「いま、砂防会館に入られました」
霞ヶ関から出向の総理秘書官から、総理番の記者たちに連絡が入る。
総理には通常、共同通信か時事通信の記者が朝から夜まで交代でベタ張りしてゐて、他社の総理番は一足遅れて総理の行き先を追ふ。番記者全員が一斉に移動すると、交通渋滞を招くからだ。
田中角栄氏は一日の総理大臣としての仕事がをはると、永田町の総理大臣官邸から平河町の砂防会館にある個人事務所へ移つて、派閥の長としての雑務をこなしたり、頼みごとのある議員などと個別に面会した。
女性議員の、来たときはしぼんでゐたケリーバッグが、帰るときには柔らかい牛革が札束で角張つてゐるのを目撃したこともある。
一時間ほどすると、「総理は出かけられま~す」と事務所の私設秘書が、番記者たちの詰めてゐる部屋に向かつて叫ぶ。
「どこへ?」「内緒で~す」秘書はほほ笑む。「内緒」といへば「神楽坂」である。
平河町から車で十五分ほどの神楽坂には、角さんの公然たる愛人が経営する料亭があつた。
それからのひと時が、番記者たちのくつろぎの時間となる。一日の「総理番日記」を社に送稿し、それぞれ夕食をとつて、午後九時ごろまでに目白の角栄邸に駆けつければいい。
二千五百坪をこす角栄邸の豪壮な門をはいつて左側に、平屋の番小屋がある。壁の反対側は警察官の控へ室になつてゐる。自宅付きの書生がスコッチ・ウヰスキーとバケツ一杯の氷を運んでくる。
角さんの妻・はなさんは、番小屋には一度も顔を見せなかつた。
当時、学生だつた娘の眞起子さんは、まだ痩せて俊敏で、玉砂利を敷きつめた車廻しを小走りに行く姿は、番記者にとつてさながら角栄邸のマドンナだつた。
角さんは総理大臣として公式に外国を訪問するとき、はなさんを伴ふことはなく、英語の話せる眞起子さんが同行した。
眞起子さんは神楽坂の女性の存在を嫌がつてゐたらしいが、はな夫人が神楽坂に関して何か発言したといふ話を聞いたことはない。さういふ時代だつた。
中曽根康弘氏の夫人の蔦子さんも、ほとんど表舞台に立たない人だつた。
中曽根氏が自民党の幹事長だつたころ、当時、目白の路地奥にあつた中曽根邸には毎晩、幹事長番の記者が押しかけ、宴席などから帰宅する幹事長を待つて、水割りを飲みながら三十分ほど懇談する「夜討ち」が行はれたが、蔦子夫人は最初だけちらと顔を見せるだけだつた。
「夜討ち」が終はつて、記者たちが引き上げたあと、どうしてもサシで確認したいことがあつたので、近所を一周して再び中曽根邸に舞ひ戻つたことがある。
玄関に出てきた蔦子夫人は、もう何年も訪問してゐるぼくの顔を見て、
「あの……、お名前は?」
氏名を名乗る。顔だけは見覚えがあつたらしく、
「あらあら、さうでしたわよね。それで……失礼ですが、どちらの会社でしたつけ」
ぼくの新聞社の、当時政治部長だつたドンは、戦後の政界で政治記者として鳴らした男で、わけても中曽根氏に近いことで知られてゐたから、中曽根夫人ならばぼくの名前は知らなくとも新聞社がどこかは承知してゐると思つたら、どちらもご存じない。
「済みません。どうも人の名前を覚えるのが苦手でして」
政治家は人の名前を記憶するのが必須な能力の一つだが、かういふ人でも五年もの長期政権を誇つた総理大臣の妻が務まつた。
三木武夫氏の睦子夫人、福田康夫氏の貴代子夫人など、風貌だけはやや目立つ総理大臣の妻もゐたけれど、概していへば、地味で静かで、外の活動などにはあまり精を出さない女性の方が日本の総理大臣の妻には適するのかもしれない。
これ以上は言はないけれど。
