JR東日本に勤める長男からメールが来て、「M氏」といふ名前に覚えがあるかと言ふ。

 

 初めて聞く名前である。

 

 「いま一緒に仕事をしてゐる人なのだけど、昔、親父に会つたことがあると言つてゐる」

 

 話を聞くと、ぼくが週刊読売の編集長をしてゐたざつと30年前、その人はJR東日本の広報部次長をしてゐて、仕事のことでぼくと懇談したといふ。

 

 懇談といふからには、たぶん一杯やつたのだらう。

 

 週刊誌の編集長は、記事へのいちやもんや情報提供(俗に言ふ“売り込み”)に来る人のほか、記事にして欲しい組織・企業の人などが毎日訪れる。対談の出演依頼やミニコミ誌などからの取材もある。

 

 「覚えてゐない?」と長男が重ねて聞く。

 

 「フルネームは何といふ人?」

 

 ほとんど初耳の名前だ。

 

 「そのころは毎日のやうにいろいろな人と会つたり飯を食つたりしてゐたからな。――特に記憶に残つてないね」

 

 「Mさんは今でも編集長の名刺を持つてゐるさうですよ」

 

 メールの最後に、長男はいかにもこちらが粗放であるかのやうな言ひ方をしたが、記憶にないのに「覚えてる」とは言へない。

 

 しかし、当時の名刺まで持つてゐる人をさつぱり思ひ出せないといふのはいささか礼に欠けるし、80翁のボケと言はれても仕方がない。

 

 30年前のことだから、といふのは言ひわけにはなるまい。

 

 コトと次第によつては、記者時代の40年前のことも、ブンヤになりたての50年前のことだつて、人相風体、会話、表情まで明晰に覚えてゐる場合もあるのだから。

 

 M氏のことがどうして記憶にないのかーー反省を込めて30年前を思ひ起こすと、どうやら事情が浮かび上がつてきた。

 

 週刊誌の編集長・デスクの計7年間は、日ごろ怠惰な身には珍しく超多忙な日々だつた。

 

 月曜午前10時からの編集会議に始まつて、ネタの選定、ページ割り、外部ライターへの執筆依頼、表紙の決定など、火水木曜はまたたく間に過ぎ、金曜夕の電車吊りポスター作り、土曜日の「編集後記」執筆まで一息つくひまもなかつた。

 

 一週間はある意味、狂乱のうちに、単調に過ぎて行つた。

 

 週刊誌へ移る前の、自民党の派閥抗争や政治スキャンダルの取材で忙殺された時代とは比較にならない。

 

 記者活動は取材、執筆など一個人で完結してゐて時間的にも融通が効くが、編集長はたつた一人の最終決定者だから余裕がない。

 

 50代の一時期の記憶だけが、あたかも脳細胞の一部に損傷を受けたかのやうにきれいに陥没して、“抜け穴”になつてゐるらしい。