三人姉弟の真ん中の姉が死んだ。
八十七歳。日本女性の平均寿命である。
葬儀場の都合か、通夜・葬儀まで十日も待たされた。
その間、遺体は寺の広い和室に安置され、いつでも会ひに行くことができたが、死化粧を施された仏さまは、生前の姉とはまるで別人だつた。
この姉は三人の中では一等頭が良く、ぼくが姉とすれ違ひに小学校へ入ると、古手の女教師から「お姉さんは良くできたけどねえ」と嫌みを言はれた。
ふくよかだつた姉の頬は、山の初夏の雪渓のごとく厳しい稜角をあらはにし、鼻梁は整形手術に失敗したかのやうな、不自然に細く尖(とが)つた鼻に変貌してゐた。
肉体はきもので覆はれて窺ひ知れないものの、数か月におよぶ闘病で、文字通りの骨皮筋エ門(ほねかはすぢえもん)であつたにちがひない。
ふだん友人の告別式で、式がをはつていざ出棺といふとき、司会者から「故人との最後のお別れを」と促され、参列者一同で棺の中をのぞき込んで遺体に小花を添へる儀式がぼくは好きではない。
恐ろしくて、棺の中の死人の顔を正視できない。
遺体は例外なく痩せさらばへ、生前の面影を喪つてゐる。そこにゐるのはもはや友人ではない。
姉の場合も同じだつた。
棺を霊柩車に運び入れるのに手を貸すと、男性ばかり六人で持ち上げた遺体はぼくの想像より重く、「人間を運ぶ」といふ手応へが多少あつたのにほつとした。
火葬場で近親者で骨をひろつて骨壺に納めるとき、係の男性が「これは足の骨」「これは腰の骨」などと足先から頭まで細かい説明をしてくれて、「女性の高齢者にしてはおどろくほど立派なお骨です」と褒めてくれた。
生きてゐる人間の骨には肉が付いてゐる。肉が付いてゐてこそ人間であり、体重があつてこそ人間である。
月に一度、血圧とコレステロールの薬をもらひに行く掛かり付け医で、体重計を下りたとき、若い医師が「ここ二か月で一キロ痩せましたが、何か心当たりがありますか」と問うた。
姉の死で肉や体重の持つ意味を意識した直後だけにギクッとして、
「さう言へば、八十歳になつて食事の量をやや加減してゐるかなあ」
と正直に答へると、医者は至極明快なことを言ふ。
「ものを食べることは大切です。どんどん食べて、どんどん運動。それが老後の健康法です」
わが意を得たりとばかり調子に乗つて、
「やはりさうですよね。ぼくはどんどん酒を飲んでゐます」
と返すと、医者は急に真面目な顔になつて、「毎日、何をどのくらゐ飲むのですか」とぼくの目を正視した。
飲めるうちこそ人間だ。
