「とろりとしたタック、レッシュな酸……」

㈱タナック社長のころ(2000年)

 

 

 

きょうは金曜日。小雨の降る中、静かな一日がはじまった。

朝の勤行は、そのときどきの発声の調子で、その日の元気度を表現するようだ。

コーヒーも飲まずに、「伝説になった女たち」(山崎洋子、講談社、1990年)という本を読み、芸術家をトリコにした世紀末ウィーンでの、アルマ・マーラーの話がおもしろいとおもった。

もとより、オーストリアは、ロマンの香りただよう国である。しかし現実の世界は、夢物語のようにはいかない。それはウィーンとて例外ではない。

このオーストリアの都は、産業革命の高い代償を払って成し得た都である。ウィーンの西駅のあたりは、ぼくの見た1960年代でも、風通しの悪い灰色のアパートが並び、黒々とした輪郭を浮かびあがらせる大きな家屋が建ちならんでいた。

アルマ・マーラーの立ち居振る舞いは、そのときどきの灰色の朝の街の背景のなかで、男たちの視線を惹きつけた。

きのうは近所の青年がやってきて、少しおしゃべりをし、じぶんの写真を撮ってもらった。さいきんは、写真なんか撮ることもなかったのだが、なんとなく、記念にワンカット撮ってもらった。

彼がイギリス映画が好きだというので、きょうは彼の映画の話を聞くことになった。

そういえば、イギリス映画を見ていて、こんなセリフを聴いたことがある。

「まだ氷はじゅうぶんにあるか?」と主人がきく。

「20ポンドほど残っています、ご主人さま」

そして、彼女は「I find it very difficult to keep ice cool」と付け加えた。

「ちょっと、もちそうにありません」というほどの英語なのだが、これを聴いたご主人は、いきなり顔を真っ赤にして怒り出した。

「I find it very difficultだと! おまえは、英語の辞典を丸呑みしたのか。そんなときは、can't keeping ice coolといえ! おまえたちが、小生意気な英語をしゃべるのを聞くぐらい腹立たしいことはない!」というのである。

動詞も冠詞もない、ピジン・イングリツシュ(pidgin language)をしゃべっていればいいのだというわけである。まあ、かんたんにいえば、中国人が使う日本語みたいなもので、ちゃんとしたことばじゃなく、実用本位の言語なのだ。

しかしこれは笑える話じゃなく、れっきとしたイギリス社会を象徴している話であり、階級意識が歴然としてあるわけだ。身分の卑しい者が、これを超えて話すと叱られるのだ。

「はい、ご主人さま、申し訳ございません。教養がないばかりに、気がつきませんでした」と応じなければならない。

まして、白人社会に生まれた黒人たちは、イギリスでもアメリカでも、生きてゆくには、流暢な英語をしゃべることは、決していい結果を生まない。

スタインベックの「エデンの東(East of Eden)」には、憎々しく書かれている。

舞台は、サンフランシスコの少し南で、いまはワインの産地として知られているけれど、そこには多くの黒人がぶどう畑で働いている。

旧約聖書の創世記におけるカインとアベルの確執や、カインがエデンの東へ逃亡する物語を下敷きに、父親からの愛を切望する息子の葛藤、反発、和解などを描いた名作である。「エデンの東」は、スタインベック渾身の力作だったが、ノーベル文学賞は「二十日鼠と人間」に与えられた。

先日、品のあるご婦人が、草加のマンションの玄関ホールで、おしゃべりしているのを偶然耳にした。

「このおりんごは、どちらで?」

「パリでございます」

「このサクランボは?」

「パリでございます」

「あらそう。……」

――奇妙な会話だった。「この、なら漬けは?」ときいたら、何と応えるだろう。

「なら漬け」には、「お」をつけてはいけない。――くだらない話だけれど、かたわらで聴いていておかしかった。そのころの日本は新型コロナウイルスまみれになっていたが、平和だった。平民が何をしゃべっても、――もう「平民」ということばも死後になったが、――だれも文句をいわない。

 むかし、「週刊現代」のコラム「葡酔亭日乗」に菅野なうさんが、いろいろワインについての薀蓄を述べておられた。その切り抜きがある。その記事を読みたくて、ぼくはこの週刊誌を読んでいるようなものだった。

「オンディーヌ」についての記事がおもしろい。緑がかった明るい蒸栗色(むしくりいろ)で、ネクター、カイザー梨、アカシアなどのフローラルなブーケ、……と書かれていて、「とろりとしたアタックと、フレッシュな酸、余韻がさーっと波のように引いていくのは温度がやや低いからでしょうか」と書かれていて、おもわず、目を見張った。

ワインスクールでの話である。

ぼくなんか、ちょっと抵抗を感じるのは、こういう文章である。

いっていることはだいたい分かるのだけれど、「とろりとしたアタック」といわれてしまうと、こっちが引いてしまいそうだ。わが国にも、こういうおしゃれな(?)会話を楽しむ人びとがいらっしゃる、というわけである。

19世紀のイギリスやアメリカで生まれなくて、よかったとおもう。

ヨーコは、上で呼んでいる。

「お父さん、きょうの夕食、外で食べない?」ときいている。

「いいとも! ……」

「マルイの8階? それとも、例のところ? どっち?」ときいてきた。

「マルイ、マルイ」

「わかったわ」といってヨーコは部屋に引っ込んでいった。――絵本画家のモーリス・ゼンダックさんは、亡くなったんだっけ? 

ヨーコにきいても、わからないか。あとで調べようとおもっていたら、そのうちにわすれてしまった。「かいじゅうたちのいるところ」(冨山房)。これは名作で2000万部も売れたそうだ。

きのう、某出版社の編集部から電話がきた。

「オオカミになりたい」、どうなりましたか? すすんでいますか? という質問だ。

ボルゾイ犬の絵がまだ描けなくて、困っていた。

「一行を読めば、一行におどろく」ということばがあるが、児童文学とはいっても、手はぬきたくない。ぼくの小説は、モーリス・ゼンダックさんとはくらべようもなく見劣りする。でも、一冊ぐらいは、じぶんの好きな本を出したいものである。

 

外交評論家・加瀬英明氏

 

先日、ある美術評論家の文章を読んでいて、「死んだ自然」ということばに目が止まった。西洋画におけるひとつのジャンルとして確立したもののなかに、静物画というのがある。ものごとの静止性を取り上げたことから「still life」とも呼ばれる。

つまり、「動かざる生命」と、その人はいった。

生の歓喜とその永続性をねがって描きあげるわけだけれど、ボルゾイ犬は、どうやっても、生きているような生命感が描けないのだ。死んでいるかのような絵になってしまう。

ぼくの失敗の原因は、それだ。四脚動物が走っているとき、4本の脚は、どうなっているか?

犬の腹の下で、4本とも、Ⅴ字形になる。馬もそうだ。これをちゃんと描きたいのだけれど、どうもバランスがよくない。

じっさいに走っているシーンの写真を見て思ったことは、人物描写のときに使うデッサンスケールというものを使えば、もう少しうまく描けるのではないか、そうおもった。「デスケル」という透かしフレームを使っても、いいかもしれない。

絵の技法のなかに、「ストリーミング分析」とか、光と影を分ける「ヴァリュー分析」という技法があるようだが、それらは静止画向きで、立体的な動きのあるものには、「ムーブメント分析」というものがあって、こっちはまだ試したことはない。

そういうわけで、絵のほうはもう少し、待ってもらうことにした。

午後6時。ヨーコは仮眠から起きて、何かしている。花を活けている。ヨーコは植物が大好きで、部屋じゅう植物だらけにしている。

「もうお仕事、おわったの?」

「おわった」

「……何か、変わったことありました?」こういう質問が毎日かならずある。もしもあるといったら、くわしく聴きたがる。

ヨーコは記憶力がよくて、一度も会ったことがない人でも、ぼくの話を聴いているだけで、その人物を脳裏にちゃんと記録していく。たいした女だなあとおもっている。

その人の好物は何か、ビールは飲むか、たばこは吸うか、メロンは好きか、嫌いなものは何か、どうでもいいことをちゃんと覚えている。

ぼくも初対面で名刺交換したときは、いただいた名刺の裏に、会った日付、好物などをあとで書き込んだりする。そうすると、いろいろ便利なことがある。これをヨーコは、脳みそに記録するわけである。

きょうも、何の変化もない一日がはじまろうとしている。年だけ365分の1日を経過するだけだが、頭のなかでは、読み切れないほどの、壮大な物語が進行している。

ときには「失われた時を求めて」みたいに、――プルーストの書いた長大な物語みたいに、克明に濃密な一日をあれこれ記録していく。

ときどき「ピープスの日記」みたいに、浮気・政治・金銭・わいろを「日記」に克明に記録していく。――その本の文中に出てくる「デブ」というのは、ピープスが雇った小間使いの女の子の愛称で、デボラ・ウィレットといった。

かねてより、

「わたしはこの娘の処女を頂戴しようと願っている。いっしょにいられる時間が稼げたら、必ずやそうなるであろう」と書いている。そして、デブが馬車に乗って家を出て行った日の夜、ピープス夫婦は、ふたり仲良くベッドをともにし、

「ここで忘れずに書いておかなければならないが、この夫婦喧嘩がはじまって以来、この一年間になかったほどたびたび、わたしは妻とともに寝た――そして妻には、思うにこれまでの結婚生活のどの時期よりも、より大きな快楽があったようだ」

と書くのである。

勝手にしろ! といいたくなる。

「ピープスの日記」は、ちょっとえげつないが、亭主の記録文学っていうイメージが思い浮かんでくる。アナイス・ニンみたいな、べたべたした粘着性のある記録じゃなくて、観察の鋭い日々のドキュメンタリーとしての記録である。サミュエル・ピープスは、一日の光と影の両方を描いた作家で、おもしろいと思いながら、全10巻のうち、5巻ほど読んだ。

――では、ここにじっさいに起こった、笑うに笑えない歴史的な出来事をあげてみよう。

アメリカの航空母艦がカナダ沖を走行していたら、前方に灯りが見えた。そのまま進めば衝突する。

艦長は無線でこういった。

「貴艦は当艦の進路上にあり、ただちに進路を変更されたし」

ところが、相手からは「そちらが進路を変更するを妥当と認む」という回答がきた。ナマイキなやつというので、ふたたび打電。

「貴艦の進路変更を重ねて要求する。こちらはアメリカ海軍の航空母艦インディペンデンスである」

ふたたび回答。

「貴艦が進路を変えるほうが賢明かと推察する。こちらはニューファウンドラン島の灯台である」

ナイジェリアの某将軍が国賓としてロンドンを訪れ、ヴィクトリア駅までエリザベス女王が馬車で出迎えたときの話である。いっしょに宮殿へ向かう途中の出来事だった。

ふりたが馬車に乗っていると、2頭のうち、1頭の馬が尾っぽを高くあげ、国賓目がけて大きなおならをぶっ放した。女王は、将軍のほうに向かってこういった。

「まあ、ほんとに、申しわけありません。いらして早々、こんな粗相をいたしまして、……」

「いや、どうも。……お気になさらないでください」といい、

「――わたしは、てっきり馬がしたのだと思っていましたから、……」と。

女王陛下は、これには何も弁解されなかったらしい。にがにがしい顔をして、「わたしじゃなく、馬が、……」といわなかった理由を知りたいとおもった。それはいいのだが、それから嗅いだこともない、強烈な臭いが充満したそうだ。

こんな話、ニュースにもならないけれど、だれかが、かげ口でささやき、ひろまったものかもしれない。やがて、加瀬英明さんの耳にも達したのだとしたら、なかば、公然たる話といえる。

彼の父は、外交官の加瀬俊一さんで、母・寿満子さんは、元日本興業銀行総裁小野英二郎氏の娘で、加瀬英明さんは、どのようないきさつでこのエピソードを聴くことになったか、それはわからない。日本外交のれっきとした本のなかに、この加瀬英明さんの話が出てくるのである。

だからマルセル・パニョールの劇よりおもしろいのだ。

事実は小説より奇なり、である。――最初にそのように書いた文献は、イギリスの詩人バイロンだった。彼の「ドン・ジュアン」という本のなかに「奇妙なことだが、しかし真実である。なぜなら、真実はつねに奇妙なるもの、まさに小説よりも奇なのである。But true; for truth is always strange: Stranger than Fiction.」とOEDには書かれおり、これが出典のもとになっているらしい。こういうことが、ぼくにはおもしろいのである。

13時50分発幌行き

 

ぼくは羽田発の午後の便で札幌ゆきのANA、ボーイング777を予約していました。その日ぼくはちょっと早めに出かけ、羽田で腹ごしらえをし、大急ぎで友人に手紙を書き、5月18日からはじまる、所沢で開かれる「第20回国際バラとガーデニングショウ」の招待状を送りました。そして、これから札幌に向かう話をつづり、運がよければ砂川で恩師に会うつもりです、と書きました。

機内はけっこう混んでいて、ぼくは前列の通路側の席に座りました。

そのときカバンのなかに持ってきた本は、ニコルソン・ベイカーの「もしもし(Vox)」(岸本佐知子訳、白水社、1995年)という本で、もう一度読みたくなったのです。

この種の小説を紹介してくださったのは、大学時代の中田耕治先生でした。先生はヘミングウェイの初期の短編をほとんど翻訳されています。以来、中田耕治先生とは御茶ノ水の喫茶店でコーヒーを飲みながらヘミングウェイの話を聴いたものです。

むかし文学部の教室で中田耕治先生の講義を受けていたころ、「ヘミングウェイみたいに」ということばをよく聞きました。ヘミングウェイみたいに、敗者には真心こめて尊敬のまなざしを向ける、ということば。「老人と海」に出てくる男は、マカジキとの格闘の末、ようやっと、やつを仕留めます。そしてマカジキのことを考えます。人間の価値は、マカジキのように絶望的な敗北を前にして、いかにふるまうか! 老人は、マカジキの覚悟をおもい知るのです。

そんな話をしながら、中田先生は教室でも、たばこを吸います。灰皿がなかったので、水の入った花瓶を灰皿がわりにしていました。

そのころは嫌煙権というものもなく、駅のホームにも、列車のなかにも、ちゃんと灰皿というものがありました。教室に灰皿がもしもあったとしても、ふしぎではありません。で、ぼくは数年まえ、ニコルソン・ベイカーの「もしもし」という小説を読んで、こういう小説はおもしろいな、とおもいました。ニコルソン・ベイカー(Nicholson Baker)は、1957年生まれの67歳。ぼくよりひとまわり以上若い。

 

「いま何着てるの?」と彼は訊いた。

「グリーンと黒の小さな星がついた白いシャツでしょ、それに黒のパンツ、グリーンの星と同じ色のソックスと、9ドルで買った黒のスニーカー」と彼女は言った。

「いまきみがどんな風にしてるのか、知りたいな?」

「ベッドの上に寝っころがっているところ。ベッドは珍しくメイクしてあって、これは今朝やったの。何か月か前に母が送ってくれた、昔うちで使っていたようなシュニールのベッドカバーがずっと新品のままで、何だか申しわけないような気がしていたんだけど、今日の朝になってようやくそのカバーでベッド・メイクしたの」

ニコルソン・ベイカー「もしもし(Vox)」より

 

――こんな書き出しではじまる「もしもし」は、米の作家ニコルソン・ベイカー中期の作品です。彼の作品はひじょうにショッキングな小説が多くて、いつもびっくりさせられています。それもむかしのことです。

いま彼は、何を書いているのか、ぼくにはわかりません。初期の傑作「中二階」という作品はすごかったなとおもいます。ひとりの男がエスカレーターをのぼっていく。ただそれだけの話なのですが、のぼった先で何か起きるのか、とおもうけれど、何も起こりません。

多くの読者は、きっと何か起きるにちがいないとおもって、先を読みすすむわけですが、いっこうに事件らしい事件も起きず、文章はたんたんと書かれていて、それなのに、息もつかせずスリリングな物語を読まされるというわけです。

これって、米短編作家の泰斗アンブローズ・ビアスじゃないけれど、彼の「いのち半ばに」に描かれているような、戦慄と戦いに明け暮れるある南部の兵士が処刑される瞬間を描いたものと、その戦慄の部分だけは、なんだかとても似ているような気がします。

一瞬を切り取って、あるものを、迫撃砲のように標準をさだめて狙い撃ちする処刑のシーン。それは非日常の世界を描いた物語なのです。処刑される男は、足元に流れる川を見て、おれはきっと生き抜いてみせるぞ! とこころに誓います。

「ねらえ!」の号令のあと、すこしたって、

「撃て!」の号令が発せられます。

そして、銃殺刑が完了するまでのほんの一瞬、彼は橋の踏板を蹴って、川にとび込みます。

後ろ手にされた男は、そんなことはどうでもいいとばかりに、水深くもぐり込み、息をこらえて泳ぎます。そして、どんどん泳ぎ、男はふるさとを目指して泳ぎきります。

そして岸にあがり、林のなかを一目散に走り、何日もかけて彼はふるさとにたどり着きます。そして、わが家で妻の姿を見て、おーい、と声をかけます。妻は振り返ります。妻に抱き着こうとした瞬間、――彼は銃殺刑にあうという物語なのです。

こんなに短い小説なのに、男の生きようとする本能は、まるで永遠の一瞬のように頭のなかに去来します。去来した物語だけを描いた小説。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋でのできごと」は、ぼくには忘れられない小説です。原書でも読みました。

この「中二階」も、はらはらどきどきがあり、それでいて、とてもユーモラスで、巨大なビルの中二階のオフィスに行こうとしている、ごくふつうのひとりの男の話なのです。

昼食のついでに、近くのコンビニエンスストアで、靴ひもを買い、ふたたびオフィスに戻っていく。そのオフィスにあがっていくほんの数10秒のあいだ、彼の頭によぎる出来事を描いたものです。ぼくは、この小説を読んで、それから20年もたってから、「晩生内まで」という小説を書いてみました。

北海道の晩生内(おそきない)は、国道275号線にそった小さな街ですが、冬場、クルマのオイルが抜けてしまい、晩生内で立ち往生しているという男を、クルマで迎えに行くという話を書きました。

そうして、運転しながら、「ぼく」は、むかしのことをいろいろ想いだすというストーリーなのです。書いてしまうと、ニコルソン・ベイカーとは似ても似つかぬ小説になりました。

ニコルソン・ベイカーらしいなと気づかされるシーンは、いろいろあります。人生を形づくっているものといえば、かなりの割合で、じつに細やかで、じつにあほらしいほどの些末な出来事や、モノの手触り感や、生活の手触り、――テクスチュアにいたるまで、――あらゆるモノに拘りながら、ああでもない、こうでもないといいながら何かをその都度決めずにはいられないのです。

たとえば、靴ひもが切れる原因について、ホッチキスのデザインの変遷について、ファーストフード店のストローが、紙からプラスチックに変わって不便になった話とか、牛乳の紙カートンのすばらしい機能性や、トイレの便座が家庭用はО型なのに、なぜオフィスではみんなU型になっているのだろうかとか、ミシンを発明した人は天才であるとか、……まあ、そんな話がえんえんとつづられていくわけです。

――これが「中二階」を読んだときのぼくの感想です。

小説「もしもし」の原題の「Vox」というのは、ラテン語で「声」という意味です。vox populi vox dei 「天声人語」でおなじみのことばですね。神の声、すなわち人の声。

で、フィクションではない現実の話は、じつに退屈なもので、こまごまとした、バカらしいほど些細な日常の縫い目の連続で、これこそが現実なのだとあらためて気づかせるというわけです。ニコルソン・ベイカーという作家は、作品から物語性というものをすっかり追い出してしまった、そういえるのではないかと。

さて、ぼくは本を閉じて、少し眠ろうとしていたら、隣りのシートに座っていた女性から声をかけられました。

「あのう、すみません、アテンダントの人、ちょっと呼んでいただけませんか?」というのです。

「ちょっと寒いので、お腹に当てるものを」といっています。

彼女のお腹は大きく膨らんでいました。臨月とはおもいませんでしたが、それに近いように見えました。ぼくは近くにきたフライト・アテンダントに声をかけました。すると、彼女は「お腹が寒い」といったのです。

「しょうしょうお待ちください」といい、ぼくのほうを見て、

「ご主人さまは、いかがですか? だいじょうぶですか?」ときいたのです。

「ぼくは、この人のご主人じゃありませんけど、ちょっと寒いですね」といいました。彼女は、にこっと笑みを浮かべ、折りたたんだ毛布を2つ持ってきました。

これで眠れそうだ、とぼくはおもいましたが、見知らぬ妊婦と隣り合わせになって、なんだか眠れなくなりました。彼女は札幌の人だろうか? とおもったり、夫の待つ北海道へ帰るのだろうかとか、余計なことを考えはじめました。彼女は30代に見えますが、じぶんが彼女の連れ合いと間違われたことに驚嘆していました。ぼくは帽子をま深くかぶっていたので、わからなかったのかもしれません。

まるで小説「もしもし」のつづきのようにおもわれ、ぼくはひとり笑いをしました。

「もしもし」は、彼の4作目にあたるそうですが、寡聞にしてぼくにはくわしいことは分かりませんが、がらりと趣きを変えて、そこにはふたりの男女が登場します。

アダルト・パーティ・ラインで出会った一組の男女がおたがいの声に惹かれ合い、「奥の個室」と呼ばれる1対1のラインに移動して、えんえんとことばの遊戯を繰り広げる、という小説です。

――ぼくはラインは少ししかやりませんが、スカイプをやった経験があります。そこでは「会議」と呼ばれる仲間のひとりの紹介で、スカイプに加わったことがありました。けれども、夜中のためか、10人いれば、うち1、2人は眠っていたりして、おもしろいとはおもえませんでした。だいたいいつも1対1でやります。まあ、それと似ているかもしれません。

「いま何着ているの?」からはじまって、最後にヘッドセットのスイッチを切るまでが、リアルタイムで克明に描かれていきます。小説みたいに、説明の部分は少しもなくて、そこはとってもリアルです。ふたりは大学を出ていて、「隠しごと」はいっさいしないというルールを取り決めてやり合うわけです。

ふたりの会話は、セックスのまわりをぐるぐるまわって、ときどき脱線したり、別の方向に話がすすんだりしながら、

「20分ぐらいかけて、少しずつ明るくなっていくんだ。いまはまだうんと深いオレンジ色の光だ。もちろん、こんなにあくせくした毎日じゃ、めったに眺める機会はないけれど、でもたまに見ると、本当に美しいと男う。あんまりゆっくりした変化なので、光の強さが増してだんだん明るく輝いて見えるのか、それとも空が暗くなっていくせいなのか、わからない――もちろんその両方なんだけれど、どっちが主でどっちが従なのか判別できない。そしてある一瞬、たぶんあと5分ぐらいしたら、街灯の色と空がまったく同じ色、あのグリーンとスミレ色と黄色を混ぜあわせたような色になる瞬間がある。すると、通りの向かいにある街樹の葉のなかのその部分だけぽっかり穴が開いて、その向こうに空がのぞいているように見えるんだ」

――こういう会話がたくさんあって、えんえんとつづきます。

これは、ことばを使った一種のゲームのようでもあり、ことばだけで、おたがいに刺激し合い、「仮想愛」をつくりあげていく。

「もしもし」はまぎれもなくセクシーな小説ですが、それは、「セクシーであるように」という意味なのでしょう。どう見ても、そこには仮想ゲーム以上の発展はありません。それはそうでしょうとも! ふたりは顔を突き合わして会話をしていても、けっし手で触れることもできないわけですから。

ストイックなまでの展開なのです。そういうストイックなものがあればあるほど、気分はよりセクシーになる、というのでしょうか?

やがて千歳空港に着いて、ボーディング・ブリッジを歩くとき、ぼくは彼女の荷物を押してあげました。そこから札幌に向かう電車のなかでもぼくらはいっしょでした。彼女はこれから幌内に向かうのだそうです。ゴールデン・ウィークを利用して、夫の田舎に少し遅れて向かうのだそうです。はじめての子供が生まれるのが嬉しいという話を聞きました。彼女の幸せそうな顔を見て、祝福したくなったものです。

「いつ生まれますか?」ときくと、

「来月の予定です」と、彼女はいいます。ああ、この人は心底から幸せなのだなと、ぼくはおもいました。そしてお互いの人生のほんの束の間、ぼくとことばを交した。もうふたたび会うことはないのだ、とおもいました。お別れするとき、

「いろいろ、ありがとうございました」と彼女はあいさつしました。それは、巨大な未来の壁に立ち向かう永遠の「声」のように聞こえました。

江藤淳の「と私」「年時代」を再再読して

幸せなころの江藤淳と妻・慶子さん

 

ぼくは、会社を経営していた1999年ごろから5年間、港区大門の都心のマンションに住んでいた。そのころは、文科省がすぐ隣りで、官僚たちの街だった。

そのころ、年若い友人が三田に住んでいて、よく三田の慶応義塾大学で待ち合わせをした。友人の友人はまだ学生で、慶応ボーイとはいかないが、大学から入学してきた北海道出身のいなか育ちの男で、文学部英文科3年生だった。

「だったら、江藤淳を知ってるだろう」とたずねると、知らないという。日本のジャズ・ピアニストの守安祥太郎を知ってるか? ときくと、それも知らないという。

なんだ、こいつは? とおもった。

やっぱり、こいつは慶応ボーイじゃないな、とおもった。

 

 

 

俗にいう「慶応ボーイ」というのは、幼稚舎からずっと無試験で大学まであがってきたやつらのことをいい、必ずしも成績優秀なやつらではない。そういう生え抜きの学生をいうのだが、三田の丘の上には、ぼくなどには居心地の悪い、落ち着かない空気を溜めていた。だが、みんな若く、さわやかなキャンパスだった。こっそり授業を受けたりしていた。

ぼくは英文学については、ロシア文学ほど情熱をあげていなかった。

山本夏彦の本に「米川正夫論」というものがあり、一度読んだことがあるが、それについて、くわしく論じた本が、向井敏氏の「文章読本」という本なのだが、それを読むには読んだが、もうすっかりわすれてしまい、もう一度読み返したいとはおもわない。

われわれの世代は、ロシア文学とえば、なんといっても米川正夫であり、中村白葉であり、原久一郎である。

すべてロシア語から直接翻訳をした人たちである。ことにトルストイ、ドストエフスキーの翻訳は、この3人が独占していた。そして同時に、「翻訳文」というものを確立したのも彼らだった。

なかでも、米川正夫の訳文は名文といわれていた。それまで作家たちが使わなかったことばを使った。だから、すらすら読めない。熟読吟味しながら読むしか方法がない。たとえば、――

 

かれこれ一時間ばかりすると、廊下に足音がひびいて、さらにノックの音が聞こえた。二人の女は今度こそ十分に、ラズーミヒンの約束を信じて待っていた。案のじょう、彼はもうゾシーモフをつれて来たのである。ゾシーモフは即座に酒宴を見捨てて、ラスコーリニコフを見に行くことに同意した。しかし、二人の婦人のところへは、酔っ払ったラズーミヒンが信用できないので、だいぶ疑念を抱きながら、いやいややって来たのである。ところが、彼の自尊心はすぐ落ちつかされたのみならず、うれしくさえなってきたほどである。実際、自分の予言者(オラクル)のように待たれていたことを、事実に合点したからである。

(ドストエフスキー「罪と罰」、米川正夫訳)

 

棒線部分の「彼の自尊心」というのは、だれのことか?

ゾシーモフのことを指している。

この文章は、一読してただちに理解できる人は、かなりの読書家であろう。このような文章を読まされると、読者はいいようもない苦痛を強いられる。山本夏彦氏のいうドストエフスキー文学の輪郭は、そういう米川正夫によってつくられた。

さて、森鴎外の文章はどうか? ――たとえば、

「午前六時汽車は東京を発し、横浜に抵(いた)る。林家に投ず。此()の行の命を受くること六月十七日に在りき。徳国(ドイツ)に赴いて衛生学を修め、兼せて陸軍医事を訽(たづ)ぬるなり。……」

と書かれている。

これは漢文で書かれた「航西日記」を読み下し文に書きなおしたものである。

いまさらながら、若いころの鴎外のみずみずしい文章に魅せられてしまう。漱石とはちがうのだ。――明治17年8月24日、23歳の森鴎外林太郎は、フランスの商船メンザレー号に乗ってドイツへと旅立つ。

鴎外の「航西日記」や「独逸日記」に描かれた文章はいかにも硬質で、文体は、見ればおわかりのように、きびきびしていて、気骨あふれる文章である。

ぼくはこういう文章にあこがれた。

長谷川如是閑もいいけれど、鴎外もいい。しかし、ぼくは永井荷風の文章は、鴎外より多くの時間を海外で過ごしているけれど、鴎外のような気骨は少しも感じられない。

さて、江藤淳が「妻と私」を書いたのは、自殺する少しまえだった。

――実は、ぼくはその話をしたかったのだ!

 

江藤淳。東工大教授のころ

 

江藤淳の「妻と私」は、「文藝春秋」に一挙掲載されたものだった。そのときに、ぼくはすでに読んでいた。

文庫本「妻と私 幼年時代」(文春文庫、2001年)の巻末の解説に、石原慎太郎が「追悼 さらば、友よ、江藤よ!」と題して長文の記事を寄せている。冒頭に「今日鎌倉で、江藤淳の骨を拾ってきた」と書かれている。

この本は、そのころ買い求めたものだが、さいきんヨーコが読んでいたらしい。寝室のベッドの枕元に、本が裏返しになって伏せられていた。その装丁がすばらしいと思い、スキャナーでスキャンした。

そして、なつかしい気分になった。

小島信夫の「抱擁家族」は、そもそも、この家の崩壊は、戦後すでにはじまっていた物語なのだ、――と江藤淳は書いた。

駐留軍の米兵と不倫する時子は、男らしくない亭主に、もうあきあきしていた。家長としての俊介は、家長らしくない振舞いをし、なにごとにもためらい、なにごとにおいても未決断でとおし、優柔不断で、なにもしない。

時子の心理的な動揺と肉体的な危機とが、つねにオーバーラップして追い打ちをかけていく。だが夫の俊介は妻の姦通をとがめることもできず、家庭の再建に右往左往するばかり。妻を閉じこめるために塀のあるおおきな家をつくり、アメリカ式の別荘風の家をつくったものの、まもるべきその「家は」、もう「主婦」のいない家となり、無用の家となっていく。――江藤淳の論述はいよいよ冴える。

この小説は、昭和40年「群像」に一挙掲載され、単行本として講談社から出た。この作品は多くの評論に取り上げられ、江藤淳の「成熟と喪失」(昭和42年、河出書房)をはじめ、磯田光一の「小島信夫の文学」(昭和46年、講談社文庫「抱擁家族」の解説)、平野謙の「文芸時評」(下 昭和44年、河出書房新社、昭和44年)にも取り上げられている。

つぎに、江藤淳は、安岡章太郎の「浜辺の光景」では、「成熟と喪失、――母の崩壊」を論じた。びっくりするほどの説得力をもっていた。

作品「浜辺の光景」は、1959年に出た。作者の但し書きによれば、「かいへんのこうけい」という。「はまべ」と読んではならないと書いている。

戦前の家庭では、「父親そっくりに子供を育てることが母の務め」だった。戦後は、《母》の崩壊で、家の家長制資本主義社会における別の《母》を描き、息子には父親よりも出世してほしいと願う母が描かれる。それは本来は、あり得たはずの父親像を、こんどは息子に託す家族の姿を描いたことになると論じている。

昭和40年ごろ、ぼくは夏目漱石についての論文を書いた。

江藤とおなじ「夏目漱石論]と題されていた。それを読んでくださった文芸評論家の平野謙氏が、ぼくを呼んで注意してくださった。そして、江藤が学生時代(慶応義塾大学文学部英文科)に書いた「夏目漱石論」のポイントを要約してくださった。

はっきりおぼえていないけれど、「おまえには、書けない」という意味のことを、さりげなくおっしゃったのだと思う。

わずか100枚程度の論文だったが、江藤淳が書いたような、きらりと光るものは何もなかった。すでに知られていることを、漫然とならべたにすぎない。

論文というものは、どういうものかを改めて教わった。

あとで考えたら、学生が一流の文芸評論家の平野謙氏に、あつかましくも論文を持っていったというのも、いま思うと、赤面のいたりである。ぼくは、あんなに偉い先生とは知らなかった。教授と学生という間柄ではあったが、よく、ちゃんと最後まで読んでくださったものだと思っている。

「これは何という字?」

 

 江藤淳「妻と私 幼年時代」、文春文庫

 

原稿に書かれている漢語を指さして質問された。

「烟滅(えんめつ)」という字と、「衍(はびこ)る」という字の読みと意味について質問された。論旨については何もおっしゃらなかった。いうまでもないと思われたのだろう。

そして、おっしゃった。

「こういうときは、ルビを付すように」と。たったこれだけしかいわれなかった。ぼくは少なくとも、文芸評論家にはなれそうにない。そう思った。

大学の講座には「評論研究」というものがあった。

そのころぼくは、ドストエフスキー文学にのめり込んでいた。ベリンスキーという批評家がいたので、ドストエフスキーは文壇にデビューすることができたと書かれている。そのいきさつについては、よく知られている。批評家とはそういうものだと思う。

マシュー・アーノルド、レズリー・スティーヴン、アーサー・キラークーチ、夏目漱石、ゴア・ヴィダル、エドワード・サイード、チャールズ・スクラッグス、……いろいろいる。研究家であり批評家でもある。

とくに、夏目漱石の評論は、東西一流のものである。漱石は評論家としては生きなかったが、その「文学論」、「文学評論」はつとに知られているばかりでなく、多くの批評家デビューの礎となった。

江藤淳も、もともと慶応ボーイではなく、日比谷高校から入っている。

昭和25年、江藤は都立一高――のちの日比谷高校――の学生だったが、弁舌さわやかに弁じ立てて、仲間たちを煙に巻いた。その年、日比谷高校と改称され、江藤は福田恒存の「キティ颱風」を三越劇場で見て感動して帰る。

そして昭和28年、東京大学を受験したが失敗。

慶応義塾大学英文科にすすむ。そして山川方夫(まさお)を知る。江藤は、東京・銀座の並木通りにあった「三田文学」の編集部にひょっこり顔を出す。山川方夫からなにか書くようにいわれる。

「日本の作家について書け」

江藤はそのとき、夏目漱石、小林秀雄、堀辰雄の3人の名前をあげた。そして、「ほんとうは、漱石をやりたいんです」と付け足した。

「じゃ、漱石を書きたまえ!」

そうして江藤は書きあがった原稿を編集部に持って行った。すると、

「いいか、きみは、大事なことを簡単にいいすぎるんだよ。簡単に書いちゃだめだよ」といわれる。

そうしてできたのが、「夏目漱石論」だった。

ぼくらの世代は、山川方夫の小説は群を抜いてひろく読まれていた。日本にはこういう作家はいなかった。こうしてできた「夏目漱石論」は、江藤の生涯を決定づけた。これまでの「漱石神話」をぶち壊したのである。

平野謙教授は、それをいいたかったのかも知れない。

江藤の書いた「妻と私」は、そういう評論ではない。ながく連れ添った妻があっけなく亡くなり、江藤は呆然とする。その話の一部始終が書かれている。

これは多くの日本人のこころを揺さぶった。そして多くの人びとによって「妻と私」が書かれ、出版され、ちょっとした出版ブームを巻き起こした。

江藤淳の代表作「成熟と喪失」は第三の新人の作品を素材にして、文学における母性について論じた代表作である。――第三の新人とは、1950年代の中ごろに新人の多くが芥川賞を受賞して、文壇に登場してきた作家たちのことである。その新人というのは、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、小沼丹、曽野綾子、三浦朱門の7人である。

のちに、これに遠藤周作を加えて8人となった。

ぼくが学生だったころは、第三の新人たちの小説が圧倒的に多く読まれた。最も多くの関心を持って読まれた作家は、それよりも若い、大江健三郎、開高健、石原慎太郎、江藤淳だった。批評家では江藤淳が多くの関心を持った。江藤淳のいう「異化」、――芸術において、言葉は異化されなけれはばならない、というシクロフスキーの言葉について、大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」などの諸作を通して、ぼくは学ぶことが多かった。

ぼくが大学に入学したのは、1962年だった。

そのとき江藤淳は、米プリンストン大学にいた。江藤淳は、そこで日本文学を講じていた。妻慶子さんもいっしょだった。

アメリカの大学側は、特に「勉強をしなくてもいいから、1年間過ごして、アメリカのいいところを実感してほしい」という意味のことをいわれたという。その前には、小島信夫、阿川弘之、安岡章太郎、有吉佐和子といった人たちがすでに渡米していた。そういうことも刺激となって、ぼくは、ようやく日本が渡航の自由化を迎えた1964年に、ロンドン大学に留学することができた。当時は無試験だった。

 

そして、……。

1998年暮れ、慶子さんが死去。

1999年7月21日、江藤淳は、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀をつかい、手首を切って自殺、66歳没。

妻の葬儀のあとのことで、じぶんも脳梗塞の後遺症に悩んでいた。

ライフワークであった「漱石とその時代」は、数回を残し、未完に終わっている。妻の闘病生活を綴った「妻と私」を残し、つづく「幼年時代」も未完に終わっている。江藤には、余命が残されていなかった。

それを知った江藤は、どんな気持ちがしただろうかとおもう。

慶子さんのいない生活は、どんなに寂しくて、空しいことかを知ったに違いない。

葬儀は神道形式で行なわれ、慶子夫人との間に子供がいないため、喪主は実妹が務め、石原慎太郎らが弔辞を読んだ。

「妻と私」は、妻・慶子さんとの幸せな日々を思い出すように書かれた記録である。

慶子夫人の「治療不能のがん」の診断がくだされてから、江藤は、彼女に付ききりの看病がつづき、否応なくせまる死、そして臨終の時を経て、江藤自身も病魔におそわれ、死の淵にたった。

江藤は、おしっこの排泄器官が異様に腫れあがり、大腿部の皮膚が真っ赤になって、男の排泄器官はほとんど使えなくなった。

こうなると、前立腺だけの問題ではなくなり、全身におよぶ劇症肝炎を誘発するたいへんな事態となった。感染症で敗血症になれば、死ぬしかない。

夫婦って、いったい何だろう? 江藤は深く考えたに違いない。

――そうして書かれたこの本は、大きな反響を呼んだ。

これを書いてしばらくたち、江藤はさらに「幼年時代」を書き、とうとう完成を見ずに自殺した。ぼくは彼の死を知って、同情を禁じ得なかった。慶子さんとの幸せな夫婦の写真を見て、江藤の問う「夫婦って何だろう?」と、強く思った。

変容する日本語、ジタル・フォント時代の

 ダンテ「神曲 地獄篇」、河出文庫

 

ながい間、探しもとめていた本が、見つかったときは、嬉しい。向井敏氏の「文章読本」という本だった。

書斎にはなくて、寝室のデスクの引き出しのなかから見つかった。

こんなことって、あるのだ。1988年に文藝春秋社から出た本で、この種の本はあまたあるけれど、作家でもない向井敏氏の文章は、忘れがたい。

じぶんは、若いころ、寿岳文章の本が好きだった。彼は大学在学中、新村出、柳宗悦と親交をむすび、河上肇に私淑する。その彼がダンテの「神曲」を翻訳して話題になったことがある。

その「地獄編」の第3歌は、こう訳されている。

 

 われをくぐりて 汝らは入る なげきの町に

 われをくぐりて 汝らは入る 永劫の苦患(くげん)に

 われをくぐりて 汝らは入る ほろびの民に

 

これはどう見ても、文語訳である。おなじ文語訳では上田敏のほうが、よく知られているだろう。

 

 こゝすぎてかなしみの都(まち)へ

 こゝすぎて とはのなやみに

 こゝすぎて ほろびの民へ

 (上田敏訳「地獄編」より)

 

ところが、寿岳文章をあらためて読んでみると、なかなか味わいがある。「われをくぐりて……」が、いい。山本夏彦の本に「米川正夫論」というものがあり、一度読んだことがあるが、それについて、くわしく論じた本が、向井敏氏の「文章読本」という本だった。もうわすれてしまい、もう一度読み返したいとおもっていた。

われわれの世代は、ロシア文学はなんといっても、米川正夫であり、中村白葉であり、原久一郎である。すべてロシア語から直接翻訳をした人たちである。ことにトルストイ、ドストエフスキーの翻訳は、この3人が独占した。そして、「翻訳文」というものを確立した。

米川正夫の訳文は名文といわれていた。それまで作家たちが使わなかったことばを使った。だから、すらすら読めない。熟読吟味しながら読むしか方法がない。

たとえば、――

 

かれこれ一時間ばかりすると、廊下に足音がひびいて、さらにノックの音が聞こえた。二人の女は今度こそ十分に、ラズーミヒンの約束を信じて待っていた。案のじょう、彼はもうゾシーモフをつれて来たのである。ゾシーモフは即座に酒宴を見捨てて、ラスコーリニコフを見に行くことに同意した。しかし、二人の婦人のところへは、酔っ払ったラズーミヒンが信用できないので、だいぶ疑念を抱きながら、いやいややって来たのである。ところが、彼の自尊心はすぐ落ちつかされたのみならず、うれしくさえなってきたほどである。実際、自分の予言者(オラクル)のように待たれていたことを、事実に合点したからである。

(ドストエフスキー「罪と罰」、米川正夫訳より)

 

棒線の「彼の自尊心」というのは、ゾシーモフのことを指している。この文章は、一読してただちに理解できる人は、かなりの読書家であろう。このような文章を読まされると、読者はいいようもない苦痛を強いられる。山本夏彦氏のいうドストエフスキー文学は、そういう米川正夫によってつくられた、といっている。

さて、森鴎外の文章はどうか? ――たとえば、

「午前六時汽車は東京を発し、横浜に抵(いた)る。林家に投ず。此()の行の命を受くること六月十七日に在りき。徳国(ドイツ)に赴いて衛生学を修め、兼せて陸軍医事を訽(たづ)ぬるなり。……」

と書かれている。

これは漢文で書かれた「航西日記」を読み下し文に書きなおしたものである。

いまさらながら、若いころの鴎外のみずみずしい文章に魅せられてしまう。漱石とはちがうのだ。明治17年8月24日、23歳の森鴎外林太郎は、フランスの商船メンザレー号に乗ってドイツへと旅立つ。

鴎外の「航西日記」や「独逸日記」に描かれた文章はいかにも硬質で、文体は、見ればおわかりのように、きびきびしていて、気骨あふれる文章である。

ぼくはこの文章にあこがれた。長谷川如是閑もいいけれど、鴎外もいいぞ! とおもった。

しかし、ぼくは永井荷風の文章は、鴎外より多くの時間を海外で過ごしているけれど、鴎外のような気骨は少しも感じられなかった。

鴎外という人は、日本が近代国家として形づくられていくなかで、特殊なあの20年間と重なり、明治21年に帰国するまでの彼の青春は、まさに6年間のドイツ留学のときに開花したもので、それからというもの、鴎外は精力的な活動を開始していく。明治21年から26年までの鴎外は、まるで取り憑かれたように創作活動に打ち込んでいる。

たとえば「舞姫」、たとえば「於母影(おもかげ)」、「月草」、「かげ草」におさめられたおびただしい評論や海外の文学作品の紹介文など。

また活躍の舞台となった「しがらみ草紙」の編集や、医学雑誌の刊行などはいうにおよばず、軍医学校では、校長として5年間の学校教育分野に乗り出すなど、明治24年には医学博士号を取得して、軍医としてのドイツ医学分野の指導をおこなうなど、漱石や藤村とは違った、公人としての生き方をしている。

おもしろいのは、美術学校では一芸術として解剖学を教え、慶応義塾大学では審美学を教えたりして、印象派絵画の理解者としての論文もたくさん書いている。

鴎外が帰国したのは1888年(明治21年)9月8日で、それからわずか数ヶ月のうちに「小説論」を書きあげ、翌年の1889年1月には読売新聞に、そのころの考えを発表している。これが、鴎外の文芸批評の第一声である。

これはその後、「エミール・ゾラが没理想」というタイトルに改題されたりして、1896年の最終稿「医学の説より出でたる小説論」へとかたちを整えていく。この処女論文で、鴎外が取りあげたのは、エミール・ゾラにかんすることである。マネの絵とエミール・ゾラとの関係を描き、マネの絵を擁護しつつ、ゾラの小説をも擁護している。

 

マネの「草上の昼食」

 

知られているように、マネが1863年に発表した「草上の昼食」という絵は、政府が開催する公募展に落選した絵である。

落選したものたちの不満は多く、皇帝ナポレオン3世は一計を案じ、落選した作品ばかりをあつめて展覧会を催した。この異例の試みは「落選展」と呼ばれ、サロン展と並行しておこなわれたわけだが、この話はよく知られている。

ここでいう「サロン」というのは、フランスのアカデミー展覧会がルーブル宮のサロンカーレで開催されたことから、一般に「サロン展」と呼ばれるようになったもので、そのころ、約2ヶ月の会期に訪れた観覧者は、なんと30万人もいたといわれている。現在の万国博覧会の雰囲気だったかもしれない。

当時パリの人口が180万人だから、――現在の札幌市とだいたいおなじ人口で、――6人に1人が訪れた計算になる。そのサロン展に落選したマネの「草上の昼食」は、ひときわ目立ったに違いない。

鴎外の文章は、ぼくはさっき硬質だと書いた。それは、なんとなくだが、一見して空海の文章に似ている。ちょっと見てみよう。

 

 同法同門 喜遇(きぐう)深し

 空に遊ぶ白霧 忽ちに岑(みね)に帰る

 一生一別ふたたびまみえ難し

 夢に非ず思中に数数(しばしば)尋ねん

 (手紙にそえられた空海の詩より

 

これは、唐をあとにするとき、空海が青龍寺の義操(ぎそう)に与えた詩といわれている。

――ここで、空海について少し書いてみたい。

空海は、恵果から、密教両界の伝法阿闍梨位(あじゃりい)の灌頂を受け、日本への帰国をいよいよ決意したときの惜別の詩である。

「同法同門」、そして「一生一別」というように、おなじことばを重ねて対句で韻を踏むのを空海は得意としていたようだ。「白く見える霧が、岑々(みねみね)に帰っていくように、自分もまた国に帰る」というのである。

これは、空海が唐に留学してまだ2年に満たないけれども、日本に帰朝する日を迎えて、世話になった方々に惜別のおもいを吟じたものである。「一生一別ふたたびまみえ難し」が、空海の心境を吟じて、ひじょうに感動的である。

ぼくは、こんなふうにして人と別れたことはないけれども、こころのなかでは、これに似たような惻々たる感情を抱いた。

恵果から灌頂を受けるについては、仏門にあっても、礼を尽さなければならない。留学僧の空海はひどく貧しく、ごくごく粗末な袈裟と、七宝をちりばめた手香炉(しゅこうろ)しか持っていない。空海はそれを恵果に献じているわけである。

そのときにしたためられた書簡が、以下の文章である。

 

弟子空海、稽首和南す。空海、生縁は外、時はこれ仏後なり。常に歎くらくは、迷霧氛氳(ふんうん)として慧日見難きことを。遂に乃(すなわ)ち影(自分自身のこと)を蒼嶺に遁れて、飾(かざり 剃髪)を緇林(しりん 教団)に落す。篋(はこ)を鼓()ちて津(渡し場)を問い、履(わらぐつ)を躡()いて筏を尋ぬ。

 

さとりの叡智が、霧に深くとざされているのを歎き、出家を志したとある。始業の合図に鼓を打ち鳴らしたことから、気分をひきしめて、篋(はこ)から勉強道具を取り出すというほどの意味だろうか、水をわたる人は浮き袋を大事にするように、戒律を大事に守ってきたという。

しかし、仏の三密を自分の心にあきらかにして、菩薩の十地の修行をきわめようとしても、空しく名声を聞くだけで、その人に会ったことはない。いま、その師たる人にようやくめぐり会えた、それはあなたであると。

十二月。午前八時三十分ウユルツレルと共に滊車に上りて、来責(ライプチッヒ)を発す。一村を過ぐ。菜花盛に開き、満地金を布()けり。忽(たちまち)にして瀰望(びぼう)皆雪なり。蓋蕎花なり。ウユルツレルの曰く。石油の用漸く広くなりしより、菜花の黄なるを見ること稀なりと。路傍の細溝、水皆鉄を含む。メツケルンMeckernに至る前、褐色炭層を望む。又一村を過ぐ。林檎花盛に開く。櫻梨の如きは皆已に落ち尽せり。ムルデMulde河を渡る。源をエルツゲビルグErzgebirgeに発すと云う。

森鴎外林太郎「独逸日記」より

 

鴎外の明治18年5月12日の「独逸日記」の記事には、このようなことが書かれている。このあと、10時15分にはリーザという小さな駅に停まるのだが、2時間ほどの汽車のなかで、このような記事がたくさん書かれていて、これを読むと、じぶんまで汽車に乗って旅をしているかのような心地がしてくる。――ふたりとも、すばらしい文章家だと、認めざるを得ない。

例はいずれも古いけれど、日本語としてかぎりなく澄明である。

戦前・戦後の翻訳語をへて、いま日本語の文章は、大きく変わった。

鴎外はいうにおよばず、中島敦の文章も、もう読まれなくなった。、長塚節の長編小説「土」も読まれなくなった。

60年代のティ・オブ・

 

朝日がのぼると、ビルの麓(ふもと)のあちこちに強い影ができ、遠くから見ると、外濠川(そとぼりがわ)に沿った水にうかぶ船のような建物に見えた。なかでも有楽町の朝日新聞社の社屋はモダーンな建物の姿をしていた。

昭和40年代まで、有楽町には、朝日、毎日、読売の三大新聞社があったため、ロンドンの新聞街にあやかって「日本のフリート・ストリートFleet Street」などと呼ばれたりしていた。

そこはまさにシティ・オブ・ロンドンの主要な道路のひとつに見えた。

その読売新聞の朝刊婦人欄に、毎週コラムを書くことになるなんて、考えてもいなかったし、朝日新聞の日曜版に毎週コラムを書くことになることも夢想もしていなかった。

それが大学を出て数年後に実現した。

朝日新聞社から住宅情報雑誌が発刊されると、㈱リビングデザインセンターを代表してさっそくじぶんも加わったりした。住宅雑誌数本、ファッション誌「男子専科」「メンズクラブ」にレコードの紹介記事などを書かせてもらった。たぶん、そのころ将来、男子の服飾評論家となる出石尚三さんとのおつき合いで実現したのではないかとおもわれる。

出石尚三さんとは、彼がデビューする前にすでにふたりは付き合っていたのだった。ぼくは、出石尚三さんと知り合う前に、彼の師匠であるファッションの大家・小林秀雄先生をすでに見知っていた。

60年代に入って、ファッション界はアメリカのアイビーへとシフトした。その象徴となるのが、1965年に発刊された「TAKE IVY」という写真集だった。アメリカの東海岸の8校からなる名門私立大学を総称したアイビーリーグ校、アイビーリーガーのファッションは人気が出てきた。

ぼくはそのころ、石津健介さんとよく会っていた。明治大学の先輩にあたる方だった。そのころだった。アイビーリーガーの大学といえば、なんといっても慶應義塾大学だったなとおもう。

ぼくはいつも、銀座から自転車で晴海通りを突っ走り、三田の慶應義塾大学のキャンパスに出かけていた。そこにピアノの名手がいた。

あの軽やかな慶応ボーイ、ヨット部の主将にして、戦後のジャズ界の最先端をゆくモダン派の巨匠だったし、昭和の天才ジャズピアニストは、31歳の若さで、目黒駅のホームから身を投げて自殺した。

何があったのだろうとおもう。

その名のとおり、守安祥太郎は「風のように走りぬけて行った」音楽家だった。ぼくは、その伝説の男のことを知らずにいた。新宿のピットインで仲間から守安祥太郎の話を聴くまでは。

ぼくは彼と会ったことはなかった。 中村八大が守安祥太郎にかわって、コンサートピアノのイントロを引き受けていた。ぼくはかつて、明大マンドリン倶楽部に所属し、中村八大の軽やかなピアノ演奏に聞き惚れていた。

中村八大といえば、坂本九の「上を向いて歩こう」だろう。

石原慎太郎の「太陽の季節」も戦後の時代を塗り替えた出来事だったなとおもう。

 

 

坂本九「上を向いて歩こう」

 

ぼくは学生のころからクラシック音楽が格別好きだった。

レコードを聴いてその記事を書くと、原稿料のほかに、LP判のレコードをいただけるのだ。それが欲しくて書いた。ぼくは27歳くらいから毎週、音楽漬けになっていた。なかでもピアノ音楽が好きだった。

ぼくが朝日新聞社のちょっと奥まったところに建つ別館に足を踏み入れたのは、昭和37年の2月半ばだった。その外濠川(そとぼりがわ)はすでに埋め立てられ、「君の名は」で知られる数寄屋橋ももうなかった。

目の前にあったのは日劇だった。

「これが日劇かあ」とおもった。

有楽町と朝日新聞社のあいだには、戦後のマーケットのような商店街がにぎわっていて、そこは学生らにも楽しいところだった。

なぜなら、ベトナム戦争の前期だったため、そこに米海兵隊員も大勢やってきて、まさにロンドンのような街角に見えた。

近くのジュークボックスが鳴りはじめると、若者たちがあつまってきて路上で踊りはじめた。日本人の女の子らも踊っていた。背の高いセーラー服を着た黒人兵らも、彼女たちの腰に長い腕をまわして、音楽に合わせてスイングしていた。

彼らのしゃべることばは、聞いたこともない米語だった。

有楽町界隈(かいわい)には、映画館があり、デパートがあり、三大新聞があったころの駅前には、「すし横丁」という飲食店街ができていた。その「すし横丁」が解体されて建てられたのが、交通会館だった。

じぶんがはじめて有楽町に足を踏み入れたのは、まさに交通会館が建築中のころだった。ビヤ・レストラン「レバンテ」――レバンテ (Levante 風) というのは、地中海西部に吹きつける東風のことで、それも移転してしまった。三大新聞も、やがて有楽町から姿を消し、毎日は竹橋へ、読売は大手町へ移転し、朝日だけまだ有楽町の一角を占めていた。

有楽町駅の高架下、そこは「焼鳥横丁」と呼ばれ、赤ちょうちんが並んでいた。夜になると、そこは学生らも姿をあらわす。

激変する東京の街だが、有楽町のあたりはむかしから少しも変った印象がない。いまもって、その姿をとどめている。

いまでもぼくの足は、しぜんと交通会館のほうに足が向いてしまう。絵画のギャラリーが多いのも楽しいし、物産館が多いのもうれしい。ヨーコに「馬油」をよく頼まれる。有楽町と馬油。――まあ、わが家ではそう呼んでいる。

朝日新聞社別館の2階のオフィスは広く、活気に満ちていた。ぼくがそういう朝日新聞社に関係する仕事に就くことに、なんとなく誇らしいような気分になった。

「北海道から、よくいらっしゃいましたね。疲れたでしょう」といって、お茶をすすめられた。ほんとうは珈琲を飲みたかったが、それはいえない。

40歳ぐらいの男は、ぼくが先に送った履歴書を広げ、「北海道の旭川には知り合いがおりまして、……」とかなんとかいいはじめた。

「そこには、第7師団がありまして、……」とぼくがいうと、

「ああ、関東軍とともに、戦った……その第7師団ですか」といって男は感嘆したような顔をして、茶を飲んだ。ぼくの顔を見ながら、彼は戦後の話をした。

「吉田義男さんという、東大法科を出られて、朝日新聞の記者活動をなさっていた方です。きょうお会いできます。もうすぐ、係の方がこられますから、彼といっしょに銀座の店に行ってください。えーとですね、……そこは銀座1丁目で、昭和通りの、……」といいはじめた。

じぶんの勤務先である朝日新聞尾張町専売所というところに勤務する話である。ということは、ぼくは面接には合格したということかなあ、……とひとり考えていた。

やがて30歳くらいの、星野竜男さんという人があらわれ、有楽町駅で夜具を運び出すと軽三輪車の荷台に積み入れ、「店は、すぐですから」と星野さんはいった。

運転席のとなりの助手席に腰かけると、都心を迂回して、晴海通りから昭和通りに入って、東銀座の角を新富町方面に向かって走らせた。寮にはすぐに着いた。

きょうからじぶんは、銀座の寮生活者となるのだ、とおもった。

それからじぶんは、駿河台の明治大学文学部を受験し、合格した。一校しか受けなかった。

ぼくは吉田義男氏に会うと、彼の口から、関東大震災後の「東京復興」ということばが飛び出した。その建物はまさに関東大震災後の東京復興のなか、朝日新聞社の社屋は、昭和2年に建てられたという建物だった。

吉田義男さんにお目にかかり、東大では柔道5段だったという話を聴いた。きみは何かスポーツは? ときかれた。

「じぶんは、スキーをやります」といった。

そして、ぼくは、北海道のいなかの養鶏事業でできた特製のたまごをお土産に持ってきた。父が木の特製箱をつくって、もみ殻を入れ、たまごを何段にも入れられるようにしつらえてくれていた。背負ってきた箱ごと差し上げたら、社長の吉田義男さんは立ち上がり、びっくりしたみたいに、「これをきみが、北海道から運んできたのかね? これ、全部たまごなのかね?」

「はい、全部、ニワトリのたまごです。200個くらいあります」といった。

「はい、寮の皆さんにも、食べてもらいたくて、……」とつけ足した。

「きみ、きみは将来、大物になるよ、うははははっ」といって吉田義男さんは大きく笑った。その翌日から、じぶんは銀座の区域をあてがわれ、新聞配達をすることになった。北海道のいなかでは、高校生のころ、アルバイトで郵便配達をしていた。冬はスキーを履いて配った。長距離電報配達は、馬をひき連れて冬の夜道を歩いた。

じぶんは、こういう仕事はいっこうに平気だった。5、6時間のひとり旅はかっこうの勉強時間になった。石川啄木の歌500首はこうして諳(そら)んじた。声をだして覚えた歌は、いまでもすべて記憶している。

日本は、雨と聴けば、いつも梅雨の季節をおもい出す。

北海道には梅雨がないので、いたってカラッとしている。カラッとはしているが、札幌は北緯43度線だから、やはり寒い。

ぼくの雨の多くの想い出は、東京・銀座にある。こうして1962年に上京してから、ぼくは銀座に3年間住んだ。有楽町から電車に乗って大学へ通学した。そのころ、銀座には学生がたくさんいた。銀座は学生の街だった。

喫茶店に入れば、学割がきいてコーヒー一杯が60円のところ、半額の30円で飲ませてくれた。

「お友だち、連れていらっしゃいよ」と主任の女の子にいわれ、仲間を連れていくと、全員30円で飲ませてくれた。

「ラ・ボエーム」という名曲を聴かせてくれる「ラ・ボエーム」という珈琲店は、いつの間にか学生たちのたまり場になっていた。その店は銀座2丁目の銀座通りに面したところにあり、ピアノがあって、ときどき生演奏がかかった。

友人たちは、だれも音楽なんか聴いちゃいない。

ときどき米兵、――海兵隊員、――がやってきて、コロラドの麦畑のひろがる農場の話をしてくれたり、アメリカの田舎の州の選挙運動の話をしてくれたりした。「来てくれるなら、嬉しいよ。そのときはぼくを訪ねてくれ!」といわれ、住所などを紙に書いてくれたこともあったが、もちろん、訪ねたことはない。

彼らとは一瞬の出会いである。

ぼくらだけでなく、こうして交わった仲間たちの多くも、一瞬出会って、「また会おうぜ!」といいながら、その後いちども会うことはなかった。

ぼくは、たぶん北海道の話をしたとおもう。

彼らはベトナムでの2年間の兵役を終え、これから本国アメリカに帰還するという人たちだ。東京でのしばしの休暇を楽しみ、ベトナムでの活動を写真におさめ、その記念すべきアルバムが1冊の本になるまで、東京での自由な空気を吸っていた。ベトナム戦争が本格的にはじまる少し前だったようにおもう。

そのときに降っていた銀座の雨は、虹色に溶けたみたいな都会の色をしていて、とてもきれいだった。

 

明治大学文学部2年のころ

 

フランス映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg 1964年)」のタイトルバックの風景は、銀座で撮影されたという話を聴いている。銀座通りを真上から撮影していて、舗道を歩く人たちの傘が躍っているみたいに写っていた。この物語にも雨が降っていた。

映画は、1964年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。ジャック・ドゥミ監督。ぼくはカトリーヌ・ドヌーヴという女優をはじめて見た。

こういう映画には雨が似合う。フランス映画に登場する雨はいいなあとおもった。

映画「あなただけ今晩は」の舞台はパリ中央市場(レ・アール)の側の娼婦街カサノバ通り。警察は賄賂(わいろ)を取って見てみぬふりをし、手入れも形式的でヒモたちから賄賂をもらうのが常だった。子犬を連れたイルマ・ラ・ドゥース(英語に訳せばIrma the Sweet)も娼婦のひとり。

ヒモのヒポリートは腕っ節が強くて、イルマにも暴力的なのだけれど、そこへ、正直で仕事に熱心すぎるネスター・パトゥー巡査が赴任してくる……。しゃべることばは、英語だが、はじめて聞くような英語で、ビリー・ワイルダー監督は、ムスターシュの口癖、「これは余談だが、……」といって映画を締めくくるところなんか、さすがはビリー・ワイルダー監督とおもわせた。

ぼくは若いころ、パリに40日間滞在したことがあったが、フランスには梅雨はないようだ。

先年、パリから贈られたメールにも、そう書かれている。

1日じゅう、しとしとと雨が降りつづく日もあまりないようだ。だから、傘をもたないし、また多少の雨が降っても、傘をささないフランス人が目だつ。

「しかし意外にも、傘に愛着を抱いているフランス人は少なくないようです。その証拠といえるのが、パリ3区のランクル横町passage de l'Ancreにあるpep’sペプス。現存するパリ最後の傘修理店といわれていて、年間8000本から1万本もの傘を修理しています」と、Lattre de Parisの記事には書かれている。

雨といえば、サマーセット・モームの「雨」をおもい出すが、彼はこの短編で名を売り、ごたぶんに漏れず、短編作家の名手といわれた。

ぼくがはじめて女の子とデートしたのはそのころで、彼女は4、5歳年上の銀座のエレベーターガールだった。

ほら、むかしのエレベーターってジャバラ式で、降りてくると、箱のなかが見えるやつ。最初に見えるのは、エレベーターガールの白い脚。そしてVゾーンの胸のふくらみが見え、顔が見える。そこでおもわず視線が合ってしまうというわけ。

 

映画「あなただけ今晩は」

 

お客が降りると、ぼくが乗り込む。

すると、

「じろじろ見ないでください」と彼女は、とても静かにいった。

学生服を着たぼくは、顔を赤くして、すみませんと小声でいう。それでも、彼女は、

「いらっしゃいませ。エレベーターは6階までまいります」といった。6階で止まる前に、

「間もなく止まります。お足元にご注意ください」といった。

ぼくは、おかしな気分になった。だが、その気詰まりなこと、ぼくは、どうしようかと考えた。

で、帰りにまたエレベーターに乗り込むわけだが、ぼくはさっきはごめんなさい、といってから、バッグから日比谷映画館のロードショー公開中の映画チケットを2枚取り出した。彼女は、目をパッと輝かせ、笑みを浮かべて、

「まいど、ありがとうございます。……え? いいの? いただいちゃって?」

「はい、いいです。さっきはごめんなさい」とぼくはいった。

朝日新聞から支給された販売拡張用のチケットだった。毎月10枚くらい渡される。集金業務につくときは、客に差し上げるように指導されていた。

「いいのよ、そんなこと。――さっき、あなた、どこ見てたの? 胸?」

ぼくは何もいえなかった。彼女の胸は少し大きかったからだ。

「これって、ロードショーよね? 《あなただけ今晩は》? シャーリー・マクレーンの出る映画よね?」

「そのようです」

「じゃ、あなたと、ふたりでいっしょに観ない? いつがいい?」

彼女とは、その後デートを重ねた。ぼくは緊張していて彼女との会話がぜんぜんできなかった。

すると、

「あなた、わたしといて、愉しい?」ときいてきた。そして、

「あなた、キスしたこと、あるの?」ときいてきた。

「えっ! ありませんけど、……」

「だったら、これから日比谷公園でも行ってみる?」

「外がもう暗いのに?」

「だからいいのよ! わかる?」

ぼくは童貞を失うほど衝撃を受けた。

ともかくじぶんは、舞い上がったのだった。――舞い上がって、北海道の許嫁(いいなずけ)の彼女の顔がおもい浮かんできた。許嫁といっても、彼女とデートもしたことがなかった。彼女の父親は、じぶんの父親とおなじ中国戦線に出征し、生き地獄を共にした。もし生きて帰ることができたら、おまえところの家族と親戚づきあいをしようじゃないか! ということになり、ぼくは高畑家から嫁をもらう約束ができていたのである。

「嫁を選べ」と正式にいい渡されたのは、昭和37年の春だった。高畑家には年ごろの娘が3人もいた。じぶんは、なぜか真ん中の娘を選んだ。

ぼくの青春は、本を読んで世界を知ろうとした。

そのころぼくは、ヘミングウェイの「武器よさらば(A Farewell to Arms)」という小説を読んでいた。もちろん原書で。エレベーターガールとこんなことがあって、しばらく、それどころではなくなった。だが、彼女も本を読む人だった。彼女は恋愛小説を読んでいた。

「《武器よさらば》も恋愛小説です」というと、

「見せて」というので、ペンギン文庫の原書を見せてあげた。

「あなた、英文、読めるの? ふーん、わたしは学がないから、……」とかいって、「わたしはこれ、読んでます」といって、彼女は新潮文庫の「嵐が丘」を取りだした。「でも、ヘミングウェイも読んでみたいわね」といった。

イタリア兵に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーが、イタリア軍は理想とはずいぶんかけ離れ、ヘンリーは、その戦場で看護婦のキャサリン・バークレイと出会い、はじめは遊びのつもりだったのだが、しだいにふたりは深く愛し合うようになる。

やがてふたりは戦場を離れ、スイスへ逃亡をはかる。

そのうちにキャサリンが妊娠していることがわかり、病院で難産の末、子とともにキャサリンは死んでしまう。ヘンリーは打ちのめされたように、雨のなか、ひとりホテルへと帰っていく。

そのときの雨が、哀しみの雨を演出していた。

この小説のタイトル、「A Farewell to Arms」について、ぼくはちょっと考えていた。その話を彼女にいった。高見浩の解説によれば、

《原詩では、年老いた騎士が主君への奉仕の一線から引退しようとする心境がうたわれているのだが、ヘミングウェイは“武器よさらば”という余韻に満ちた言葉の響きに魅せられたのだろう。それと、英語の“Arms”には、もちろん“腕”という意味もあるから、原詩と離れた原題からは、愛する人のたおやかな腕に別れを告げる意も仄(ほの)かに伝わってくる。

そのことも、ヘミングウェイは意識していたにちがいない。

ちなみに、彼が最後まで残した他のタイトル候補は次の四つだったという――The World's Room(世界の部屋)、Nights and Forever(夜よ永遠に)、A Separate Peace(単独講和)、The Hill of Heaven(天国の丘)。》

ぼくは、ほおーっとおもった。

「どれが好きですか?」と訊いてみた。すると、

「《夜よ永遠に》が好き。だって、すてきじゃない? 夜が永遠につづけば」

ヘミングウェイの小説は、知られているように「A Farewell to Arms」となっていて、慣用句的に不定冠詞をつけている。

これにはもうひとつ捻った意味が隠されていると、ぼくはおもった。強いて訳せば、「あの戦争よさらば」とも読めるのだ。「あの戦争……」とはいったい何だろう。

1918年7月ヘミングウェイは、ミラノのアメリカ赤十字病院に入院し、介護にあたってくれたアメリカ人看護師と恋に落ちた。アグネス・フォン・クロウスキーという、7歳年上の看護師である。

しばらくつきあっていたが、ヘミングウェイは彼女に振られる。

小説に登場するキャサリンは、このときのアグネス・フォン・クロウスキーをモデルに描いた。

ヘミングウェイにはもうひとつ雨が主題になる小説がある。「雨のなかの猫(Cat in the Rain)」という短編だ。彼が24歳のときに書いたものである。

イタリアの海辺の町の風景は雨でぬれている。アメリカ人の若い夫婦が、小さなホテルに逗留し、妻は2階の窓辺にいて、窓のすぐ下に子猫がうずくまっていることに気づく。

雨ざらしのテーブルの下にもぐりこんで、濡れまいとして懸命に体をちぢめている。

「あの子猫、連れてくるわ」彼女はいう。夫はさっきからずっとベッドの端っこに寄りかかって夢中で本を読んでいる。「ああ、子猫がほしい」と妻はおもう。あとで探したときは、猫はいなかった。

「あの猫がほしかった」とおもう。

メイドがあとで違う猫を抱えてやってきた。

「猫を持っていくようにと、主人からいいつかりました」と彼女はいう。夫は、何食わぬ顔をしている。

妻は夫にかまってくれない寂しさから、猫がほしいとおもったわけである。というより、ぼくにはあの猫こそ、自分だとおもったに違いない。そんなふうに女ごころの機微をさらっと描いていて、とても悲しい新婚夫婦を描いているとおもう。そのときの雨も、哀しく描かれていた。

「窓の真下に水滴を滴らせる緑色のテーブルがいくつかあり、そのひとつの下に一匹の猫がうずくまっていた。猫は滴ってくる雨水に濡れないようにできるだけ身を縮めていた」と書かれている。

「身を縮めていた」のは、ほんとうは妻だったというのが、この小説のいいたいところだったに違いない。

この小説のタイトルにも、定冠詞はない。いかにも皮肉をこめたタイトルになっている。

銀座の大沢商会のエレベーターガール、彼女との想い出は、夜の公園でキスを交わした想い出しかない。いや、キスなんかより、彼女の少し大きめのおっぱいを口に吸い入れたときの衝撃のほうがずっと大きかった。お姉さんは、それを許してくれたけれど、からだの関係ができたのは、それから1年もたってからだった。

そのときは、はじめて、じぶんが大人になったような気分になった。

西瓜の好きなディリアーニの妻

「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」

ジャンヌが描いた「眠るモディリアーニ」

じっさいのジャンヌ・エビュテルヌ

 

きのうはきのうで、頑張った。最後は八潮駅前で新聞配布をした。

ときどき爽やかな風が耳元をかすめていった。肌の白い外国人がまだおさない息子の手を引いて、西日の中、どこかに消えていった。

「ほらごらん猛暑日なんか作るから」

「謀(はかりごと)めぐらすごとく西瓜食う」(霧島市  久野茂樹さんの句、読売俳壇掲載)。おもわず噴き出してしまった。西瓜を食べるとき、陰謀めいていると大袈裟にいっているところが愉快だ。黙々と食う姿がいかにも夏らしい。

モディリアーニの妻、ジャンヌも西瓜が好きだとどこかに描いていたような気がする。西瓜は暑い日がいい。最高気温が35度以上になる日がつづき、気象庁は平成19年に新たな予報用語をつくった。それが「猛暑日」だ。

その後も夏を迎えるたびに猛暑日が増えていく。するとこんな俳句ができた。

「ほらごらん猛暑日なんか作るから」(中原幸子さん)。

 

 

 

いつだったか、高橋俊景画伯と目黒の武蔵小山商店街の2階でコーヒーを飲みながらおしゃべりした話は、フェルメールのほかにもうひとつある。ぼくはフェルメールの話をして、それからモディリアーニの妻、ジャンヌの話をした。高橋俊景画伯は、めったに話をしないけれど、ときどきジャンヌの話をする。

1962年の夏、ぼくは銀座の寮に住んでいて、こっそり近くの小学校のプールにもぐりこみ、暑さをしのいだ話を書いたことがある。そのとき、高級料亭の万安楼の女の子が、ぼくの目の前をとおり、ぼくに見られているとも知らないで、送られてきた手紙を隠れて読んでいた。

ジャンヌは、この少女の顔とよく似ていて、この絵を見るたびに、そのときの万安楼の少女のことをおもい出した。もうぼんやりとしかおもい出さないけれど、あのときの少女は、ちょっとあばずれで、顔だけはなんとなく気品があって、われわれ学生たちの気を引いていた。

ぼくは、モディリアーニについてはくわしくないのだが、その妻ジャンヌについては格別の興味があって、画家が描いた肖像画「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」という絵は、いくらながめても飽きない。

彼女の写真を見ると、絵とそっくりではない。

しかし、1918年に描かれた彼女の肖像画は、すばらしい絵だとおもっている。

永遠にこころに焼きつけそうな絵だ。彼女は、この絵が描かれてから2年後、パリのアパルトマンの6階から身を投げて亡くなっている。21歳だった。彼女のお腹のなかには妊娠8ヶ月の胎児がいたというのである。

西岡文彦の「恋愛美術館」(朝日出版社、2011年)という本によれば、夫モディリアーニが、35歳で病死した翌々日のことだったと書かれている。

夫が亡くなった翌日、彼女は命を絶とうとしていて、それに気づいた彼女の兄アンドレは、夜通しそばについていた。ところが、彼がしばしまどろんだスキの一瞬をついて、ジャンヌは夫のあとを追ったというのだ。それは、明け方のことだったらしい。

彼女が窓を開ける物音に気づいたが、もう間に合わなかった。1920年1月26日午前5時のことだったと書かれている。

この事実を知って、モディリアーニのこの絵を見たとき、たいがいの人は、こころのなかで驚嘆したに違いない。

「この人が?」とおもって。

このなんともいえないあふれ出る気品からは、その後の彼女の衝動的な行為は納得しがたいものに見えてしまう。何があったというのだろう?

「――ほう、いわれてみれば、気品がありますなあ」と、友人のSさんはいった。

「モディリアーニの絵のなかで、ぼくは、この絵がいちばん好きなんですよ」というと、

「そうでしょうな」と彼はいった。

事務所にこの絵をプリントしたものを額装して、ずっと架けている。

別名「瞳を描くジャンヌの肖像」と呼ばれているらしい。

なぜなら、モディリアーニの絵には、顔を描いても瞳を描かない絵が数多くあるからだ。ほかにもジャンヌの絵はいろいろある。たとえば「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」(1919年)という絵もあり、これには瞳が描かれていない。彼はなぜ、こんな絵を描く気になったのだろう。

彼の顔をのぞきこんだところ、顔がなかった

彼が制作したかったのは絵ではなく、ほんとうは彫刻だった。

彫刻作品には瞳なんか描かない。

絵には、そういう表現方法もあるということをモディリアーニはさとったらしい。肖像画を描いて、目の瞳を描かない画家を、ぼくはほかに知らない。ある人は、「画竜点睛に欠く」といっている。「いかにも……」という気分にもなる。

人物に生彩を与えるのは、なんといっても瞳だろうけれど、その瞳を描かないというのは、どういうことなのだろうとおもう。おそらくモディリアーニにとっては、あくまでも彫刻のための試作にすぎないのではないだろうか、とおもえる。

たとえば、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に、もしも瞳がなかったとしたら、どんな怖い絵になるだろう。

だれもそんなことを想像する人はいないかもしれないが、モディリアーニの絵を考えるとき、いやおうなく瞳のない絵に出会い、ぎょっとするかもしれない。

ぼくは、ある人を訪ねて、家の前に突っ立っている老人に声をかけたことがある。近くに寄って「こんにちは」とあいさつして、彼の顔をのぞきこんだところ、顔がなかったのだ。そのときの驚きは、いまでも忘れない。精巧にできたかかしだった。

それほどではないにしても、モディリアーニの絵は、ふしぎな絵だ。

しかし彫刻にすると、目に瞳がなくてもいっこうに平気だ。「ミロのヴィーナス」はご覧になった方も多いとおもわれるが、彼女の目には、瞳が描かれていない。瞳はたしかにないのだが、あるように見えてしまう。

ミケランジェロの「ダヴィデ」像の目には、ちゃんと瞳がある。この差はいったいなんだろうとおもう。

ところがモディリアーニは、瞳をつくらない主義らしい。

 

 

 

彼の「帽子をかぶったジャンヌ」(1918年)を見ると、あきらかに瞳を描いていない。描いていないのに、あるように見える。

それなら、彼はなぜ彫刻を制作しなかったのだろうとおもう。それは結核と貧困のせいだった。

結核と貧困のために、制作しようにも、それができなかったのだと書かれている。彫刻は、じょうぶな体と高額な材料費が必要だったが、それもままならなかったからだ。石彫は、想像以上に目に見えない粉塵が舞い、肺結核患者にはいいわけがない。かえって深刻な打撃を与えるだろう。

そういうこともあって、彼は粉塵の出ない木彫に切り替えてはいるものの、金がないために、近くの工事現場から廃材を盗んできて、それを彫ったりしている。そうやって膨大な彫刻を彫ることは彫ったが、どれも満足な出来ではなく、それらの試作は、近くの運河に投げ捨てられたという。

そういう日々のなかで、彼は憔悴し、飲酒に走った。家庭は見るもあわれで、家庭と呼ばれるものじゃなく、崩壊寸前にあり、創作意欲があるのに、体力とそれを可能にする財力がないのだ。

「芸術家っていっても、いくらか政治力も、世渡りの術もあったほうがいいですなあ」と彼はいう。ぼくなんかにはない特質である。

「それにしても、21歳で死ぬなんて、……彼女、いつ画家と出会ったの?」

「18歳のときらしいよ。ジャンヌは画学生で、モディリアーニが32歳のときというから、死ぬ3年前というわけですね。出会った翌年にはいっしょに暮らしはじめます。その1年後には、娘が誕生、……」

「ほう」

同棲後の1917年12月、ベルト・ヴァイル画廊で、生前いちどだけ個展を開催している。けれども、裸婦画を出展したところ、警察が踏みこむ騒動となり、たった1日で裸婦画を撤去する事態となったらしい。どんな絵なのだろう。

1918年には、転地療養のためニースに滞在し、その11月29日に長女ジャンヌが誕生。1919年7月に、ジャンヌ・エビュテルヌに正式に結婚を誓約している。しかし、貧困と生来の肺結核に苦しみつづけ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生などで荒れた生活をつづけたため、1920年1月24日に結核性髄膜炎で死亡。

ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、あとを追って自宅から飛び降り自殺した。ジャンヌの遺族の反対もあって、ふたりの遺骨は、10年後になって、ようやくパリのペール・ラシェーズ墓地にともに埋葬されたといわれている。

のんだくれの画家を夫にもって、どんなに不幸せかとふつうの人はおもうかもしれない。

冬には暖をとるにも金がなくて、はやばやとベッドにもぐりこんで寒い夜を凌いだかも知れない。そういう夫に、波風ひとつ立てずに、ついていったジャンヌという女に、底知れぬものをぼくは感じる。

その気品ある情熱はどこからくるのだろうとおもう。よしんば、口げんか、口論のたえない家庭であったにしろ、ジャンヌにとっては、夫に捧げた命。そうおもうと惻々(そくそく)たる事実の前にひれ伏すしかない。

Tomoさんとおを飲んだ日

 

「《その人とどこで出会ったの?》ときかれて、ぼくは《電車のなかで》といってしまったことを、とても後悔しましたよ」というと、

「電車のなか? ――だったら、聞きたいわ。ぜひ。その電車のなかでの出会いって、どんな出会いだったのかしらね?」

Tomoさんは大きな目をこっちに向けた。

ぼくは、こんな話の展開になるとは、おもってもいなかった。

――あれは勤務を終え、六本木のオフィスを出て、赤坂駅から電車に乗り、日比谷で三田線に乗り替えて、しばらく行った先で、大勢の人が乗り込んできたときだった。

ぼくの座っている席が、ほんの少し空いていた。リクルートスーツを着た女性が目の前に立った。隣りの人とのあいだが20センチほど空いていた。ちょっと詰めればひとりぐらい座れるかもしれない。ぼくはお尻を動かしてスペースをひろげた。彼女は腰かけた。

だが、とても窮屈だった。

電車が揺れると、彼女とぼくのお尻も同時に揺れた。

そのうちに、彼女はぼくの肩に静かに頭を乗せて眠ってしまった。彼女が乗り過ごすといけないとおもい、ぼくは声をかけた。

「すみません。……わたし、志村坂上で降ります」と彼女はいった。ぼくもそこで降ります、と答えた。

そして彼女は、ぼくが読んでいる本をじっと見つめた。ビアトリクス・ポターの「ピーターラビットのおはなし」という英語版の本だった。

彼女は声をかけてきた。

その目に、一瞬だけ明るい光の花束を感じさせた。細くてながい眉毛が前髪に見え隠れしていた。彼女は絵本作家を目指しているといった。

そして志村坂上でいっしょに降りると、

「どうです、ちょっとお酒飲んで帰りませんか? あなたの絵本の話,もっと聞きたい」とぼくはいった。

駅前にある小さなスナックだ。

彼女は止まり木に腰かけていろいろ話した。彼女はまだ学生で、昼間は法律事務所で働いているという。

「でも、わたしには、子どもがいます。結婚のリハーサルで失敗してしまって、その人とは別れました」といった。

ぼくはすごい話を聴かされた。彼女はまだ20代前半のように見える。だから彼女は疲れていたのだなと、ぼくはおもった。

「元気だしてください。そうそう、こんどの日曜日、ぼくのマンションでホームパーティするんですが、飛び入りで参加してみませんか? テレビ局の人たち15人ほどがあつまります」といった。

「うわー、すてきですね。ぜひ参加させてください」と、彼女はいった。

「赤ちゃんも連れてきてね」といった。

「へぇぇ、そんな話、聴いたことない!」とTomoさんはいった。

こんな話をしたものだから、ぼくらは5時間もおしゃべりすることになった。ホームパーティでの話や、マンションのエレベーターのなかで人の名刺を拾って、その人に電話した話など。

それは美容師さんの名刺で、電話をすると彼女に「いらしてください」といわれ、板橋の彼女の経営する美容院に通った話とか、初対面のTomoさんに打ち明け話みたいに話してしまった。

「なぜ名刺なんか拾ったのかって?」

その話もした。

占い師の細木数子さんの本を読んでいたら、運気の悪いとき、ふだん絶対にしないことをすれば、悪い運気を避けることができると書かれていたからだった。だからぼくは、落ちていた名刺を拾い、彼女に電話をしたのだった。

ぼくはあるタレントの事務所主催のオーディションに合格したのだけれど、このゲジゲジ眉毛、なんとかならないものかと考えていたところだった。

CMタレントになろうなんて、ぼくは真剣に考えていなかったのだけれど、テレビ局のある部長は、ぼくに、しきりにCMタレントになることをすすめるのだ。

「これからは、熟年向けのCMが増えます」とかいって。

美容師さんは、何かしてくれそうだと考えて、板橋の美容院まで出かけていったのだ。

ところが、ベッドの上でからだを横たえると、生体美容師さんはいった。

「左右の脚の長さが、3センチも違います。こっちを先に治しませんか?」と彼女はいった。

「――おもしろいですね」と、Tomoさんはいった。

札幌では、バスに乗り遅れた女性を見て、ぼくのクルマに乗せて、雪道を走るバスを追い越し、大通り公園の彼女の会社まで、そのまま乗せていったこともある。ぼくの会社も大通公園に面したところにあった。

彼女は自動車メーカーの札幌支店で働くОLさんだった。名刺を交換し、ときどきお昼ご飯をいっしょに食べたりした。

札幌といえば、ある家電メーカーのショールームに勤務するお嬢さんが、大きな荷物を持って、舗道でタクシーを待っているのが見え、彼女をクルマに乗せて運んであげたことがある。

ぼくとは顔見知りだったが、赤信号でクルマが止まっているとき、彼女はくしゃみが出そうになり、口に手をあてて、腰を折ってそれを我慢した。そのとき、不覚にも彼女はおならをしてしまった。

彼女は「ごめんなさい!」といって、大急ぎで窓を開けたりした。

「我慢しなくていいんですよ」と、ぼくはバカみたいな話をした。

「これがほんとの、臭い仲っていうんじゃないの」といったら、大きく笑って、彼女はぼくの肩をポンと叩いた。それからぼくらはとても親しくなった。

ショールームに行くと、彼女はぼくのために、黙ってテーブル席にコーヒーを淹れて持ってきた。

そして「いらっしゃいませ」といってお辞儀をした。その日、彼女を誘って映画を観た。

Tomoさんもいろいろな話をしてくれたっけ。

44歳、彼女はとても話好きな人だった。

「わたしは人見知りをしないの」といい、気軽になんでも話してくれた。仕事の話は聞かなかったけれど、多忙のようだ。そのため、なかなか会うチャンスがなかった。やっと時間ができたといって、メールを送ってきた。

LINEやりましょう、といわれていたのだけれど、やり方がわからなかったので、ぼくはメールだけで応じていた。

きのうはやり方を教えてもらった。

別れてから部屋について、送信したつもりだったけれど、さっき見たら、送信ボタンを押し忘れていることに気づき、午前3時32分にやっと送信が完了した。やれやれ。

Tomoさんはこれを見て、「よくできました」とおもってくれるだろうか? ちょっと不安だ。

先年スマホを買い替えたのだけれど、まだぜんぜん慣れていない。

先日、水着のモデルをして、30着の水着を着てスタジオ撮影をした話をしてくれた。そんな仕事があることにちょっと驚いた。Tomoさんのだんなさまは、Tomoさんのやることに口出しはしないそうだ。

「ですから、いま、わたしは自由です」といっている。

うちのヨーコとはぜんぜん違う。

ヨーコは大いに口出しをする。それはそれで居心地が悪いというわけでもなく、とくに我慢しているというわけでもない。

いろいろな夫婦がいて、それでいいのだ、とおもえる。

帰りに、Tomoさんは図書館まで送ってくれた。そこで10冊の本を返し、また10冊の本を借りた。きのうはとても愉快な日だった。

 

司馬遼太郎氏

 

ふたたび英同盟と治天皇の時代

 

明治天皇の誕生日は旧暦の9月22日、現在の暦では11月3日である。

旧暦から新暦に改まったのは明治6年(1873年)だった。特別の日になってから150年がたった。

ところで、ロナルド・キーンさんは、英語版の「ブリタニカ百科事典」を見て首をひねったそうである。俳優の三船敏郎は38行、作家の三島由紀夫には79行の記述がある。近代日本に大きな影響を与えた明治天皇はしかし、わずか8行しかない。

世が平成になった頃のことだという。

ロナルド・キーンさんが「明治天皇」の筆を執るきっかけになったのは、そのことだったと、氏は振り返って話しておられた。

11月3日、「文化の日」とは、すなわち明治天皇の遺徳をしのぶ祝日であったが、先の大戦後に改廃されて今に至り、それまで「維新」という大きな変革の時代を経て近代化という大きな坂をみんなで共に駆け上っていった時代だった。

「彼が一生は、教唆者に非ず、率先者なり。夢想者に非ず、実行者なり」

そういったのは明治ジャーナリスト徳富蘇峰の主著「吉田松陰」のなかに描かれた文章である。このイメージは、どうも凶弾に斃(たお)れた安倍晋三元首相と重なってしまう。

その前日は、田中のり子さんの指導で6月25日号の「顕正新聞」の読み合わせをおこなった。場所は綾瀬川のほとりの遊歩道を東京方面に走らせたところにある大きな公園の中で、静かなベンチのひとつにふたり並んで腰掛け、「阿部日顕の悪臨終の衝撃、全組織に」を読誦(どくじゅ)した。読誦(どくじゅ)というのは、実際に声を出してお経を読むことだが、読んだのは、お経文のような記事である。

ジャーナリストだった徳富蘇峰や、長谷川如是閑の文章を読んでいるような心持ちになったことは慥(たし)かである。

じぶんの指導者である田中のり子さんはまだ65歳と若く、声には張りがあって、ちょっと可愛いなまりがあるけれど、NHKのアナウンサー村上由利子さんのような声なのだ。

村上百合子さんは、マイクロホンなしで、なんでも歌う。大学時代にバンドを結成し、彼女はヴォーカルをやっていて、それで世田谷警察署の面々をめろめろにしたという勇猛な話が残っている。あれは、彼女がNHKに入ったばかりのころの話だった。

そして、あろうことか、ぼくらは嵐の夜、ママから鍵を受け取って、スナックの入り口のドアに施錠すると、しばらく歌ってから、歌い疲れて、カラオケボックスのある三角コーナーの絨毯の上で、ふたりとも寝てしまったのだった。

さて、ぼくがいま書きたいことは、かつての日英同盟についての話である。こういうタイトルをつけてしまうと、話は、ちょっとむずかしくなる。

「自分をつくる」というのは、「国」をつくることが前提になるからだろうか。ある人は、「愛の伝達」ということを説いて、国づくりを提唱している。

たんに、異性間の愛だけじゃなく、親子、兄弟姉妹、――それも深く考えれば、血筋の伝わっていない者や、わが国の領土に住むすべての人を意識することになる。

つまり、むかしフランクリンの「自伝」を読んだときに感じた、親から息子への贈ることばであっても、「これまでの人生にあって相当な幸福の分け前にあずかってきた上で用いてきた手段」というものを、多くの人びとに向けて、その分け前を惜しげもなく開示しているのである。フランクリンの国づくりは、「自伝」からはじまっている。

じぶんの子でなくて一向にかまわないのだ。

フランクリン自身、この本を出して、多くの読者に訴えることができた。訴える読者は、もちろん息子たちやその係累にかぎらないのはいうまでもない。だが、ひとついえることは、ひいては、そこに建国の担い手になってほしいという願望が託されていたからだろう。

先ごろ、ぼくは日露戦争の話を書いた。日本は戦争には勝ったが、講和に敗けたという話を書いた。――しかし、日本は広大な南満州を手に入れた。いちがいに講和に敗けたと果たしていえるかどうか、それは疑問である。明治人の考えは、果たしてどういうものであったのか、とおもう。

つまり、日本という国をどのような近代国家につくり変えるか、ではなかったかとおもう。

参戦した兵士のひとりひとりは、少なくとも第二次大戦のときの兵士とはちがうように見える。近代を目指していた日本は、まだ小アジアの小さな国であったが、ロシアに隣接した北欧の国の人びととは明らかにちがっていた。わが国はロシアと比べると小さいが、敗けるとおもって戦争した人間はひとりもいなかったとおもう。

日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日にはじまった。いまから118年まえの話である。

大国ロシアにいたっては、1904年4月、バルチック艦隊が成立し、太平洋艦隊と称して、皇帝の名ざしで「卿(けい)が司令長官になれ!」のひと言で、ロジェストヴェンスキーが長官に就任したのである。そして彼はいった。

 

「自分と自分の麾下(きか)の艦隊が、極東にいけばかならず勝てる」と豪語した。その自信の根底にあったのは、戦力の把握や戦略からでたのではなかった。かれを寵愛する皇帝のために勝つということしか頭になかった。白人が、極東の島国の劣等人種に敗けるはずがないと頭から信じ込んでいた。

人びとの成長する意識は、国によってちがうかもしれない。

フランクリンは、「自伝」のなかで、かんたんにいえば、自分自身をつくり変えなさい、といっている。ただたんに成長して大人になるのではないといっている。じぶんを「つくる」という部分が強調されている。

ただしくこの本を読むと、そういうことが書かれている。じぶんをつくるということにおいては、当時の日本はまだまだ後進国だった。じぶんをつくるとは、どういうことなのか、フランクリンは文脈で読ませようとはしない。ものごとをはっきり述べている。

ぼくはこの本で得たものは、明治人の気質とどこか似ているなとおもったことだった。どのような国にしたいのか、そういうヴィジョンをはっきりぶら下げていたようにおもえる。

ひるがえって、わが国の人びとは、藩意識を捨て、身分の上下意識を捨て、みんな第一線で横並びになろうとしたにちがいない。

アメリカ流の「成功の夢」には、フランクリンとは別に、うらぶれた現実問題を抱え込んでいて、清貧と奉仕の精神で乗り越えようとする宗教的な倫理観がバックにあったようだ。ハックルベリー・フィンも、ミシシッピーの大自然に逃げ込むようにして荒くれた父親の暴力からの遁走をこころみている。

アメリカには父系文化というのは、ほとんどないという人がいる。それもそのはず、親をめぐる話は皆無にひとしい。みんな遁走の文学であったといえそうだ。

そのうちに、イタリア系の孤児やユダヤ系の若者があらわれ、異文化のなかで育った。大金を投じて成金になったり、失敗して路上の人となったりしながら、アメリカの夢はだんだんと経済的な側面から国づくりがおこなわれていった。

世界というフィールド、国というフィールド、じぶんというフィールドを更新するたびに、アメリカでは個人主義をつくる国づくりがおこなわれていったとおもわれる。それは、フランクリンのいう「自分をつくる」とはずいぶん違ってきた。

明治日本は、「自分をつくる」などまるで考えなかったようだ。身は国家のものであり、国家の危急存亡のときは、馳せ参じようというおもいが強かった。これは一代目的な考えである。

イギリスのエリートとどこか似ている。

とくに明治期の出来事は、100年間に起きる出来事をごくごく短期間で、大急ぎでおこなわれたため、たとえば「坂の上の雲」をとおして感じられる世界は、まことにエネルギーに満ちていて、人びとの抱負が実現しつつあるまさに大きくゆれ動くその過渡期にあって、日本人一般の目を、近代に見ひらかせたとおもわれる。

 

日清戦争は、1894年(明治27年)-1895年(明治28年)。

日露戦争は、1904年(明治37年)-1905年(明治38年)。

第一次世界大戦は、1914年(大正3年)-1918年(大正7年)。

 

ご覧いただくように、小国日本は、10年ごとに戦争をしてきた。

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は、そのおどろくべき歴史的知見を描き、まさにその時代の生きものの物語を描いた。明治の日本は、生き物である、といった人がいる。

 

ロシア側外務大臣セルゲイ・ヴィッテ

 

幕末から明治にかけて、日本は富国強兵一本槍だったし、シナ戦争以降、独立と安泰の地位をおびやかされ、アングロ・サクソンの経済力、一路南下するロシアの軍事力をまえにして、日本の国策はふたつにひとつしかなかった。イギリスと手を組んで、後方をかためながらロシアの出鼻をくじく。その戦略が功を奏したわけなのだが、これでよろこんでばかりおられない。

日露が講和に踏み切ると、すでに締結した日英同盟がものをいい、日本は世界の列強の仲間入りをはたした。そうすると、こんどはアメリカは黙っていない。日本の軍事力に歯止めをきかしてきた。

東郷平八郎は、こうのべた。

「惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理なし、事有れば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本分を尽さんのみ。……」

小説によれば、低い声でえんえんと、このような長文の辞を読み上げたのだそうだ。武人らしい考えである。読むと、まことにもって若々しい文章で、戦いは若者が主役で、政治は年寄りがおこなうもの。

武人ではないとヨーロッパ人にはいわれるが、日本のそのころの政治家は考えも若かった。その歴史は、えんえんとつづく物語なのだ。ほんとうに日本人が、赤裸々な自我である自分自身をつくったのは、ようやっと戦後のことだったとおもえる。

それまでのじぶんは、形而上的な、天皇直結のじぶんでしかなかった。

先日、あるなつかしい人の訪問を受け、天気の話から、いろいろな話をし、しまいには沖ノ島の話になった。沖ノ島といえば玄関灘のなかにある、北緯34度14分、東経130度6分に位置する孤島である。

ぼくはもちろん行ったことはないけれど、なるほどご神体といわれるだけあって、島全体が陵墓のかたちに見えるらしい。

「天気晴朗なれど浪髙しということばがよみがえってきますなあ」とその人はいった。日露戦争におけるバルチック艦隊との日本海海戦である。明治38年(1905年)5月27日から翌未明にかけての海戦だった。ロシアでは「ツシマ海戦」といっている。

ぼくは、「日露戦争 その百年の真実」(産経新聞取材班、産経新聞社)という本を読んでいる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも描かれているが、その島には女性は入れないし、住むこともできない。

なぜなら、そこには宗像のご神体があるためで、女人禁制とされてきた。そこにふたりの男たちが住んでいたという話である。この島は、島全体がご神体なのである。

日露戦争当時、神社の職員のひとりと少年ひとりの、ふたりが住んでいた。灯台ができたのは、大正時代になってからとされ、それまでは、そのふたりだけが住んでいたという。

この話は、司馬遼太郎の小説にも描かれており、ここに出てくる少年というのは、佐藤市五郎という男で、当時18歳だったと書かれている。

彼は、眼下に展開する日本海海戦を目撃したと小説には書かれている。こういう話は、司馬遼太郎の得意とするところで、小説には直接無関係とおもわれるような話が挿入されていておもしろい。

司馬遼太郎は、陸軍の特別幹部候補生出身の戦車将校だった。

なにかというと、彼は陸軍を嫌っている話をする。ぼくの父も陸軍旭川第7師団から機関銃兵として中国・長春に出征したのだけれど、陸軍を嫌っていた。司馬遼太郎の小説は、海軍ばかりを描いた。

彼はいう。

「文明とは躾の総体である」と。

その最大の見本を彼は海軍に見たようだ。

海軍は陸軍のおよそ10分の1くらいの規模でしかない。それにもかかわらず、陸軍にひけをとらない歴史に残る大きな仕事をしている。司馬遼太郎の海軍に寄せる愛着には、なみなみならぬものがあるようだ。

「坂の上の雲」(文春文庫)の第8巻の55ページに、このエピソードが出てくる。

第2艦隊の駆逐艦や水雷艇に、朝霧、村雨、朝潮、白雲、不知火(しらぬい)、叢雲(むらくも)、夕霧、陽炎、蒼鷹(あおたか)、雁(かり)、燕、鴿(はと)、鴎、鴻(おおとり)、雉(きじ)などといった艦名が出てくる。当時の水雷艇はひどいものだったと書かれ、釜をたいて煙突一本で走りまわっているハシケのようなもので、魚雷を何本か積んで刺し違え覚悟のうえで戦うような代物だったという。

それが外洋にでると風がひどく、艇を飲み込むような大波が押しよせ、挺身は前後左右にはげしくゆれる。士官は柱にしがみつきながら指揮をとる。

旗艦「三笠」以下が鎮海湾にでると、風浪がはげしくなる。

「天気晴朗」とはいったが、じっさいは濃霧がたちこめて視界はじゅうぶんでなかったらしい。

「戦闘中は戦闘配置を動くな。大小便はその場でせよ」という命令が下る。

「――臨場感がありますなあ」と彼はいった。

「大小便ですか?」

「飯はどうするんだい?」

「それについては、小説には何も書かれていませんが、飯担当兵がいて、何か喰わしたでしょうね」

「睡眠は?」

「立って寝たと書かれています」

そして、午前9時、東方に敵艦の影が見えた。やがて7、8000メートルまで近づき、ここで敵艦隊の主砲をくらえば、こなごなになるほどの距離に迫る。27センチ厚みの鉄板だってかんたんに射抜かれる。

だが、近くにわが戦艦のいることを敵艦はまだ気づいていないようだった。濃霧のおかけだ。敵艦は黒煙炭を燃やしている。こっちは無煙炭を燃やしているので、煙はでない。この差が勝敗を決した。

「そうでしたな。……だいいち、やつらはその石炭でさえやっと手に入れたもので、……。それに大砲の弾、その日本の下瀬火薬の威力は、たいへんなもので、鉄板を撃ち抜いて、それから爆発する」と彼はいった。

「しかし、戦争には勝ったが、日露の講和には敗けましたな」と彼はいった。

それからわれわれは、コーヒーを飲みながら、ロシアとの講和をめぐる話をした。小村全権がウィッテとの交渉で、さんざんな目にあい、戦勝気分どころじゃなくなった。領土をめぐる話が二転三転し、全権は夜も眠ることができず、「輾転反側した」と書かれている。

たしかに講和には手こずったが、これを見た西欧列強は、日本を見直した。日本は、このため南樺太と南満州という広大な領土を手に入れたのである。

そのバックには、日英同盟というものがあったのである。

著述家としてのィンストン・ャーチル


 

ウィンストン・チャーチル

ぼくの読書は、むかしからきまった傾向の本を読むことはせず、毛嫌いせずに何でも読んできました。映画の本やドラマの本、小説本や歴史書、いろいろです。

ですから、ぼくの書斎には雑多な本が雑多にならんでいます。

ときどき政治家の本も読みます。先日は、サッチャー首相の回顧録というのを読み返しました。この種の本は、多くは信じがたい政治的なシーンが書かれていて、興味のある人には魅力的な話なのでしょうが、ぼくには退屈なページもあり、とても興味深いページもあって、その都度、いろいろと教えられています。

で、先日からぼくは、W・チャーチルの本をひっぱり出してきて読んでいました。ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill 1874-1965年)。――イギリスの現代史のなかにかならず顔を出し、イギリス文学史のなかにも顔を出す政治家、――というよりは、大いなる散文家として断続的に、しかも、かなりの頻度で本を出しているこの著述家は、ぼくにとっては散文家として、とても興味深い人物です。

日本では、著述家としてはほとんど語られることの少ない人ですが――。

もちろん散文家としてのみならず、彼にはほかに仕事があり、1940年から45年まで、イギリスの首相としての職もふくまれています。というよりは、19世紀のあいだにチャーチルは政治家になるまえから著述家として鳴らしていました。すでに5冊の本を出していました。

「マラカンド野戦部隊物語(The Story of the Malakand FieldForce,1989年)」、「河戦(The River War, 1899年)」、「サブローラ(Savrola,1900年)、「ロンドンからプレトリアを経てレイディスミスへ(London to Ladysmithvia Pretoria,1900年)」、「イアン・ハミルトンの行進(Ian Hamilton's March, 1900年)」があります。

彼が最初の国務大臣になる少しまえ、父親の伝記である「ランドルフ・チャーチル卿(Lard Chuchill,1906年)」という本を書いています。その後、およそ30年間に、すぐれた戦略家としての研究「モールバラ(Marlborough,1933-36年、これは3巻本)」という本も書いていて、ぼくは未読ですが、その研究について書かれた本などを読み、いまさらながら驚いているところです。

そのうち、ぼくが読んだのは大学生のころで、「ロンドンからプレトリアを経てレイディスミスへ(London to Ladysmithvia Pretoria,1900年)」という本でした。これには、翻訳本はありませんでした。それも、最後まで読んだかどうかおぼえていないのですが、ちょうど、ぼくはエミリー・ブロンテの「嵐が丘(Wuthering Heights)」を読む前後のことで、ぼくはそのころ、イギリスの本ばかり読んでいました。

そういえば、Т・E・ロレンスの「知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom,1926年)」を読んだのもそのころのことでした。

チャーチルといえば、Т・E・ロレンスなのですが、そのころチャーチルとならんでロイド・ジョージの本が多く読まれていました。彼の「回顧録(War Memoris,1933-36年、全6巻)」はよく知られており、これは、チャーチルの大著「第二次世界大戦(The Second World War 原書では全6巻)」に匹敵する大著といわれ、大学では西村孝次氏のシェイクスピアの講義を聴きながら、こっそり読んでいました。政治に興味を持ったのも、そのころでした。

けれども、多くはТ・E・ロレンスの本に魅せられて、ペンギン・ブックス版で読んでいて、学生にも手軽に手に入れられる本だったので、チャーチルの本もおなじ文庫本で読みました。

ときどき大学の近くの神田神保町かいわいの古書店を散策し、ふるびた本を手に取り、気に入ると原書を買いこみ、多くは教室か喫茶店でひとり読んでいました。学生仲間がやってきて、単位論文の提出日が迫ってくると、「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンみたいにして、ぼくは彼らの論文書きを手伝ったりしました。20枚ばかりの論文を引き受けるかわりに、コーヒー一杯が飲めるというわけで、それが嬉しくて、よく引き受けたものです。

ある日、先輩の長尾克彦氏から、エリザベス朝の文学にかんする質問があって、シェイクスピアの「ハムレット」についての質問を受けました。それが元となって長い論文を書いてしまいました。たぶん原稿用紙で200枚は書いたとおもいます。

それを印刷所に持って行って、表紙をつけて合本製本してもらい、そうして彼に手渡したりしました。コーヒーを、何倍も、好きなだけ飲ませてくれました。

ぼくは「ハムレット」より、彼の「ソネット」をひそかに研究していて、その話を書きはじめたわけです。そうすると、止まらなくなりました。ところが、書けども書けども、シェイクスピアのソネットはよくわからないということがわかり、途中で投げ出して、チャーチルの話を書いたりしました。すると、彼は目を丸くして、

「シェイクスピアは、どうなったの?」ときいてきたのです。

「あと、数年時間がほしい」といいました。

あと数年といえば、大学を卒業するころになります。ぼくは不遜にもシェイクスピアをあと数年かければ理解できると考えていました。ところが、理解できるどころか、ますます疑問がわいてきて、それから社会人になってからもシェイクスピアと格闘をつづけ、それが完成し、第1稿ができたのは、それから5年もかかりました。彼は辛抱強く待っていてくれました。けれども、それでもぼくにはよくわかりませんでした。

そして、長尾氏は、

「じゃ、チャーチルの何がおもしろいの?」ときいてきました。

「チャーチルなら、いえます」といって、ぼくはシェイクスピアをそっちのけにして、チャーチルの話をしました。

「ふたつの大戦のあいだの時期にわたしがしたあらゆる言動は、ふたたび世界大戦などになるのを防止することを、ただひとつの目的としていた。……こんどの第2次ハルマゲドンくらい、簡単に防止す得る戦争は古来あり得なかった。わたしは常に暴虐をくじき、破滅を避けるためには力を用いるという用意をもって臨んだ。しかし、もしもわれわれ英米その他連合国側の国策が、ちゃんとした家庭であって、あたりまえとされる普通の一貫性と常識(コモンセンス)とをもって処理されてさえいたならば、《力(パワー)》が《法》を伴わずに出かけてゆく必要などなかったのだ。それどころか、正義のために流血の危険なく《強さ》を用いることができたのだ。自分らの目的を見失い、自分らがこころの底から信奉する信条まで放棄してしまったために、英仏はとりわけ、莫大な力と、偏らない立場をもつだけに、アメリカは、彼らのいちばん恐れる破局へと通じる条件が、しだいに打ち建てらてゆくことを許したのである。こんにち、われらのまえに横たわる当時の不思議なくらいよく似た新しいいくつかの諸問題に対して、もし彼らが当時とおなじく、意図は善良だが、近視眼的な態度をくりかえすならば、3度目の戦争・動乱が起きることは必定であり、しかもそのときは、生きてその出来事を語り得るものは、ひとりもいないということなのだ。」

チャーチル「第2次世界大戦」より

 

チャーチルという政治家は、このように、だれよりも歴史の高見から超然とかまえてものをいう政治家だった、といえそうです。

ある人は、チャーチルの文章を読んで、光輝く希望を与えたり、容赦なくつぎつぎと移り変わるさまざまな現実の困難にシーンをパノラマのごとく展開させ、人びとはひとつひとつの出来事を、巨大な宇宙の展望を見るかのような目で、それを読んでいったと書かれています。

その本の第1章の冒頭、ここにはふたつの大戦のあいだの時期、――その大部分をチャーチルが要職につかずに過ごした時期にあてられていて、

「わたしの目的は」と書き、まず「この時代に生き、かつ行動してきたものとして、まず第一に、第2次世界大戦の悲劇はいかに簡単に防止し得たかについて書かれ、いかにして邪悪なものらの悪意が、それらを打って一丸となって、もっと大きな有機体に改組しないかぎり、それのみがつつましい大衆に安全を約束し得るところの、あの根気強さとか、確信とかの要素を欠いているか等々を隠さずに、明らかにすることである」と書かれています。

これが、チャーチルの、この本を書く目的なのだと書かれているわけです。

膨大をきわめる本の中身は、ほとんどその目的のために書かれています。

チャーチルの大戦まえの7年間というもの、ことあるごとにこのような演説に終始し、この要職にない政治家は、まるで、マケドニアの独裁者がもたらす危険を暴露するかのような語気をもって、ギリシアの雄弁家のように語っています。チャーチルは迫りくるドイツの脅威に対処すべき方策を適切に対処しておれば、このような危険は避けることができたのだ、といっています。

あの外相になったアントニー・イーデンが、戦前、閣内にあって実に勇敢に戦ってきたのに、辞職のほかなしという心境に陥ったとき、チャーチルをおそった暗黒の絶望感は、文脈からも切々と伝わってきます。

 

「深夜から明け方まで、わたしはベッドに寝たまま悲しみと不安の念に身も細るおもいだった。ただひとり、この力強い若い政治家が、果てしなく陰気で、煮え切らない流れのようななりゆきに身をまかせ、あなたまかせの、相手の意図ははかりそこねるようにして、気力は少しもないといった態度ではあったが、敵対する政治家たち大勢に抗して、毅然と立っているかに見えた。……しかし彼はいま、わたしには、英国民の生きる望みを具現化していると思えたが、……その彼が、いまや、わたしからも、国民からも去っていったのである」

チャーチル「第2次世界大戦」より

 

全編、このような文章で書かれています。

まるでサミュエル・バトラーの小説「万人の道」をほうふつとされるような文章です。このように書きつづけるチャーチルは、文章家としても高く評価され、1954年にノーベル文学賞が贈られました。

もとより、日本とイギリスはふしぎな因縁をもっていて、薩英戦争以来、友好関係にあり、パークス公使が幕府を見限って薩摩や長州に先行投資をしたり、明治新政府を世界で最初に承認したこともあって、さらにチャーチルも賛成票を入れた日英同盟によって、日露戦争や第1次世界大戦では日本は勝利しています。

チャーチルは「日露戦争」の結果は、ただ一国をのぞいて、すべての列強を驚かせました。ヨーロッパで唯一の、冷静な目で日本の軍事力を測定できイギリスは、この戦争で得るところは大きかったようです。イギリスの同盟国日本が勝利したことで、フランスは、イギリスとの友好を求めるようになったといわれています。

イギリスでは、現在でもチャーチル人気はとても高く、2002年にBBCがおこなった「100名の最も偉大な英国人」の世論調査では、1位に輝いたそうです。

なお、「第二次世界大戦(The Second World War)」(全4巻、佐藤亮一訳、河出書房新社、河出文庫、2001年)は、いまは翻訳本で読めます。すばらしい文章、すばらしい歴史の証です。

くずの 2

 

「考えたよ!」と、ハシゴのうえで田原はいった。

「ウマのことさ。おれって、ウマが好きなんだ。おれ、ウマのことを書くよ」

「きん坊、あなたのウマ好きは、いつからなの?」と、ナターシャが下できいた。

「ウマがきたときからだよ。――もう死んじゃったかもしれないけどね」

「それなら、それを書けば。それっていいわよ。あなたは仕事で、ウマといっしょに遠くまで歩いていたものね。きん坊のこと、ウマは思い出してたかしら。……きん坊にさよならって、いってたかもしれないわね」

「おれはやつに、まださよならをしてないよ」

それからまたナターシャがハシゴにのぼってきて、街のようすをながめ、夜空をながめると、また降りていった。あたりを見まわすと、わきの道をぶらぶら歩いていく人影が、塀越しにながめられた。

ナターシャがいなくなった。どこへいったのだろうと思っていたら、レンガ屑の捨ててあるところにしゃがんで、お尻を出しておしっこをしていた。

「お姉さん! 見えるよ」といった。自分の大声に田原はびっくりした。人に聞かれる、とまずい!

ナターシャはこっちを見たけれど、スカートで隠そうともしなかった。白いお尻が暗がりで、ほの白く見えていた。立ちあがると、「何か買ってくるから」といって、彼女は売店のあるほうへいった。

「腹へっちゃった……」と、田原がつぶやいた。

ペンキを運んだ。桟はしなることもなく、しっかりしていた。田原は小さなペンキ缶を持って、ハシゴをのぼっていった。平刷毛を突っ込んで持ちあげると、ねばねばした液体が糸をひいて垂れた。

ハシゴの桟にためし塗りをすると、青色のペンキだった。

朝になって太陽があたれば、晴れわたった空のように、明るい青に見えるだろうと田原は思った。

「わたしに落とさないでね」と、ナターシャがハシゴのところでいった。

「きん坊。降りてきて、食べよう?」

降りてからふたりは、壁を見て、空を見て、空のうえの風を見てからパンを食べた。犬がやってきて欲しそうにした。パン屑をやった。まだ欲しそうにして尾っぽを激しく振っていた。

食べ終わると、田原は壁にむかってふたたびのぼっていった。大きな壁にむかってハエのように這いつくばって書いていると、まるで雪山のクレバスのふちにいるような、気分の醒めるような感じがした。まるで凍てついた雪の壁に書いているみたいだった。

「いいわよ。じょうずじゃない、とてもすてきよ!」

田原もいい気分になっていた。

「わたしも、書いていいかしら」

「いいよ、書けば」

ナターシャは、脚立を柵のちかくにおいた。それから、かなりながい時間をかけて缶の色を見ているふうだった。田原は何回もハシゴを降りたり、のぼったりして、文字のならびを確かめた。そのうちにペンキ屋のことも、死んだウマのこともすっかり忘れてしまった。こんなにわくわくさせる遊びは、秘密にしておきたかった。

すっかり終わったとき、ふたりともペンキで手も服も、ペンキ屋なみに汚れてしまっていた。

鼻は揮発の匂いでくらくらするほどだったけれど、できあがった壁の文字は、もう取りかえしがつかないような、いびつな形で貼りついて見えた。犬がとうもろこしの芯のようなものをくわえて、ひとり遊んでいた。車のヘッドライトが大きくバウンドして、白い壁を映しだし、ひやっとした。

このワルふざけは愉快だった。

スリルがあったし、聖なる儀式のようにも思えた。

「いいわね」ナターシャが下でいった。

 

《お星さま、わたしのお願いをきいてください。

どうか、お願いします。わたしのために、

家族のために、弟が生まれますように。》

 

ナターシャは、帯を這わせたように小じんまりした文字で、柵のあたりのすぐ上の壁に、ちょっと遠慮したみたいに書いた。

ただ、ナターシャの文字は赤だった。田原は壁のまんなかに、遠慮なく、青のペンキで大ぶりの文字を書いた。それにしても、最後の1行が、少しおおげさだったかもしれない。

 

《ぼくの馬は、家ぞくです。

ケガをしました。それで、ここにつれられてきました。

ここで、ころされました。》

 

自分の名前を書こうと思ったけれど、やめた。

「そんなこと、とんでもない!」

その目を思い出した。

ウマの目は大きくて、どんなことにも、どんなワルふざけにも、大目にみてくれるいいところがあった。たまには小バカにしていうことをきかないこともあった。年を食っているやつは、おべっか使いのようなワルふざけをして仕返しをする。あの分厚い唇で衣服をつまみ、田原の気分を揺さぶった。

まぐさをやっても、ときどき、えんばくの入りが少ないといって、鼻を鳴らした。飼葉(かいば)おけのそでから長い顔を突きだして要求した。ニンジンの刻みと、ひとつかみの塩をやると、大人しくなった。

「ニンジンに塩をまぶすと、甘くなるからな」と、つぶやいた。

「なーに?」と、ナターシャはきいた。

ウマも眠るときは人間とおなじように横になって寝る。ただ、人間とちがうのは、ちょっとでも厩舎に足をむけると、すぐ立ちあがるのだ。分厚い口が彼の肘のあたりを引っ張って、ときどき文句をいうのだ。

夜寝ているウマをたたき起こすのは悪い気がしなかった。いちども泣きごとをいわなかった。雪道で田原がおしっこをすると、やつも立ちどまって、ながいおしっこをする。

冬の道はながい。氷の解けた川のふちで、眠っていた水鳥たちがとつぜん羽ばたき、びっくりすることがある。

やつもおどろいて立ちどまる。

こっちが歩きだすと安心したようにやつも歩きだすのだ。ただ、理屈に合わないことをすると、かならずしっぺ返しがきた。やつが怒ると、ひとりで塒(ねぐら)に帰ってしまうのだ。

ウマはもう死んだらしい。もう殺されたのだ。このいたずらは、やつのための墓碑銘のような気がしてきた。ウマに名前がなかったのが残念だった。

「わたしたち、叱られるかもよ!」

壁のいたずらを見たナターシャは、感動したくせに、もう後悔しているらしい。叱られるときは、きっと年上のナターシャのほうだろう。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

さっきのペンキ屋はおっつけ戻ってくるだろう。やるだけのことをやり終えると、とてつもなく愉快になってきた。

ナターシャは、白っぽいスカートについたペンキを見て、荷台にあったぼろ布で拭いている。拭き方がまずかったので、汚れがひろがってしまった。

「こんなことして、ゆるしてもらえるかしら」といった。

「だれに?」

「だれって。お星さまだって黙ってやしないのじゃない?」

「洗濯すれば、それでいいよ」と、田原がいった。

「そうじゃなく、こんなワルふざけをして、叱られるかもよ!」

「ああ、あれはお姉さんだって、すてきだなんていってたじゃないか!」

「そうよ、だからよ!」

「ゆるすよ!」

「そう思うの?」

「いや、おれがさ……」

ナターシャは刷毛を大きく振った。すると、田原のほうに赤いペンキの粒が飛んできた。

「ごめん、こめんね」ナターシャはいった。

田原の顔を見て、ナターシャは笑った。彼も笑った。

ふたりが書いた傑作は、夜空のぼんやりした明るさのなかで、映画のはじまりみたいに見えた。

翌朝、太陽のしたでながめてみたい気持ちがした。

しかし田原は、あしたのことはわからないと思った。

朝、出勤してきた連中は、定刻どおりに引きあげていった門衛の責任にするだろうか。それとも、ウマを殺したやつを責めたてるだろうか。そんなことはしないだろう。もしかしたら、白いビニールの前掛けをした男が出しゃばって、やわらに連絡し、父が呼び出されて、壁を汚したつぐないを迫るだろうか。それはわからない。

「ウマを返して!」と、彼はわめいたけれど、白い前掛けをした男は、「子どもが何をいうか! このくそガキ。もう入ってくるな!」といって、取り合ってくれなかったばかりか、玄関のドアをピシャリと閉めてしまったのだ。

ウマとも会えなかった。さよならもいえなかった。――やわらからきたなんて、いわなければよかった。

人の声がしたかと思うと、空き地に停めてあったトラックのエンジンがかかった。さっきのペンキ屋のふたりだった。ペンキ屋はトラックに乗ると、ぐるりと鼻先をまわして、どこかに立ち去っていった。

「たいへん! わたしたち、とんでもないことしちゃったわ」と、ナターシャがいった。

「ぐずぐずしてるからだわ」と、田原のほうを見ながらいった。

田原は、男がおしっこをした木の陰で、放尿した。ナターシャがペンキ缶を木の幹のあたりに持ってきて、そろえていた。

ペンキ屋は途中で気づいて戻ってくるということは、まずないだろう。ホロのなかにあったペンキ缶のほとんどを積み残したままだった。脚立も、ハシゴも。――それらはみんな彼らのメシの種なのだ。

それからぼんやりした時間がすぎ、ナターシャが干し草の束のあいだで、からだをごそごそ動かしていた。

膝を折ってスカートのなかに足首を入れてから、膝のうえに彼女の顎をのせたりした。そしてときどき肩をゆすった。田原の肩に触れた。ふたりは干し草の束と束のあいだにからだを移動させた。そのすき間は、ぴったりからだをくっつけさせるほど狭かった。

寒くはなかった。

あの壁は、夜のうちからつぎの朝がやってくるのを心待ちにしているように思えた。

あしたは晴れるだろうか。

空には星も見えない厚ぼったい雲があるけれど、ものすごいスピードで雲が流されていた。田原は、あしたが楽しみだった。あしたのことを思うと、空腹にもたえることができそうだった。

また沢の音が聞こえた。田原は疲れたように押し黙っていた。

そのうちに眠くなった。

ナターシャはたくしあげていたセーターの袖口をおろした。ナターシャは髪のうしろに手をやり、またごそごそと動いていた。何かべつの音がした。おならかもしれない。

「ネズミでもいるのかな」

「よして!」

ナターシャは、田原にしがみついてきた。

大きな娘がネズミぐらいで怖がってどうする!

彼女は、思ったよりも長い腕を田原の腕に巻きつけて、ぎゅっと力を入れた。まだ怖がっているらしい。ふたりのあいだには恐怖のはいりこむ余地などなかった。からだをくっつけ合っていると、温かくなった。

やわらかいにこ毛のようなふわふわしたものに触れた。

その頬がネコのように擦りよってきた。やわらかくてちょっと冷たい頬だった。ネコがネズミを怖がっているんだなと思うと、可愛い感じがした。

「大人だったら、こんなことするんだろうな」と、ナターシャの頬に触れながら田原はいった。「しりません、そんなこと」ナターシャは、納屋での出来事を思い出していたのかもしれない。田原は、納屋で見たナターシャの大人っぽい顔を想像した。ちかくで見ると、子どものしぐさと表情が、まだ残っている。

「できないっていうのかい?」

「しらないって、いったのよ」

「キスしたこと、ある?」

「ないわ」

「おれも……」

都会の夜空は、紫がかった明るさが消えなかった。それが上へ上へとのぼっていくうちに、闇と溶け合い、潮のようなうねりになった。その色は、荒野の闇とつながっているのだろうと思った。

「ウマのあれ、見たことある?」

「あれって?」

「だんだん大きく膨れて立つ、オスのシンボルだよ」

「ある」

「おれんとこのやつも、ヒマな夏には野原で、ひとりで大きくさせて楽しんでるんだよ」

「ひとりで?」といって、ナターシャは笑った。ウマが「ひとりで楽しむ」といったので、おかしかったのだろう。

「あれは、大きかったな。お姉さんのこの腕よりも太くて長いんだぜ!」といって、ナターシャの腕を持ちあげた。ほんとうにそう思った。

「いやだわ……」といって、彼女は腕を引っ込めた。

「ほんとだよ。見たことないの?」

「あるわよ」といって、ナターシャはうつむいた。

しなだれかかったナターシャの髪がじゃまになった。彼女の髪の毛のあいだから冷たい頬に触れた。すると、くすぐったそうにナターシャは首をすぼめた。ニキビのあるほうの顔がこっちをむいた。その斜視の目がうすぼんやりと見え、ふたたび納屋のなかで見せた、女の大人びた顔になった。そのときとおなじ顔をした女が、そばにいた。

――田原はとつぜんの雷雨に、ちかくの人の納屋に逃げ込んだことがある。そこにナターシャがいたのだ。

彼はちょっと眠ってから、ナターシャに起こされた。そのとき、田原はナターシャを押し倒し、うしろ向きの彼女のからだをよじ登るように、うしろから抱きついた。彼は、湿り気のあるナターシャのからだを知った。うねうねとしたパワーがあった。とらえどころのないからだだった。

田原はこれまでいちども試されたことのない感覚に目覚めた。

おたがいに不自然に力を入れ合ううちに、田原のからだがとつぜん脈打ち、ウマみたいに硬直してくるのがわかった。

それがナターシャのお尻のあたりに伝わって、汗ばんだ異臭のなかで、最高に気持ちのいい瞬間をむかえた。そのときの女の顔を思い出した。

「怖いの?」と、ナターシャはいった。

「何が?」

「キスが怖いの?」

大人の女がからかっているみたいに聞こえた。田原の気分を見透かしているような顔だった。「怖いもんか」と思って、目をつぶってぐっと口を押しあてると、やわらかくくずれるような冷めたい粘膜のようなものに触れる感覚がつたわってきた。

ぞっとして、思わず口を逸らした。ナターシャは、どうしたの、というような顔をしてこっちを見ていた。

「いやだわ、ペンキじゃない!」

彼女の口のあたりについていたペンキが田原の顔を汚したようだった。田原はぺッと唾を吐き、ぐっと顔をはなしてナターシャのほうを向くと、笑った。

「ネズミのことは、もういわないでね」と、ナターシャはいった。

「ネズミ、怖いんだろう? お姉さんのネズミのせいで、ウマが殺されたんだぜ」

「ネズミは怖いわ。ながい尾っぽが怖いのよ。そう思うだけで、いやだわ」

「おれはネズミなんか怖くないぞ。生きてるネズミの尾っぽをつまむことも平気さ」

「だれだって、怖いもの、あるのよ」

「おれには、ないよ」

「ほんとに?」

「そうだよ」

「そうかしら……」

ナターシャは、それから何も話しかけてこなかった。田原はナターシャをきゅうに憎らしく思った。

彼はナターシャのからだを納屋のときのように、押し倒した。干し草の束のすき間で、ふたりはもつれた。「よしてよ!」といって、スカートを下ろすしぐさをした。

「きん坊、やめて! わかったから」といった。

赤く上気した顔がこっちを睨んでいた。「なによ!」といって大きく息をついだ。いつものナターシャとはまるでちがった感じだった。すっかり大人びた顔だった。わずかばかりの羞恥と臆病な好奇心の交錯した瞬間がすぎると、ふたりとも闇のなかでじっと身動きをしなかった。

彼女は泣きはじめた。

「きん坊、わたしはきん坊とは結婚できないのよ」

「どうして? お姉さん、おれ、結婚なんか考えてないよ。おれは子どもだから」

「結婚できないのよ、わたしたち」

「わかったよ」

そして、静かな夜がやってきた。ふたりはやがて眠った。

田原は、眠りに落ちるまえ、ほんの少しのあいだ荒野の声を聞いた。モノクロームの映像のようにゆれていた。「おおーい、おおーい」と人が呼んでいるらしい。人の声だった。その声が近づいてきた。なつかしい声もある。先祖の声もあった。大勢の人たちだ。その足音がだんだんちかづいてくる。

姿は見えない。みんなこっちにやってくる。

「おおーい、おおーい」

「おおーい、おおーい」

荒野のむこうは、かすんでいた。その風景がゆれているのに、人の姿が見えない。執拗な足どりはゆれ動く風景を越えて、茫洋(ぼうよう)としたひびきで大河のうねりのようにこっちに向かって押し寄せてきた。田原は起きあがろうとしたけれど、身動きができなかった。

人の声が遠ざかると、森を切り開く斧(おの)音や、谷間(たにあい)を流れる沢の音がこだまし、さまざまな余韻を引きずっている。それでも太古の荒野の風景は何も変わらないのだ。そして、だんだん膨れあがった闇が、彼らを閉じ込めていった。

田原は、真駒内の「札幌しらかばカントリークラブ」のクラブハウスの周辺をまわって、黒くみえる銀杏の並木をみてからクラーク像のある羊ヶ丘展望台のほうへ車を走らせた。

いまは、白い雪原が見えるだけだった。