作家三島由紀夫が市ヶ谷台の自衛隊駐屯地で割腹自殺してから10日もたたない1970年12月初旬、大田区にある三島邸を弔問に訪れたときのことである。

 

三島邸を訪れるのはその時が初めてで、案内してくれたのは出版社大手・新潮社で三島由紀夫の担当をしてゐた菅原國隆さんだつた。

 

早稲田の学生だつたぼくは、新潮社が大学から歩いて行ける距離にあることもあり、小説が一つ書き上がると、新人賞応募が縁で知り合つた編集者の菅原氏のところへ持ち込んでゐた。

 

有名作家の原稿に穴があいた月などに、30枚程度の短編や短いコラムを何回か掲載してもらつた。

 

新潮社の正面玄関を入ると、顔なじみになつた受付嬢がこちらの顔を見るや菅原氏に内線電話をかけて、ぼくのペンネームを告げるのが、いつぱしの作家になつたやうな気分でうれしかつた。

 

三島邸を弔問したときびつくりしたのは、三島夫人の瑤子さんのまばゆいばかりに明るい、屈託のない応対だつた。

 

夫人は一階のフローリングの居間へハイヒールを履いてあらはれた。50年前である。

 

今でも日本では、ふつう家の中で靴、しかもハイヒールを履くといふ習慣はない。

 

小柄な瑤子さんが室内でもハイヒールを履くのが好きだつたのか、夫の三島氏がそれを望んでゐたのか定かでないが、あとで菅原さんに聞くと、瑤子さんはいつも家の中でハイヒール姿だつたといふ。

 

菅原さんが予告してあつたにしても、あの大事件から日も浅いといふのに、瑤子さんは化粧もファッションも完璧に整へ、髪も精緻に結ひあげられてゐた。

 

かの有名なロココ調の白い洋風住宅のなか、三島氏の遺影が飾られた祭壇のある中二階までの階段は、一段一段の踏み幅が極端に狭く、二十代のぼくも、思はずは黒い鋳造の装飾手擦りをつかんでそろそろと上つた。

 

「ひとつお聞きしてよろしいですかーー」

 

おそるおそる夫人に質問した。

 

菅原氏から次週の週刊新潮に『11月25日 三島由紀夫が死んだ日』といふ「特別読み物」5頁物を書けと言はれてゐたので、その取材のつもりだつた。

 

「噂によると、三島先生は死後も毎年、子供さん方にクリスマスプレゼントが届くやうにデパートに手配済みだつたといふ話がありますが、本当ですか」

 

瑤子さんは急に声を立てて笑ひ出し、

「まあ、どこかにそんな奇特なサンタクロースがゐたらいいわね」

とあつけらかんとしたものだつた。

 

折から「喪中はがき」の季節。あの年、瑤子さんがもし「喪中につき」を出したとしたら、どんな文面になつたことだらうと想像するのも楽しい。