HECP/Huencompublic

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

UBノートロジー

Geometric Topology Note

 

 

 

プロトコルフォーとは、4つの既知の点プロトコルに対する未知の点の角度を、既知の点プロトコルからではなく未知の点/プロトコルから測定して、その点の位置を確定するアプローチだ。より規模の大きな四角形を最初に測定することにより、測量誤差を最小化できる。そうすれば、その四隅四角形の内部の点/プロトコルは四角形に対して正確に定位位置を測定することができる

 

 

 

UBノートロジー

 

記録の立体多様性ー紙と立体による記録noteの価値

ヴァリオス・アーカイブ

 

記録のアーキテクチャー

記録そのものが一つの芸術表現

 

 

 

 





UBノートロジーは、個人記憶と記録のシェアリング空間

 


オルタナティブなパブリックは、個人が作る「公共の領域」として再定義される。アーカイブは《過去における記憶》と《未来における希望と欲求》からなるもの。人びとの情緒は、本来、個人の願望(願い)と記憶(思い出)を基本的な構成要素とする意識現象による活動の中で作成される情報であり、単に収集・保存するだけではなく、ある体系に基づいて編纂し、目的に沿って保存された情報の集合を指す。それは記憶と欲求が混淆し、互いに浸潤し合い、後に新たな感情となって殺到するオルタナティブな平和や平等への概念付与として、その存在を人びとの記憶にとどめておくことが可能なような、そういう公共的な記憶の収納空間が要請される。

自分の存在と世界の出来事が結びついていることを、今ほど鮮烈に実感できる時代はない。人と地球と社会の自立と共存をテーマにとした、持続可能な地球都市のパブリックの構築は、決して「政治」の領域ではなく、「芸術」の領域である。そして、民族や伝統的な地理的な国境を超えて、共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを作成する。コ・アーカイブは、僕たちとっての公共的な記憶の収納空間なのである。 

世界の政治や芸術は、2GA/2Generation Ageー少なくとも2世代100年の時間性において表現が展開されている。日本人は家族などには、自己の利益よりも親や兄弟、子供など他者の未来遠点を慮るが、その距離は限定的で家族や近隣知人など、その範囲/アバウトが非常にせまく、世界や地球や人類という発想に及ばない。
そして、日本人の意識的な知覚はとんでもなく遅く、そして平気で嘘をつく。人生という「台帳」は一枚限り。日本人にとっての「台帳」の過去現在未来の時間性はせいぜい4年くらいのものである。それはこの国の「衆議院議員」を見ていればよく分かるはずだ。日本人は選挙や投票による他者の評価/ランキングが気になって仕方がない。

個人の体験エゴドキュメントのアーカイブは、美文脈の法やプロトコルよりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる唯一「正しい」方法であり、つねに「真」である。 世界はこの意図的な情緒を基軸とした、それぞれの「国家」、「国民」、「社会」を抗争史が存在し、その和平には決して国家的な発想ではなく、地域の安全と繁栄についてその存在を人びとの記憶にとどめておく「公共的な記憶」が要請される。世界はこの意図的な概念付与をされた情緒を基軸とした、それぞれの「国家」、「国民」、「社会」を抗争史が存在し、その和平には、国家的な発想ではなく、地域の安全と繁栄についてその存在を人びとの記憶にとどめておく公共的な記憶の空間知覚が要請される。記憶の空間知覚と将来ビジョンの構築を視野に入れた、アーカイブに依拠することの可能なカノンとしての外交的・政治的提携関係に変容していていかなければ世界中の紛争が解決することはない。
コ・アーカイビングは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる唯一「正しい」方法であり、つねに「真」である。

 


「難民といっしょにノート/アーカイブを作る」



貧困や差別、災害、紛争による社会的周縁に生きる「難民」たちは、劣悪な待遇や暴力を書き留めていた。ありきたりの美文脈を排し、日常のリアルな現実の言葉を多用した、一見稚拙でその怒りの満ちたノート/アーカイブからの個の徹底した分析の先に、矛盾に満ち溢れた社会の構造が新たに見えてくる。ノート/アーカイブはスタティックな、シンボル的でモニメンタルな表現を超えて、人間の動的なアクションのなかで考え、従来の事実を確定する典拠に使ってきたものを、新たな意味論に捉え直すことにより、無名の人間たちが世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすためのコミュニケーションツールとする。

現在SNSなどの世界において、エゴドキュメントは誹謗中傷や差別、排外に満ち溢れている。だが、エゴドキュメントによる記憶のアーカイブ化は、決して一概には「悪」だとは言えない。社会の底辺の絶望的な環境を書くことでそのリアリズムを把握し、芸術や哲学や心理学の守備範囲とされる課題は、熟慮の末で決行に至るまでの、個人の主観性や内面性の変化のアプローチとして取り組んでいく。エゴドキュメントにおける最大の問題は、その表現の自己責任についてである。大衆がこぞって炎上に参加する主因は「匿名」によるものである。この「匿名」こそが最大の暴力であると言える。

 

ドキュメントの中にいかなる差別や暴力、そして誤字脱字、稚拙で情動的な表現であろうと、それは自己表現のアーカイブとして、個人のシグネチャーの下で堂々と公開されるべきである。それがわれわれの「表現の自由」であり、トランスペアレンシーであると言える。「表現の自由」と差別や暴力は一つの器の内側と外側にあり、一つのゾーンで明滅している。いかなる暴力的差別的表現であろうと、個人の語りが記録された史料の生産、収集、保存を通して、歴史の新たな可能性を開示してくれる。差別や暴力を忌避するあまり、綺麗事や他人事とする無関心こそが、最も最悪なパラドクスである。だが皮肉にもこの国の平和や社会の平等や安定はこの無関心が生み出しているのも事実なのである。

人の記憶はあてにならない。「脳はきわめていい加減」で 基本的に人間の記憶は正確ではない。特に、日本人の表現は記憶の変容を起こしやすい。日本人はサービス精神が旺盛で、話をちょっと"盛る"。自分で言っているうちに、日本人には本当にそう記憶されてしまうので、他人から見たら嘘であっても、本人にとってはそれが現実。日本人は真顔で平和や平等について、記憶のエラーを語っている。

暗記による知覚は過去に「嘘」を作る。だから、意識的な知覚はとんでもなく遅い。意識は記憶の外形をなぞるという単純な作業の繰り返しであり、重要なのは未来からの観点から射影幾何を繰り返し、真実の尻尾を捕まえることである。記憶は脳に畜産されるものではなく、脳が記憶そのもの、脳細胞やシナプスはその時間を理解しているということになる。だからこそ、アーカイブという仕組みが必要なのである。この国の最大のパラドクスは「記憶を収納する力」である。体系的に深く思考することを放棄し、その場しのぎの綺麗事、他人事で都合の良いレトリック論理を組み立てる。その意識的な知覚はとんでもなく遅く、記憶のエラーが頻発する。だから世界は日本という国が信用出来ない。

この国の人間は、「意識」ーその記憶と暗記が混乱しており、そもそも「意識」は記憶の一部として進化のプロセスである。人間の「意識」において重要なのは、暗記による知覚ではなく瞬発的な直観とイマジネーションの力である。「直観力」は書物で学び、必要に応じて使うことができない、そういうやり方では「直観」は身につかない。現実的な意味での「直観」は習慣の結果として生まれる。実践することによって覚えられる類のものなのである。

直観は書物で学び、必要に応じて自分のものにすることができない、そういうやり方では直観は身につかない。現実的な意味での直観は習慣の結果として生まれる。実践することによって覚えられる類のものであり、第一歩は実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことである。われわれは正しい行動をすることで正しくなり、勇敢な行動をすることで勇敢になる。人権であれ、環境であれ、もはや単独の問題ではなく、全体的社会的現象のフェーズに突入しており、全体的社会的現象とは、ある主体を円環のように取り巻く周囲の状況、事物、状態や事状状況を意味しており、社会集団の法的、倫理的、審美的、政治的、経済的な側面が一気に表れる現象で、いずれか1つには還元できない。

わたしたちのノートの思想核にあるのは、社会に巣食う停滞した価値観や、抑圧的なシステムの転覆や撩乱を企てる、自己による革命の「前提」であり、これらは単に政治革命ではなく、人間の無意識や文化に働きかける〈詩のような爆弾〉だ。エビデンスベースドの実証主義では、社会を変革するのに無限の歳月が必要になる。もちろん、つじつまが合わないときもある。だが、失敗を恐れず何度もデッサンのような射影幾何を繰り返し、断片的で混沌とした不可知な世界を描くことで、真実の尻尾を捕まえる。







 コ・アーカイビング

ノートで出来ることは現実でも出来る


コ・アーカイビングは、民族や伝統的な地理的国境を超えて、共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを形成するフラタニティな記憶と記録の幾何台帳
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社会的不公正の犠牲になっているジェンダー、人種、民族、障害等特定のアイデンティティに基づく集団の理念を代弁して行う私たちの活動は、アーカイビングを通して形作られていく。
アーカイビングは心理的なプロセスが表現される場でもあり、人間の心理を拡大させる手段として用います。人間は、いろんな複雑な感情を内面化しているが、アーカイビングでは、複雑な感情に気付くこと、それを解決へと導くことを目的とすることが可能になってくる。

ノートは、空間に「虚構」の設定を貼り付けることで成立するキメラ的存在。人間(じんかん)が「現実」の空間を共有していることを前提にして、そこに 「虚構」の設定が上書きされていくという表現形態であることがその理由であり、 別の言葉で言うと、ノートは緩衝地帯だと言える。「虚構」と「現実」に挟まれて、ど ちらからもフリーでいられる立場。「虚構」と「現実」の見分けがつか ないという表現は、大抵否定的な物言いになるが、僕たちのノートにはそれを許されている。

自分の気に入らないよ うに演劇のストーリーが進んだ場合は、いつでも演劇に介入し、その進行を変えることができる。演劇的な 仕 方 で自分の考えを表現することが求められる。人間を「観客」という存在形式の中に閉じこめること こそが、抑圧の始まりだと言える。ノートにおける「表現じるもの」と「それを見るもの」の分離とその固定化 は、主体的な「表現者」と受動的な「観客」という構造を生み出すだけでなく、支配するものとされるもの、つまり、社会の抑圧者ー被抑圧者の関係に他ならないのである。

HECPというオルタナティブなパブリックには、表現から観客へという一方的なテクスト(知識)の伝達は存在しない。全てが自己学習、自己療育、自己責任になります。もはや、国や組織、親や学校のせいにはできません。
コ・アーカイビングは、現実の問題を浮かび上がらせ、それを変革していくための一つの手段なのです。
たとえ、解決が満足行くものでなくても、参加者達が、まず自分の抑圧を意識化し、それに対してどうすればいいのか深く思考するその過程こそが大切なのだと言えます。この国では、舞台上のアイドルたちから、観客に一方的にストーリーを投げかける演劇においては、観客はしばしば舞台上で起こっていることにカタルシスを感じます。


コ・アーカイビングは参加者が芸術的な試みによって、様々な可能性を検
証する場所であり、つまり、結論は参加者によって出されるべきものであり、誰も強制することはできないのです。参加者達は、この経験を通して、現実でも適用可能な解決がどのようなものであるかを学び、現実の世界が変革可能なものであることを知ることはできます。
UBは、演劇というアーカイブ言語を用いて、インタラクティブな対話を行ないながらヒューマンライツを築いていきます。禅の中に、「用意ができたときに師は現われる」という教えがあります。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないという意味です。


ノートで出来ることは現実でも出来る。

 


コ・アーカイビングは心理的なプロセスが表現される場でもあり、人間の心理を拡大させる手段として用います。人間は、いろんな複雑な感情を内面化しているが、コ・アーカイビングでは、複雑な感情に気付くこと、それを解決へと導くことを目的とすることが可能になります。
ノートは、空間に「虚構」の設定を貼り付けることで成立するキメラ的存在。人間(じんかん)が「現実」の空間を共有していることを前提にして、そこに 「虚構」の設定が上書きされていくという表現形態であることがその理由であり、 別の言葉で言うと、UBノートは緩衝地帯なのです。
「虚構」と「現実」に挟まれて、ど ちらからもフリーでいられる立場。「虚構」と「現実」の見分けがつか ないという表現は、大抵否定的な物言いになるが、僕たちのコ・アーカイビングにはそれを許されている。POPアーカイビングは、「芸術的な形式を用いた一人で行うの自閉討論集会」なのです。

自分の気に入らないよ うに演劇のストーリーが進んだ場合は、いつでも演劇に介入し、その進行を変えることができる。演劇的な 仕 方 で自分の考えを表現することが求められるのです。

人間を「観客」という存在形式の中に閉じこめること こそが、抑圧の始まりだと考えています。ノートにおける「表現じるもの」と「それを見るもの」の分離とその固定化 は、主体的な「表現者」と受動的な「観客」という構造を生み出すだけでなく、支配するものとされるもの、つまり、社会の抑圧者ー被抑圧者の関係に他ならないのです。

HECPというオルタナティブなパブリックには、表現から観客へという一方的なテクスト(知識)の伝達は存在しません。全てが自己学習、自己療育、自己責任になります。もはや、国や組織、親や学校のせいにはできません。
コ・アーカイビングは、現実の問題を浮かび上がらせ、それを変革していくための一つの手段なのです。たとえ、解決が満足行くものでなくても、参加者達が、まず自分の抑圧を意識化し、それに対してどうすればいいのか深く思考するその過程こそが大切なのだと言えます。
この国では、舞台上のアイドルたちから観客に一方的にストーリーを投げかける演劇においては、観客はしばしば舞台上で起こっていることにカタルシスを感じます。
POPアーカイビングは参加者が芸術的な試みによって、様々な可能性を検
証する場所であり、つまり、結論は参加者によって出されるべきものであり、誰も強制することはできないのです。参加者達は、この経験を通して、現実でも適用可能な解決がどのようなものであるかを学び、現実の世界が変革可能なものであることを知ることはできます。
UBは、演劇というアーカイブ言語を用いて、インタラクティブな対話を行ないながらヒューマンライツを築いていきます。禅の中に、「用意ができたときに師は現われる」という教えがあります。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないという意味です。


ノートというGEIJUTZE

わたしたちのエゴドキュメント/アーカイブは、過去、現在、未来を順番に描かないから面白い。わたしたちの今までの失敗は、理想の実現はラストページだと思っていたのが実は1ページ目だったということ。つまり、ノンブルが間違っていたようだ。
つまり、すでに世界平和は僕たちの手中にある。僕たちが理念的な行動を取れば世界は勝手に動いていく。
親や教師に自転車の乗り方を聞いてもそれは無理な話で、自転車の乗り方など人に教えられるものではない。それは、「形式知」ではなく、「暗黙知」であるからだ。

今、私たちに必要なのは「暗黙知」である。新型コロナで学んだことは、疫学、生物学的領域に留まらず、あらゆる課題は、全体的社会的現象のフェーズに突入しているということで。全体的社会的現象とは、社会集団の法的、倫理的、審美的、政治的、経済的な側面が一気に表れる現象で、いずれか1つには還元できないということ。
つまり、この問題を解決するには「芸術」が拡張する他ない。「芸術」とは、スタティックな、モニュメンタルな造形を想像することではなく、この文脈において、言語表現やシーニュではなく、潜勢力であり構想的プロセスのことである。

GEIJUTZEは、原初的で自然発生的なモーレス(習律)である。未知という領域においては、GEIJUTZEは、法よりも、そして科学よりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる「正しい」方法であり、つねに「真」である。繰り返しによって身体化され、日常的配慮であり、非明示的で、強制力は弱いが、GEIJUTZEこそが、オルタナティブなパブリックにおける規範である。いわゆる社会的配慮の大部分は「芸術」に属するのである。