まぎれもなく彼はインテリな新聞記者だつた。

 

新聞社に41年間務めたぼくの真率な印象をいへば、新聞記者には案外インテリは少ない。

 

彼は東京外語大を出て読売新聞社に入社、1990年代、湾岸戦争下のヨーロッパ、中東などの特派員として躍動、いくつも特ダネ記事を書いた。

 

「このニュースのコア(核心)は何か」――それを見抜く感性はもちろん、記事の切り口、端正な文体とも天性のものといふほかなかつた。

 

彼が本社勤務になつたとき、政治部の同僚の紹介で六本木で知り合ひ、以後しばしば酒場を共にしては文化人類学的な話や、世界観、「生きるとは何か」など語り合つた。わが家の花見の宴にも来てもらつた。

 

50歳になつて、ぼくが政治部から週刊読売編集長に異動したとき、「国際記者として世界を飛び回るのもいいけど、その体験を踏まえて、こんどは日本のウラ社会を抉(えぐ)る週刊誌ジャーナリズムにそのセンスを生かしてみないか」

と誘ひをかけた。

 

バーのカウンターでだつたが、ぼくは本気だつた。

 

事件、芸能など軟派に弱い新人編集長には、気心の知れた相談相手が欲しかつたこともあるが、彼の俊傑なニュース感覚と才気を、「何でも書ける週刊誌」の舞台で発揮させたら面白いと思つた。

 

彼にとつて、これは親しい先輩の、傍迷惑で“ご無体な誘ひ”だつたにちがひない。

 

世界を飛び回る国際記者を一介の週刊誌記者に引きずり込まうといふのだから、とんでもない話である。

 

ぼくにすれば、これからの記者人生を彼と共に歩み、やがて編集長の後任を彼に託したい思ひもあつた。

 

だが彼は一週間たつても返事をくれなかつた。

 

ぼくが苛立つて、「もう部長権限で人事申立書を人事局長に出してしまつた」と説得しても、彼はまだ逡巡してゐた。

 

しかし、十日ほどして結局、彼はぼくの懇請を受け入れてくれた。

 

彼はときに昼間から酒臭いことがあるほどの酒好きで、週刊誌では二人で人形町や浅草橋で毎晩のやうに痛飲した。

 

彼はスコッチウイスキーのストレート、ぼくはワインと決まつてゐた。

 

60歳を過ぎて、ぼくは編集長から子会社の読売カルチャーセンターに異動、彼も読売系列テレビ局の東京駐在・広告担当役員に出向となつた.。

 

ある日の午後、ぼくはふと彼と飲みたくなつて銀座4丁目にある彼のオフィスを訪ねた。

 

デパートの並びにあるビルの入口を入ると、電話もしてゐなかつたのに、なんと偶然、彼がこちらに向かつて歩いて来る。

 

午後4時過ぎである。

 

「おう、久しぶり。まだ仕事?」

 

ぼくが言ふと、「いや、もう帰らうと思つて……」と語尾を濁した。

 

「さうか、久しぶりに一杯やらうかと思つて来たんだが」

 

彼ははにかむやうに微笑んだものの、いつもの顔と違ふ。

 

「実は最近、一杯やるより、早く帰つてやりたいごとがあつて」

 

「へえ、きみに酒より好きなことがあるとは意外だねえ。やりたいことつて何?」

 

そのあと、彼がポツンとつぶやいた答へに、ぼくは愕然とした。

 

「草むしりです」

 

東京駐在は一人、日々仕事は早めに切り上げて、明るいうちに自宅に帰り、近くのキリスト教会へ行つて、暗くなるまで教会の庭の草むしりをするのが「今の生き甲斐」なのだと言ふ。

 

「教会で草むしりをしてゐると、何もかも忘れて、幸せな気分になれるんです」

 

ぼくの知らない、彼の心深くに横たはる暗部をちらと覗いた気がした。

 

彼はその後まもなく体を壊し、入院してゐた病院の外階段から落ちて死んだ。