「これまでの人生でいかなる女性に対しても、同意を得ることなく性的行為を強制したことなど一切ない」

松本人志は、「ない」、「一切」、「強制」、「性的行為」、「同意」、「いかなる女性」、「人生」、「これまで」、それぞれの言葉の持つ意味や概念を誰に教えてもらった方がいい。英語順の最初の「ない」は、天に誓えるのか?

つまり、どれか一つでも「言葉」にリアリズムはあれば、裁判所も耳を傾ける可能性も出てくるかも知れないが、こんなに詭弁は今どきの小学生でも言わない。


そもそも、「同意なく性行為を強制したこと一切ない」というのは、週刊文春との「主題」であり、テレビの活動休止とは何ら相関がない。同意であれ、不同意であれ、強制であれ、いかなる女性であれ、いかならない女性であれ、これまでの人生であれ、これからの人生であれ、松本人志の女性をモノや玩具のように扱うフェティシズムに対して、スポンサー、マスコミメディア、良識ある視聴者、そして何よりもこの国の一部の変態を除いた多くの女性たちが松本人志はノーと言っている。つまり、仮に一部あるいは全部名誉毀損が求められたとしても、松本人志は気持ちが悪い、生理的に無理だと思っている。

 

今回の一連の騒動により、過去の「体を使って」発言の思想的背景を裏付けられることになった。松本人志を擁護する男性の心象にあるのは、松本は笑いの天才であると同時に、男性の内心にある女性蔑視やライトアブノーマルの性観念の本音を体現してくれるところにある。男同士の場合10代後半から20代前半におけるホモソーシャル内での会話は、いかに自分が女性にモテ、女性と遊び、しかもいかに女性をぞんざいに扱っているか。そのような会話でマウントを取り合うことがある。その時期を過ぎれば、そんなことで競い合っていたことのくだらなさに気付く。だがその時期は、少々話を「盛って」でも、周囲より優位に立とうとする。松本の発言や一連のレトリックは、そういう男の自分では言い表せない本音や願望を代弁してくれる、あるいは免罪符として絶大な支持を得ている。

 

本来であれば、松本は文春の最初のインタビューで、その事実を潔く認めていればこんな大事にもならず、むしろ、猟奇的な性的異常者としてのエッジは研ぎ澄まされ、むしろ松本人志というブランド価値は高まった可能性すらある。ところが、出てくる発言の全てが「陳腐」で「退屈」、まるで普通のおっさんか、映画スターにでもなったかのような裸の王様発言に、本来の松本人志ファンは失望し、すっかり距離を置いている中で、残って擁護しているのは、本題の本質の理解できない本当のバカばかり。ワイドナショー以降の、何が何でも松ちゃんすごいという松本擁護派は、まるでジャニーズファンと同質同相で、良くも悪くも反良識反社会性のお笑いに共感をおぼえてきた従来の松本ファンから見ても滑稽な存在だと思われている。