そのひとことを言はれたとき、私の中で何かが切れたのは事実です。

 

 衝撃といふか眩暈といふか、とにかくそのひとことを耳にして、私はもうこの世の中がどうなつてもいいといふ、破滅的な激情に襲はれました。

 

では、順を追つて事の顛末をお話しします。

 

 その日午後3時過ぎだつたと思ひます。彼が学校から帰宅しました。「彼」といふのは9歳、小学校4年生の「私の息子」です。

 

 どことなく沈んだ顔をしてゐましたので理由を聞くと、下校途中に、学校の運動会で使ふ紅白帽を失くしてしまひ、戻つて探したけれど見つからないといふのです。

 

 「学校からここまでの間ならすぐ見つかるのぢやないか。英語塾へ行く前に、もう一度探しに行つて来たら」

 「何度も探したのだけど見つからないんだ。誰かが拾つて、持つて行つちやつたのかな」

 

 「ないと困るのだらう」

 「先生には叱られるだらうけど、それだけさ。ないものはないのだから仕方ない」

 

  彼は自分が失くした責任をあまり感じてゐません。

 「さういふ風にすぐ諦めちやふからダメなんだ。この間のハーモニカもまだ見つかつてゐないし」

 

 「帰つて来る早々、がちやがちやお説教しないでよ」

 「自分で失くしてきて、親に向かつてそんな口の利き方はないだらう」

 

 私がさう言ふと、彼は反射的に、ごく自然に「そのひとこと」を口にしたのです。

 

 彼が私に向かつてそんなことを言つたのは一緒に暮らし始めて半年、初めてのことでした。

 

 「ほんと、ウルサイんだから。親に向かつて、だつて? 本当の父親でもなくせに、よく言ふよ」

 

 「――おい。いま言つたのはお前の本心か」

 

私は思はず彼の肩に片手を置きました。

 

彼は喧嘩腰で私の腕を両手でふり払ふと、

「本心だよ。だつてその通りでしよ。あなたはぼくの本当の父親ではないでしよ」

 

「お前、本気でそんなこと言ふのか。お父さんはお前のことを本当の息子だと思つてゐるぞ」

「だつて事実は事実でしよ。それに、毎日毎日、一日中家でごろごろしてゐて、ママに食はしてもらつてゐるだけの父親なんて、ぼくの父親ぢやない」

 

そのとき、私が小学校4年生の瞳の中に見たのは、なぜか「妻の前の夫」の姿でした。つまり、彼と血のつながった「本当の父親」です。

 

妻と同じく高校の教師をしてゐて、一度会つたことがありますが、真面目な中年男の「教師づら」が、ロックとジャズが趣味の私にはたまらなく不愉快でした。

 

妻の前の夫が期せずして目の前にあらはれ、私に対して、妻も敢へて言はないことばを言つたのです。「一日中家でごろごろしてゐて、食はしてもらつてゐる」

 

私は何が何だか分からなくなりました。

と言つて、そのときの私が、判断能力を喪失した心神耗弱状態だつたと言ひ逃れをしたくはありません。

 

私は理性的でしたが、躾けのつもりで思はず9歳児を殴りました。

 

彼は反撃してきました。

その腕力は想像以上に強烈で、私は半ば防御のために彼の首に片手をあてがひ、さらに両手で絞めました。

 

彼の「本当の父親」を絞めてゐる思ひでした。

 

気がついた時には、彼は私の腕の中でぐつたりしてゐました。

私は居間のテーブルの下から宅配便の残りのビニール紐を取り出し、彼の首に巻き付け、左右に締めあげました。

 

死体はとりあへず、集合住宅の同じ階の向かひの、いまは入居者不在の部屋のメーターボックスに押し込みました。

 

これが事件の全貌です。私は妻を愛してゐます。彼も愛してゐました。10歳年上の妻は彼の「本当の父親」と5年前に離婚、1年前にSNSを通じて私と知り合ひ、この春、結婚しました。

 

私が言ひたいのは、親子関係とは「血」なのか「心」なのか、「血」の親子関係だけが絶対的なものなのか、といふことです。

 

私は刑に服します。しかし、この問ひだけは言ひ残したいのです。