82歳になる友人は、ほとんど朝から真夜中まで酒びたりの、いはゆるアル中患者である。
自宅のマンション前にある町医者で診てもらつたら、「肝臓がボロボロの繊維質に劣化してゐて、ウチではとても手に負へません」とパソコン頼みの若い院長から匙を投げられた。
「患者の体を触りもしないで、パソコンの画面だけ見て何が分かるつていふのか」
彼は徒歩10分ほどのところにある別の病院を訪ねた。昭和初期からある、土地では名の通つた病院で、初代の院長が日本で初めて内視鏡による治療を導入したことで知られてゐる。
3階建ての病棟は、幾度も塗りかさねた抹茶いろの外壁が色あせて、地元では「クラッシックな病院」などと噂され、その名にふさはしく、院長や医師は代々、大学病院や日赤病院などを経験した老医師が「最後のお勤め」の白衣を着てゐる。患者も高齢者が多く、今どきどこにもある老人病院である。
「お酒は一日にどのくらゐ飲まれますか?」
彼と同年配の医師は、まづ尋ねた。
「どのくらゐ、つて……夜中に目が覚めたとき、ウイスキーをストレートでコップ1杯ほど」
と彼は言ひよどむ。
「昼間は?」
「ビールの500cc缶を1本か2本」
「晩ご飯のときは?」
「焼酎のお湯割りか日本酒、たまに一升瓶のワインを少々」
当然、老医師は渋い顔をしたが、そこは老練、軽くほほえんで、
「ちよつと減らした方がいいかな。夜中のウイスキーのストレートは我慢できませんか」
彼はぼくに診察結果を報告しながら、「全面禁酒」でなかつたことを喜んだ。
「少しならいい、つて言ふんですよ。あの先生は信頼できる」
数か月通院したが、肝臓の数値は少しも良くならない。当たり前だ。彼は週に2,3回、夕方に近所のワインレストランでぼくと会ふと、これまで通りウイスキーやワインを飲む。
「20日間ほど入院してみませんか」
ついに老医師も痺れを切らし、入院治療を勧めた。
「どこへ続く道か分かりませんが、20日ほど旅に出てきます」
と僕に告げて入院した。
入院4日目、深夜、彼の奥さんが電話で病院に呼び出され、強制退院を申し渡された。入院して2日目から彼にアルコールの禁断症状があらはれ、大声を上げたり、病室を歩き回つたり、女性看護師に暴行をふるひ始めた。
規則に則り、粗暴な患者はベッドに括りつけられた。
「何するんだ。手足を拘束するなんて、これは憲法に保障された基本的人権の侵害だ。いまどきこんなことが許されるはずはない。元新聞記者の知り合ひがゐるから、全部ぶちまけて告発してもらふぞ。とにかく今、日本酒を7合、ここへ持つて来てくれ!」
日ごろは声も小さく、虫も殺せないやうな大人しい老人が、禁断症状の恐ろしさ、俗にいふ「人格破綻」に陥つたらしい。
ところが、これだけは彼も予想できなかつたといふが、強制退院させられて家に戻ると、以前は旦那の料理は一切作らうとしなかつた奥さんが急に優しくなつて、1日2回、食事を用意してくれるやうになつた。
お陰で血色も良くなり、一時手離せなかつた杖も取れ、ぼくと会ふとグラスになみなみの赤ワインを3杯も飲む。夜中に目が覚めればウイスキーをあふるといふ。
「少し調子が良くなつたから、こんどまた小説やエッセーを書き始めます」
医者の言ふことを忠実に守るより、老後は勝手気ままに生きるのが健康にいいのかもしれない。
