「あら、○○さま、ご無沙汰してをります。お寒うございますが、○○さまには相変わらずご活躍でーー。昨年秋にお伺ひしました△△の者でございます」

「ええ、お気持ちは良く分かりますが、今年になりまして状況が急変しましたので、けふまう一度お会ひしてご説明させていただけないかと…。実はいま、おたくのすぐ近くまで参つてをりまして」

 けふは隅田川畔も寒風物凄く、昼飯にコートを着ないで出かけたら体に染みる。あまり歩かないで行けるデニーズに飛び込みました。

 午後は3時半から会議が一つだけ。気が緩んで、カウンターに腰を下ろすと安物の赤ワインのハーフとビーフシチューを頼みました。

 隣りの席では、若い女性がパソコンに一心に取り組んでゐます。横には飾りもない携帯が置いてある。

「ああ、さようでございますか。○○さま、お忙しいところ本当に申し訳ございません」

 商人ことばのうまい女性で、一本メールを打つと、携帯をかける。どうやら突然セールスに訪問したいアポを取つてゐる様子です。

 ワインをグラスに注いで、飲む。隣りではPCをぱちぱちやる音が絶えない。
 ビーフシチューが来る。脂身にナイフを入れて口に運ぶ。

「さうおつしやいますが、なにしろ状況が一変しましたので、ぜひお話を聞いていただけたらと。お時間は取らせませんので」
 携帯を切ると、手帳をめくつて次のお客にメール。そしてまた携帯をポチポチ押して、「あら、お元気でゐらつしやいますか。○○でございます。さう、△△の。あら、覚えてゐていただいて光栄でございますわ」。

 脇でPCを打たれてゐてもさほど不愉快ではないが、なにやらオフィスでワインを飲んでゐるやうな中途半端な気分。こちらはナイフやフォークの音を立てるのも気遣つてしまふ。

 女は一瞬も休まない。随分業務成績のいい女性なんだらうが、横の客のことなんか全く気にかけない。目の前には冷めた紅茶のポットが一つあるだけ。

 迷ひました。
 店長を呼んで、少なくとも店内自粛の携帯通話はやめるやう注意すべきか、直接、横の女性に「ワインが不味くなるので電話は遠慮してくれますか」と告げるべきか。

 ーー結局、僕は食べ終はると、早々に立ち上がつて無言で退散したのです。女はまだ携帯口で笑つてゐる。

 同じやうな経験をお持ちの方は少なくないと思ひます。
 女性にも店でビジネスをする権利はあるでせう。紅茶一杯で何時間粘らうと自由でせう。

 でも、隣りの客のことにまるで配慮が行かない。視野に入らない。これ、怖いことですよね。
 やはり、憎まれても直接言ふべきだつたかなあ。