メダカを飼い始めて3年目。

毎年ちょっとずつグレードアップしたくなります。

 

一昨年は普通のメダカを育てて、昨年はメダカすくいのメダカを育てて増やして、で今年は…品種別に育ててみたくなって…赤いのと光るのが欲しいなーということで・楊貴妃(赤いの)・青みゆき(幹之)(光るの)の2種類の稚魚をネットで買っちゃいました。

順調に育って成魚になり、6月には産卵

餌やりは子供にもやってもらってます。

種類別、大きさ別に分けたりするので、どんどん容器が増える。

これメダ活にハマった人の「あるある」らしい。

水温チェック用の温度計を買ったり

夏場は天気予報を見てスダレで対策したり


いろいろと手間がかかって大変。

だけど楽しい。癒しになるんですよね。

 

もっと別の種類も、とか、

掛け合わせて品種改良、とか、

追求すればキリがないんだけど

今くらいがちょうどいい趣味レベルかな。

 

沼らないように気をつけますチュー

中越沖地震の5年後になります。被災と受援体験で災害医療にスイッチが入った僕自身も病院の仲間と一緒にDMAT養成研修を受講して

やっと柏崎にもDMATが誕生しました。

そのまた5年後、柏崎DMATは柏崎消防との連携協定を締結しました。 

その翌年の北海道胆振東部地震には、連携協定に基づいて消防DMAT混成チームで出動し、現地で活動しました。

下のは苫小牧の本部活動中の写真です。中越沖地震で「助けた人(熊谷)」と「助けられた人(津吉)」がいます。10年経ってようやく「支援する側で連携する仲間」として一緒に働くことができました。

平時の連携があってこそ、災害時にも連携が円滑になり、機動力や実効性を発揮できます。

DMAT標準テキスト、中越沖地震の活動事例のページには、赤線引いた部分ですが「先着した統括DMAT登録者と支援先病院医師が既知の間柄であり連携がスムーズであった」と記されていました。僕にとっては、新潟市民病院DMATと顔見知りで仲間だったのがラッキーでした。助ける側と助けられる側の連携が取りやすかったんです。言い古されてはいますが「人と人とのつながり」が連携の基本だと感じます。

 

……

被災と受援を経験して思うこと。

どんな災害でも発災直後に外部からの支援はありません。支援が来るまでの初動をどう乗り切るか、が現地スタッフの正念場です。

 

受援側と支援側、両方を経験して思うこと。

「被災地で連携する現地の人たちはすべて、医療スタッフも、消防も、行政も、みんな被災者でもある」ということです。外部からの支援者は帰還後に通常の生活に戻れますが、現地スタッフにとっては被災、復興、復旧が生活そのものです。現地スタッフに十分な休息を。彼らの個人的ダメージにも気づかう配慮を。現地の人間にしかできないこと以外は支援者、支援チームで補おうとする配慮が必要です。同時に、支援を受ける側は「何を支援してほしいか」を明確に伝えることが求められます。もちろん、急性期を過ぎたら手厚い支援から自立支援に移行するのも大切ですけれど。…このスライドが最後のまとめとなりますが…

 

原発からの煙にビビったエピソードの伏線回収、脈絡を無視してもうひとつだけ。複合災害、特に地震と原子力災害複合への対策は今後考えるべき喫緊の課題と思います。原発があるのは柏崎です。だけど風向きを考えると長岡周辺のほうがやばいかもしれない。

また、雪害も重なればトリプルの複合災害ともなり得ます。原子力災害については新潟大学の西山慶先生、福島県立医大の長谷川先生らもご尽力されています。複合災害について既に検討が始まっていることは承知しておりますが、県内各地域の自治体も、病院も、DMATも、当然国も、みんなが自分ごととして考えねばならないと思います。

以上です。

 

 

その2、つづきです。

 

病院支援のミッションが一段落したDMATの一部は、医師会が立ち上げた災害医療本部がある「元気館」に向かいました。

 

元気館というのは、柏崎市庁舎の分館で、福祉保健関連の役割を担う施設です。中越沖地震では・災害医療本部・避難所、救護所・住民組織との連携拠点・市の保健業務の拠点・派遣医療職の活動拠点、などとして活用されました。

 

避難所としても活用され、最大500人以上の避難者を収容しました。

発災直後からの元気館の様子。だんだん避難者が増えます↓

 

ここに災害医療本部が設置されました。元気館は災害医療本部の機能を担い、救護所が開設され、市の福祉保健部、保健所、医師会、DMATが連携して活動しました。DMATが救護所の診療や避難所巡回も引き受けました。これはDMATの任務の範囲を超えてニーズを汲み取る臨機応変な対応だったと思います。

 

ロケーションとして、元気館に医療本部を設置したのには利点欠点あります。福祉保健部の職員が市庁舎の災害対策本部と元気館の災害医療本部の連絡の役割を担っていました。市庁舎と離れていたのは情報伝達の即時性という点でマイナス要素でしたが、市庁舎分館だったことは、医師会と行政との連携の円滑さにはプラスでした。

 

当時の記録や報告文書から、行政の保険医療活動は、医師会やDMATと連携してうまく機能したことが伺えます。

災害医療本部への貢献。避難所や在宅者の巡回。支援医療チームだけでなく、看護協会など派遣医療職との連携や役割分担。7月の災害であり、熱中症、食中毒対策や衛生管理などの季節を踏まえた予防や対策。障がい者、高齢者、子供など災害弱者への対応。自衛隊との協働。そして地域が自立に向かい急性期を過ぎた後にも住民支援の要となりました。

 

医師会は、会長をはじめ医師会幹部らが中心となって災害医療本部を運営しました。DMAT、行政担当者らと役割分担。発災3日目には本部統括は堀井保健所長に業務委譲されています。

市内すべての開業医が医院を被災しました。個々の開業医は、直後から病院支援をしたり、自院の診療体制の立て直しをしたり、と被災状況に応じた独自の判断で活動しました。比較的早期から日常診療可能になり、地域住民を早期から開業医に誘導できました。また、支援撤収後の避難所巡回は医師会員でカバーしました。

 

DMAT撤収後の医療支援についてです。救護所、避難所巡回などは赤十字、県立病院が中心となって担う形で引き継がれました。48時間を超えて残留を希望するDMATは日本医師会救護班として、日赤からのDMATは赤十字に所属を変更して活動を継続した、と伝え聞いています。

 

病院の全体会議にも急性期48時間はDMATが参加していました。

 

DMAT撤収後の病院には、新潟大学の各医局、そして被災病院と同じ系列である厚生連の各病院が中心となって派遣が継続されました。……こうして地域の医療体制は数週間かけて自立へと向かい、医療現場には日常が戻りました。

 

つづく

次の「その3」で考察など。