第二次世界大戦が終はるころまで、わが家の庭の隅には防空壕がありました。

 繁茂した木斛(もっこく)の枝葉に紛れるやうに、その根元に畳二枚くらゐ、人が膝を折つてやつとの深さの穴が掘られ、二、三段の土の階段もありました。
 
 戦闘機の会社に勤めてゐた父親は、米軍のB29襲来を予告する「空襲警報」が発令されると、真夜中でも出勤しなければなりませんでしたから、家に残す家族四人のために、おそらく人手を頼んで、意外に立派なものを造つたのです。
 
 当時、ぼくは一歳か二歳。他の記憶はまるでないのですが、空に警報のサイレンが鳴りひびくと、父が母親と長女、次女、ぼくに向かつて、
 「さあ、防空壕に入りなさい」
 と厳しい口調で命令したのだけは耳に残つてゐます。

幼いぼくがぐずぐずしてゐると、父は叱りました。
 「早くみんなと一緒に防空壕に入りなさい。早く! 焼夷弾が落ちたら、みんな丸焼けになるぞ」
 
 父は脚にゲートルを巻きながらさう言ひ置いて、自分は会社に出かけて行きました。

 母親と子供三人は急いで家の電灯を全部消して防空壕に逃げ込むと、最後に母親が壕の天井に鉄板のやうなものをかぶせたのですが、それがどんな形状だつたかよく覚えてゐません。
 
 やがて遠くから地響きのやうな戦闘機のエンジン音が聞こえ、次第に近づきます。

 一家四人は真つ暗な泥の穴の中で息を詰めます。いまにも戦闘機からわが家に向かつて爆弾が投下される、悪い予感がします。

 防空壕とわが家の距離は十メートルほど。もし焼夷弾が落ちて燃え上がつたら、鉄板一枚下の私たちはたぶん助からないでせう。

しかし、一家四人が体を寄せ合つて、お互ひの息吹きを感じながら、身じろぎもしないで耐えてゐる時間には、子供心に妙な安息がありました。

このまま防空壕ごと燃え尽きてしまつても仕方ないか、といふあきらめもありました。
 
 ぼくがその後の人生の中で、「逃げる」ことに奇妙な興趣を感じるのは、これが原体験になつてゐるのだと思ひます。

大学紛争はなやかな頃、ほんの見物客だつたぼくが、ふとしたとばつちりで機動隊の催涙ガスに追ひかけられ、新宿の街中を逃げ回つたことがありました。

文部省記者クラブ内の対立から、朝日新聞など数社共同で仕組んだ「政府が六・三・三制見直し」といふフェイクニュースのために、社内で一時期、辛い立場に追ひ込まれ、事態があきらかになるまでぢつと時の流れを待つたときも、壕の中で一家が身を寄せ合つたのと同種の「逃げる」快感がありました。

体質的に、何かから逃げるのが好きなのかもしれません。今後は「老い」から逃げようとするかもしれませんが、そこに防空壕はあるかしら。