この「初歩的なレトリック」を繰り返しているのが、松本人志、木村拓哉、そして斎藤元彦兵庫県知事である。「初歩的なレトリック」は問題の帰結に到達することができず、いつまでも意味なく繰り返されるのが特徴である。そういう意味では、その不毛なループを断ち切った石丸氏は見事ということが出来る。斎藤氏の場合、松本人志や木村拓哉において、リダクション(本来発音されるべき音が「脱落」する、または「弱化」する現象)されている「繰り返しになりますが」という言葉を発言のたびに必ず冒頭に放り込んでくる。石丸氏であれば質問者に対しておそらく逆ギレするところだが、斎藤氏の「丁寧」な受け答えにはある意味「不気味」を感じる。テレビ解説者やコメンテーターは、「石丸構文」に対して、もっと「大人」になれと言うが斎藤知事の「大人」の対応はよりは、石丸氏のようなプリミティブな子供っぽい対応の方が人間らしいと思うのだが。もし、私が松本人志、木村拓哉、斎藤県知事の立場で演じるとすれば、野々村竜太郎氏の「号泣会見」を選ぶ。結局この演劇が一番聴衆に突き刺さることになる。

 

そして、山崎怜奈の場合、「初歩的なレトリック」以前に、決して大げさではなくこの国の「表現の自由」における根源的な命題が包摂されていると言える。

 

お笑いであれ、アイドルであれ、一般社会とは位相の異なる「表現の自由」があるべき、つまり一般社会の法や規範、プロトコルで統制すべきではない。だが、その場合お笑い芸人やアイドルタレント側においても、一般社会人と同じ「人権」が与えられると考えるのは合理的ではない。つまり、お笑いという芸術は、差別や暴力のギリギリの境界をついてくる芸術であり、そして、それは全て「差別」であり、「暴力」であるという認識が必要になる。

 

「いじり」と「いじめ」は、差別や排外、暴力における解像度の問題であり、決して別の独立した概念ではない。つまり、位相幾何学的に言えば、「同相」による連続的概念である。そして何よりもお笑い芸人やアイドルタレントは、「反知性」の代表者であるという認識を全く持ち合わせていない、あるいは乏しい。そもそも、芸人やアイドルと言うのは、「欠格者」する差別用語の成り立ちであり、反知性で被差別側に位置するからこそ、「上」に対して暴言を浴びせることが、同じ「下」側の人間の共感により支えられてきたはずである。

 

ところがこの山崎怜奈の場合、元アイドルタレントの「くせ」に、あろうことか知性派を演じてしまった。つまり、松本人志と同じ病理である。少しばかり「大学知」を習得したから知性派と勘違いしてしまっているが、アイドルやお笑いなどのエンターテイメントの世界の人間は、どんなに凶悪や政府や権力者のどんなに反社会的あるいは反人類的な政策に関しても決してノーとは言えない立場にいる。オリンピック、万博、ワクチンなどがその代表例である。政府や行政がワクチン接種を推奨せよと言われれば、心で不信に思っていてもニコニコ笑いながらコメントしなければならない。同じ表現者であっても、音楽アーチストや俳優など独立した自我を持った表現者とは全く位相が異なる。