「お昼は何にしますか? チャーハンかスペゲッティならすぐできますけど」

 

階段の下から家人の声が届く。

 

「スパゲッティがいいな。けふはボンゴレで」

 

若いころから、何につけ「決断」は早い。あまりに即決なので、ともすると軽佻浮薄、考へなしに決める、といふ誹(そし)りを頂いてきた。

 

この癖は、長年の仕事で身に付いたものでどうしやうもない。

 

マスコミの世界で働いてゐると、何につけ「早い決断」に価値がある。

 

そのテーマはいま誰に取材したら適当か、取材した材料のうち何に重点を当てて記事にしたらいいか、など、タイミングよく結論を出さなければならない。

 

「ちよつと待って」は通用しない。けふの夕刊か明日の朝刊に叩きこむためには、その場で決断しなければならない。

 

週刊誌の編集長をしていた当時は、とりわけ「早い決断」が求められた。

 

今週号にどのネタを掲載し、何をボツにするかは、毎週火曜日の午前中の編集会議で最終決定しなければ間に合はない。

 

猶予時間は半日もない。

 

「ぼくが担当する芸能ネタは、結局Aですか、それともBですか」

 

部員の記者にかう問はれたら、その場で決定しなければならない。編集長が迷つてはならない。

 

「AでもBでも、記事にしてみればまあ大差ないだらう」といふ思ひもあつて、いづれにしろ決断は早い方がいい。

 

この癖がいまだに抜けなくて、80歳を過ぎた今も、人から何か選択を迫られると即決してしまふ。

 

一瞬間を置いた方が答へに重みが出るし、相手も納得することがなくもないのだけれど、判断を求められたら即決する癖は治らない。

 

ただ、最近、気になつてゐることがある。

 

「やるかやらないか」の決断を求められたとき、「やる」決断よりも「やらない」決断の比率が高くなつたのだ。

 

昔の仲間との飲み会を誰かが言ひ出す。いつ、新宿でやるか赤坂でやるか、どの店でやるか、会費はいくらくらゐにするか。

 

家族や友人とのドライブ旅行を思ひ立つ。泊まるのは温泉旅館? いや都会のホテルがいい? 

 

予算はたまには奮発するか? それとも歳相応に地味に行くか? 

 

数年ぶりに30枚程度の小説の構想でも練るか、書きあがつたらどの編集者に声をかけるか。

 

思ひを巡らせる時間は楽しいが、数日、いや一週間、半月――久しぶりの飲み会の期待は徐々にしぼみ、ドライブの旅程、宿の予約、新たに執筆する小説の構想等々、あれこれ考へた末に、結局「またの機会にするか」に落ち着くことが多い。

 

「やらない」決断にはそれぞれまことしやかな理屈が付き、すこし時間がかかるものの、最終結論として「今回は見送ろう」に落ち着くことが多いのは、それが安逸で、今のまんま、一番疲れないからだらう。

 

これが歳といふものか。