HECP/Huencompublic

 

 

 

 

 

 

 

UBノートロジー

Geometric Topology Note

 

 

 

 

 

 

 

 

記憶と記録の軌跡Trajectory

GEIJUTZEとトポロジー

 

 

 

 

 

 

GEIJUTZEプログラム/トポロジー位相幾何学思考

 

 

 

トポロジーとは、繰り返し、繰り返し、繰り返す連続のモーレス軌跡のこと。僕たちのGEIJUTZEは原初的で自然発生的なモーレス(習律)である。そして、GEIJUTZEは法律よりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる「正しい」方法であり、つねに「真」である。繰り返しによって身体化され、日常的配慮であり、非明示的で、強制力は弱い。GEIJUTZEはそのパブリックや共同体における規範の暗黙知である。いわゆる社会的配慮の大部分はGEIJUTZEに属する。本来の法はこのGEIJUTZEから生まれる。それはGEIJUTZEの成文化である。明示的であるが、「芸術」と違い、形式的・抽象的である。法は一般的・抽象的な規範であり、個別的・具体的ケースに適用させるために解釈しなければならない。その習得にはアカデミーによる専門的・体系的なトレーニングが不可欠だ。法が言語のリテラシーとしての規範であるとすれば、GEIJUTZEは概念のリテラシーであるといえる。

 

人間は、本来、逸脱的存在である。しかし、さまざまな紐帯によって、失うものがあることで人々は結びついている。ところが、資本主義による欲望の拡大が個々人の利害対立を助長し、社会的紐帯を解いてしまう。経済のグローバル化や新自由主義の進展や過度の競争による従来の共同体秩序の解体がその事態を悪化させている。それはGEIJUTZEの希薄化もしくは弱体化であり、現代日本ではGEIJUTZEの再構築が何よりも不可欠だということを意味する。それは日常性の再構築である。GEIJUTZEの活動はアカデミーの限られた論理空間やミュージアムで展開されるものでなく、現実社会のコモディティの中で表象されるアカデミーは過去のデータや処理結果をふまえて「論理空間」を組み立て、そこで未来のデータ処理方法を決定するのであり、「過去」によって完全に規定されているのである。しかし、それはアカデミーの融通のきかなさは欠点ではなく、本質的な性質なのだ。ビッグデータ時代になって、膨大なデータを扱えるようになっても、むしろ「過去」のデータの比重が大きくなっただけで本質は変わらない。一般的にアカデミーは再現性にもとづく静的な存在である。

 

世界は三次元空間からなり、自分はその世界の地面に描かれたラインに沿って走っていると認識しているわけではない。このことは、その生物にとっての世界は、その生物がどのように処理しているかに依存しているのだ。だから、世界を三次元空間として処理して初めて、世界は三次元空間として立ち現れてくるのである。日本人の国民性の次元は一次元あるいは、せいぜい二次元であるとされる。 内的空間が存在せず対象と自己の表面だけが経験されるので、対象や出来事を取り入れたり、それらについて考えたりすることはできない。対象とはもっぱら 二次元平面の表面に付着する同一化によって関わるとされる。これでは、対象の言葉、行動をコピーするだけで決して内面化することはない。

 

この国が抱える最大のパラドクスは、「次元性」、つまり「概念」理解の障害についてである。点は次元を持たず、線は長さという 一次元、 平面は長さと広さという 2次元から成り、立体は長さ、幅、厚さという 三次元から成る。よって 空間は 3次元として経験される。人間の「視知覚」は対象の一面のみを捉え知的理解は事象の因果関係だけを汲み上げる。もし考察対象が物理的な立体であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。つまり,立体は知覚で完結するものではなく,それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりであり、いわば未知の総体としてアプリオリに前提されているのである。