新宿・四谷三丁目交差点の東側の裏道。住宅や店舗が混在する町を、曙橋の方角へ少し下つたあたりか。

何が目的といふこともなく、車が入れないほどの路地に足を踏み入れた。

突き当りに小さな芝生の庭が見え、行き止まりかと思つて引き返さうとすると、庭を取り巻くやうに、さらに狭隘な砂利道が左右に続いてゐる。

右の先には平屋の古い木造家屋があり、このままだと見ず知らずの屋敷に不法侵入してしまひさうだけれど、その手前で、犬や猫専用とも見える雑草につつまれた小道がめぐり、さらに四谷の谷を下つて行けるらしい。

寺や家のあひだを縫つてこんな道が通じてゐたとは。
 
 だれかに見とがめられたら引き返せばいいだけのことだ。行けるところまで行つてみようと決意して、人ひとりがやつとの道を進む。

 突き当りに、左右の柱とも朽ちて傾いた、開きつ放しの木戸があり、いよいよここまでで遠慮するかと諦めると、木戸の奧の荒れた庭をちよつと横切れば、となりの家との連絡通路につながつてゐる。

もう行くしかない。誰もゐないから、黙つて木戸をくぐる。黄色いエニシダのかをりが漂つてゐる。さういへば、これは前にも嗅いだ記憶があつて、やはり夢の中で出会つた香だ。

ことしの初夢は、ぶらり散歩に出て、いつしか見知らぬ地域へ迷ひ込み、帰宅するのに難儀した夢だつたが、近ごろまた、夢の中でしばしば迷子になる。

五月の十連休中には、トルコのイスタンブルの石の坂道で道が分からなくなり、眼下にポスポラス海峡が見えたり隠れたりする、四、五階建てのアパートの間の道を彷徨(さまよ)つた。

石段の途中にあつた、臙脂のオーニングが目を引くバーに寄つて男に道を尋ねたが、結局ちんぷんかんぷんだつた。

夢の中では、その時季、大挙して押しかける日本人観光客のひとりになつてゐたらしい。

迷子になる夢ばかりみるのはなぜだらう。

迷子になつたときの恐怖ゆゑではない。ぼくはいつも、迷子になつた自分を夢の中でむしろ喜んでゐる。迷子になつたと覚つた瞬間、さあこれからどうなるだらう、何が起きるのだらうといふ期待のほうが強い。

迷子になると、心に充溢感、躍動感を覚える。

つまり、迷子の夢をみるといふことは、現(うつつ)の生活でも迷子になるやうな事態を渇望してゐる心のあらはれではないか。迷子になりたくてしやうがないからではないか。

残念ながら今、現実にぼくが迷子になるなんてことはまず起きやうがない。

行つたこともないエリアに足を踏み入れることはもうほとんどあり得ないし、道に迷へばスマホのナビもあれば交番もある。歳の功徳か、通りすがりの人に道を尋ねて危険な相手か否かの見極めぐらゐはつく。

夢の中のやうに頭が幻覚に犯されることも、何かに憑依されて理性を失ふことも、脱出できないほどの暗闇に襲はれることも、多分ない。

すべては煌々とした白日の下にある。

夢の中の迷子には、いつも複数の道が出現する。右へ行くか左へ行くか。複数あるから迷ふ。

これがたつた一つの道しかなかつたら迷子にもなれない。

<さうなつてからでは遅いぞ>

迷子の夢は、ぼくに対してさう脅迫してゐる気がする。