お盆の季恒例のテレビの懐メロ演歌特集を観てゐて、さういへば近年、「一世を風靡する」やうな流行歌がないなと思つた。

 

美空ひばり、三橋美智也、石原裕次郎とまではいかなくとも、昭和の時代には数年に一曲や二曲、家でも外でも一日に数回は耳にする「はやり歌」があつた。

 

子供も老人も知つてゐて、「聴き飽きた」と思ひながらふと気づくと自分でも口ずさんでゐたりした。

 

番組では「三秒聴けばわかる」と題して、次から次へ古い録画で流される曲は、たしかにイントロを耳にしただけで自然に歌詞が出てくるからふしぎである。

 

ここしばらく、正確には昭和の後半から平成に入つて、さういふ「爆発的大流行歌」が出現しなくなつた。

 

精々流行るとしても世代ごとで、息子や娘はカラオケでよく歌つてゐるらしいが親は聴いたこともない。

 

ましてやお爺さんと孫が一緒に歌つた「およげたいやきくん」(1975年)のやうな曲は皆無と言つていい。

 

これは何も歌謡曲に限つたことではない。小説、音楽、芝居、落語、ファッション、料理……あらゆる世界で、途轍もない大流行といふものがなくなつた。

 

ある世代、ある地域、ある業界には流行があるにしても、日本中の老若男女が熱狂するやうな「大流行」がどの世界からも消えた。

 

現代人の価値観の多様化、脆弱化とか、趣味嗜好の広がりとかいろいろ分析は可能だらうが、ぼくが思ふに、今の日本はどの分野でも、世代とか性別とか地域とかを超越して、文句なく人々を魅了するやうな「名作」が誕生してゐないのではないか。

 

すべて平準化されて、そこそこ面白いし、そこそこ楽しい。さういふものが手軽に、どこでも手に入る。

 

それでいいぢやないの。国民こぞつて感動したり、酔ひ痴れたりする「名作」は必要ない。適当なところで満足できればそれでいい。そんなムードが社会全体に蔓延してゐる。

 

これでは時代が「後世に遺すもの」など何も生まれないだらう。

 

そこにあるのは、江戸時代の町民文化のやうな、「みんなほどほど」の平等感覚の自足だけ。それでいいぢやないの、といふのが時代の空気かもしれない。

 

後世、「令和の時代といふのは無個性の、てんでんばらばらの、何も遺らない時代だつた」と概括されるのかもしれないが、「それで誰が困るの」といふ声がとよもすやうに聞こえる。

 

話を足元に引き戻すと、ぼく自身、子供や孫に遺せるものは何もない。

 

禍棗災梨(かそうさいり)の類など今どき古本屋でも引き取らない。

 

金銀・不動産は何もない。それでいいぢやないの。誰が困るの。