年に何回かしか行かない銀座のワインバーに、数か月前、新しい女性スタッフが入つた。

 

 まだ20代かといふ年頃で、学校時代はソフトボールかバレーボール部で活躍してゐたやうな、胸板が厚く、下腹も豊満、その割に店内での動きは敏捷でフットワークがいい。

 

 前からゐる先輩に遠慮してか、店ではいつもカウンターの端にゐる。

 

 客からワインの注文があると、奥の棚からボトルを探して来て抜栓し、ボトルとグラスを先輩女性やボーイに手わたす。自分で直接、客に差し出すことはほとんどしない。

 

 先輩女性の方は、僕の知る限りもう10年以上この店にゐる。

 

 こちらは冷房の寒気が前から後ろへ通り抜けるのではと思ふくらゐ痩せてゐて、カウンターの光る楢材の上をすべらせたグラスを客の前に置きながら、

 

 ♪あなたは男でしよ 強く生きなきやダメなの

 ♪お酒もちよつぴり 控へめにして 

 などと、古い演歌の一節を蓮つ葉な低音で歌ふ。

 

 ワイン一杯ごとに別の演歌である。ワインバーで「お酒は控へめにして」などと要らぬお説教をされて、客は思はず苦笑する。

 

 「よくああやつて、次々と別の歌が出てくるよねえ」

 

 ぼくは感心して、目の前の店長に話しかける。

 

 「レパートリーは百曲を越すと豪語してゐます」

 

 店長も呆れてゐる。

 

 「あちらの新入りさんにはお客サーヴィスのいい勉強になるね」

とぼくは、いつの間にかカウンターから奥に引つ込んだ部活系の女を目で追ふ。

 

 「……人それぞれですね」

 

 店長は近くにゐる演歌女には聞こえないやうに小声でつぶやく。

 

 「ワインバーに演歌といふのも面白いぢやないの。愛嬌があつていいよ」

 

 「……さうですか」

 

 店長はさう言つて顔を曇らせる。

 

 「まあ、やりたいやうにやらせてゐますが、愛嬌といふ点でいへばこの二人、いい勝負ぢやないですか」

 

 「といふと、あちらにも何か愛嬌があるの?」

 

 店長によれば、部活系も入店以来、店の顧客に気に入られようとそれなりに努力してゐて、たとへばワインをグラスで頼むと、彼女のそそぐワインの量はやや多めなのだといふ。

 

 前回この店に来たときのことをふと思ひ出した。

 

 ぼくが注文したいつものハウスワインの赤は、カウンターの隅で部活系が注(つ)いでくれたのだが、その量が明らかに多い。

 

 赤ワインはふつう、(店にもよるけれど)底からすり鉢状に展がるグラスの傾斜が縦に転じる辺りまでしか入れない。

 

 部活系が注いだ赤ワインは、自分の下腹部のやうに急にふくらみ始めるグラスの少々上の方まで満たされてゐる。あまり見かけない大サーヴィスだ。

 

 ぼくは部活系の方を向いて高くグラスを掲げ、無言でお礼の意をあらはした。

 

 意味が分かつたのか、部活系は恥づかしさうに会釈し、ほほ笑んだ。

 

 これが彼女なりの愛嬌なのだらう。

 

 演歌の一節を歌つてもらつても別段トクはないが、供されたワインの分量がちよつと多いのは嬉しい。