「カプチーノをショートで」
 街角のスターバックス。310円ぴたり出す。

「あのー、申し訳ありませんが、けふから値上げさせていただくことになりました」
「あ、さう。いくらになつたんですか」
「申し訳ありません。10円値上げさせていただきました」

真鍋かをりに似た若い子はさう言つて、いかにも済まなさうに目を細めた。

いいもんですね。値上げつて。その店が生きてゐる感じがする。ついでに、街も生きてゐる感じがする。

値上げしてその店がますます繁盛するならいふことはない。値上げもしないで、ある日突然、閉店告知の張り紙が出るよりずつと気分がいい。

僕の行き付けの料理屋やバーは、もう十年以上も値上げしないでやつてゐる店が多い。店が傾いてゐるのか儲かつてゐるのかも分からない。

値上げは人の鼓動と同じです。新しい酸素を吸入して、これからも逞しく生きて行くといふ決意表明の感じがします。

バブル景気の前、日本が高度成長期にあつたころ、サラリーマンの月給は1年で30パーセントも上がつた。春闘が華々しく、国鉄、私鉄のストライキが年中行事になつてゐたころである。

当然、物価も上がつた。毎月のやうに値札を変へる料理屋もあつた。1本5000円程度のフランスワインは数年で倍以上に上がり、やがて高値のまま定着した。

それでも社会は功罪取り混ぜて活況を呈した。面白味があつた。デフレの沈滞よりインフレの混乱のほうがおもしろい。

スタバは若い客が多い。10円、20円の値上げでも客足に響くかと思ふと、値上げ当日のきのう、むしろいつもより店は混んでゐた。

「値上げしても影響ないみたいですね」
珈琲を待つ間、カウンター越しに、珈琲の機械を操作する店員に話し掛けた。

「ええ、お陰さまで。ちよつと心配したのですがーー」

出来あがつたカプチーノをこちらに差し出さうとしたとき、マグカップの縁からクリームが溢れて、下に垂れた。

「申し訳ございません。いま作り変へますので」
と彼女は笑顔で頭を下げる。

「いいですよ。味が変はるわけぢやなし」
脇から先輩らしき男が敏活に指示した。「いや、替へて差し上げて」

この活気なら値上げも悪くない。