お恥ずかしい話ですが、私は新卒での就職活動の時、放送局のアナウンサーが第一志望でした。
東京で一人下宿生活をしていたのですが、金がないのでテレビが買えなかったので、ラジオだけで過ごしていました。その頃に良く聴いていたのがTBSラジオでした。小島一慶の「夜はともだち」や「小沢昭一の小沢昭一的こころ」「永六輔のどこかでだれかと」など、今でも懐かしいです。ラジオのパーソナリティはおしゃべりでみんなを楽しませる、そういう仕事に憧れていました。しかし、現実は厳しく、放送局への入社など絶対に無理だと周りから止められ、仕方なく親の強い勧めで銀行員になりました。なぜ銀行員になったのか自分でもわからないのですが、私には向いていなかったと思います。それでも20年ほど勤めたのですが、バブル崩壊後の金融恐慌で、勤めていた銀行が経営破綻してしまいました。既に子供が3人もいましたから、とにかく家族を養わなくてはいけない。必死で転職活動をしました。しかしこの時も、自分がやりたい仕事を選ぶという余裕などありません。とにかくお金を稼ぐことが最優先。それが今の会社だったのです。ところがこの仕事の中で、ひょんなことから研修やセミナーの講師を務める仕事に出会いました。投資信託や投資型の生命保険を扱い、資産運用や相続対策について多くお客様に向けてお話をするという仕事です。最初のころは緊張して足がガタガタと震えていましたが、全国各地で回をかさねていくうちにだんだんいろんな経験を積み重ねていきました。話すだけではなく、聞いているお客様の反応を見ながら、今日の話し方を変えていくということも必要なんだと思いました。そういう仕事を10年以上続けました。放送局のアナウンサーではありませんが、人に話して喜んでもらえる仕事という意味ではとても満足感を覚えました。ある時、セミナー終了後に会場に来られていた老夫婦がわざわざ私のところに近寄って来て、「今日、あなたの説明を聞いてホントに良く分かりました。やっと投資信託というものが理解できました」とおっしゃっていただいたことがありました。この時はこの仕事をしていて良かったなあ、としみじみ思いました。
その後、私は異動でその仕事を離れることになりましたが、やはりどうしてもまたやりたくてしかないので、上司にお願いして復帰させてもらいました。ところが、そのタイミングで新型コロナウィルスが蔓延したため、研修やセミナーはできなくなり、未だに不発です。結局、私はこのまま来年の春には定年退職となってしまいます。残念。
でも私はまだ諦めていません。
以前大阪に単身赴任していたころ、関西のラジオ番組「こんちわコンちゃんお昼ですよ」が大好きで、毎日仕事で乗っていたクルマの中で聴いていました。あれから東京に戻ってもradikoで聴けるようになったので、今でもスマホで聴いています。その番組のパーソナリティをされている近藤光史さんは74歳と聞きました。もともとMBSのアナウンサーでしたから番組を持っておられるのは当然なのですが、70歳を超えてもラジオでパワフルに話している。そういうのを聴いていると、私もあんな風にやってみたいと思うのです。
たまたま会社の向かいに文化放送があるのですが、いっぺん言って門をたたいてみたらどうやろか?
と大胆なことを考えることもあります。「人間、願い続ければ叶う」という人がいますが、ほんとにそうなったらうれしいな、と思っています。
