出てはいけないエラー件数の表示。
「何これ?!」
血の気がさぁーって下がって行くのがわかりました。
そしてそのエラーに関するリストがプリントアウトされました。
見たことない場所でのエラーだったので、リスト自体見れればよい程度の
あまり体裁の良くないエラーリストで何を言っているのかわからない内容でした。
少しは落ち着いていた心臓の鼓動が一気に高鳴り、嫌な汗が額に浮かびました。
SEを殺したければエラーが出たよって、毎日言われ続ければ間違いなく何かの疾患で
病院に行きますよ。
私はそこで一端処理を中断させて、処理解析していた資料を持ってきて調べ始めました。
何をさせているプログラムで出たエラーなのか。
簡単にはエラー理由が見つからない。
焦る気持ちを落ち着かせ、目の前のプログラムコードに集中する。
エラーが発生する理由は、このプログラム以前の処理の可能性もあります。
もっと前のステップで付加したデータが悪い場合もあるので遡って調べる必要がある。
その日のメインイベントのはずの「発注処理」。
開発員、オペレーター、全員が私の挙動に注目していました。
20分程中断させていたら、重い口を開いて課長が私に言いました。
「これ以上遅らせるわけにいかない。俺が責任を持つから処理を進めろ」
私はその言葉に返事しませんでした。
もしや!?
怪しいステップが私の目に留まりました。
まさか・・・
「もう10分だけ私に下さい」
そう言って、最新のプログラムソースをプリントアウトして、ミーティングができる
テーブルに広げました。
さぁーと目を通して、私はCOBOLプログラムの外部プログラムの呼び出し部分に
目が留まりました。
"Call Datecheck"
日付の判定プログラムです。
"Datecheck"は2000年問題未対応の古いプログラム。新しい物は"Datecheck2K"
プログラム移行チームの席にそのリストを持っていきました。
「一ヶ所修正もれがあるよ!」
「えっ?」
「直ぐに修正して!」
よくぞこの重圧、この緊張感の中で1千行クラスのCOBOLプログラムが何十も
並んでいるバッチジョブの、たった一ヶ所のプラグラムミスをこの短時間の中でよく
見つけた物だと思いましたよ。
エラーが発生した場所は取引先マスターマッチング処理でした。
発注情報に現在の取引先マスターにない取引先コードがあるというエラー。
あり得ないエラーです。
発注情報に仕入先マスター情報を付加する時に出たエラーでしたが、そのステップが
問題なのではなく、もっと前のステップで発注情報に商品マスター情報を付加した際、
取引先情報には適用日を持っているのですが、そこの判定ロジックが前述の状態でした。
バックアップデータをリロードし、修正したプログラムをセットして発注処理を再開。
課長に状況と原因を報告。
エラーをそのまま進めていたら、取引を止めた取引先に発注が発生したり、古い帳合の
取引先に発注が起きるという、とんでもない大失態を起こすところでした。
「このまま進めていたら、俺の首が飛んだなぁ...ありがとう」
課長の青ざめた一言でした。
「発注処理」その後は問題なく進みました。
たった一ヶ所のプラグラムミス、それが致命傷になるのです。
All or Nothig
100点満点をとらなければ絶対ダメなのです。
とは言っても、普通はこんなぶっつけ本番は絶対やらないですけどね。
私の担当範囲はそれ以外は全く問題なく動作しました。
あっけないくらいでしたね、ただ他の主任達は悪戦苦闘していましたよ、
移行スケジュールは日次と週次の処理を最優先にしましたから、月次処理の移行は
まだこれからテストでした。
私の気が休まるのはまだ先のことでした。
結局12月15日から1ヶ月の間、休みなしでの30日間連続出勤。
しかも2~3日に一度は徹夜、徹夜しない日も午前3時、4時に退社が当たり前という、
労働基準監督署に訴えてやるーーーって言いたくなる労働状況でした。
ちなみにこの一ヶ月間を含む二ヶ月間でも休み3日しかありませんでした。
60日間で休みがたった3日ですよ。
自殺願望も本気でやばかったけど、そもそも良く一人暮らしの私が倒れなかったものだと
感心しましたね。丈夫な身体に育ててくれた親にも感謝しないといけません。
そして忙しかった、つらかった反動がありました。
2月に入ったら仕事のペースは完全に燃え尽き症候群でしたね。
まぁとんでもないやり方でシステム移行をやったのですから、仕方がないし本当なら
リフレッシュで長期休暇をもらうべきだったのでしょうが、システムの移行はまだ完全に
終わってはいなかったのです。年に数回しか行わない棚卸し処理を含む決算処理。
まぁ年越しの時ほど追い込まれてはいないので、ボチボチと開発とテストを行いましたよ。
皆さん、この仕事ぶり見てどう思いますか?
誰もが良くやったと思ってくれるでしょう!
でもね、自己評価をする時SABCDの5段階評価でこれだけやっていたら自分の中では
S評価をつけたいですが、そもそもこんな状況に陥った事に計画が大きく狂ったことは
マイナス評価だし、新システムが動いたと言うことは電算室としては出来て当たり前、
できないといけないことをやっただけである。B評価なのです。
あまりにも割にあいません。
自殺すら考えるほど追い込まれる仕事を無事こなして得られる評価でしょうか?
親も流石にこの時の状況に会社辞めれば?と言ってくれました。
実家に戻ってこいとも言いました。
人事に転勤希望を出したのは言うまでもありません。
まぁ実家の近くには本社機能というか支社のような物もないので、店舗への転勤しか
選択の余地はないのですけど、1年後に無事実家から通える店舗へ転勤となりました。
他にも修羅場はいくつもくぐり抜けたけど、これほど酷いものはありませんでしたね。
SEってどれだけの修羅場をくぐり抜けたかで、そのSEの価値が決まるとも言われています。
しかし私の場合、もう勘弁して下さいって思いましたね。
SEはこんな風に使われてつぶれていくのです。
でもね年月がこれだけ経つと、また少しはやってもいいかなぁって思ってます。
最近の電算室の後輩達のあまりにも酷い仕事ぶりを店舗側から見ていたら...
まぁ彼らも大変なんだろうけどね、彼らなりに努力しているのでしょうが...
こんな私で良ければ、ヘッドハンティング受け付けてますよ(笑)

長い話でしたが、とりあえず私の電算室時代のつらい話は終わりです。
でも似たような話はまだ幾つかあります。
気が向いたらまた書くかもしれません。