その2、つづきです。
病院支援のミッションが一段落したDMATの一部は、医師会が立ち上げた災害医療本部がある「元気館」に向かいました。

元気館というのは、柏崎市庁舎の分館で、福祉保健関連の役割を担う施設です。中越沖地震では・災害医療本部・避難所、救護所・住民組織との連携拠点・市の保健業務の拠点・派遣医療職の活動拠点、などとして活用されました。
避難所としても活用され、最大500人以上の避難者を収容しました。
発災直後からの元気館の様子。だんだん避難者が増えます↓



ここに災害医療本部が設置されました。元気館は災害医療本部の機能を担い、救護所が開設され、市の福祉保健部、保健所、医師会、DMATが連携して活動しました。DMATが救護所の診療や避難所巡回も引き受けました。これはDMATの任務の範囲を超えてニーズを汲み取る臨機応変な対応だったと思います。

ロケーションとして、元気館に医療本部を設置したのには利点欠点あります。福祉保健部の職員が市庁舎の災害対策本部と元気館の災害医療本部の連絡の役割を担っていました。市庁舎と離れていたのは情報伝達の即時性という点でマイナス要素でしたが、市庁舎分館だったことは、医師会と行政との連携の円滑さにはプラスでした。

当時の記録や報告文書から、行政の保険医療活動は、医師会やDMATと連携してうまく機能したことが伺えます。
災害医療本部への貢献。避難所や在宅者の巡回。支援医療チームだけでなく、看護協会など派遣医療職との連携や役割分担。7月の災害であり、熱中症、食中毒対策や衛生管理などの季節を踏まえた予防や対策。障がい者、高齢者、子供など災害弱者への対応。自衛隊との協働。そして地域が自立に向かい急性期を過ぎた後にも住民支援の要となりました。

医師会は、会長をはじめ医師会幹部らが中心となって災害医療本部を運営しました。DMAT、行政担当者らと役割分担。発災3日目には本部統括は堀井保健所長に業務委譲されています。
市内すべての開業医が医院を被災しました。個々の開業医は、直後から病院支援をしたり、自院の診療体制の立て直しをしたり、と被災状況に応じた独自の判断で活動しました。比較的早期から日常診療可能になり、地域住民を早期から開業医に誘導できました。また、支援撤収後の避難所巡回は医師会員でカバーしました。

DMAT撤収後の医療支援についてです。救護所、避難所巡回などは赤十字、県立病院が中心となって担う形で引き継がれました。48時間を超えて残留を希望するDMATは日本医師会救護班として、日赤からのDMATは赤十字に所属を変更して活動を継続した、と伝え聞いています。

病院の全体会議にも急性期48時間はDMATが参加していました。

DMAT撤収後の病院には、新潟大学の各医局、そして被災病院と同じ系列である厚生連の各病院が中心となって派遣が継続されました。……こうして地域の医療体制は数週間かけて自立へと向かい、医療現場には日常が戻りました。

つづく
次の「その3」で考察など。