのできごと」

 

むかし文学部の教室で中田耕治先生の講義を受けていたころ、「ヘミングウェイみたいに」ということばをよく聞きました。ヘミングウェイみたいに、敗者には真心こめて尊敬のまなざしを向ける、ということば。「老人と海」に出てくる男は、マカジキとの格闘の末、ようやっと、やつを仕留めます。そしてマカジキのことを考えます。人間の価値は、マカジキのように絶望的な敗北を前にして、いかにふるまうか! 老人は、マカジキの覚悟をおもい知るのです。

そんな話をしながら、中田先生は教室でも、たばこを吸います。灰皿がなかったので、水の入った花瓶を灰皿がわりにしていました。

そのころは嫌煙権というものもなく、駅のホームにも、列車のなかにも、ちゃんと灰皿というものがありました。教室に灰皿がもしもあったとしても、ふしぎではありません。で、ぼくは数年まえ、ニコルソン・ベイカーの「もしもし」という小説を読んで、こういう小説はおもしろいな、とおもいました。ニコルソン・ベイカー(Nicholson Baker)は、1957年生まれの68歳。ぼくよりひとまわり以上若い。

 

「いま何着てるの?」と彼は訊いた。

「グリーンと黒の小さな星がついた白いシャツでしょ、それに黒のパンツ、グリーンの星と同じ色のソックスと、9ドルで買った黒のスニーカー」と彼女は言った。

「いまきみがどんな風にしてるのか、知りたいな?」

「ベッドの上に寝っころがっているところ。ベッドは珍しくメイクしてあって、これは今朝やったの。何か月か前に母が送ってくれた、昔うちで使っていたようなシュニールのベッドカバーがずっと新品のままで、何だか申しわけないような気がしていたんだけど、今日の朝になってようやくそのカバーでベッド・メイクしたの」

ニコルソン・ベイカー「もしもし(Vox)」より

 

中田耕治先生

 

――こんな書き出しではじまる「もしもし」は、米の作家ニコルソン・ベイカー中期の作品です。彼の作品はひじょうにショッキングな小説が多くて、いつもびっくりさせられています。

それもむかしのことです。

いま彼は、何を書いているのか、ぼくにはわかりません。初期の傑作「中二階」という作品はすごかったなとおもいます。

ひとりの男がエスカレーターをのぼっていく。ただそれだけの話なのですが、のぼった先で何か起きるのか、とおもうけれど、何も起こりません。

多くの読者は、きっと何か起きるにちがいないとおもって、先を読みすすむわけですが、いっこうに事件らしい事件も起きず、文章はたんたんと書かれていて、それなのに、息もつかせずスリリングな物語を読まされるというわけです。

これって、米短編作家の泰斗アンブローズ・ビアスじゃないけれど、彼の「いのち半ばに」に描かれているような、戦慄と戦いに明け暮れるある南部の兵士が処刑される瞬間を描いたものと、その戦慄の部分だけは、なんだかとても似ているような気がします。

一瞬を切り取って、あるものを、迫撃砲のように標準をさだめて狙い撃ちする処刑のシーン。それは非日常の世界を描いた物語なのです。

処刑される男は、足元に流れる川を見て、おれはきっと生き抜いてみせるぞ! とこころに誓います。

「ねらえ!」の号令のあと、すこしたって、

「撃て!」の号令が発せられます。

そして、銃殺刑が完了するまでのほんの一瞬、彼は橋の踏板を蹴って、川にとび込みます。

後ろ手にされた男は、そんなことはどうでもいいとばかりに、水深くもぐり込み、息をこらえて泳ぎます。そして、どんどん泳ぎ、男はふるさとを目指して泳ぎきります。

そして岸にあがり、林のなかを一目散に走り、何日もかけて彼はふるさとにたどり着きます。

そして、わが家で妻の姿を見て、おーい、と声をかけます。

妻は振り返ります。妻に抱き着こうとした瞬間、――彼は銃殺刑にあうという物語なのです。

こんなに短い小説なのに、男の生きようとする本能は、まるで永遠の一瞬のように頭のなかに去来します。去来した物語だけを描いた小説。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋でのできごと」は、ぼくには忘れられない小説です。

原書でも読みました。

この「中二階」も、はらはらどきどきがあり、それでいて、とてもユーモラスで、巨大なビルの中二階のオフィスに行こうとしている、ごくふつうのひとりの男の話なのです。

昼食のついでに、近くのコンビニエンスストアで、靴ひもを買い、ふたたびオフィスに戻っていく。そのオフィスにあがっていくほんの数10秒のあいだ、彼の頭によぎる出来事を描いたものです。ぼくは、この小説を読んで、それから20年もたってから、「晩生内まで」という小説を書いてみました。

北海道の晩生内(おそきない)は、国道275号線にそった小さな街ですが、冬場、クルマのオイルが抜けてしまい、晩生内で立ち往生しているという男を、クルマで迎えに行くという話を書きました。

そうして、運転しながら、「ぼく」は、むかしのことをいろいろ想いだすというストーリーなのです。書いてしまうと、ニコルソン・ベイカーとは似ても似つかぬ小説になりました。

ニコルソン・ベイカーらしいなと気づかされるシーンは、いろいろあります。

人生を形づくっているものといえば、かなりの割合で、じつに細やかで、じつにあほらしいほどの些末な出来事や、モノの手触り感や、生活の手触り、――テクスチュアにいたるまで、――あらゆるモノに拘りながら、ああでもない、こうでもないといいながら何かをその都度決めずにはいられないのです。

たとえば、靴ひもが切れる原因について、ホッチキスのデザインの変遷について、ファーストフード店のストローが、紙からプラスチックに変わって不便になった話とか、牛乳の紙カートンのすばらしい機能性や、トイレの便座が家庭用はО型なのに、なぜオフィスではみんなU型になっているのだろうかとか、ミシンを発明した人は天才であるとか、……まあ、そんな話がえんえんとつづられていくわけです。

――これが「中二階」を読んだときのぼくの感想です。

小説「もしもし」の原題の「Vox」というのは、ラテン語で「声」という意味です。vox populi vox dei 「天声人語」でおなじみのことばですね。神の声、すなわち人の声。

で、フィクションではない現実の話は、じつに退屈なもので、こまごまとした、バカらしいほど些細な日常の縫い目の連続で、これこそが現実なのだとあらためて気づかせるというわけです。ニコルソン・ベイカーという作家は、作品から物語性というものをすっかり追い出してしまった、そういえるのではないかと。

さて、ぼくは本を閉じて、少し眠ろうとしていたら、隣りのシートに座っていた女性から声をかけられました。

「あのう、すみません、アテンダントの人、ちょっと呼んでいただけませんか?」というのです。

「ちょっと寒いので、お腹に当てるものを」といっています。

彼女のお腹は大きく膨らんでいました。臨月とはおもいませんでしたが、それに近いように見えました。ぼくは近くにきたフライト・アテンダントに声をかけました。すると、彼女は「お腹が寒い」といったのです。

「しょうしょうお待ちください」といい、ぼくのほうを見て、

「ご主人さまは、いかがですか? だいじょうぶですか?」ときいたのです。

「ぼくは、この人のご主人じゃありませんけど、ちょっと寒いですね」といいました。彼女は、にこっと笑みを浮かべ、折りたたんだ毛布を2つ持ってきました。

これで眠れそうだ、とぼくはおもいましたが、見知らぬ妊婦と隣り合わせになって、なんだか眠れなくなりました。彼女は札幌の人だろうか? とおもったり、夫の待つ北海道へ帰るのだろうかとか、余計なことを考えはじめました。彼女は30代に見えますが、じぶんが彼女の連れ合いと間違われたことに驚嘆していました。ぼくは帽子をま深くかぶっていたので、わからなかったのかもしれません。

まるで小説「もしもし」のつづきのようにおもわれ、ぼくはひとり笑いをしました。

「もしもし」は、彼の4作目にあたるそうですが、寡聞にしてぼくにはくわしいことは分かりませんが、がらりと趣きを変えて、そこにはふたりの男女が登場します。

アダルト・パーティ・ラインで出会った一組の男女がおたがいの声に惹かれ合い、「奥の個室」と呼ばれる1対1のラインに移動して、えんえんとことばの遊戯を繰り広げる、という小説です。

――ぼくはラインは少ししかやりませんが、スカイプをやった経験があります。そこでは「会議」と呼ばれる仲間のひとりの紹介で、スカイプに加わったことがありました。けれども、夜中のためか、10人いれば、うち1、2人は眠っていたりして、おもしろいとはおもえませんでした。だいたいいつも1対1でやります。まあ、それと似ているかもしれません。

「いま何着ているの?」からはじまって、最後にヘッドセットのスイッチを切るまでが、リアルタイムで克明に描かれていきます。小説みたいに、説明の部分は少しもなくて、そこはとってもリアルです。ふたりは大学を出ていて、「隠しごと」はいっさいしないというルールを取り決めてやり合うわけです。

ふたりの会話は、セックスのまわりをぐるぐるまわって、ときどき脱線したり、別の方向に話がすすんだりしながら、

「20分ぐらいかけて、少しずつ明るくなっていくんだ。いまはまだうんと深いオレンジ色の光だ。もちろん、こんなにあくせくした毎日じゃ、めったに眺める機会はないけれど、でもたまに見ると、本当に美しいと男う。あんまりゆっくりした変化なので、光の強さが増してだんだん明るく輝いて見えるのか、それとも空が暗くなっていくせいなのか、わからない――もちろんその両方なんだけれど、どっちが主でどっちが従なのか判別できない。そしてある一瞬、たぶんあと5分ぐらいしたら、街灯の色と空がまったく同じ色、あのグリーンとスミレ色と黄色を混ぜあわせたような色になる瞬間がある。すると、通りの向かいにある街樹の葉のなかのその部分だけぽっかり穴が開いて、その向こうに空がのぞいているように見えるんだ」

――こういう会話がたくさんあって、えんえんとつづきます。

これは、ことばを使った一種のゲームのようでもあり、ことばだけで、おたがいに刺激し合い、「仮想愛」をつくりあげていく。

「もしもし」はまぎれもなくセクシーな小説ですが、それは、「セクシーであるように」という意味なのでしょう。どう見ても、そこには仮想ゲーム以上の発展はありません。それはそうでしょうとも! ふたりは顔を突き合わして会話をしていても、けっし手で触れることもできないわけですから。

ストイックなまでの展開なのです。そういうストイックなものがあればあるほど、気分はよりセクシーになる、というのでしょうか?

やがて千歳空港に着いて、ボーディング・ブリッジを歩くとき、ぼくは彼女の荷物を押してあげました。そこから札幌に向かう電車のなかでもぼくらはいっしょでした。

彼女はこれから幌内に向かうのだそうです。ゴールデン・ウィークを利用して、夫の田舎に少し遅れて向かうのだそうです。

はじめての子供が生まれるのが嬉しいという話を聞きました。彼女の幸せそうな顔を見て、祝福したくなったものです。

「いつ生まれますか?」ときくと、

「来月の予定です」と、彼女はいいます。ああ、この人は心底から幸せなのだなと、ぼくはおもいました。そしてお互いの人生のほんの束の間、ぼくとことばを交した。もうふたたび会うことはないのだ、とおもいました。お別れするとき、

「いろいろ、ありがとうございました」と彼女はあいさつしました。それは、巨大な未来の壁に立ち向かう永遠の「声」のように聞こえました。

ある逅。弁護士・木ひろし先生との出会い 2

 

正木ひろし「裁判官――人の命は権力で奪えるものか」、カッパブックス、1955年。

 

ぼくは橋本忍という稀代の脚本家を知り、この人のドラマづくりに圧倒されたことがある。八海事件を描いた映画「真昼の暗黒」には、無罪をいい渡されるシーンはない。

「まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」

と、阿藤周平が拘置所の金網にぶら下がって叫ぶところで映画は終わっている。

映画では阿藤周平役には草薙幸二郎、その婚約者役には左幸子、正木弁護士役には内藤武敏、被告の母親役には北林谷栄、捜査主任役には加藤嘉というキャスティングで制作された。

最初、橋本忍がつけたタイトルは「白と黒」だったが、ハンガリーのジャーナリストで作家のアーサー・ケストラーの小説「真昼の暗黒」を借用することになった。

資料によれば、ケストラーの「真昼の暗黒」は、1940年に発表され、スターリン体制のソビエトで拷問による自白強要、粛清の惨状を生々しく告発したものだった。

主人公のモデルはブハーリン。

彼は、スターリンによって粛清されたソ連の政治家である。タイトルはミルトンの詩「闘士サムソン」の1節、「ああ、暗い、暗い、暗い、真昼の炎の中にいても……」から取られた。

ケストラー自身もスペインでフランコ軍に捕らえられ、死刑判決を受けた経験を持つだけに、迫真の心理描写で書かれているようだ。ウソの自白によって死刑にされるという点は、八海事件にぴったり当てはまる。

原作は、正木ひろし氏のベストセラー本「裁判官――人の命は権力で奪えるものか」であるが、この本は、1951年に単独犯だった犯人が罪を軽くすることを目的に、知り合い4人を共犯者に仕立てた冤罪事件である八海事件を扱ったノンフィクションである。

監督の今井正は、この本をもとにして映画をつくった。

完成した「真昼の暗黒」は、東映系で上映されるはずだったが、係争中の裁判をテーマにした映画の公開は好ましくないという理由で、最高裁判所は東映に対して上映しないように圧力をかけた。

他の大手も同様に配給を断り、「真昼の暗黒」は大手配給網から完全に閉め出された。さらに、最高裁は直接プロデューサーの山田典吾や今井正監督を呼び出し、制作を断念するように迫ったという。だが、屈しなかったのである。

シナリオは、橋本忍氏がもっとも得意とするカットバック方式が豊富に盛られていて、先に法廷の描写からはじまり、その証言の際にカットバックで犯行を再現する手法がとられている。これはのちに、松本清張原作の「霧の旗」(山田洋次監督)でもさかんにカットバックが使われた。

おもしろいのは、映画「真昼の暗黒」では、正木ひろし弁護士の反対尋問のなかで、検察側の主張によれば、こんなふうな犯行になるはずだが、果たしてこんなことがあり得るだろうかと述べるシーンがある。

犯人とされた5人が集合場所から犯行現場まで、まるで陸上部のロードワークのように走りながら、おまえは羽目板を外せ、おまえは家人を殴り殺せと役割を分担させる。犯行現場では5人が、コマまわしのように、ユーモラスに動きまわりながら人を殺し、周囲を物色をする。

それでも間に合わない。

最後のひとりは、「忍術のかっこうで飛んでいくしかないではないか!」と弁護士が主張すると、カットバックシーンの犯人はいきなり忍術のかっこうをしてパッと消える。

すぐに法廷場面に切り替わり、傍聴席の爆笑を写す、という具合である。それでも判決は死刑だった。

理不尽な判決に対してラストシーンで、主役の阿藤周平が拘置所の金網をつかみながら、面会室から去っていく母親に向かって、

「おっかさん、まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」

と叫ぶシーンは、裁判の不条理を劇的に表現しているとおもう。

のちに阿藤と結婚するまき子さんも、この映画を見て感動したひとりだったという。――とうじ、まき子さんは富山県の紡績工場に勤務していた。

映画を見たあと原作の正木ひろし弁護士の「裁判官」という本を読み、広島拘置所に励ましの手紙を書いて、ふたりの文通がはじまった。

また五番町事件という殺人事件の犯人が、この映画を見て、五番町事件でも別の人が有罪とされていることに良心の呵責を感じ、真犯人として自首するという珍事も起こった。

この事件では、担当の検察官が辞職に追い込まれた。

「真昼の暗黒」は、キネマ旬報でベストワンに輝く。

橋本忍氏の、はじめての快挙だった。これは、単独脚本での初の受賞作品となった。阿藤周平は、無罪判決のあと、はじめてこの映画を見ている。

阿藤周平ら4人の人生をめちゃくちゃにした真犯人の吉岡晃は、その後どうなったのか。彼は無期懲役だったが、服役態度がよかったので、17年目に仮釈放となった。

「吉岡はもう死にましたよ。亡くなって、もう10年以上になります。吉岡は無期懲役になって17年目で出所しました。わたしが無罪になったあと、一度謝りに来たことがあるんですよ。

わたしは当時、小さな運送会社を経営していて、事故で大怪我をしましてね、危篤状態になりました。そのとき吉岡が、病院に弁護士先生といっしょに来ましてね、たぶん、わたしが死ぬと思って、そのまえに謝りたいと思ったんじゃないかな。でも、わたしは断りました。会う必要がないと」

それからしばらくして、吉岡が謝罪の記者会見をすることになり、広島まで4人全員と出向いた。「いまさら謝らなくてもいい。ほんとうに謝罪する気があるなら、警察といっしょになって、ずーっとウソの供述をつづけた内幕を、ぜんぶ世間に暴露しろ!」というと、

「そうします」といって吉岡はうなだれたという。それから吉岡は間もなく、結核で死んだ。じぶんの死期を知っていたふしがあるという。

今回は、橋本忍の代表作となった映画脚本「真昼の暗黒」を取り上げたけれど、おなじ正木ひろし原作の「首」という映画がある。

これも橋本忍の単独脚本だが、これは、ぼくがちょうど正木ひろし弁護士と出会った年に公開された。この映画の話も先生から聞いてはいたが、見る機会がなかった。むろん、「橋本忍 人とシナリオ」にはシナリオが載っている。森谷司郎監督、小林桂樹主演。

正木ひろし氏が戦中に手がけられた警察官による公務員特別暴行致死事件、――俗に「首なし事件」と呼ばれ、その顛末を書いた正木ひろし氏の「首」が原作である。

警察の暴行によって殺されたらしい被害者の遺体は、すでに埋葬ずみだった。

暴行の事実の立証を依頼された正木ひろし氏は、証拠である被害者の遺体を司法解剖するしかないと判断した。

しかし地元警察が目を光らせている。

現地ではとうていできそうにない。

司法解剖するなら、親しくしている東大法医学教室しか考えられないが、そのためにはまず遺体を掘り起こし、さらには首を切断した上で、東京まで運ばなくてはならない。いくら遺族の依頼とはいえ、果してそんなことができるだろうか。

逡巡する正木ひろし氏には、「おれの首を斬って、調べてくれ」という被害者の叫びが聞こえるようだったという。

正木ひろし氏は決断し、東大の法医学教室で解剖助手を務めている老人をともない、現地に向かった。

ヘタをすれば死体損壊の現行犯で逮捕されかねない。

正木ひろし弁護士は老人に指示して墓を掘り返し、首を切断して容器に入れ、満員列車に乗り込む。鉄道の臨検におびえ、異臭をあやしむほかの乗客に冷や汗を流しながら、東京へと向かう。

運ばれた首は東大法医学教室で福畑博士によって解剖され、ようやく、暴行の生々しい痕跡が明らかになるというストーリーである。

――それから、正木ひろし弁護士について、もうひとつ書きたい。

この人は、もともと画家を志望しておられた。その話はすでに書いた。これは、直接ご本人から聴いている。

「ぼくは画家になりたかった。東大法科と、東京藝大を受験したら、両方とも受かってしまった。親にかくれて絵描きになりたかったが、受験の年に親が死んだので、断念した」という。

「先生の絵は、すごいですね」というと、

「ぼくはこれを毎日ながめて、事件のことばかり考えて過ごすんですよ。絵のほうは、こういうことでしか用を足しません」という。

氏の2階の執務室に、八海事件の惨状が描かれた模造紙全紙の絵が、部屋中に貼られている。ぼくはその絵をつぶさに見たのである。

正木ひろし氏が亡くなられたのは昭和50年だった。

ある日、高島博士の医務室におじゃますると、正木さんが亡くなられたという話を聴いた。高島博士は、昭和55年、ぼくが札幌へ転居したとき、

「きみがいなくなって、さびしいよ」という手紙を頂戴している。それからのことは分からない。

ある邂逅。弁護士・木ひろし先生との会い 1

 

こんばんは。こん夜も古い話をします。

ぼくはそのころ、「センス」というグラフ雑誌の記者をしていました。

ぼくは法律にまったくくわしくありませんが、昭和43年、雑誌「センス」の取材で、弁護士・正木ひろし氏に会ったことがあります。

そこで奇妙なことに、正木先生に法律というものを教わったのです。教わるつもりがなくても、法律にあまりに無知なぼくを見て、先生は黙っていられなかったのでしょう。

ぼくは当時、正木ひろしという弁護士は、そんなに偉い人だとは知りませんでした。平凡社の百科事典にも名前が載る、恐るべき弁護士先生でした。

 

正木ひろし弁護士

 

ぼくは、法医学の高島博博士(元日大教授)の紹介で、正木ひろし氏と会うことができました。これもまた、奇妙な縁です。日大とはまったく無縁なぼくが、高島博士の勤務先に毎週のように通っていました。

おもしろい先生だったからです。

「先生、アリバイの原稿を書いてくださる先生を、どなたかご紹介いただけませんか?」といったのです。

すると、先生は正木ひろし氏を紹介してくださったのです。

そしてぼくは、大きなつくりの、四谷にある正木ひろし法律事務所を訪ねました。

「アリバイについての原稿ご執筆の依頼で参りました」といいました。

「ほう」といって、高島博士の書かれた紹介状に目を落とされ、

「どうぞ。……」といって、ぼくを2階の執務室に招き入れました。

2階に上がると、廊下や突き当りの執務室の壁に、模造紙全紙に殺人事件の犯行現場らしい絵が再現されたような大きな絵が、ところ狭しと貼られています。その絵はとてもリアルで、殺人現場のようすを克明に再現した、画家が書いたような迫力のある絵でした。

素人が描いた絵とはとてもおもえませんでした。

佳境に入る刑事事件を扱う弁護士先生の奇態な現場シーンを垣間見るおもいがしたものです。広い執務室には、だれもいなくて、正木ひろしさんは留守なのかもしれないとおもっていたら、小柄な男が、デスクの引き出しの中から名刺入れを取り出し、「正木です」といって自分に差し出したのです。

「先生ですか、たいへん失礼をいたしました!」といって、ぼくは頭を深々と下げました。すると、

「ぼくはいま忙しいんですよ。ご覧のように八海事件を担当しておりましてね、……あなたはこの事件のことを何か知っていますか?」と尋ねられました。

「いいえ、……」

「ぼくは、最高裁でこの事件の弁護をしなければならないので、多忙なんです。高島先生のご紹介ですから、お断りはしません。引き受けましょう。ですが、あなた、どうでしょうか、原稿を手伝っていただけるなら、引き受けましょう」といわれたのです。ウムをいわさぬ凄みがありました。

「はい」とぼくは承知してしまったのです。

「それじゃあ、……」といって、先生は立ち上がり、そして別室に隠れます。

ぼくはしばらく執務室のようすをながめていました。

先生の大きなデスクの上に、絵筆が乗っています。絵の具もあります。全紙大の模造紙の後ろは書棚になっていたけれど、なかにある本は、お堅い本ばかりです。デスクの上にはタイプで打ったような資料がいろいろ置いてありました。

やがて先生があらわれ、3冊の本をポンとデスクの上に置きました。そして、いろいろページを繰って付箋で印をつけていき、3冊とも閉じると、

「この付箋のついたページに、アリバイについての記事が載っています。これをよく読んで、換骨奪胎、まとめてくれませんか。それで、どうですか? 3冊ともぼくが書いた本です」といわれました。ぼくは面食らいました。

正木ひろし弁護士事務所を訪れて、手ぶらで帰ってくるよりはましだとおもい、ぼくは引き受けることにしました。しかし、ぼくには法律の知識はまるでない。自分の書いた記事に、正木ひろしという著名な弁護士先生の名前がつく。

とんでもないものを引き受けることになったとおもっていました。

ぼくは24歳、結婚したばかりでした。

「先生、ぼくは法律を知りません」といってしまった。すると、

「それはさっき聞きました。……きみが、文章が書けるかどうかです。1週間後、原稿を持ってきてほしい。ぼくが校閲します」といわれた。そして、さいきん先生が出されたという「裁判官」という本をいただきました。身が引き締まるおもいがしました。

オフィスに戻ると、それからは、3冊の本と格闘しました。ご著書の文意の流れを正確に理解するために、付箋が付されたページだけでなく、全ページ通読しました。すばらしい本でした。

これをグラフ雑誌の記事にするのです。

ページの写真構成はもう決まっていました。

当時、警察官友の会の会長をしておられた柳家金五郎さんとの企画で、両手に手錠を嵌められた人物の写真を載せることになっていました。顔写真は柳家金五郎さんのしかめっ面。そういうイメージ写真を想定していました。

手錠を嵌めたスーツの袖に、白いフォーマルのワイシャツの袖口を出し、ある紳士がある日、とつぜん緊急逮捕されるというイメージを訴求しました。その大きな写真の両脇と、3ページ目が記事のページになっています。

400字詰めの原稿用紙で12枚の分量。

「現実をフォトジェニックに」というのがこのグラフ雑誌のコンセプトでした。

書いた原稿の中身はもう忘れましたが、それを持って1週間後に先生の事務所を訪れたときの記憶が、ありありといまも脳裏に浮かびます。

正木ひろしさんは、この20枚の原稿を色鉛筆で真っ赤になるほど修正なさった。しかし、文章の骨格はいじらなかったのです。やおら2時間か、2時間半の時間を費やし、正確さにおいて比類ない文章に直されました。

直されたところは、法律用語でした。法律用語を使って書かれた箇所は、すべて直されました。正木ひろし氏がぼくに書いてほしいと期待したものは、法律用語をまったく知らない、ごくふつうの読者が読んでも分かる文章に書きなおしてほしいということだったのかも知れません。

そして、すべてが終わったとき、ぼくはえらく恥じ入った気分になりました。

正木ひろし先生は、おっしゃいました。そのときのことをおもい出して、以下、先生のいわれる法律の話を、ちょっとご紹介してみたいとおもいます。

「きみは、法律をどうおもうかね? きみは法律を知らないといったが、知らないではすまされない。その話をしたい」と先生はおっしゃり、「カルディアネスの板」の話をされました。

古代ギリシャのカルディアネスでの出来事です。

難破船から海に投げ出された船員は、漂流する1枚の船板につかまります。ひとりがつかまっているうちは沈まないけれど、ふたりがつかまると沈んでしまうという船板です。ふたりがつかまると、板は沈んでしまうので、ふたりの人間は、はからずも争いになり、ひとりは、まちがいなく殺されます。

「――だが、こういう殺人は、事件として罪には問われません。分かりますか? 刑事訴訟法の緊急避難にあたり、現行の国際法でも無罪とされます。人が人を殺しても、罪には問われない。そういう法律もあるのですよ。むろん、そのぎゃくもある。ふつうは、人を殺せば罪に問われます。――法律とは、何か? それを知ることですよ」と先生はいわれました。

そして、法律の解釈には7つあり、それをすべて知れば、大学の法科を出たと同等の知識が身につくともおっしゃいました。で、7つの解釈法なるものを教わったというわけです。

ぼくにとって、正木ひろしという弁護士は、偉大な人でした。

くわしいことは忘れましたが、先生はある裁判で、ある男を真犯人であると名指しし、それが間違っていたために、弁護士資格の停止処分を受けられました。こんな弁護士はほかに知りません。

のちに松本清張の「カルディアネスの舟板」という小説が出版され、緊急避難を想定した故意の殺人事件をあつかい、犯人は、そのトリックを見破られて、破滅していくという物語が書かれました。

ふるい小説ですが、松本清張さんの本を読んでいたら、弁護士が出てきたので、正木ひろし弁護士先生(1896-1975年)のことをおもい出したのです。

■仏教について考えよう。――

教に見るいの方程式



おはようございます。

 ぼくは今年83歳になるのですが、考えてみたら、いまだにあこがれているものがあります。小説を書きたいということです。17歳で作家になることを夢見てきましたが、書けども書けども、駄作ばかりで、精魂尽き果てた感じになり、少しばかり欲をセーブしてみようかと思っています。

 

むかし隋の国に、「摩訶止観(まかしかん)」を書いた偉いお坊さんがいました。594年、中国荊州(現在の湖北省)にある玉泉寺のお坊さんで、天台智顗(ちぎ)という人です。

これは、仏教の論書のひとつで、止観(禅定の1種)について述べられたものです。それからぼくは、彼の「法華玄義」を読み、たいそうな刺激を受けました。そこにはむずかしいことがいっぱい書かれていましたが、なんとなく分かったような気分になり、大乗仏教の奥義を覗き見た感じがしました。いまどき智顗の本を読む人は、少ないかも知れません。

1999年、ぼくは㈱タナックという会社の社長をしていました。


二葉亭餓鬼録
考える人びと

 

そのとき社員として張り付いてくれていた野澤匡さんという方が、

「社長、お話があります」といいます。

資金繰りで悩んでいたぼくを見て、何かいいたかったのでしょう。話を聞いてみると、

「社長は仏教に興味がありますか?」といいます。仏教に興味はあるものの、内心それどころではなかったので、どういうことですかと質問しました。

もしもよかったら、時間をつくって、自分の話を聞いてくれませんか? といいます。

「いいですよ」そういってから、数日を経て、彼と喫茶店に入り、お話というのを聴いてみました。それは、仏教の話でした。釈迦の教えでした。くわしいことは忘れましたが、聴き終わって、なにかしら、こころの澱が消えていきました。勇気の出る話だったと思います。その意味で、ぼくは野澤匡さんに救われました。

ぼくはそのころ、仏教を正しく知ってはいませんでした。間違いだらけの記憶しかありません。経本を飲み込めば、安らかになります、と彼はいいます。

そして、ぼくは間もなく、「法華経」を読みはじめました。1999年から2006年ごろにかけて、仏教の研究にのめり込みました。「ブッダへの旅」という原稿が完成したのは、2006年です。原稿は1500枚くらいになりました。それを製本し、彼に読んでいただいたと思います。

すると、「小乗仏教」は、読まないほうがいいといいます。あれは、小さな乗り物で、「大乗」のような大きな乗り物のほうが多くの人を救います、といいます。いわれてみれば、その通りなのですが、ぼくは仏教の興りから理解したいと考えました。

――さいきん、三重県のある女性から「人が死んだら、魂はどうなるの?」というご質問を受けました。ブログにくわしく書いてほしいというリクエストがあり、そのときの疑問を織り交ぜて、書いて差し上げました。。

ぼくは学者でありませんから、何も知りません。知りませんけれど、釈迦のことばをいろいろと思い出します。たとえば釈迦は、「海には魚が何匹いるの?」という比丘(びく)や比丘尼(ビクニ)たちの質問に答えて、「それは知る必要がない」と答え、「夜空にまたたく星は、いくつあるの?」という質問にも「それは知る必要がない」と答えています。そして、

「死んだら、どうなるの?」という質問に答えて、「それは、知る必要がない」と答えています。これはどうしてなのでしょうか? 「教えてください、……」という比丘たちの訴えに、釈迦は黙っています。これを「無記」といい、「無記の教え」を広めます。

多くのお坊さんにおなじような質問をすると、釈迦とはまるで違う答えをいうでしょうね。亡くなって49日を過ぎると、ホトケになり、いつまでも家族のそばにいるというでしょう。これは、人が死んでも魂は生きつづけるというあらわれです。この考えがどうして生まれたのかといいますと、北インドで興った仏教が、中国にもたらされたとき、中国の儒教と仏教とが混ざり合い、融合します。

仏教の「空(くう)」は儒教の「無()」と混ざり合い、仏教は中国各地に広がりました。はじめて仏教を取り入れたのは「三国志」に登場する曹操(そうそう)という人です。紀元200年ごろのことです。中国語では仏教のことを「浮屠(ふと)」と呼びます。中国にもたらされた仏教は、大乗仏教のほうです。つまり在家仏教、北伝仏教ですね。サンスクリット語で書かれた経典がつぎつぎに中国語に翻訳されました。玄奘以降の訳を「新訳」と呼ばれ、多くの翻訳家を輩出しています。名前までちゃんと残っています。

なかでもクマーラジーヴァという人物は偉大な仏教者で、サンスクリット語で書かれた経典を、当時の中国の儒教になじみやすいように、中国の先祖供養と合わせて仏教をひろめていきました。

したがって、先祖供養をする仏教という新しい仏教が中国で誕生したわけです。日本は、その中国仏教をまるまるそっくり漢文のまま取り入れました。もともとは先祖供養などしなかった仏教ですが、日本は、インドではなく、中国から取り入れたために、日本でも先祖供養をするために仏教を取り入れました。ですから、中国でも日本でも、人が死ねばホトケとなり、50回忌まで供養されます。まるで、生きている人のように供養がおこなわれます。

しかし、紀元前500年ごろに生まれた釈迦仏教には、先祖の話はこれっぽっちも出てきませんね。魂の話や、来世の話、過去世の話などはいっさい書かれていません。人が死ねば、もうただの物体となります。魂もありません。魂がなければ、拝むこともないので墓もありません。

ただし49日のあいだは、魂が浮遊するといわれ、ハエやゴキブリさえ殺しません。これは輪廻(りんね)転生すると思うからです。人間の生から、別の生に生まれ変わると考えているからです。

この考えは、仏教が生まれるはるかむかしの「ヴェーダ聖典」の時代に書かれた教えであり、インド人は、これをずーっと信奉してきました。

六道輪廻というのがそれです。

最初は五道輪廻でした。地獄、極楽の思想はこうして生まれました。人間は死んで畜生に生まれ変わることもあり、ウマに生まれ変わったり、ネズミに生まれ変わったりするというので、むやみに殺生しないのがインド人のやり方です。

この輪廻転生説は、日本の仏教者にも見られます。

なるほどお経本にはそう書かれているからです。輪廻をするというのなら、もう先祖供養をする必要がないのです。なぜなら、もうそこには人間じゃなくて、別の生に生まれ変わっているからです。これはどうしてなのでしょうか。輪廻を説くいっぽうで、実際には中国・日本では先祖供養が行なわれています。もう魂がなくなったというのに拝みつづけます。とてもおかしな現象ですね。

ひるがえって、日本の仏教は、そもそも古典語を持たなかったので、釈迦仏教に触れて、多くの優秀なお坊さんが、明治になってからヨーロッパの大学に留学して仏教学を学びに出かけました。それくらい日本の仏教は立ち遅れていました。

ロンドン大学のバロンという学者は、マガダ語、パーリ語、サンスクリット語などに精通し、釈迦の唱えた経典研究の第一人者ですが、南条文雄さんという偉いお坊さんは、そういう釈迦の初期仏教というものを研究されました。

日本では、東大の中村元さんが有名ですね。

さて、「死んだら、魂はどうなるの?」という質問ですが、釈迦の唱えた仏教の立場でいえば、何もなくなり、きれいさっぱりと消えてしまう。これが正解のようです。現代科学では、魂の存在は証明されていません。しかし、まだわからないことがたくさんあります。

ついでにいえば、釈迦の唱えた仏教は、解脱(げだつ)の仏教でした。煩悩(ぼんのう)から解き放たれて自由になること。ところが、紀元3、4世紀ごろから「生、老、病、死」を唱えた釈迦の四諦説はひっくり返えされ、救済の仏教へと変身を遂げました。それが大乗仏教と呼ばれる宗教です。

仏教を信仰する在家の人びとに希望を与えるために、信ずれば救われるという仏教に変えてしまったわけです。

なぜなら、解脱することがとても困難だったからです。

解脱を遂げた人は、釈迦をふくめて7人います。最後に悟りを得た釈迦は、その悟りをひとり占めにしないで、ひろく教えという形で宣布しました。どうすれば安穏に日々暮らすことができ、長く健康で生きられるかを説きました。当時は30代後半、40代が人の生涯でしたが、みずからの悟りを実行した釈迦は、80才まで元気に遊行(ゆぎょう)の旅をつづけることができました。

釈迦が亡くなり、涅槃(ねはん またの名をニルヴァーナという)に入られたわけですが、その後釈迦一族はみんな殺されました。過去世や来世を一切説かれなかった釈迦は、摩訶不思議な教説を鵜呑みにすることをいましめました。自分が死んでも、仏塔を立てて拝んではならないともいいました。釈迦の悟りの素晴らしさは、「スッタ・ニパータ経」というお経に詳しく書かれています(岩波文庫)。

さて、答えになったでしょうか? 

仏教経典の代表的なお経といえば、なんといっても「法華経」でしょうね。総花的なお経で、なんでも総合的に網羅されています。しかし、「法華経」というお経はぜんぶで16巻ありますが、現在発見されているのは3巻だけです。あとの13巻は未発見です。そういうことから、3巻をならべてみても、辻褄が合いません。大きく抜け落ちているためです。

「般若心経」も有名です。262文字しかありませんが、これ、ほんとうにわかる人がいるのでしょうか?

「無、無、無、無」と書かれ、釈迦の唱えたことがすべて否定されています。

なぜ、おしまいに密教の真言が書かれているのでしょうか? もともとは真言はありませんでした。これを翻訳した玄奘は、最後に真言をくっつけました。

これがいま、日本ではわからないまま読誦(どくじゅ)されているわけです。

おかしいとは思いませんか? これは顕教(けんぎょう)のお経で、顕教は読んで字のごとく、読めばたちどころにわかるお経のはず。しかし、さっぱりわからないお経の代表になっていますね? それと、お経の最後に謎めいた密教の真言がつけられています。顕教と密教がひとつになったようなお経です。

空海というお坊さんは、これを写経しています。ただの写経ではありません。

「一字一拝」といって、一字を書いて一拝する。一字を書いて一拝する。これがほんとうの写経です。

よくよく考えてみれば、お経には、人の成仏について述べられていなければなりませんね。成仏が目的なら、どうしても方法が書かれていなければなりません。ところが、いずれのお経にも「成仏法」というのが書かれていません。その理由はいったい何でしょうか?

どのようにすれば「成仏できるか」、肝心のことが欠落しています。

もちろん釈迦は、成仏法を説かれませんでした。なぜなら、成仏するための宗教ではないからです。人びとが解脱をするための教えだったからです。解脱と成仏。――このふたつは似て非なるものです。

ぼくは以上のような話を述べました。疑問がいっぱいあったからです。

疑問に答えるかたちで「ブッダへの旅」という本を書きました。1500枚の原稿を書きましたが、まだ完成していません。完成するどころか、ようやっと巨大な山裾野にたどり着いたという感じです。