店に入つてきた30代後半の女性客ふたりは、ぼくと同じ窓側の、テーブルが二つ離れた席に腰を下ろした。
午後4時前の閑散な時間帯で、三十席ある店内にはまばらに二組四人の客しかゐなかつた。
還暦に近い店長は、ワインを飲むぼくと統一教会やウクライナ戦争など硬い話を続けてゐて、入つてきたばかりのふたりにあまり注意を払はなかつた。
もう一人のスタッフの、まだ店に来て数か月にもならない若い女性は、入口のレジでその日のランチ客の会計の〆をしてゐた。
ふたり連れの女性客が手をあげて店長を呼んだ。窓側ではなく、奥のテーブル席に移動していいかと言ふ。
店長は気安く応じ、客の前に置いたお絞りと水を奥のテーブル席に移した。
店長はまた僕のところに来て、こんどは安倍元首相の国葬の賛否について話し始めた。店長は硬派の話が好きだ
ややあつて、女性客ふたりはふらふらと立ち上がり、出口に向かつて歩き出した。
店長があわてて女性客の後ろを追ひ、「お帰りですか」と声をかけた。
「ええ、……まあ」
と前を行く女性が、うつむきながら曖昧に答へた。
「何か、お気に障(さは)ることでも?」
席まで替へながら何も注文しないで帰る客に店長は問ひかけた。
「いえ、まあ、あの、ちよつと……」
女性は他にもなにか言つたが、返答は要領を得ない。
もう一人の女性が「急に用事を思ひ出したもので」とやつと聞こえるやうな小声で言つた。
女性客が外に出てから、店長とぼくは安倍氏の国葬の話はやめて、いま急に帰つてしまつた女性客について論争した。
「常連客らしき老人が大きな顔をして、腹を突き出して難しい話をしてゐるので、ここで食事するのがイヤになつたのですよ」
ぼくとは十年余の馴染みで、生来遠慮のない店長は、女性客が帰つたのはぼくが原因だと断定する。
「いつまで待つても誰もオーダーを取りに来ないから、この店、感じ悪いわね、と怒つて出て行つたんだよ」
とぼくは反論する。
さらには、「席に着いてメニューを見たら好みのものがなかつたのでは?」「運ばれたグラスの縁が汚れてでもゐたのでは?」「客同士が何かをきつかけに突然気まづい雰囲気になつたのかも」などといふ憶測が交はされたが、結局、真相は分からない。かういふ客はこの店では極めてまれだといふ
「何か言つてくれれば今後の参考になるのに、黙つて帰られたのでは改善のしやうもない」
と店長はつぶやく。
「用事を思ひ出したつて言つてたぢやない。素直にさういふことにしとけば、店長もぼくも傷つかない」
「あれは単なる言ひわけですよ」
「だれでも、はつきり言へない事情もあるつてことさ。あまり考へないはうが幸せかも」
「いやーーやつぱり、態度のデカい常連客がゐたからですよ」
店長は言ひ、ぼくは「長いこと客を放つたらかしにした店長のせゐさ」と話は元に戻つた。
