銀座のトラヤで、黒のベレー帽を買ひました。夏物ですから手頃な値段です。
帽子に凝りだしたのは10年くらゐ前です。
同僚が食道ガンになつて、治療のために頭髪が極端に薄くなり、「彼女からプレゼントされたんだ」と帽子をかぶるやうになつたのに触発され、僕もかぶり始めました。
何でもさうですが、特に帽子は最初抵抗があります。いま、帽子をかぶつてゐるのはリタイア後の老人か、デザイン、カラーを楽しむ若者だけで、通勤電車で帽子を見かけることはまれです。
僕も以前からカジュアルに野球帽を着けることはありましたが、「あなたに帽子は似合はないわよ。やめといて」といふ家人のヤジもあり、普段は帽子とは縁がありませんでした。
一番初めの帽子は、ガンの同僚と同じ型の、つばを四方とも下げてかぶるタイプの布製と革製です。しかし、これはレジャー向きで、背広とは釣り合ひが取れない。
次に、布製の中折れ帽を1年ほど使ひました。
これでやつと帽子に慣れたんですね。それから7、8年の間に、冬はフェルト、夏はパナマの色違ひを計八つほど購入しました。色は黒、紺、グレーで、一つだけ夏用に薄茶色のがあります。
それでも、旅行のときなどは昔と同じで野球帽(これも夏冬で9つほど)が多かつたのですが、これに飽き足らなくなつた。1年ほど前、ハンチングに手を出しました。
「まるで田舎のおつさんね。まだ野球帽のはうが垢抜けて見える」
家人からは評判が良くない。一緒に街を歩くときハンチングをかぶると嫌がります。
そこで考へたのが、ベレー帽です。
ベレー帽は最近ではイラクへ派遣されたグリーンベレーでお馴染みですが、僕はこれまで、画家や作家を気取る人種がちよこんと頭に乗せる帽子といふイメージが強くて、自分がかぶるのは恥づかしかつた。
そのイメージは今でも変はりませんが、人間、だんだん恥ぢらひといふものが薄れてくるんですね。まうさう思はれてもいいや、といふ気になつてきた。
売れない作家だが、小説を書いてゐるのは事実だから作家といへば作家だし、第一、他人が自分にどんな感想を持たうが、まうそれによつて心が揺らぐ歳でもない。
「帽子といふのは所詮慣れですからね」
ベレー帽を前にためらつてゐると、銀座でも超老舗の帽子屋でござんすといふ、やや狷介な感じがしなくもない(この表現、気を遣つてゐるでせう)マスターが皮肉つぽく笑ふ。
「これは今年のデザインで、新着です。普通のベレーより上にふくらみをもたせてゐるので、色々な形に変化させて楽しんで頂けます。たとへばーー」
と初老のマスターは、僕の頭の上のベレーに手をやつて、左側をまつすぐ立てて、右に斜めに流す。
「これがグリーンベレーのかぶり方です。もちろん平らにしてもよろしいですが」
黒とグリーンとワインレッドを出してきた。グリーンだとそのまんま自衛隊になつちやふ。ワインレッドはしやれてゐるが、上着やシャツとの色合はせが難しさう、最初はやはり無難なはうが…と黒を選びました。
自宅に持ち帰つて、クロゼットの帽子掛けに掛けてありますが、家人はまだ気付かない。
僕は夜帰ると、酔つた顔の上にそつと乗せてみたりしてゐます。慣れたら、あのワインレッドのも買はうかな。
帽子に凝りだしたのは10年くらゐ前です。
同僚が食道ガンになつて、治療のために頭髪が極端に薄くなり、「彼女からプレゼントされたんだ」と帽子をかぶるやうになつたのに触発され、僕もかぶり始めました。
何でもさうですが、特に帽子は最初抵抗があります。いま、帽子をかぶつてゐるのはリタイア後の老人か、デザイン、カラーを楽しむ若者だけで、通勤電車で帽子を見かけることはまれです。
僕も以前からカジュアルに野球帽を着けることはありましたが、「あなたに帽子は似合はないわよ。やめといて」といふ家人のヤジもあり、普段は帽子とは縁がありませんでした。
一番初めの帽子は、ガンの同僚と同じ型の、つばを四方とも下げてかぶるタイプの布製と革製です。しかし、これはレジャー向きで、背広とは釣り合ひが取れない。
次に、布製の中折れ帽を1年ほど使ひました。
これでやつと帽子に慣れたんですね。それから7、8年の間に、冬はフェルト、夏はパナマの色違ひを計八つほど購入しました。色は黒、紺、グレーで、一つだけ夏用に薄茶色のがあります。
それでも、旅行のときなどは昔と同じで野球帽(これも夏冬で9つほど)が多かつたのですが、これに飽き足らなくなつた。1年ほど前、ハンチングに手を出しました。
「まるで田舎のおつさんね。まだ野球帽のはうが垢抜けて見える」
家人からは評判が良くない。一緒に街を歩くときハンチングをかぶると嫌がります。
そこで考へたのが、ベレー帽です。
ベレー帽は最近ではイラクへ派遣されたグリーンベレーでお馴染みですが、僕はこれまで、画家や作家を気取る人種がちよこんと頭に乗せる帽子といふイメージが強くて、自分がかぶるのは恥づかしかつた。
そのイメージは今でも変はりませんが、人間、だんだん恥ぢらひといふものが薄れてくるんですね。まうさう思はれてもいいや、といふ気になつてきた。
売れない作家だが、小説を書いてゐるのは事実だから作家といへば作家だし、第一、他人が自分にどんな感想を持たうが、まうそれによつて心が揺らぐ歳でもない。
「帽子といふのは所詮慣れですからね」
ベレー帽を前にためらつてゐると、銀座でも超老舗の帽子屋でござんすといふ、やや狷介な感じがしなくもない(この表現、気を遣つてゐるでせう)マスターが皮肉つぽく笑ふ。
「これは今年のデザインで、新着です。普通のベレーより上にふくらみをもたせてゐるので、色々な形に変化させて楽しんで頂けます。たとへばーー」
と初老のマスターは、僕の頭の上のベレーに手をやつて、左側をまつすぐ立てて、右に斜めに流す。
「これがグリーンベレーのかぶり方です。もちろん平らにしてもよろしいですが」
黒とグリーンとワインレッドを出してきた。グリーンだとそのまんま自衛隊になつちやふ。ワインレッドはしやれてゐるが、上着やシャツとの色合はせが難しさう、最初はやはり無難なはうが…と黒を選びました。
自宅に持ち帰つて、クロゼットの帽子掛けに掛けてありますが、家人はまだ気付かない。
僕は夜帰ると、酔つた顔の上にそつと乗せてみたりしてゐます。慣れたら、あのワインレッドのも買はうかな。
