男たちをめろめろにした若き数学者、コワレフスカヤ
ロシアの数学者、コワレフスカヤ
若き美貌の数学者ソーニャ・コワレフスカヤの「コーシー=コワレフスカヤの定理」があることをおもい出した。これは驚くべき方程式である。ある条件を与えると、先の人生の解が計算できるというもの。この話を聞いたのは、藤原正彦教授からだったことをおもい出したのである。
この人の人生は、並外れて波乱に満ちている。作家としても、数学者としても歴史に名前を残しているのだ。
ドストエフスキーとつきあっていたのは彼女の姉だったが、ソーニャはドストエフスキーに認められたい一心で、小説を書いている。
これまでぼくは、ソーニャ・コワレフスカヤの記事をほとんど書いていなかったのはふしぎなくらいだ。――先日、そこまで書いてペンを擱いた。
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数学者、藤原正彦氏
ぼくは彼女の定理を知っていながら、理解することをあきらめている。とてもむずかしいからだ。ただ、ソーニャ、――これは彼女の愛称で、ほんとうはソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ(Sofia Vasilyevna Kovalevskaya、1850年-1891年)といい、41歳で世を去っている。父親は貴族出身の軍人、母親は外国語に堪能な教養人で、――彼女が生まれた1850年という年は、黒船来航3年前のことである。
吉田松陰20歳、
高杉晋作11歳、
伊藤博文9歳という時代だ。
嘉永6年(1853年)には、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻をふくむ艦船4隻が、日本に来航し、大きな歴史的な出来事になっている。
それくらいむかしに彼女はモスクワで生まれた。数学者エミー・ネーター(1882年-1935年)も、ドイツの女性数学者として知られている。ソフィアが12歳のとき、近所に住んでいた物理学の教授が、光学に関する本を彼女に与えたところ、当時まだ三角関数を知らなかった彼女は、なんと、自力でそれを解釈しようとした。
彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのとおなじ方法で、それについて説明をしてみせたというので、仰天した教授は、彼女を「パスカルの再来」とまで呼んだ。そして、家庭教師をつけて数学の研究をつづけさせるよう親を説得。そのあたりから、コワレフスカヤには「天才」という名がつけられるようになった。この記事を書いた藤原正彦氏も、さぞびっくりしたことだろうとおもう。
しかし女性が数学者としてまっとうに生きていくのは、とてもむずかしい時代だった。そういう時代にあっても、時代はコワレフスカヤを放っておかなかったという特別な理由がある。コワレフスカヤはとびきりの美人であったことが、彼女の運命を翻弄することになった。才色兼備とはそのことなのだろうか? とおもう。
多くの本にはそう書かれている。ご覧いただくように、彼女の肖像写真を見るかぎり、数学者とはおもえないほど凛とした気品あるたたずまいを見せている。世の男たちは、放っておくはずがない。
ところが、ドストエフスキーがやってきて、姉とつきあっているのを知り、うらやましいとおもうようになる。コワレフスカヤは、フョードル・ドストエフスキーと知り合って彼に淡い恋心を抱くようになった。彼の注意を引くために、ドストエフスキーが好きなベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」の練習までしたけれど、ドストエフスキーは、姉のアンナにしか関心をもたなかった。そのうちに、彼女はドストエフスキーにじかに接近する方法を見つけ出した。
それは、ドストエフスキーもみとめるような小説を書くことだった。女の子が単純にそんなことを夢想したからといって、だれにもとがめられるものではない。
そうと決めると、彼女はムキになるところがあった。数学の勉強をしていて、父親に褒めてくれた喜びを、きっとおもい出していたにちがいない。
「ソーニャなら、できる!」
それはしかし、たいへんな文学的才能をたのみとしなければ実現できないことだったが、コワレフスカヤはそれをやり遂げるのである。そのうちに、力作がどんどんつくられ、ドストエフスキーの目にも留まり、そして、自分の将来のことを案じた。自分はほんとうに作家になりたいのだろうか、それとも数学者を目指しているのだろうか、自問自答する日々を送る。
やはり、数学に一度魅せられたら、彼女はその夢を捨てることはできなかった。
あの「ノーベル賞」を創設したアルフレッド・ノーベル(1833年-1896年)、その彼でさえ、コワレフスカヤのトリコになったと伝えられている。トリコになったばかりか、すったもんだの愛憎の修羅場のすえに、彼女に見切りをつけている。くわしいことはわからないが、世間では、ノーベル賞に「数学」部門がないのは、コワレフスカヤへのあてつけ? とまでいわれるようになった。真偽のほどはわからない。
その当時、レフラーというノーベルのライバルがいて、ノーベルとの仲が悪かったことが原因なのだが、これはコワレフスカヤをめぐる争いだったのでは? と憶測する記事もあって、ほんとうのところはわからない。
コワレフスカヤは、18歳で結婚している。
ところが、夫コワレフスキーのもとを離れて、彼女が18歳を過ぎたころ、単身、ドイツのハイデルベルグ大学へ留学してしまうのである。そこで彼女は数学の研究に没頭することになる。――ちょっとおかしなことに、彼女は、コワレフスキーと結婚して、自分の姓をコワレフスカヤに変えたのはいいのだが、結婚したとたんに留学しているのだ。
のちに判明することだが、彼女の結婚は一種の偽装結婚だった。
ロシア社会の封鎖性が原因だった。
彼女にはのびのびとした自由な研究が必要だったからだ。当時の女性たちは、親の意見によって反対されたばあい、理解のある男性と結婚することによって、親の「親権」から脱することができたからだった、といわれる。――このことは、ぼくは知らなかった。ネットでしらべていく過程で知った。
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さて、冒頭に紹介した「コーシー=コワレフスカヤの定理」は、24歳ごろの研究だった。一般には知られていないかもしれないけれども、この定理は、大学で物理学・数学を専攻するばあい、かならず履修科目として取り上げられ、基本的な「偏微分方程式」のテキストにはかならずこの定理が記載されているはずだ。
藤原正彦氏の「天才の栄光と挫折 数学者列伝」(新潮社、新潮選書、2002年)にも紹介され、藤原正彦氏自身の「NHK人間講座」のシリーズ番組でも取り上げられ、ぼくはそれを見て勉強していたことがある。
コワレフスカヤはがんばったが、学者としてのヨーロッパの大学教授の道は、依然として閉ざされたままだった。なにしろ、当時は女性が大学教授になることなど、前例がなかったからである。
時がたって、彼女はようやっとウェーデンのストックホルム大学の教授になることができた。ロシア人女性として、はじめて大学教授の職にありつくことができた。
くわしくは1884年秋、ミッタク=レフラーはスウェーデンの数学者で、コワレフスカヤとおなじくワイエルシュトラスの弟子で、関数論、楕円関数論、アーベル関数論など、当時ストックホルム大学の学長だった彼からの招聘で、ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得ることができ、のち1889年には、ロシア人女性としては初の大学教授になったのである。このストックホルムは、彼女の終生の地となった。
のちに、アーベル関数についての新しい理論を適用して書かれた論文「固定点をめぐる剛体の回転について」を完成させ、その論文が評価されて、彼女が38 歳のとき、フランスの最大の科学賞「ボルダン賞」を受賞するなど、目覚しい業績を残した。
ボルダン賞(Prix Bordin)というのは、アカデミー・フランセーズが1年おきに贈る賞で、1835年に創設された。アカデミー・フランセーズの各分野に贈られ、1866年には、エルテール・マスカール(物理学者)に、1888年にはソフィア・コワレフスカヤ(数学者)に贈られている。
ボルダン賞の賞金は、幸運なことに、当初予定されていた3000フランから5000フランに増額された。1889年には、この分野における第2の研究成果によって、スウェーデン科学アカデミー賞を受賞した。また同年、チェビシェフらの推挙によって、コワレフスカヤはサンクトペテルブルク科学アカデミー初の女性メンバーとなった。
しかし、帝政ロシアの息づまる閉鎖的な空気から抜け出し、数学者として第一線に立つ自分の業績がみとめられたのは、彼女の並々ならぬ不屈の闘志による結果かもしれない。
コワレフスカヤは、モスクワではなく、当時、事実上の首都だったペテルブルクに帰り、18歳で「形式的に」結婚していたといわれるコワレフスキーと、それからは、ほんとうの結婚生活に入り、子供まで生まれているのだ。
この衝動はいったい何なのだろうとおもう。
社交界の華として振舞った5~6年間は、数学からほとんど遠ざかっていた。何があったのか、コワレフスカヤは、何もかも忘れたようにロシアに帰った。彼女の先生であるワイエルシュトラスからの手紙を受け取っても、数学にカムバックする気はなくなっていたが、ふたたびワイエルシュトラスのすすめに応じて、祖国をあとにした。
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コワレフスカヤが33歳ごろ、夫コワレフスキーが自殺してしまった。理由はわからない。そのショックで5日間ぐらい、彼女は意識不明に陥ったといわれている。
しかし、少しずつ立ち直り、社交界にも顔を出すようになる。コワレフスカヤの知性と、その優雅な振る舞い、社交慣れした物いいが、彼女とことばを交わす殿方の多くを磁力のように引き付けるのである。
36歳になったコワレフスカヤは、どんなに魅力的であったか、想像の域を出ないけれども、目の前の静止画の写真を見ながら、彼女を歩かせてみたいと想像するだけでも、社交界の華に見えてくるのは否定できない。
そこでこんどは、彼女はマクシムという男とめぐり会い、ふたりは恋人同士になる。
だんだん親しくなると、マキシムは彼女を独占したいとおもうようになり、
「自分と科学と、どっちを選ぶのか?」と詰め寄られる。
彼女には、もとより選択肢はなかった。修復できないまでにふたりの関係は、だんだんと泥沼化していく。
やがて彼女は、数学にも限界を感じ、文学にも興味を失い、たまにマキシムと旅行などして憂さを晴らす。そして1890年の秋、旅行から帰ったコワレフスカヤは風邪をこじらせ、化膿性肋膜炎という病気にかかり、苦しみのベッドの中で、翌年1891年に、41年の生涯をだれにも看取られず、ひとりひっそりと閉じた。
――ぼくは、もう少し若かったら、彼女の数学はわからないが、彼女の自伝的小説を読んでみたいとおもう。ヨーロッパのいろいろな言語に翻訳されているのに、日本版はなぜかない。














