大型連休中に珍しい来客があった。
快晴に包まれたその日、たまたま親戚で急病人といふ電話を家内が受けてゐる最中にドアホンが鳴つた。
客は家内の高校時代の友人で、事前に来訪の連絡を頂いてゐた。
二十歳過ぎまで近所に住んでゐたが、静岡に嫁いで、家内と会ふのも久々のはずだ。
三人でしばし久闊のことばを交はし終はつたとき、ふたたび電話が鳴つた。
急病人の続報らしい。話が話なので、家内も「来客で」とすげなく切ることもできず、受話器を持つたまま別室へ消えた。
応接椅子に残されたのは、客とぼくの二人になつた。
「新幹線は混みましたか」「けふはまれに見る青空ですね」
などといふ会話を終へると、ぼくと客との間に話題はなくなつた。
でも客を迎へて黙つてゐるわけにもいかないから、
「お会ひするのは何年ぶりでせうね」
とぼくが言ふ。
「さう、何年になるでせうか。もう分からないくらゐ昔ですね。確か四十代のころ、私が実家に帰つてゐたとき、ご旅行の帰りにお土産を持つて寄つて頂いて――」
と客が笑ふ。
「ご実家はお変はりないですか?」
と問ふぼくは、実は彼女の実家がいまどうなつてゐるのかまるで知らない。
「ええ、妹一家が住んでをります」
――家内の電話はなかなか終はらない。
客とぼくの間に、また気まづい沈黙が来た。卓上の紅茶に手を伸ばし、次に庭を見やる。
つられて客も庭を見る。マツの薄茶色の新芽や、モチ、モミジ、ザクロなどの新緑がまばゆいが、とりたてて口にすることでもない。
ぼくの友達相手なら、大リーグ・大谷翔平の話題でもいいし、昔の記者仲間なら自民党の裏金騒動、ポスト岸田の政局など、話の接ぎ穂に事欠くことはないが、何に興味があるのか分からない老女にそんな話をするのもをかしい。
と言つて相手の胸で異様にひかるペンダントに話を振るのもわざとらしい。
家内の電話はまだ続いてゐる。ふたたび、どうしやうもない無言の時間。
客もぼくも、お互ひに視線のやり場に困り、ぼくは家内のゐる奥に目をやり、客は手持無沙汰の手を幾度も紅茶に伸ばす。
80歳を過ぎて、接客ひとつ満足にできないといふのは何とも情けない。
新入りのホステスが一見の客を前にしても、もう少しマシなお愛想があるだらう。
こんなときに役立つのは、日常、あまり意識することもない、ありきたりで当たり障りのない、いはゆる「世間話」の類いだ。
自分にさういふ能力が欠けてゐることに改めて気づく。
男一匹、「人間力」が試されてゐるのかもしれない。