中学校での医師講話の続きです。

 

みなさん、DMATって知ってますか?

(ほとんど手が上がらないキョロキョロ

 

数年前にはTBSのドラマにもなりました。これ、誰だかわかる?

関ジャニ∞の大倉くんです。

 

その原作は漫画ですが…

 

DMATというのは…

 

病院ごとにチーム編成されていて、医師と看護師のほか、病院内の様々な職種の人がメンバーになります。普段は病院で普通の仕事をしています。

阪神・淡路大震災から10年を経てDMATが作られました。ここ柏崎で起こった中越沖地震が、日本DMATが組織的に活動した最初の災害だったんです。

 

2007年の7月16日、月曜ですが海の日で祝日でした。

午前10時過ぎ、中越沖を震源とする地震で、柏崎、刈羽で震度6強を記録しました。

土砂崩れが起こり…

※下の写真は双子ネタの別エントリーで紹介した青梅川駅あたりです。

柏崎駅では電車が横転し…

大きな酒造会社(原酒造)の酒蔵が倒壊し…

全壊、半壊の民家多数。屋根瓦の重い古い民家が多く倒壊しました。

柏崎に各地からの救急車が集結しました。

災害規模の割に、重軽傷者が多いわりに死者が少なかったのには時期、時間的な要素があります。冬ではなく夏だったこと、平日ではなく祝日だったこと、夜ではなく昼だったこと、10時頃は料理など火を使っている人が少なかったことから大きな火事もなかったのは不幸中の幸いでした。

 

そして病院も被災しました。

 

傷病者が押し寄せ、救急外来の前には消防がテントを張り

 

たくさんのDMATチームがうちの病院に集まりました。手前も救急車の向こう側も全部DMATです。

エレベーターが使えないので、入院する患者は職員が担いで階段登ってました、3階から6階まで。

被災の中心が柏崎だと知った近隣の医師が支援のために次々と当院にやってきました。新潟市民病院のDMATは2時間以上かかって、それでも柏崎に一番乗りしたDMATでした。

 

給水車による水の支援は病院を最優先として迅速に行われました。

そして食糧支援も。菓子パンやコンビニのおにぎりは売るほど集まりました。

 

地下の液状化による地盤沈下が起こり、病院裏の職員入り口は足場が宙に浮いたようになりました。

 

カルテを出せず、白紙の紙で代用していましたが、職員総出の徹夜でカルテ整理して6日めでやっと通常どおりカルテを出せるようになりました。

 

そんな地震の最中、私が何をしていたかと言うと…

緊急手術中に地震が起こりました。ゴジラのような怪獣が病院を揺さぶっているかのような激しい揺れ。天井の無影灯(手術の術野を照らすライト)が頭の上でグルングルン回って大暴れしていて…天井が落ちて死ぬと思いました、私も患者も看護師も。

 

死ななかったので大急ぎでキズを閉じて救急外来に降りました。

 

…最初は患者パラパラ、でもどんどん増えます。自分に言い聞かせた。冷静に。落ち着け自分。病院は機能不全、病床数は限られている、手術不可、緊急手術が必要な患者は入院させられません。救急車も足りない。自力で動ける患者や家族には「長岡の病院ならこの後の治療を受けられる。自分で行って。」とお願いして殴り書きの紹介状を書いて持たせました(トリアージタグはなかった)。

 

見渡す限り患者だらけになりました。応急処置が終わっても送り出す搬送手段が限られているので救急外来の前で患者が渋滞。ドラマや映画の災害シーンのようでした。頭部外傷の応急処置を終えて、次の患者のところに行こうとしたら「うちのばーさん、頭から血を流してるんだぞ、なんで離れるんだよ!」と胸ぐらを掴まれた。ぐったりした子供の手を握って励ます父親「しっかりしろ、大丈夫だからな!」その父親も足が折れて変形しているのに。高齢な大先輩の開業整形外科医が自分で患者を運んできました。「隣の家のばーさんなんだ。おそらく骨盤骨折だ!つよしくん、頼むぞ!」でも私はとても手が空かない…やむをえず「U山先生!すみません、自分で処置してください。」

 

戦場のような救急外来で、ただただ目の前の患者に対応。発災の3時間後に新潟市民病院のDMATが一番乗りで到着しました。

「おーい津吉せんせー!」

あれ?聞いたことのある声だ…。振り向くと…

「おー?熊谷せんせー!」

 

柏崎に来る前に私が働いていたのが新潟市民病院です。そこで仲間だった熊谷医師の見覚えのあるハゲ頭がそこにありました。彼がDMATとして一番乗りして、この災害の統括DMATになりました。その後、たくさんのDMATが次々と到着。DMAT以外にも続々と医療支援チームが来てやっと…戦場は野戦病院に姿を変えました。病院災害対策本部はあったけれど、来院する半数以上が整形外傷。当時の僕はDMATでも災害医療のプロでもなんでもない、ただの整形外科医だったけれど、皆が私に指示を求めに来るので、自然に現場の(病院側)統括指揮は私になっていました。

 

病院のロビーにも簡易ベッドを並べて患者の処置をしました。

ふだん我々のいる場所、医局、研究室にも大きなダメージがありました。本棚が倒壊しています。

 

統括DMATとなった市民病院の熊谷先生や、一緒に来た宮島先生(今は長岡日赤の救命センター)は新潟市民病院で同僚でした。この災害対応を振り返ると、熊谷先生たちと私がもともと顔の見える関係だったのはラッキーでした。助ける側と助けられる側の連携が取りやすかったのです。

 

つづく

次回は…災害医療にスイッチ入った私が病院にDMATを立ち上げる話です。

あくまで自分語りww