九段の靖国神社境内の桜が開花したのと同じ日に、わが家のシダレザクラも下の方の枝に5つほど花が開いた。日記を見ると昨年も同じ3月22日である。
リタイアする前までは、毎年、このシダレザクラの下に4,50人をお招きして花見の宴を催した。だから、桜といへばパーティーとかワインとか談笑とかの明朗なイメージがあつてしかるべきだが、僕の中で、桜で連想するのは「血」である。
中学生のころ、下校コースに桜の公園があり、宴会の人たちの輪をあちこち見物しながら帰るのが楽しみだつた。
最近の花見ではあまり見かけないやうだが、50年前の花見といへば酔客の喧嘩が華、宴の最後は喧嘩で締めるのが当たり前だつた。
「ヤレー、ヤレーッ。おやじ、負けてるぞ。そんなんでいいのか!」
「だらしないぞ!もつとやつつけてやれよ。男だろ!」
向うで喧嘩が始まつたと知ると、すぐ駆けつけて同級生みんなで囃し立てる。父親のやうな大人たちの喧嘩を中学生が煽るのである。
ビール瓶の殴り合ひが最も迫力があつた。
瓶がぶつかり合つて音立てて割れる、尖つたガラスの断面がむき出しになる、辺りに飛びちるビール、殴られた男の額から流れ落ちる血……。
喧嘩はどちらかが血まみれになつて倒れ込んで終はる。といふより、どちらかが倒れないと終はらないのだ。三十分も続くのはざらだつた。
額から目、鼻の方に流れ落ちる鮮血は美しかつた。このごろ眺める血は、人間ドックで採血のときの注射器の中にたまる血液か、歯医者で口をゆすぐ時の薄められた血くらゐで、どちらも自分の血だが、花見客の顔をつたふ血は他人のもので、妙に生々しかつた。これぞ「人の血」といふ感じがした。
わけても花の時季のをはりのころの喧嘩は見ものである。敗者の傷ついた顔や、彼が横たへられた桟敷の上に流れる血の上に、静心なく散る花びらがかかる。
ひとひらの花びらが赤い血の上に落ちて、しばらくは戸惑ふやうに浮きながら、やがて血に染まつていくのを見る男子中学生の頭を占めるのは、いまだに忘れられない、かなり官能的な悦びだつた。
