イギリス船籍で日本製の豪華客船「ダイヤモンドプリンセス号」は、新型コロナウイルス(covid-19)のお陰で、この一か月余、悲劇の「タイタニック号」ほどではないにしても世界に名の知れたクルーズ船になつた。

 

有名になつたわりには、横浜港に停泊してゐるあひだ、その全長290メートルの船内がどんな様子だつたかについて、「ウイルス検査の陰性客」約千名の下船が完了したあとも、客たちの証言がさまざまでよく分からない。

 

テレビ局や記者は、国政選挙の時の「出口調査」のやうに、船を下りてきた人を一人一人つかまへては「船内の様子はどうでしたか」などと質問をぶつけ、客たちはともかく船を出られてほつとしたと安堵の顔をみせる一方、こんご「陽性」に転じる可能性への不安や、地元に戻つて近所や友人がいかなる反応を見せるかを案じる凡庸な声が大半だつた。

 

だが、こんな客もゐた。

 

横浜港まで両親を迎へにきた息子の車に乗つて自宅へ向かふ途中、高速道路を走行中にフジテレビの報道バラエティー番組の生電話の取材に応じた、おそらくリタイア後の七十代の男性。

 

「まあ、二週間も部屋から出られないのは窮屈だつたけど、物は考へやうですよ。くよくよ悩んでゐても仕方がないから、むしろ積極的に、『この経験を楽しんでやらう』といふ気持ちに切り替へました。十六日間の予定だつた旅が一か月に延びちやつたけど、それで特段困ることもないし、部屋にゐれば食事は配られるし、ワインだつて飲めたしーー」

 

司会の安藤優子がおどろいて、

「エッ、アルコールはダメだつて聞いてゐましたけど、ワインが出たのですか」

 

「出ましたよ、頼めば毎日1本」

「それをお飲みになつて、気を紛らはしていらつしやつたのですね」

 

「さうさう。なにしろ折角の旅行なんだから楽しまなくちやつてね。物は考へやうですよ」

 

ぼくはこの男性の言ふことに感動した。何よりも、「物は考へやう」といふあつけらかんとした気概がいい。

 

下船後、ウイルス検査が陽性に変はるかもとか、世間がどう反応するかなど、船の上でいくら心配しても仕方のないことだ。

 

ここは一番、覚悟を決めて、夜な夜な海越しに横浜のネオンをながめてグラスをかたむけるに如(し)くはない、と心を決めたのだらう。

 

「毎日、ワインが1本、部屋に配られれば、ぼくだつてさういふ気になるかもな」

 

カウンターの中にゐる、決して優艶とはいへない女にこの話をすると、相手は急に焦点を移して、

「こんどのコロナ騒動で、陽性の人との『濃厚接触』つてよく言ふぢやないですか。『濃厚接触』つてどんなことをするのかしら」

 

「してみたい?」

「ウフ、感染(うつ)りますよ、いいですか」

 

その場は聞き流したが、帰り道、彼女は何を感染(うつ)すつもりだつたのだらうかと思案した。