この夏休みを機に、ひげを生やしてやらうと考へました。

 ひげを蓄へるのはもちろん初めてです。
 鼻の下のちよび髭だけにするか、口の下から顎、揉み上げまでつなげるか、顎の下だけに限定するか。
 
 いろいろ迷ひましたが、結局、朝、電気カミソリを走らせなくするのは、顎の下だけにとどめることにしました。当面。

 「をかしいよ。やめてよ!それだけはやめて」
 家人は早速反対ののろしを上げます。

 「パパ、周りの人に、ついにヘンになつたかと思はれるよ」
 30を越した娘も家人に同調です。「ついに」は余計だ。天涯孤独、ああ断念か。

 さうはいきません。
 当方も60を過ぎてそろそろ身なりに我儘を見せてもいい歳だと思ひ始めてゐるところです。先日、生まれて初めて美容室へ飛び込んだのもその一つ。簡単には引き下がれない。

 「あなたはどちらかといふと『濃い顔』なんだから、ひげを生やすと、もつとシツコイ感じになるの。分かつてる?」

 「パパにひげを生やすと、ほら、あの人みたくなるよ。たぶん」

 さう言はれたら気になる。東京湾に近い越中島のフレンチのママからは「ジャンギャバン」と呼ばれてゐる身。ただし晩年の、といふ但し書き付き。

 「あの人つて誰さ?」

 悔しいけど娘の言葉を追ひ掛けざるを得ない。
 
 「えーと、ほら、あの人。湾岸戦争のころ、よくテレビに出てた人」

 「フセイン大統領?」
 と家人がすぐ名前を出して爆笑したところを見ると、内心、前からさう思つてゐたのかな。イラクの新政府が死刑判決後すぐに処刑した大統領。確かに「濃い顔」だ。

 「いいさ。さう見えるなら見えたつて。とにかく顎だけひげを伸ばす」

 宣言して3日、毎朝、おはようの挨拶とともに二人は吹き出します。
 構ふもんか。