聞き耳を立ててゐるわけではないのに、頭に飛び込んできてしまふ他人の会話といふものがある。
夕方のワインレストランで、テーブルが隣り合つたご婦人四人。お茶会の流れらしい。
みんな季節先取りの紗のきものを涼しげに着て、着席した当座は流派の幹部女性の噂に花を咲かせてゐたが、先輩格らしい一人がかう言つたのをしほに、話はにはかに広がりを見せはじめた。
「わたくし、この頃、家でテレビを見てゐると、なぜかイライラして仕方がないのよ」
このでつぷりおばさまが気にしてゐるのは、「紀州のドン・ファン」事件。
死因は覚せい剤と判明したし、周囲の関係者もほぼ限局され、押収物も多数あるのに、「警察は何をやつてゐるのでせうね」と、いつまでも犯人が特定されないのがイライラの原因らしい。
脇から、あぢさゐ柄の帯を締めた七十年配の女性が、「それにあの事件、登場人物がみんな、なんとなく胡散臭い感じがしますわねえ」と口をはさんだ。
「二十歳を過ぎたばかりの奧さまにしても、長い付き合ひの家政婦さんにしても、第一、あのドン・ファンご自身、ただの田舎の金満色狂ひぢやありませんこと」
でつぷりおばさまが次に話題にしたのが、レスリングの伊調選手に対するパワハラ事件で、記者会見をしたナントカ大学の女性学長の顔がテレビに映るたびに、嫌悪感でムシズが走り、足が震へると言ふ。
あぢさゐ帯がこれに重ねて、
「さうさう、あの人がふと~い下唇にうかべる、ひとを小ばかにした微笑み、あれ気持ち悪いですわねえ。ああいふのを『軽蔑の微笑み』といふのでしよ。アゲマンとかサゲマンとか、女にはいろいろあるらしいけど、あれはまさしくゴーマン」
一同爆笑のなか、もう一人、比較的痩身の女が加勢する。
「あの人が学長室で受けたテレビのインタビュー、ご覧になられました? ソファの後ろの本棚をみて、びつくりしました。これが学長室の本棚つて。どれもこれも最近の軽薄なベストセラー本かハウツウ物ばかり。こんな本しか読まないで学長が務まるのかしらつて笑つちやひました」
「大学といへば、アメフトの反則タックルで問題になつた日本大学もさうですわね」
と最後に白髪の女が口をひらく。
「大学つて、表向きは『学究の徒の最高学府』つて顔しながら、一皮むくと、理事長とか学長とか役員はひどいものですわね。ニチゲイ(日大芸術学部)出身の方は芸術の世界で大活躍されてゐますけど、大学を牛耳つてゐるのはあんな人たちなのですね」
話は少し前の、財務省事務次官のセクハラに飛び、本棚おばさまが
「霞が関の高級官僚つて意外にモテないといふことが、あの女性記者の告発ではつきりしましたね。もしあの次官が素敵なロマンスグレーなら、記者だつて事を荒立てたりしなかつたでせうから」
「あなたも古いわねえ、ロマンスグレーなんてもう死語ぢやない」
とでつぷりおばさまが茶々を入れる。
――ワインを口に運ぶぼくの手はほとんど滞らない。
おばさまたちが次から次へ取り上げる話題に興味はあるものの、おばさまたちが嘆く「イライラ」の根源はといへば、すべてテレビの報道ショー番組のキャスターやコメンテーターの受け売りだ。
自分で考へた見解や、ユニークな感想は一つもない。
テレビが番組作りで流してゐるリンチまがひの非難や攻撃を連日聞かされてゐるうちに、いつしかそれが自分の思索の結果であるかのやうに錯覚してゐる。「お茶人」たちも、家に帰るとテレビ漬けなのか。
おばさま方、世間で起きてゐることに、いちいちそんなにイライラすることはないのでは。
もつと大らかになさつたら。たとへばその事件によつて、おばさま方は一円でもソンしましたか。
――待てよ。よく考へると、どこの誰とも知らぬ人が愚にもつかぬことにイライラしてゐるのを見て、こんどはこつちがイラつくなんて、実は一番ばかばかしい。
