少し先を、覚束ない足どりでひとりの老人が歩いてゐる。

 踵(かかと)が地面すれすれしか上がらないうへに、膝から下が不安定で、一歩前へ踏み出すごとに靴底がコンクリートに擦れて前のめりによろける。

しかし、あやふいところで後ろ脚が前に出て、まるで「起き上がり小法師(こぼし)」のやうに転びさうで転ばない。もう七十代も後半だろうか。

待てよ、と瞳を凝らす。後ろから見るその危なつかしい歩き方には親近感がある。

JRの駅に通じる道で、しばしばその後ろ姿を見かけ、追ひついて追ひ越す。老人の数メートル後ろまできて、やはりさうだつたかと思ふ。親父だ。

「先に行くよ」

脇を通り過ぎながら声をかけると、老人は突然のことにびつくりしつつも、こちらにゆつくり顔を回して、
「おう、先に行つて。……行つてらつしやい」
とやや恥づかしさうな目になる。

自宅を十分近く先に出たのに、駅の手前であへなく追ひ抜かれるのが、父親として面目ないといふ顔つきである。

当時、親父は駅を通り抜けたところにあるオフィスで、ある団体の事務局長といふ気ままな余生仕事をしてゐた。

水戸市郊外の農家に生まれ、幼いころ両親が相次いで病死して親戚に預けられ、勧められるままにその土地の警察官採用試験を受けて巡査を拝命、

つまり一介の「お巡りさん」から、警部補、警部、警視と、昇格試験つづきの世界を抜け、ノンキャリ組としてはめづらしく県警本部の刑事部長にまで昇りつめた叩き上げは、

時代の風潮で四十三歳の若さで後進に道をゆづり、軍用機を製造してゐた中島飛行機製作所に天下りした。

ぼくが生まれたのはその翌年、親父が四十四歳のときで、五十歳を過ぎてからは地元の自治体に拾はれて総務部長に秘書室長、さらに警察時代の縁故で自動車教習所の校長を務めた。

転びさうで転ばない身の処し方は、そんな境涯の中で身につけたものに違ひない。

最近ふと気づいたのだが、通勤途中に老人を追ひ抜いた三十代初めの若者も、まもなく当時の老人の歳にちかづく。

八十歳を越えても、毎朝三十分かけてオフィスへ通つてゐた人の息子は、六十五歳でリタイアすると、「風ぐるま 風が吹くまで 昼寝かな」(広田弘毅元総理)の気分で、

月に数回、駄弁を弄するだけの政治講演や、駄文を弄するだけの講師仕事に出かけるものの、あとは自宅で売れない小説を書くか、昔の仲間との飲み会に出かけるか、近所のワイン屋で幼友達らと酒を飲むかの遊惰な日々――。

親父は八十一歳のとき、『警察生活の回顧』と題する二百ページ余の自分史を出版、八十四歳で死んだ。

子は親の背中を見て学ぶといふが、この歳になつて初めて、親父のよろよろ歩きを思ひ浮かべては何かしら叱咤されるものを覚える。

精々、「起き上がり小法師」のわざでも学ばうか。