浅草橋のフグ料理屋「きた川」を昨年3月に閉めたキタさんが、やつと動き出しました。

 久々に会ひませうかといふメールがきて、何かあるなとは思つたのですが、けふ、イタリアンで昼飯を食べながら彼が持ち出した相談は、四十男の苦渋とロマンに満ちたものでした。

 「きた川」を畳んだあと、キタさんは某大手和食チェーンに板前として就職、約1年前から銀座三丁目の松坂屋前にある銀座店で働いてゐます。

 昨年11月末、長女が誕生しました。結婚が「きた川」閉店直後の4月でしたから少々計算が合はないのですが、まあ大目に見ませう。

 長女誕生で、キタさんは覚悟を迫られたのです。

 一つはおカネの問題。子供の成長につれ、こんご教育費など当然生活費は増える。それに見合ふ収入増は期待できるか。

 自分も年をとる。娘が二十歳になるときは六十歳を超える。厚生年金や企業年金がない身で老後は大丈夫か。

 現在の賃貸の家賃は約10万円。安いけれどバカバカしい。都心から通勤一時間程度の場所ならば、土地付きの戸建を買つても、この家賃分でローンが返済できる。

 最大の問題は、今のままチェーン店のサラリーマン板前で年を取るのは寂しい。もう一度自分のウデをお客にぶつけて、その反応を確かめたい。

 つまり、再び自分の店を持ちたくなつたのです。それには四十代の今しかないのではないか。

 そこでキタさんは決断しました。
 今の賃貸を出て、思ひ切つて土地付き戸建を買ふか、千葉の柏に両親の住む実家があり二階の部屋が空いてゐるのでそこに引つ越す。

 そして新しい店を買ふ。それぐらゐの貯金はある。

 「もちろん、いま貯金をゼロにするのは怖いですが、かういふ冒険ができるのも今しかないと思ふんです」

 子供もまだ小さい。自分の体力にも不安はないーー今しかない。この思ひがキタさんを支配します。

 「昨年、浅草橋を閉めた当時、人形町あたりを探してゐて知り合つた地元の不動産屋にまた当たつてみます。人形町にいい出物がなければ、今の住まひの近所で探します。いづれにしても浅草橋の教訓を生かして、今度は家賃は多少高くても立地のいい場所を真剣に探します」

 彼はさう言つて、僕の顔を見ました。 
「どうでせうか、私の考へは甘いでせうか?」

 むろん僕は大賛成です。
 「待つてました。ついに決断したね。奥さんが許すなら、柏の家に入つた方が経済的に無理がないんぢやないの。焦ることないから、じつくりと良い店を見つけてね。奥さんのため、娘さんのため、そしてキタさんのために」

 もう一度、自分の包丁で勝負したいといふ男の心意気はいいですね。彼の能力なら花は開くと確信します。

 それにしても、「今しかない」と言へるうちはいいです。
 僕なんか憶病で、「新聞記者か作家か」の裸の勝負に出るタイミングも逸したし、「今しかない」と言へる年代とも遠くなりました。