HECP/Huencompublic
UBノートロジー
Geometric Topology Note
記憶と記録の軌跡Trajectory
トポロジーノート
UB/United Board
boardとは、会議、委員会、評議員会、試験、面接、委員会、省、庁、院、局、部、課、そのメンバー。ビジネスシーンでは、大きな板(テーブル)を囲んで重要メンバーが話し合う様子から、組織や企業の中で活動を指揮する人々を表すために「取締役会」や「委員会」といった意味で用いられている。
HECP/UBノートロジーの目指すものとは
今の時代の向かう先が、AIテクノロジーが作り出す「虚像」フェイクから、現実世界の空間知覚の座標軸の中でくっきりと浮かび上がる「虚構」フィクションを探すノートロジーのタームに突入している。「虚像」とは、実際とは異なる、作られたイメージであり、フェイクのこと。「虚構」とは事実ではないことを事実らしくつくつまり、フィクションのことを指す。フォルケにおける思考の展開は、決して「科学」のように仮説を立て実験で検証するという理路はとりません。この国においては一般的には思念的という日本語で表現され、概念だけというニュアンスに捉えれますが、世界はシンプルかつ論理的であるから、心に思い浮かべたことを徹底的に考え抜けば、いつしか正しい答えが得られると考えます。
立体的な世界観を持ち、意識による創造的な虚構を形象し、その解像度を高めていかなければ、エビデンスベースドの実証主義的による問題解決には何万年の歳月が必要になる。人間の「視知覚」は対象の一面のみを捉え知的理解は事象の因果関係だけを汲み上げる。もし考察対象が物理的な立体であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。重要なのは、我々が見ている世界が、ありのままの現実の世界であるかどうかではなく、見ている世界が同じかどうかだ。同じ世界を見ていればコミュニケーションが可能となり、人とコミュニケーションがとれるということは、人と同じ世界を見ていると言え、少なくとも同じ世界観を共有しているということになる。
エスタブリッシュの政治や科学の政策は過去のデータや処理結果をふまえて「論理空間」を組み立て、そこで未来のデータ処理方法を決定する。それは「過去」によって完全に規定されている。しかし、その融通のきかなさは欠点ではなく、本質的な性質なのだ。ビッグデータ時代になって、膨大なデータを扱えるようになっても、むしろ「過去」のデータの比重が大きくなっただけで本質は変わらない。GEIJUTZEの言う合理性や抽象化は因果律による硬直的な思考とは少し違う。GEIJUTZEは日常生活に対して、ある特殊な時空を作品という形で組織するものだといえる。GEIJUTZEをスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考える。GEIJUTZEは、意識上で散文的な日常性から、自分切り離し、「虚構」の時空を組織するために高度に緊張を高める。それは美術、文学、演劇などの領域だけではなく、政治の世界にも共通する形式であり、インスタレーションやパフォーマンス・アートのような物質的な作品を残さないアクションも、それが日常から切り離された時空を組織するものであるかぎり、作品は「虚構」の形式の中にある。
オプティミカルな雰囲気や曖昧さを併せ持つ。「芸術」であるための「芸術」ではなく、「芸術」を戦略的に用いて社会に介入し影響を与えてゆこうとする、建設的でポジティヴなニュアンスが感じられる。コ・アーカイビングによるステーショナリー・レボリューションは社会に巣食う停滞した価値観や、抑圧的なシステムの転覆や撩乱を企てる「革命」だ。これらは単に政治革命ではなく、人間の無意識や文化に働きかける〈詩のような爆弾〉なのである。もちろん、つじつまが合わないときもある。しかし、この芸術の失敗作は、立派な人間の立派な作品より断然面白い。これがGEIJUTZEの真骨頂であり、成功のカギといえるのである。
そのインスタレーション/物語は、過去、現在、未来を順番に描かないから面白い。私たちの今までの失敗は、GEIJUTZEにおける理想の実現は、いつもラストページだと思われていたのが実は1ページ目だったということ。つまり、ノンブルが間違っていたようだ。そして、文書であろうが、映像であろうが、誤字脱字があろうと、不完全なデッサンやクロッキー、落書きであろうと、そこに差別があろう私たちのアーカイブとして全て堂々と公開する。それが私たちのアーカイブのオープン・トランスペアレンシーだ。