二つ前の記事に書いたお茶の師匠のところへ弔問に伺ひました。

 事情が事情ですから、師匠と会つて、始めにどんな言葉を述べたらいいのか躊躇したのですが、心配するまでもなく、あちらから一部始終を説明してくれました。つまり、夫を喪つた妻は至極あつけらかんとしてゐたのです。

 死因は、若いころからの持病だつた喘息の発作に適切な処置が間に合はなかつたために、酸素が足りなくなつて脳死状態となり、そのまま三日、つひに還らぬ人となつたといふことです。

 発作が起きて、常の発作より激越だと感じた彼は119番に電話を掛けた。ところが救急車が到着したときはもう意識を失つてゐて、救急隊はマンションの窓を割つて部屋に入り、病院に運んだのですが、すでにいかんともし難く、手遅れだつたやうです。

 師匠が京都の病院に着いた時、彼のもとには愛人と、彼の妹さん(結婚して都内在住)が駆けつけてゐました。

 この妹さんがこの先、「兄はあなたよりこちらを愛してゐた」と終始、愛人の側に立ち、通夜、告別式、彼の部屋の始末など、その後の様々な局面で師匠と対立、今も七七忌のやり方をめぐつて意見が食ひ違つてゐるさうです。

 「妹さんは二言目には『兄はあなたには愛情を感じてゐなかつた。離婚を受け入れてもらへないと怨んでゐた』と言ふのですが、勝手に出て行つた夫となぜ離婚しなければならないのでせう。夫婦には夫婦でなければ分からない感情もあるんです」

 妹さんは遺骨も師匠には渡せないと主張したさうです。師匠は「妻である私が引き取るのが当然です」と譲らず、結局師匠が持ち帰つたのですが、戒名をめぐつても、妹さんは戒名なんて不要と言ひ、師匠は必要だと意見が対立、師匠は近々、親の菩提寺である上野・寛永寺に頼んで戒名を作つてもらふさうです。

 さて、彼が東京から連れて行つた(師匠に言はせると「女が勝手に京都まで付いて行つた」)愛人は、離婚した前夫との間の子供を引き取つてゐて、京都では彼とは同居はしてゐませんでした。

 「主人とは大学の同級生と言つてゐたから五十代の半ばなんですけど、病院へ来るのに裸足にサンダル履きで、前に屈むと背中が見えるやうなシャツを着て来るんですよ。私にもろくな挨拶もせず、主人があんな女を本気で好きになるとは思へません。主人は物事をはつきり言はない、まあ優しいタイプだから、愛されてゐると勝手に思ひ違ひしてゐたのではないかしら。なぜかといふとーー」

 妹さんから渡されたご主人の携帯を見て、さう感じたといひます。着信メールには愛人からのこまごまとした日常生活の報告や、「かなり直接的な愛情表現」が綴られてゐた。

 ところが返信履歴を見ると、「ああ、さう」とか「分かつた」など、実に素つ気ない内容だつたといふのです。

 これだけで彼がその愛人を愛してゐなかつたとは必ずしも言へないと僕は思ふのですが、師匠を怒らせても困るので黙つて聞いてゐました。

 葬儀も済んで、彼のマンションを引き払ふ手続きの日、部屋には師匠、妹、愛人、彼の勤務してゐたホテルの人事課長の4人が集まつたさうです。

 妹さんと愛人さんは、本妻の前で、彼の遺品を求めて部屋中を探しまくつた。特に愛人さんは「アッ、これは彼と伊勢志摩へ行つた時の思ひ出の品だわ」「これは彼の生活の匂ひが染み付いてるから頂かうかしら」と、カップやノートや手鏡など、次々と大きなバッグに放り入れる。シャツが随分と捲れ上がつた、白い背中をのぞかせながら。

 「なにかと大変でしたね。お疲れを早く癒してください」

 一時間も越したので辞さうとする僕に、師匠は「もう一杯いかがですか」と、こんどは立礼席でお薄を点ててくれました。床の間の侘び助だけが白く輝いてゐました。