「悪いけど、これやつといてくれる?」

と人に頼みごとをするのは、昔からあまり得意でない。

 

どうしても頼まなければない場合はともかく、できればどうにかかうにか自分でやるか、さもなくば断念する

 

これは、もしかしたら母親譲りだ。

 

警察官の妻として、官舎仲間や近所に対して、子供心にも奇矯と思ふほど気遣ひする母親だつた。

 

老後、脳卒中で半身不随になり、78歳で亡くなるまで、家の中も一人では歩けなかつたが、周囲に人がゐなくなつてぼくと二人きりになると、よくかうこぼした。

 

「何が辛いつて、人に頼んで何かをやつてもらふくらゐ辛いことはない。元気な時のやうに、何もかも自分でやれたら、さぞ楽だらうに」

 

若いころから胆石の激痛に七転八倒、近くの掛かりつけ医に往診を頼むなど、四十一歳でぼくを産んだあと病弱の身となつた母親は、自分の郷里から女中(今でいふ「お手伝ひさん」)を見つけて来て、ほとんど家族同然に遇する中で、家事、育児などすべてをその女性に委ねてゐた。

 

しかし、半身不随になつてからは、必要最小限の用事以外は彼女に何かを頼むのを躊躇(ためら)ひ、なるべく我慢するやうになつた。

 

「でも、生きるためにはどうしても人に助けてもらはなければならないことがあつてね」

 

たとへば、一家の食事の世話や、トイレへ連れて行つてもらふ、風呂に入れてもらふなど、生来、気の弱い母親はいつも遠慮しながら彼女に頼んでゐた。

 

「そこにある物を取るのでも、人に頼むのではなくて、元気だつたころのやうに自分で全部やれたら、どんなにか楽だらうと思ふ」

 

と、ぼくの前で涙をこぼすこともあつた。

 

その血を継ぐ息子は、幸ひ80歳を越しても時折腰痛に悩むくらゐで普通に生活できてゐるけれど、この先、いつ母のやうに「生きるために」他人に助けてもらはなければならない事態が訪れるか分からない。

 

「頼みごとをするのは得意でない」なんて粋がつてゐないで、もつと謙虚に、そして素直に、人に何かを頼めるやうにならないといけないのだらうが、これは性分だからさう簡単ではない。

 

ならば、人に頼まないと生きられないやうな状況にならないことを祈るしかないのだが、この「祈り」はつまり「神頼み」。神でも人間でも「何かを頼む」ことに変はりはない。

 

せめて神様には心置きなく何でも頼めるやうに、少し性格を改めておく必要があるのかもしれない。