いつもの「4時5時オトコ」は、ワインバーへ行くのにわざとスマホを持たないで出かけてみた。

 

40代の終はり頃から世の中に携帯電話なるものが流行り出して、「みんな持ってゐるんぢや持つか」くらゐの気持ちで持ち始めたが、以来30年、財布と同じく、時に腕時計代はり時に手帳代はりとして、日常生活の中でスマホは手離すことのない小道具となつた。

 

街へ出れば、いまや老いも若きもみんなスマホを手にしてゐる。

 

ワインバーでも、ワインに失礼ぢやないかと思ふくらゐ、誰もがスマホをワイングラスと並べて目の前に置いたり、中には右手にワイングラス、左手にスマホなんていふ男もゐる。

 

これはいくら何でもヘンぢやないのか。

 

ぼくは腕時計も持たない。

 

リタイアして83歳にもなると、日常の予定や約束はあまりない。

 

月に4日のエッセー塾の日程と、近所の掛かりつけ医に薬をもらひに行くのさへ忘れなければ、社会生活に重大な支障はない。

 

他人から始終連絡の入る身ではないし、一瞬でも知るのが遅れて困るやうなニューズもない。

 

だつたら、もしかしたらスマホなんて常時携帯してゐなくても不自由しないのではないかと、あるとき思つた。

 

その日もいざワインバーへ入ると、カウンターの隣りの男性がやはり片手にスマホを持つてゐる。

 

脇のテーブル席の若い男女も、ふたりしてそれぞれのスマホをのぞいてゐる。

 

ときどきお互ひのスマホに目を飛ばし合つて、相手のスマホの画面に手を伸ばして何かささやいたりしてゐる。

 

会話らしい会話はない。だつたらわざわざワインバーへ来ることないんぢやないか。

 

公園のベンチでも十分ぢやないか。

 

スマホを持たないぼくは、いつものやうに一杯目の赤ワインを飲みながらーーそして、やることはない。

 

まはりの客や店内の造作、シェフやスタッフにちらちらと目を向けるが、数分で終はる。

 

目の前にはいつものやうに赤ワインの入つたグラスがあるだけだ。

 

スマホを持たないことで、なんとも間がもたない。

 

いつもこんなときスマホを眺めてゐたのは、単に所在なさを糊塗するためだつたのだ、と初めて認識する。

 

それからの時間、ぼくがそこで何をしたかといふと、ふたたび店内のありやうと、その日そこにゐる客たちの観察である。

 

やることはそれしかない。それで何か不都合があつたかといへば、何もない。

 

客の一人であるぼくには、客たち男女の風体から連想するあらぬ妄想でも、けふの店の稼ぎ高でも、いまぼくが飲んでゐる赤ワイン1本の仕入れ値と店のメニューの価格との差額でも……なんでも想ひ描く自由がある。

 

でもそれがナンボのものかといへば、ナンボのものでもない。

 

このカウンターでいつもスマホを見つめてゐた時間と同じ無為である。

 

かくて「脱スマホ」の一日はプラマイ・ゼロに終はつた。