夜九時、居間で新聞のテレビ欄を手にすると、「何を観るの?」と家人が聞く。

 

 「やつぱりーーニュースしかないかな。どうせ線状降水帯とウクライナ情勢だらうけど、最近ドラマもろくなものがないぢやない。男と女の怒鳴り合ひばかり」

 

 家人が噴き出す。「男と女の怒鳴り合ひばかり、か。なるほど」

 

 習慣として夜のテレビドラマを観なくなつたのはいつごろからだらう。

 

いつとき全盛だつたサスペンスの二時間ドラマが下火になつて、代はりに登場した病院が舞台の医者、患者の物語と、オフィスや学校での若者の恋愛話が主流になったころからではないか。

 

そのころから、ぼくの印象ではテレビドラマに「怒鳴り合ひ」が幅を利かせるやうになつた。

 

ヤマ場で大声を出す場面、せりふが多くなつた。

 

顔を真つ赤にして怒声を発する。日常生活ではありえないやうな絶叫、号泣、叫喚、ときには爆笑・・・。恥づかしいくらゐ感情をむき出しにして、練りに練られた決め台詞をぶつける。

 

それがドラマのクライマックスであり、象徴でもあつて、その数秒のワンシーンが、放映の始まるしばらく前から繰り返し前宣伝に使はれる。流行語にもなる。

 

ぼくの実感では、テレビドラマのやうなエキセントリックで過剰な光景は、実際の私たちの生活ではあまりない。

 

矯激な「喜怒哀楽」の噴出はぼくたちの日常ではまれだ。

 

自身、何かに対して心底怒ったり悲しんだり笑ったりしなくなつて何年になるだらう。

 

日ごろ、真剣に怒ることも喜ぶことも悲しむことも激減した。

 

この四月、三人姉弟の真ん中の、87歳の姉を亡くしたが、なぜか涙は出なかつた。

 

通夜、葬儀、納骨と、弟としてどこかの場面で込み上げてくるものがあるかと警戒したが、ついにさういふ機会はなかつた。

 

いや、現実の生活の中では怒りたくなることも、悲しむべきことも、爆笑したくなることもありうるのかもしれないけれど、そこへ達する前に、いまもし本気で怒つても悲しんでも笑つても、数日後にはさういふ自分がアホらしくなり、自己嫌悪に陥ることが目に見えてゐる。

 

これを俗に世知とか「年の功」といふのかもしれないが、自然な激情に身を任せられないといふのは悲しいことだ。

 

客観的にみれば、これは感受性の衰退、鈍化、要するに「老化」といふことなのだらう。

 

激しい感情こそが人間たる証しなのか。

 

激情横溢のテレビドラマに心が随いていけなくなつたら、人間としての危険信号なのか。

 

10年ほど使つたスマホがいよいよ悲劇的に怪しくなつたので、娘に勧められるままに近くのドコモショップへ行つた。

 

入社1年目といふ女性スタッフと、多少スマホに習熟してゐる娘とが勝手に合意したのに任せて、「4月新発売」といふ最新機種を購入した。

 

この10年間のスマホ技術の進歩のせゐか、それとも80翁の頭脳のせゐか分からないけれど、ペットでもあやすやうに、指先で上下左右にちよこちよことやる操作に慣れないながら、色感けざやかな画面の美しさと、機械としてのフットワークの良さにうつとりしてゐるあひだに、いつの間にかぼくが発信するメールは従来のパソコン経由よりスマホ経由が多くなつてゐた。

 

 「もうパソコンはやめたの?」

 

親しい友人からそんな電話をもらつて、自分が徐々にスマホ依存に傾いてゐることに初めて気づいた。

 

さうではない。長い文章は発信も受信も相変わらずパソコンで、スマホに依存してゐるといふのは発信数の話だ。

 

「もう昔のやうに長い文章を打つのは億劫?」

 

さうではない。まさか小説やエッセーをスマホでは打てないから、スマホはあくまで簡便な通信用である。

 

しかし、友人にさう言はれてみると、近ごろのブログやツイッターなど、いはゆるSNSにあふれる世間の文章はみんな短い。

 

改行して2行にわたる文章は珍しい。どれもこれも箸の先でブツブツと途切れる、うまい蕎麦のやうな文章ばかりになつてゐる。

 

小学校の作文の時間に、先生は「文章は簡潔に短く」と教へてくれたが、今ごろみんなそれを実践してゐる。

 

ぼくはもともと長い文章が好きだ。長い文章にこそ妙味や情趣があり、「その人の文章」があらはれる。

 

長い文章を書けるやうになることが文章道の上達だと信じてきた。

 

世に名文家と言はれる作家は、長い文章を巧みに操る人が多かつた。一例を引かう。

 

刺身が出てくると(三つ盛り合はせたうち、鯛がぷりぷりと弾力があつてまことによろしく、イカもまたすばらしい)、鯛とイカとをちよいと褒めてから、嬉しさうに鮪をみて、関西ではこれをコシビといふ、マグロの古名シビが現代に残つてゐるのはこの言葉一つだけぢやなからうか、などと感慨に耽つて、それからおもむろにそのコシビを食べるのだ。

(丸谷才一「食通知つたかぶり」)

 

プールを隔てて見る慶子の、黒白の縦縞の水着に包まれた体は、五十歳に近いと言はれても信じがたい、豊麗を極めた姿で、幼いころからの洋風の生活が、脚の形といひ長さといひ、日本人離れのした釣り合ひにして、姿勢がいかにも好いから、何か梨枝に話してゐる横向きの体にも、彫刻的な曲線が威厳をもつて流れ、胸と尻との突起の均整にも、円やかな肉体の統治が見られた。

(三島由紀夫「暁の寺」)

 

この二つの文章とも、描写、リズム、言はんとしてゐること、語彙など、非の打ちどころのない名文といふしかないが、いづれも一つの文章が150字を優に越える。

 

400字詰め原稿用紙の半分に近い長いセンテンスである。

 

気ぜはしい現代社会で、こんな文章でメールをやり取りしたら日が暮れる。

 

しかし、そんなことを気にしないところに文化があるのではないか。

 

SNSのやうな短文ですべてが済むと思つたら寂しい。

 

短文しか横行しない社会の無味乾燥を怖れる、なんて言つたら、やはり老人趣味かしら。

街を歩いてゐたら、前から来た若い女性が急に立ち止まり声をかけてきた。

 

 「突然で失礼ですが、あなたが他人に自慢できることつて、何かおありですか」

 と小さなマイクを突き出す。

 

 「確かに、失礼だねえ」と笑ひながら、「自慢できること――さうねえ、後期高齢者であること、くらゐかな」と答へた。

 

妙な返答だが、最後まで相手の話に付き合ふと、彼女はある新興宗教に所属してゐて、「みんなで童謡唱歌を歌ふ会」といふ集ひへのお誘ひが目的だつた。

 

童謡唱歌を歌ふ会から、いづれ宗教団体の会合に誘導しようといふ魂胆だらう。

 

「演歌を歌ふ会」でなくて「童謡唱歌」なのはこちらの風体を見てのことか。

 

「自慢できること?」と不意に尋ねられたら、80歳で元気に酒を飲み、散歩をしてゐること、くらゐしか思ひつかなかつた。

 

リタイアした直後、健康の話になると、「41年間のサラリーマン生活で『病欠』が一日もなかつた」などと自慢してゐた時期もあつたけれど、最近、あまり口にしなくなつた。

 

この先、『病欠ゼロ』の自信がやや揺らいできた。

 

生まれてこのかた、ぼくは頭痛と腹痛を知らない。

 

頭痛といふのはどういふ風な痛みで、腹痛といふのはお腹のどの辺がどういふ具合に痛むのかいまだに分からない。

 

肩の痛みなら40代のころから馴染みだし、腰痛はカイロプラティックに何度も通つて1回4000円ナリの施術費を払つたりした。

 

歯痛も、二十代のひとり旅の途中に悩まされて、冷えたビールを口いつぱい含んで当座痛みを凌いだりしたこともある。

 

しかし、もつとポピュラーで、多くの人が体験してゐるらしい頭痛や腹痛の経験がない。

 

いや、正確にいふなら「これまで経験がなかつた」。

 

80歳になつた直後、つまりごく最近、深夜に脳の中央から少し上のあたりに、小さな白い閃光のやうな痛みが曳くことがある。

 

チ、チッといふ軽い痛みである。

 

血圧(もう40年近く降圧剤を服用してゐる)の影響か、脳のどこかの神経細胞がつひに枯死しかかつてゐるのか、などと少々不安になり、白い閃光が走つた日を手帳にメモするやうになつた。

 

すると、これが起きるのは月に1回か2回、さらに注意深く観察すると、この症状が出た翌日は、決まつて天気が雨か、暗い曇天か、庭木を揺らすやうな強風が吹く。

 

これは天候と関係があるやうだと考へ、白い閃光の出た日は気象庁のホームページで気圧の変動を示す気象図を念入りに調べた。

 

その結果、沖縄の方から気圧の谷が日本列島を北上したり、朝鮮半島から幅広な帯状の寒冷前線が列島を横断する日に限つて白い閃光が走ることは疑ひの余地がなかつた。

 

たまに例外もあるが、それはぼくが身辺の雑事に紛れて、白い閃光を特に意識しなかつたためだらう。

 

齢は争へないとはかういふことをいふのか。

 

人間、若いうちは気圧に肉体が左右されることなどないが、歳をとると、動物の素性があらはれて、空模様に抗しきれなくなるらしい。

 

ジャングルなどに棲む野生動物は生まれつきかういふ察知能力に長けてゐて、それなりに順応しながら日々生き延びてゐるにちがひない。

 

ぼくもそろそろお天気さまに白旗をあげて、気象図を気にしながら行動予定を立てなければならないのかもしれない。